第9話 港街グリムズビー

 翌朝、馬車は出発し、グレムズビーの街を目指した。アレシュはまた盗賊の類いが現れないかと警戒したが、無事に乗り合い馬車は街道を進んだ。


「なんか変な匂いがする」


 アレシュは鼻をひくつかせた。すると、乗客のひとりが笑いながら


「これは潮の香りだよ」


 と答えた。


 グレムズビーは港街だ。ウェルシーの街の側を流れるロイン川の河口にあり、外国からの取引も多い。


「じゃあ……あれが海かあ!」


 アレシュは道の先にキラキラと輝く海を見て息を飲んだ。


「綺麗だ! それに大きい!」


 本で読んで知っているものとまるで違う。海とは飲み込まれそうな大量の水で、果てが見えず、空との境の先に続いているのだということ。生臭いような不思議な匂いがすること。


「ミレナ、まず港に行こう」


「ええ、そうね」


 こうして馬車は街についた。アレシュはうーんと縮こまった体を伸ばし、それから周りを見渡した。


 桟橋。白い帆を張った船。船着き場のロープ。漁船で網を修理する漁師。


 アレシュは荷物を抱えたままでそれらを見て回った。


「アレシュ! こっちに来て」


 ミレナが手招きをするので寄ってみると、船の船の間の海の中に、小魚が群れているのが見えた。


「ほらキラキラしてる」


「ちっちゃいね」


 アレシュは生きて泳ぐ魚を初めて見た。身をくねらせて水の中を進む姿は不思議で、ずっと見ていたい。


「あんたたち、旅行かい」


 急に声をかけられて顔を上げると、スカーフを被ったお婆さんがすぐ近くの古びたベンチに座っていた。


「ああ……ええと……まだ決めてません」


「決めてない?」


「俺、錬金術師なんです。商売になりそうなら住みたいと思っているのですが」


「はぁはぁ……なるほどねぇ」


 お婆さんの膝に猫が飛び乗って、喉を鳴らしながら額を擦り付ける。お婆さんは猫をなでながら「どうだろうねぇ」と呟いた。


「この街はどうですか? いい街ですか?」


「そうねえ。食べ物はおいしいかも。でもこの頃パンが値上がりしてね。小麦が入ってこなくなってきたんだ」


「どうしてです?」


「戦争だよ。この先の海でも戦をしているから商船が減ってね。品物が入ってこなくなった。代わりに食いっぱぐれた風体の怪しい男たちが増えた。そこのお嬢さん、気をつけなさいね」


 お婆さんはミレナを見た。


「いいえ、私はホムンクルスですから……」


「あら、そうなの。それでも攫っていかれたら大変じゃない」


「そうですね。気をつけます」


「すごいわよね。ホムンクルスって。私の若い頃はそんなの居なかったから、積み荷を運ぶのも、船の修理をするのも全部人間よ」


 いずれ戦争が終わればこの街も活気を取り戻して、商売も手広くできるでしょう、とお婆さんは言って去って行った。


「戦争か……」


「しばらくは様子を見ましょうか」


「そうだね。ま、とにかく宿を探そう」


 二人は船着き場から街の方へと向かっていった。


 道沿いには様々な店や宿屋が建ち並んでいる。だが、人通りは少なく、少し寂しい印象だ。


「この辺りで宿を探そう」


 アレシュが言うと、ミレナが頷く。しばらく歩くと、青い屋根の古びた宿屋が目に止まった。入り口の看板には「青いイルカ亭」と書いてある。


 その宿の入り口には、一人の水色の髪をした女の子のホムンクルスが座っていた。アレシュと目が合うとニコッと笑う。


「やあ。部屋は空いてる?」


 アレシュが話しかけると、その子はしばらく考えた後、口を開いた。


「……いらっしゃいませ、あたしはエルナです。青いイルカ亭へようこそ。ベッドはふかふかで、ご飯もおいしいです。食べたことないけど、女将さんがそう言えって」


 一気にまくし立てられて、アルシュとミレナは顔を見合わせた。


「あの、部屋は空いているかしら?」


 ミレナが今度はゆっくり話しかけると、エルナはハッとして宿の中に飛び込んでいく。そしてすぐに出てきた。


「……大丈夫です、お客様」


 エルナの案内で中に入ると、決して真新しくはないが、丁寧に整頓された宿だった。


「いらっしゃい」


 そう言いながら恰幅のいい中年女性が出迎えてくれる。彼女がここの女主人なのだろう。


「エルナ! 二階の奥の部屋を整えてきて!」


「はぁい」


 トアトタと軽い足音を立ててエルナが階段を上がっていく。


「仕度出来るまでこちらへどうぞ」


 一階の食堂には大きなテーブルが一つ、小さなテーブルは二つ、そして窓辺に揺り椅子が一つと小さなスツール、そしてローテーブルがあった。


「何泊のご予定で?」


 アレシュにはお茶を、ミレナには水を出してくれながら女将さんが尋ねてくる。


「伸びるかもしれませんが、とりあえず二泊」


「うちは何泊でも大丈夫だよ。この頃お客が減ってねぇ」


 いつもはこの辺りは船乗りたちがいっぱいだったのだと言う。この宿はもう三代に渡って海を駆ける逞しい男たちの胃袋を満足させ、ぐっすり眠れる寝床を提供してきたのだと女将さんは胸を張った。


「夕食はここで取るでしょう? グリムズビーの獲れたての魚介類を食べてごらんよ。ほっぺたが落っこちるよ」


「わあ、それは楽しみだなぁ」


 アレシュはあまり魚が得意ではなかった。ちょっと生臭くてパサパサしているのが苦手だ。だけど、この港街の新鮮な魚はまた違うのかもしれない。


 ――ガシャン!


 その時、階上から何かが割れる音がした。


「ああ、もう!」


 女将さんがそう呟いて上に上がっていく。しばらくすると、エルナがしゃくり上げながら割れた花瓶を抱き締めて降りてきた。


「あんたはどうしてそうなんだい。よく気をつけろっていったろ」


「ごめんなさい。女将さん」


 女将さんはそうエルナを叱った後、こっちを向いて気まずそうな顔をした。


「お客さん、お部屋用意できましたからどうぞ」


「あ……はい」


 泣いているエルナを少し気にしながら、二人は部屋へと向かった。


「わあ……」


「あら」


 部屋からは海辺の街が一望できる。間もなく暮れようとする太陽が海面を金色に照りつけていて、アレシュはその光景に見入ってしまった。


「景色のいいお部屋ね」


 そしてベッドはエルナの言ったとおりにふかふかだった。


「机もある。助かるね。いくつか錬金アイテムを作っておこう」


 アレシュは荷物を置くと、机の上に錬金釜を置いた。


「美容石けん、この街で売れるかしら」


「海風で髪や肌が傷むから需要はあるんじゃないかなぁ」


 ただし、街をぶらついて見たところ、この街は今あまり景気が良くなさそうだった。


 それならば別の街に行く。それだけだ。もしかしたら錬金術師なんて現れないうんと田舎の方が商売になるかもしれない。


(でも田舎だったらあの男の行方は余計に分からなくなりそうだな……)


 落ち着ける居場所を探すのが先か、エアハルトの死の真相を探るのが先か。アレシュはどうしたらいいのか分からない。はっきりと口にはしないが、ミレナは無理をしてまでアレシュに復讐をさせたくないようだ。


 でも、まだ何も出来ていない……。アレシュは唇を噛んだ。諦めるのは、まだあまりにも早い。


「アレシュ、どうしたの。ぼーっとして」


「あ、うん。ちょっと疲れたみたい。夕食まで本でも読んでようかな」


「ええ、分かったわ」


 アレシュはミレナから目を逸らして、本を読み始めた。


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