トマト ツナトマト

「トマトを、食べたかったんです」


 彼女は暗い顔で供述した。


「林檎みたいに、かぶりついてみたかったんです」

「林檎そのまま食べる人だったっけ?」

「しない人です。だから、ちょっとやってみたかっただけなんです」


 赤く汚れた両手で顔を覆おうとしたから、慌てて彼女の手首を掴んで止める。彼女の表情は暗いまま。


「……まさか、こんなに飛び散るとは思いませんでした。何で、何で私……白い服着てる時にやっちゃったの? これお気になのに! 三万もしたのに!」


 勢いが良すぎたのかもしれない。彼女の胸元は赤く染まり、ほんのりトマトの香りがする。

 ──彼女の家に遊びに来てすぐ、手料理を振る舞うねと俺の返事も聞かずに彼女がキッチンに向かった十分後に、この悲劇を見せられた。

 きっとサラダでも作ってくれるつもりだったのかもしれない。いざ、トマトを切ろうとして、やけに美味しそうに見えたから、つい、魔が差したんだろう。


「取り敢えず、すぐ洗った方がいい。まだ間に合うかもしれない」

「もう無理だよ……」

「諦めたらそこで試合終了だぞ」

「……」

「三万だろ? お気にだろ? 諦めるなよ」

「……うん」


 頑張ってみたが、結局染みがかなり残り、二度と着ることができなくなった。彼女がたいそう落ち込んでいたもんだから、似たようなデザインのワンピースをプレゼントすると泣きながら喜んでくれて、以来、それが彼女の一番のお気に入りになって、デートの時によく着てきてくれるようになった。


◆◆◆


 涼しい。

 目が覚めて一番にそう思った。


 上半身を起こして状況を整理する。確か、叔父と従弟を送り出し、家事を一通り終わらせた後、眠くなってソファーに横になって……。

 壁に掛けた時計へ視線を向ける。午後二時をいくらか過ぎていた。今日も今日とで夏日のはずで、眠る前にも窓を全て開けておいたが、肌に触れる風に生温さは微塵もなく、心地好い冷ややかさがある。

 まるで、冷房をつけているみたいだ。


「……」

「起きたの、にいちゃん」


 聴こえるはずのない夕陽の声。首を擦りながら声のした方を見れば、中学時代の体操着に着替えた夕陽。じっとりとした丸い目で俺を見ている。

 まだ俺は、夢を視ているんだろうか。

 夕陽の手には何か赤いものが入ったガラスボールがある。俺はそんなもの用意した覚えはないし、夕陽が何か作るようなことも普段はない。あれは何だ?


「冷房、つけてなかったよ。全部の窓が全開だったし」

「……うん」

「何で? 今日もすっごく暑いのに、何でこんな」

「……」

「いつもこうじゃないよね? たまたま今日だけだよね?」

「……」

「にいちゃん、熱中症になりたかったの? ねえ、にいちゃん」

「そういう、わけじゃない。光熱費が気になって」


 人命の方が大事だよ、そう口にして夕陽が近寄ってくる。よく見れば、ガラスボールの他に大きなスプーンを持っているようだった。

 俺の隣に座ってこようとするから場所を作る。ソファーに腰掛けた彼は、ガラスボールの中身をスプーンで掬い、それを俺の顔の前まで持ってきた。


「はい、あーん」

「……は?」

「だから、あーん」

「……いや、何だよこれ」

「知らないおばさんにトマトもらったの。今日は学校が早く終わってね、真っ直ぐ帰ってたら駅で道を訊かれて、教えたらそのお礼に何個かもらった。にいちゃんに全部あげようと思ったんだけど、せっかくだから一個だけ使って作ってみました。食べて、きっと美味しいよ」


 トマトにはツナがくっついていた。混ぜ合わせたんだろうか。

 起きてすぐに食べるのに抵抗がある、いやそもそもこんな、従弟に食べさせてもらうというのが正直かなり嫌だった。

 そんな俺の気持ちも分からない夕陽は、あーんと尚も言ってくる。仕方ないから、スプーンを奪い取り、それを口にした。

 噛みついた瞬間にぐしゃりと広がるトマトの汁気。ツナの味も合間に挟まる。もう少し冷えていたらもっと旨く感じたんじゃないだろうか。

 それでも、せっかく作ってくれた従弟に言うべき言葉は、これが適切だろう。


「旨いよ、上出来だ」


 しかめっ面は途端に消え、嬉しそうに夕陽は笑う。


「あのね、にいちゃん。おれやお父さんがいなくても、冷房はちゃんとつけないとダメだよ? 死んじゃうよ?」


 死ぬのは絶対にダメだよ。

 やけに真剣な調子で言ってくるから、思わず吹き出せば、おれは真面目に言ってるのに! と怒りだしたので、頭を撫でてやった。

 悪かったよ、分かった。

 そんな言葉で誤魔化しながら。

 熱中症、考えたこともなかったけれど、確かに、その可能性もあるよな。そろそろ夕陽も夏休み、家にいる時間も増える。

 今後は冷房、つけるか。

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