蚊取り線香 ツナのおにぎり
店を出ようとしたその瞬間、足元から、白く細い煙が立ち登っているのが視界に入る。
はてと足を止め、目を向ければ、ぐるぐると渦巻きの形をした緑色の物体──蚊取り線香が焚かれているのが見えた。ブリキの皿に置かれたそれは、火をつけて間もないのか、灰が少ない。
最近は公園の傍を通ると蝉の鳴き声を耳にする。蚊がいても何もおかしくはないだろう。
揺蕩う煙を眺めていると、あの……と後ろから声を掛けられる。他の客、ではない。この店には俺の他には店主しかいなかった。わざわざレジの前から出てきて近付いてきたらしい。
「失礼、蚊取り線香を見ていただけです」
そう口にしながら目を向けると、店主は首を傾げながらそうですかと答えた。見えづらくないのか、顔の大部分は伸ばした前髪で隠れ、晒された右目には何の感情も浮かんでいない。
「こないだ倉庫の整理をしていた時に去年の残りを見つけまして、使わないと勿体ないなって、これくらいの時間に焚くようにしているんですよ」
「なるほど。なんだか、見ていると懐かしい気持ちになってきますね」
昔、祖父母の家に行くと、縁側でよく焚かれていた気がする。危ないから近付かないでねと、祖母によく注意されていたもんだ。
俺の感想に、店主が小さな声で笑った。珍しい。前髪で隠れて分かりづらいが、笑みを向けられたことはこれまで一度もなかったのに。
「去年までこの店には祖母がいたんです。元々は祖父母がこの店をやっていまして、毎年夏になると、祖母が店先で蚊取り線香を焚いていました。お客さんみたいに俺も、蚊取り線香を見ると、小さな身体を丸めて、蚊取り線香の準備をする祖母を思い出して、懐かしい気持ちになりますよ」
「……そうですか」
去年までいた、ということは……。
ふいに、自分の祖母の顔が思い浮かぶ。
天パ気味の白髪、丸々太った小さな身体、いつも優しく温かな笑みを向けてくれた、父方の祖母。
遠い所にあるからと、墓参りは父の兄弟に任せっきりで、そういえば全然行っていない。たまには会いに行くべき、だろうな。
黙っていると、店主が口を開く。
「お引き留めしてすみません、外、暑いのでお気をつけください」
「いえいえ、そんな。いつもありがとうございます」
「こちらこそ、ご贔屓にして頂いて」
そんな会話を交わして、店を出ようとするが、ちょうどその時誰かが店に入ろうとしてきたから、店主と共に脇に避ける。
「あ、すいません」
そう謝りながら入ってきた人物は、縦に大きな男だった。
日常生活において誰かを見上げることは少なく、物珍しさを覚える。毛の一つもないほどに丸めた頭や、鋭い目つき、ほっそりした体型が、何となく日本刀を思わせた。
「何やってんの、ベルーガ。お客さんの邪魔でしょ?」
「悪い、そんなつもりじゃなかった。本当にすいません」
「……い、いえ、お気になさらず」
店主の知り合いなようで、俺と話していた時とは打って変わって砕けた調子で会話している。
「煙草? 暑い所でよく吸えるよね」
「なら、仕事部屋で吸わせてくれんのか?」
「そんなことさせるわけないでしょ。寝言は寝て言いなよ」
「あ?」
「……あの、俺はこれで」
頭を軽く下げて出ていこうとすると、店主がありがとうございましたと言い、何故か知り合いも、またお越しくださいと言ってきた。よっぽど仲が良いんだろうな。
容赦ない陽光を頭に浴び、むわっとした熱気を肌に感じる。じわじわと滲む汗に早くも不快感を覚えながら、駅に向かった。
ツナおにぎりを今日は十個買った。何となくたくさん食べたくなったからだ。
あそこのおにぎりは本当に旨い。教えてくれた夕陽には何度礼を言えばいいのか。
取り敢えず、いつもより多くツナおにぎりを渡してやろう。そんなことを考えながら、歩む速度を少しだけ上げた。
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