半年 ツナ缶
『戸張、夜くん。夜って、綺麗な名前だね』
──自己紹介をした後、そっと静かな声で、隣に座る君は話し掛けてきた。
『私は、
──雨で薄暗い日だったが、はにかむ彼女はやけに輝いて見えた。
『テスト範囲復習してんだけど、分からなすぎるー。無理だよー。終わったー!』
『どこが分かんねえんだよ』
『え? 全部かな』
『……おう』
──初めてのテストが間近に迫ったとある日、君がそんな風に困ってたから、俺は思わずそう言ったんだ。
──分からない問題を前に辛そうだったけど、雑談に逃げたりせず、俺に質問しながら問題に向き合ってたよな。
『明日から夏休み、だね』
『だな』
『……テスト勉強のお礼がしたいんだよね』
『気にしないでくれ』
『気にする。……奢るからさ、映画観ない?』
──初めて、二人で出掛けることになった。
──ホラー映画だった。君はまるで怯えてなくて、楽しそうに観ていたな。
──そんな君を、横目で見てたんだけど、バレてなかっただろうか。
『林檎飴食べたくない?』
『そんなに』
『わたあめは?』
『全く』
『焼きそば』
『……食べたい、かも』
『行こー』
──たまたま行った図書館に君がいて、何となく話してたら、祭りに誘ってくれた。
──君は私服だった。白い、ふわふわしたワンピース。……可愛かった。
『付き合ってるの? って訊かれちゃった』
『……』
『夏休みに、二人で映画観たり、お祭りに行ったって話したら、友達にね、そういう風に……』
『……』
『戸張、くん』
『……そんな誤解されたら、嫌か?』
『……嫌じゃないから、話してるんですよー』
──何だか気恥ずかしくなって、しばらく会話をしなくなった。
──どれくらいだろう。夏休み明けから……一年の終わりまで。けっこう長かったな。
──その間、お互いに目が合うと、すぐに目を逸らしてた。
──毎年クラス替えがある学校だから、違うクラスになる前にって、春休みが始まる前日の放課後に、君を図書室に呼び出した。
──俺が何か言う前に、君は俺の手を握ってきて、誤解を本当にしないかって言ってきたよな。
──そのつもりで呼んだんだって返したら、泣きながら笑うから、俺、つい、君に……。
結局、二年になっても三年になっても、俺と君は同じクラスだった。
『先生になるの? 本当に?』
『……ああ』
『私が言ったから?』
『……』
『夜くん、可愛い……』
──君は就職を選んで、卒業してからは二人の時間が少し減ったけれど、会うと、何というか……すごく、くっついてくるようになったよな。
──恥ずかしいんだけど、抵抗する気も起きなくて、いつも君の好きにさせていた。視線なんて気にならなかったよ。
『夜くん』
『夜くん!』
『夜くん、あのね』
『夜くんと、ずっとね、一緒にいたいな!』
一緒に暮らしませんか?
何度も言おうとして、飲み込んだ。
まだ、働いてないからと遠慮した学生時代。
まだ、職場に慣れてないからと自分を誤魔化した一年目。
まだ、そういうのは早いんじゃないかと気後れした数年間。
きっかけは君の一言だ。
四捨五入したらアラサーだね、なんて、君が言うから、もうアラサーになるのかと思って、つい、無意識に、口にしていた。
『一緒に暮らしませんか?』
『……え?』
『すぐじゃなくていい。朝ちゃんのタイミングで、その、俺と』
『……いいの?』
『俺なんかで良ければ』
『……むしろね、夜くんじゃないと嫌だよ、私』
──君は泣いた。
──泣きながら笑った。
──あの日の図書室みたいに。
色んな話をして、色んな準備をしてきた。
もうすぐだねと笑う君は、この世の何よりも綺麗で、君が俺の横にいる事実がたまに信じられなかった。
もう少し、あと何日。
そんな日は来なかった。
◆◆◆
ツナ缶を開ける。
雨降りの今日、この家には誰もいない。
大きなスプーンで掬い取り、口の中に運んでいく。
彼女とは色んなツナ料理を一緒に作ってきたけれど、結局彼女はこの食べ方を一番気に入っていた。
『ツナ~美味しい~。美味でございますー!』
君がいなくなって、半年。
いくらツナ缶を開けようと、嬉しそうに笑う君は、もう、どこにもいない。
いない。
──いない。
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