呼吸 ツナご飯

 十二歳年上である従兄のにいちゃんは、いつだっておれよりも大きくて、おれはいつも見上げるばっかりだった。

 おれが赤ん坊の頃も一緒に住んでたらしいけれど、物心ついた時にはたまに会うくらいで、そんな時は、何か困ったことはないかと必ず訊いてくれたり、何かしている最中でもおれが話すとすぐにやめて、おれに向き合って返事をしてくれたり、無表情だけど優しくて頼りになる従兄だった。


 その従兄は今、ソファーに丸まって小さくなっている。


 苦しそうに口元をハンカチで押さえていて、くぐもった声でおれにごめんと言ってくるから、気にしないでと返しながらその背中を撫でた。

 今日は水族館に行く予定だった。

 おれがたこを見たいから、ということで。

 きっとお昼ご飯に食べるつもりだったのかもしれない、キッチンには作り途中と思しきツナの混ざったご飯が大きなボールの中にあった。おにぎりを作ろうとしていたのかな。最近よく食べてるよな。美味しいからいいんだけど。

 おれが起きてきた時には、呼吸を荒くして床に踞るにいちゃんがキッチンにいた。慌てて駆け寄って、背中を撫でてあげながら、にいちゃんの尻ポケットからハンカチを取り出して、にいちゃんの口に押さえつける。にいちゃんはたまにこうなるから、尻ポケットにいつもハンカチを入れてもらっていた。

 背中を撫で続けながら様子を見て、落ち着いてきたらソファーに誘導して寝かせる。


「今日は、やめよっか」

「……ごめん」


 行けるかな、と思ってた。

 こうなることも最近は減ったように思えるし、おれの高校近くのおにぎり屋さんに行けたし、水族館くらい行けると思ってた。

 ……彼女さんとはおにぎり屋さん、行かなかったから大丈夫だったんだろうか。

 近所のスーパーやコンビニに行けるし、ほとんどの外食は大丈夫なにいちゃん。──だけど、ファミレスには行けない。行く準備をするとなる。高い所も安い所も関係なく。きっとそこにはたくさんの思い出があるんだろうな。

 にいちゃんはニュースで水族館や動物園の映像が流れると、すごい顔をしかめる。そのくせ、チャンネルを変えるときょとんとして、何で変えるんだ? とか訊いてくるから無意識なのかもしれない。

 きっと本当は、誘うべきじゃなかったんだろうけれど、にいちゃんはもう大丈夫なんじゃないかって、そう思いたかったから、一緒に行こうって言っちゃった。

 軽卒、だったな。


 ──朝香あさかさんという名前しか、おれは知らない。


 突然の事故だったらしい。

 彼女さんがいなくなった後、伯母さんが連絡しても全然繋がらなくて、伯母さんよりも家が近かったおれとお父さんが様子を見に行ったら、にいちゃんの部屋のドアには鍵が掛かってなくて、それで中に入ったら、


 にいちゃんは包丁を持っていた。


 小さな台所の流しに立って、じっと、呼吸音も聞こえないほど静かに、刃先を見つめていた。

 お父さんが酷く慌てた様子で駆け寄って、すぐににいちゃんから包丁を奪い取ると、不思議そうな顔でにいちゃんはおれらを見ていた。


『何で』

『夜! ……夜』


 にいちゃんを力強く抱き締めるお父さんの背中を、おれはただ眺めることしかできなくて、そのまま、にいちゃんはおれらの家で暮らすことになった。

 お父さんの有給が余ってたから、一月くらい仕事を休んで、お父さんはにいちゃんと一緒に過ごしていた。最初は、話し掛けても天井や壁を無言で眺めているだけだったにいちゃんも、だんだん返事をしてくれるようになって、お父さんが仕事に復帰する頃には、ちょっとずつ料理をするようになった。

 毎日毎日、ツナ料理。

 にいちゃんがツナ好きな人なのは、今まで知らなかったな。

 そんな状況の中、おれの受験が終わり、卒業式も終わった頃、にいちゃんからこんな提案をされた。


『仕事復帰の為にも、夕陽の勉強、手伝いたいんだけど』


 にいちゃんが、立ち直ろうとしてる。

 それが嬉しくて、いいよとおれは言った。そうしてにいちゃんはおれの家庭教師になった。

 にいちゃんはたまに呼吸が上手くできなくなることもあったけれど、ゆっくり、ゆっくり、元に戻ってきているようだった。最近はこの家を出たいみたいで、お父さんにその話をしようとすることもあるけれど、まだ不安なお父さんは、お酒を飲ませて黙らせてる。

 今日の様子を見ていると、まだまだ無理そうだ。


「……ごめんね」

「……」


 背中を撫でながら、願いを込める。

 早く元気になりますように。

 ──元の頼りになるにいちゃんに戻ってください。

 こんな風に見下ろしていたくない、いつまでもいつまでも、おれにあなたを見上げさせてほしい。

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