守屋華那




 * * * * *




 初めて泣き姿を晒してしまった日は、結局午後の授業に戻ることができなくて。最後まで話せなかった——あの続きの想いをちゃんと伝えたいという気持ちよりも、一時の恥ずかしさの方が優勢で甘えてしまった。

 放課後にこっそり教室を覗きに行くと、人の気配が消えた独特の空気の匂いがした。私の席の上には、一冊のノートが置かれている。

 表紙は無記入で中を見てみると、見慣れた私のものではない字体と色使いが並んでいた。今日の授業までの分だろうか、各教科の要点がそれぞれ短く端的にまとめられている。遡っていくと、なぜか中間考査後に数学授業ノートの続きとして使っているようだった。


 彼の机の上に置いてあったわけではなかったから、ひとまず持ち帰らせてもらおうかな。そりゃ、帰っちゃうよね。勉強会は今日から、って改めてお願いしとくべきだった。




 ただ——




次の日も、




その次の日も、




期末考査当日になっても。隣はずっと空席のままだった。







 すべての科目のテスト返却が終わり、赤点が一つも無かったよと報告したい人がいなくて。勝手に借りたことにしているノートも、持ち主不在の状況に不安を覚えているはずだ。


「個票みんなもらったかー? じゃ、残りの時間でくじ引いて席替えしようか」


 やっとかー、なんて周りが口々に声を発し始める。そっか、入学してから三ヶ月も経ったのか。中学の頃と比べると、あっという間だったな。

 ロングホームルームは、特にちょっかいをかけやすくて好きな時間だった。それが無くなりそうなのが残念だなぁ、って言ったら、彼はどんな反応をしてくれただろうか。また隣同士になったら、ひとまず言葉では嫌がられるかもしれない。


「くじの箱回しながら聞いてくれー。藤崎のことだが、転校することになった」




「——えっ」


 生徒の反応を確かめるように先生が間を取ったから、私が二度反芻することでようやく理解が追いついた。


「本人の希望で、テストが終わるまでわざわざ言わなくていいってことだったんで。すっかり忘れるところだったけど、今言ったからなー」


 教卓前に座る人が「理由は何だったんですか」と訊いている。


「病気でな。元々一学期までしか在籍しない予定だったのよ。それが悪化していたみたいで、予定より早く——」


 専門の医師が勤めている大病院の近くへ引っ越した。またねも、バイバイも、さよならも無しに。どうして? 一言くれたって良かったのに。連絡して訊かないと——




あれ、私。彼の連絡先を知らない。




 どうして? 興味がないなんてあり得ない。気づく機会だって絶対あったはずだ。毎日会えるからって、安心していた? 違う。よく思い出せば、彼が自分のスマホを手にしているところを見たことがない。自然とそういう話題にならないように、振る舞っていたとか?




 いや、違う。相手のせいにするな。すべて自分が悪かったって、あの日思い知らされたはずだったのに。




 引いたくじの番号でまたガヤガヤし出すこの教室の空気と担任の適当な説明が、みんな興味がありませんと言っているようで、とにかく気味が悪かった。

 それと同時に、あれだけ一緒にいた私が、本当は彼について知らないことだらけという事実を突きつけられ、ショックでどうにかなってしまいそうだった。




 * * * *




 私は、一人が怖かった。孤独とは少し違う。そこにいるのはたくさんなのに、一人だけ浮いたような空気になることに、とにかく恐怖心を抱いていた。

 小学生の頃から、気づいたら周囲の目が自分だけに一斉に向き、一人を感じていた。男子からは変に注目を浴びるような、女子からは敵対する冷めた視線が突き刺さるような、そんな感覚。決してイジメではないということを頭で理解できていても、それ同等の思い込みにずっと苦しめられてきた。


 よく逃げ込んでいたのは、やっぱり保健室で。学校で常に白衣を纏っていた先生は、このどうしようもない思考をゆっくり解しながら聞いて、心安らぐ居場所を与えてくれた。


『周りの目は勝手に変わっていくから、大丈夫よ。つらくなったら、今は逃げていいの』


『奇異に感じるのは、そういう経験が少ないだけ。その中には、羨望や嫉妬の感情も含まれているものよ。あなたは男女どちら目線でもとても魅力的な人間だから、大丈夫』


 当時は言葉のもつ本当の意味がわからなかったけれど、どんな気持ちでいてほしいのかは雰囲気で伝わっていた。


『自分のことを理解してくれる人は、近くに一人でもいれば十分。たくさんはいらないものよ』


『あとね、あなたの性格に助けられる人はこの先必ず現れるから。この人だ、と思ったらまずは自分から心を開くことね』




 そうして、私の人間性を理解してくれる最初の人には、中学三年で出会った。


 ほとんど依存していたと思う。楽しい、嬉しいといった感情を、他の同級生より遅れて味わった反動だった。卒業式の日に連絡先を交換し、高校生になってからでもメッセージのやり取りを繰り返した。平日は会えない分、週末にはお出かけに誘っては、相手も応えてくれた。


 これが、ただの優しさと私欲からくるものだと気づくまで。


『最近はより一層、その隣の席の彼の話ばかりするよね』

『えっ——』


 トーンの違いで、私がどこかの地雷を踏んでしまったことはよくわかった。


『いや、べつにそれが悪いと言ってるわけじゃないんだよ。ただ、なんで週末にこうして俺と会おうと思ってるのかなって、単純に疑問』

『それは、その、会って話して楽しいからで……』

『俺は名前も知らない、そのお隣さんと会うより?』


 初めての感覚、感情だった。どう答えたらいいかがわからないし、場を繋ぐ冗談すら出てこない。


『その彼は、この集まりのこと知ったらどう思うんだろうね』


 わからない、なんでそんなことを訊くの。


『俺は、守屋ちゃんみたいに可愛い子と会えるのは嬉しいから良いんだけどさ。それも、彼女ができる前までなら、なんだよね』


 向かいのコップに入っていたコーラが、ストローで勢いよく残り全てを吸い尽くされ、多くの氷が取り残される。


『今やもう、守屋ちゃんは俺じゃなくても大丈夫なんだよ。近くにいるやつこそ、大事にした方がいいぞ。人が優しくしてくれるときは必ず理由があるからな。無碍にするなよ』


 初めて、人と人を良さで比べてしまった。どっちもを選ぶことはできないからと、そういう時は必ずやってくるものなのだと。

 目の前の人は、私のことを理解してはくれているけれど、必要としているわけではない。それだけでも、この二択を選ぶのに十分な理由だった。


『ということで、俺も本気で付き合いたいと思ったやつが同じクラスにいるから、真面目なところでも見せてアタックしてみるわ』


 誰にアピールしてるんだろう、と一瞬考えたが。私がよく使う話の捻じ曲げ方に似ていた。


『守屋ちゃん、大事なことはストレートに言葉にするもんだからね』







 そうだ、警告してくれていたんだ。あの人は、最後まで私に優しさを向けてくれた。その優しさに、泥を塗ったままにしてはいけない。

 いざ、彼を目の前にして告白しようと思ったら、いつもの話の運び方になって、何だかよくわからない感情になってしまったんだ。そのことに後悔してもしきれないが、まずできることを模索しなくてはいけない。


「失礼します」


 放課後、担任教師がいる教科準備室に出向く。先生は自席で座ることなく、立ったままノートパソコンと向き合っていた。


「おぉ、守屋か」

「先生にお願いが——」

「ちょうど良かった。渡すものがある」


 こっちに来なさい、と手招きされて、職員机の近くまで行く。教室でのあっけらかんとした雰囲気とは一転して、神妙な面持ちをしていた。


「藤崎のお母さんから、隣の席だった守屋に渡してくれって」


 受け取ったのは、レターセットにあるような封筒だった。中にそこそこの厚みと重みを感じる。外側に何も書かないところはノートと同様で、あぁ彼からのものなんだろうなって安心感を覚えた。


「あの、無理を承知でお願いがありまして」

「なんだ」

「その、引っ越し先や通院する病院がどの辺か教えてもらうことって可能ですか?」


 表情は変えず、瞬きが止まったからか驚いて目を大きく見開いたようにも見える。


「守屋は何も聞いてないのか?」

「はい、今日初めて知りました」

「そうか。そうなのか……」


 顎に手を当てて、少し考える素振り。


「個人情報は当然教えられない。そもそも、高校は義務教育ではないから、転出する場合にはわざわざ住所を教える必要もないんだ」

「そう、ですよね……」

「まあでも、そこに何かしらは書いてあるはずだから」


 持っている手紙を指差す。


「中身を知ってるんですか?」

「いや、読んではいないよ。まあなんだ、藤崎もいろいろ考えての行動だと思うから。守屋が悩みすぎる必要はないし、藤崎の気持ちも多少は汲んでやってくれ」


 読んではいない。ただ事情は知っているような口ぶりだった。でも——


「ありがとうございます。失礼します」


 彼が、私だけに残してくれた手紙だ。今は唯一残されたこれに縋るしかなかった。




 * * *




 渡された封筒は、てっきり白色だと思っていた。よく見たら淡く黄色がかっていて、開けて出てきた何枚もの便箋は白ベースの四つ角が薄ピンクに染まっている。


 なんかもう、泣きそうだった。好きな色なんて、話したことあったかな。


 読む場所は教室の自席で、と廊下を歩きながら決めていた。くじの結果、私は元の席より一つ後ろに移動しただけ。隣は初めましての男子だけど、今はどこも空席だから君だと思い込んで座らせてもらうよ。

 放課後の窓際は、生徒たちを逃がした静けさと夏の匂いを溶かした空気が漂っていた。







『守屋さんへ



以下は告白文であって、ラブレターではありません。


これを読んでいるということは、テスト返却が終わって席替えを先生から提案されたのでしょう。


他のクラスが一ヶ月そこそこで席替えしたところ、このクラスだけは三ヶ月実施しなかったからね。


みんな隠しきれていなかった不満をテスト後の歓喜に変えて、僕の存在など初めからいなかったも同然のような感じでいることでしょう。


ここまでは合っていたかな?』







 文体になるとさすがに口調が変わるんだね。一方的な言い回しだからかな。それでも、文字には懐かしさが残ったまま彼の声で追うことができる。







『まず、席替えの件は僕が担任にお願いをしていました。


初めから三ヶ月ちょっとしかない高校生活を、落ち着いて過ごさせてください。


全ての事情を話した上で、わがままを通してもらいました。


それこそ四十人弱を巻き込んだわけだから、守屋さんの比じゃないね。』







 この言い回しは、全然悪気がない。というより、私だったら「ずっと隣で良かったでしょ?」って、言いそうだ。







『落ち着いた高校生活を。


この願いを良い意味で(先に書かないと勘違いされそう)崩してくれたのが守屋さんです。


初めて声をかけてくれた時のことを覚えていますか?』







 もちろん。名簿順では後ろの方になるから、唯一の隣がどんな人なのかは、私にとっても初めの高校生活の生命線だと思っていた。だから、嬉しかったんだ。


『花は咲く前も、咲いた後も綺麗だよね』


 ずっと考えていたことだった。花はいつも咲いているところしか、シーンとして切り取られない。その前の頑張って蕾まで成長するところも、綺麗な花びらを自ら種子のために捨てていくところも。その美しさを共感してくれるような人であったなら。







『最初に話しかけてくれた守屋さんの姿が、あまりにも絵になっていて。


病室にずっと飾られていた花瓶に挿された花を思い出しました。


初めは、枯れていく僕のためにわざわざ閉じ込められた花を可哀想だと思っていて。


でも、それはあまりにも自惚れた考えでした。


この花を枯らしたくない。


可哀想な花にしないために、自分が努力をしないといけないのだと。


自分のことで精一杯だったのに、何かのためにと思い立つと生きる活力に繋がった気がしていました。』







 文の気色が変わる。先生が言っていた病気というキーワードが、脳内で大きく成長を始めていた。







『僕の病気は、まるで植物のようでした。


身体中の水分が失われて、萎れ、散り散りになって、枯れていく。


神経系か皮膚の病気か、完治法がわからない医者は病名もよくわからない名前を付けていました。


覚えたくなかったので、“枯惨衰(カレサンスイ)”と命名してみたんだけど、センスあると思いませんか?』







 それは、笑えないよ。苦痛を想像することができなくて、ただただ息を呑む。







『暑くなると、発汗による脱水が酷いから。


僕が知っている季節は冬だけでした。


それ以外は、室温を維持された白い部屋に閉じ込められ、大事に大事に保管されてきました。』







 中間考査の最終日。よく覚えているのは、二人で初めて学校以外の場所に行った記念日だから。あの日は五月下旬にしては異常な、猛暑日を記録していた。思い出して、夏の入り口に立っているのに身震いしそうな冷たさが走る。







『もしも、って言葉が嫌いでした。


得体の知れない病気だからかな、担当医や看護師がソレを使うと、ただの予告になってしまうんだ。


自律神経がおかしくなってしまった僕は、暑さで発汗が止まらない状態か凍えて震えが止まらない状態の二つしか感じることができなってしまったみたいです。』




 * *




『人は、自分か周りの大事な人の死を実感すると、心象風景が見えるようになるみたいです。


僕の場合は、ガラス瓶でした。


花が挿されていない、でも水は差されている。


すぐに、自分そのものなんだなとわかりました。』







『最後に学校生活を送りたいと思い、私立高校を受験する頃には、症状を僅かばかりでも改善する見込みのありそうな治験薬などを用意してくれて。


誰か一人にだけ、尽くしてみようと思ったわけです。


自らは動くことのできない植物にとって、積極的に気にかけてくれる人はありがたい存在でした。』







『最後になってしまった日、あなたが誰かを想って泣く姿が散り際の美しい花に見えてしまって。


花瓶の役割は終わってしまったと自覚しました。


この寿命も、あと九十字で終わります。』







『シヌノハコワクナカッタ


カクゴハデキテイタカラ


タダ タダ イキタイトオモッテシマッタ


サンカゲツハミジカスギテ


ナニモデキナカッタ


ナミダガカレルコロニハ


カラッポノココロニ


ノコッタキモチヲツタエラレルカナ


ボクハ———————————』







 何枚にも渡って語られた彼目線の真実は、後半になると駆け足になり、最後の一枚は感情だらけに変わっていた。それが意味することを考えたくも感じたくもないのに、熱くなった目元が形にしてしまった。







 フラッシュバックした文字列は動けない全身に鞭を打って、もう一つ残されていたノートを開かせた。

 

 木の葉を隠すなら森の中である。いつしか優しい声で教えてくれた言葉に、やはり意味はあった。


 探す、探す。「そういう趣味なんだよ」似た者同士なんだから、気づいてあげなくちゃいけなかったんだ。




『アナタノトナリノセキノヒトハ


サンカゲツゴニハイナイ』




 見つけた。最初の二ページにあったこれは、見つけやすいようにわざとらしく日付の下に小さく書かれていた。ここからは隅々まで、追いかけていかなければいけない。




『レンラクサキハ キカナインダネ


イイノガレヲイクツモヨウイシテイタケド


サイゴマデツカワズニイラレタライイナ』




『ソウイウヒトガラトワカッタケド


ベンキョウガデキナイノハ


トウニンノドリョクブソクダトオモウゾ


ジブンノヤクワリガキエチャウカラ


ワザワザイワナイケドサ』




『キンチョウモ ハッカンサヨウガアルカラサ


ナルベクサケタインダケド


キミヲオコスノニ


ソロソロナレテモイイジャナイカ トモオモウ』




 顔を上げると、腕を伸ばす彼の姿が見えた気がした。




『ハナニツイテカタルノガ スキダヨネ


シンキンカンガアッテ


ナンカチョットウレシイヨ』




『サカズニチルハナ ッテ


ウツクシイヒビキダトオモワナイカイ


ドウセチルナラ


チリカタクライエラビタイモノダヨネ


ボクハサカズニ カレルダケナンダケド』




『パフェ


タベルノガシンドカッタ


デモ ホントウニタノシカッタヨ


アリガトウ』




『セッカクデキタツボミモ


オチルコトガアルンダッテ


オオクノゲンインハ ミズノヤリスギ


ミズブソクダッテイウノニ ヒニクダヨネ』

























『ボクハソウイウカンジョウニ


ナッタコトガナカッタカラ


シラナカッタンダケド


クルシイモノナンダネ


スゴシタヒビガ ソノママヨウブンニナッテ


オオキクセイチョウスル


オオキクナリスギテ オチテシマッタヨ


コイノヤマイッテ モットハヤクニ


ダレカガシンダンシテクレタラヨカッタノニ』




 これだけは、最後の真っ白なページに書かれていた。




 *




もらった手紙には、しっかり手紙で返すのが自然なことだと思って。

毎晩、名前のない感情を言葉としてしたためては捨ててを繰り返し、四日と九時間かけてようやく封に収めた。




残暑が厳しい月になっていた。




あんなに綺麗で可愛らしかった便箋も、何度も読んでは散々に萎れてしまって。

滲んだのはインクだったか、視界だったか。




——どっちでもいいか。




緑色の郵便ポストが存在するらしかった。

それが意味するものについては調べ済みで、投函するならソコが良いかもしれないと初めは思ったけれど。




君が人間として生きて——生きたのなら「赤色の方がいい」って言いそうな気がしてね。




伝えたかった思い想いの行き先は失ってしまったけれど。




あの春に、土手に連なった桜並木が低い目線からでも見える場所に。




——あぁ。




私にも見える。




私には、はなびらだった。




ドライフラワーじゃなくて、良かったな。




忘れないで、って。




散り際に、もう一度咲き誇っているよ。




歪む視界の中、封筒には「フジサキクンへ」と宛名だけ書いたラブレターをそっと手放す。




——ポトリ、と。




内で、言ノ葉が落ちる音が聞こえた。







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サカズニチルハナ 皆月 惇 @penowl

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