第2話 ひとつの願い
寝所における楽士の勤めは、『デートを盛り上げること』この一点である。
あくまでも裏方であり、出しゃばることは許されない。だからアリスクスが御簾を払いのけたとき、楽士は逆鱗に触れたと思った。誰しもがそう思うだろう。
小さな身体をもっと小さくして、平伏する。キャラメルブラウンの短い巻き毛が震えていた。
「申し訳ございません。邪魔立てをしてしまい……」
「そなた、名は」
この場合名を尋ねられるということは、直々に処分、下手をすれば命がないと言われたも同然だ。
楽士は大きな新緑色の目をきゅっとつむって、覚悟を決めた。
「……ディリクシーヤ・カヌと申します」
「ディリクシーヤか。聞かぬ名だな。いつもの楽士はどうした」
「風邪を引いて喉を痛めておりますゆえ、歌はわたくしが交代致しました」
「ほう……」
五秒の沈黙が、永遠に思えた。
「どうしたの? アリス」
「悪いが」
全く悪く思っていないのは口調から明らかだった。アイスブルーの瞳は、もうディリクシーヤしか映していない。
「帰ってくれないか。ドリシア嬢。私はこの楽士と話がある」
そう言うと、やはりドリシアもなにか気に障ったと思ったのか、クスリと笑った。
生まれたときから不自由を知らずに育ち、ひとの上に立つのが当たり前と思っている者の笑い方だった。
「あ~あ。王子様のデートの邪魔をするなんて、どんな処罰が下るのかしら」
嫌みたっぷりに言って、自慢の素肌にドレスを当てると寝所をさっと出て行った。
「申し訳……」
「なにを謝っている」
「え」
硬くつむっていたまぶたを上げると、不思議な表情の王子、アリスクスと目が合った。
責めてはいない。だが手放しに歓迎もしていない。それはまさしく『不思議な』表情なのだった。
「そなたに非があった訳ではない。安心せよ」
「は」
なんと答えたらいいものだろう。ディリクシーヤはただ戸惑っていた。
「そなた、いつからこの城に仕えておる?」
「は……少し前からでございます」
「その歳で宮廷楽士か?」
「さようでございます」
不意に、アイスブルーの瞳が微笑んだ。デートの相手に見せている張り付いたものではなく、掛け値なしの。
「凄いな!」
「は……勿体ないお言葉で……」
「子どもが、そのように畏まることはない。普通に話せ」
「は、しかし」
「命令だ」
「め、命令でございますか」
「ああ。バイルデン国が第二王子、アリスクス・ツヴァルト・リーリンターテ・バイルデンが
「は。あの……それでは、お願いがひとつございます」
「『じゃあ、お願いがひとつあるの』」
こう話せとばかりに、アリスクスは声色を真似る。これには緊張していたディリクシーヤも小さく笑ってしまった。
「……分かった。では、お願いがひとつある」
「なんだ」
大いに満足して、アリスクスも応える。
「頼むからなにか服を着ろ」
そうだった。寝所でのデートのあと、彼は一糸まとわぬ姿だった。
服を脱ぐときも着るときもメイド任せの身としては、恥ずかしいという意識が欠如している。
彼女が真っ直ぐに目を見て話すのを好ましいと思っていたが、そこ以外を見ることが出来なかったと言った方が正しいのだろう。そう気付くと、なんだか滑稽に思えた。
アリスクスは、腹を抱えて笑い出した。声を出して笑ったのは、子どもの頃以来、いつぶりだろうと思いを馳せる。
呆れたようにディリクシーヤもひとつ笑って、ようやく目を逸らして上気した横顔を見せていた。
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