02 人魚の話
――伊勢國
『
備中水島へと向かう平家の船団の、その中でも最も豪奢な軍船の中――
「……で、だ。兄上、その海中の声は」
「…………」
知盛は目を開いた。
重衡はその兄の様子に、まだ自分の説明が足りないのか、それとも、あまりにも突拍子の無い話のゆえに、信じてもらえないのかと、焦った。
この兄は冷静沈着、それゆえか無表情に、今でも目をしばたたかずに――その黒い目を向けて、おのれを見ている。
これではあの、南都(奈良)を焼き討ちした時のようだ。
*
南都焼討――治承四年十二月二十八日(一一八一年一月十五日)、重衡が父・清盛の命を受け、南都・奈良の大寺院、すなわち東大寺、興福寺を攻め、焼き討ちにした事件である。
この事件は、最初は
激怒した清盛は、重衡に南都への出兵を命じた。
当時の九条兼実の日記「玉葉」によると。
「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅」
するためといわれている。
こうして重衡は南都の数々の
ただ、思った以上の損害が生じ――たとえば東大寺の大仏も焼失してしまったため、平家の内部でも眉をひそめられてしまう。
「やり過ぎではないか」
時期も良くなかった。
折りしも――その直後、平清盛が謎の熱病に罹り、そして死に至り、これは仏罰ではないかと囁かれるようになる。
平家の多くの人が、重衡を責めた。
知盛だけは何も言わなかったが――その視線が、痛かった。
*
「――重衡」
知盛は無表情のまま。
だが、かすかに口角が上がった。
「面白いではないか」
「……え?」
南都焼討の時のように、何も言わない、言われないままかと思ったが、そうではない展開に、重衡は思わず惚けた表情になる。
すると、驚くべきことに、知盛はくすりと笑った。
「何だその顔は」
「何だ……って、兄上。世迷言だと退けられるかと思って……」
「阿呆か」
知盛は、重衡の手を取って、よく教えてくれたと褒めた。
「実は水島にいる源氏と戦うにあたって、考えていることがあった」
この当代随一の知将は、巨星・清盛を失い、一門都落ちした平家に、乾坤一擲の勝利をもたらさんと、いろいろと画策していた。
そのうちのひとつを、どう使うかと思っていたが、この「海中の声」こそがふさわしいと判じたから、笑ったのだ。
「それは――人魚だ。いや、ちがうと思うかもしれんが、人魚、ということにしよう」
「はあ……」
平家水軍の旗艦ともいうべき軍船の、大将の御座所。
そこで、知盛は片手で拳を作り、片手の手のひらを打つ。
「そも、われらの祖父、忠盛どのもじゃな、伊勢の別保で、浦人(漁民)から人魚を
それは「古今著聞集」にも載る逸話で、結果として平忠盛は人魚を「帰してやれ」と受け取らなかったという。
ただし、献じた浦人は
「え? 食べたんですか?」
「そうだ。特段、何の効能も、何かの力を得るといったこともなく、ただ
「……そうですか」
何やら拍子抜けする話だ。
音に聞く八百比丘尼のように、不老長寿になったということもないとは。
知盛はその重衡の、拍子抜けした表情を見て、また笑った。
「……つまりは、こういう怪異やら仏罰やら、皆、『ある』と思い込むから、その後の何かの幸い、あるいは不幸が起こると結びつけ、『ある』となってしまう、ということなんだろう」
人魚の肉を食うたからというて、それによって、何も起きないこともある。
「……だから、南都を焼き討ちしたからというて、そのあと、すぐ清盛入道が――父上が亡くなったというて、結びつけるな。結びつけると、見えるものも見えなくなるぞ」
「で、でも兄上は」
この重衡に、何も言わなかったではないか。
にじり寄る重衡に、知盛は苦笑した。
「必要だと思ったからやったんだろう。やり過ぎだったところはあるが、仕方なかったんではないか」
「……なら、何故そうと」
「言ったところで、お前は納得するのか?」
知盛はまた無表情になった。
そして語る。
父・清盛の死という出来事が重なった中、おのれを責める重衡に、さらに責めるようなことをしても、意味が無いと思った――と。
また、逆に褒めたところで、そんなことあるかと激昂して、また落ち込むだけだろう――とも。
「兄上」
「……そんなことより、今から源氏と
手はずは整ったと、知盛は御座所から出た。
まだまだ夜は開けない。
それでも、東の空は白みつつある。
もうすぐ、水島に着く。
着いたら機を
機を窺ってから、戦う。
「充分に、待つ」
「そうだ。それにはお前の聞いた海中の声、いや、人魚の声がそうと告げてくれたと言うて……」
「い、いや、兄上。さっきも言うたが、おれが聞いたのは、ヒ、とか、ゲイ、とか……」
「鳴き声、のようなものなのだろう」
知盛は、人魚の正体というか、
であれば、人語を話さなくとも、鳴いて、それで仲間や家族とやり取りをしていたのだろう。
「あたかも、内緒話のように、な」
軍船が揺れた。
肩を抱き合う知盛と重衡。
そのまま笑い合ってしまう。
「……
「はい」
この時代、児島半島はまだ半島ではなく島で、中国と四国――屋島を隔てていた。
また、重衡らが向かっている水島(現在では柏島と乙島の周辺地域)と、向かい合うように
それは事前から聞かされた作戦である。
水島で重衡が戦い、その裏から通盛――平通盛がその裏からという、挟み撃ちの作戦だ。
ここで、裏手が通盛というのが気が利いている。
なぜなら、通盛は南都焼討の際に、重衡の副将として戦っている。
「あっ」
「どうした」
「もしや……通盛もふくめて、南都を焼き討ちした者どもに、機会をお与えに」
「
平家において、重衡と通盛は兵を率いる立場にある。
だから、南都を攻めた。
だから、水島でも戦ってもらう。
「それだけのことだ……」
知盛は目をしばたたかせた。
その視線の先に、水島が見えたらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます