02 人魚の話

 ――伊勢國別保べつほといふ所へ、さきの刑部ぎやうぶの少輔せう忠盛朝臣あそん下りたりけるに、浦人うらびと日ごとに網を引きけるに、或日大なる魚の、頭は人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さし出でて猿に似たりけり。


古今著聞集ここんちょもんじゅう』巻二十、第三十編『魚虫禽獣』、「第七百十二段 伊勢国別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に献上の事」より






 備中水島へと向かう平家の船団の、その中でも最も豪奢な軍船の中――

 平知盛たいらのとももりは目を閉じて、弟の重衡しげひらの言うことを聞いていた。


「……で、だ。兄上、その海中の声は」


「…………」


 知盛は目を開いた。

 重衡はその兄の様子に、まだ自分の説明が足りないのか、それとも、あまりにも突拍子の無い話のゆえに、信じてもらえないのかと、焦った。

 この兄は冷静沈着、それゆえか無表情に、今でも目をしばたたかずに――その黒い目を向けて、おのれを見ている。


 これではあの、南都(奈良)を焼き討ちした時のようだ。



 南都焼討――治承四年十二月二十八日(一一八一年一月十五日)、重衡が父・清盛の命を受け、南都・奈良の大寺院、すなわち東大寺、興福寺を攻め、焼き討ちにした事件である。

 この事件は、最初は以仁王もちひとおうの挙兵以来、平家に対する反抗的な態度を取る寺院勢力を問責するはずが、逆に寺院側が暴発してその問責の使いの首をねてしまったことに端を発する。

 激怒した清盛は、重衡に南都への出兵を命じた。

 当時の九条兼実の日記「玉葉」によると。


「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅」


 するためといわれている。

 こうして重衡は南都の数々の巨刹きょさつを焼き払った。

 ただ、思った以上の損害が生じ――たとえば東大寺の大仏も焼失してしまったため、平家の内部でも眉をひそめられてしまう。


「やり過ぎではないか」


 時期も良くなかった。

 折りしも――その直後、平清盛が謎の熱病に罹り、そして死に至り、これは仏罰ではないかと囁かれるようになる。

 平家の多くの人が、重衡を責めた。

 知盛だけは何も言わなかったが――その視線が、痛かった。



「――重衡」


 知盛は無表情のまま。

 だが、かすかに口角が上がった。


「面白いではないか」


「……え?」


 南都焼討の時のように、何も言わない、言われないままかと思ったが、そうではない展開に、重衡は思わず惚けた表情になる。

 すると、驚くべきことに、知盛はくすりと笑った。


「何だその顔は」


「何だ……って、兄上。世迷言だと退けられるかと思って……」


「阿呆か」


 知盛は、重衡の手を取って、よく教えてくれたと褒めた。


「実は水島にいる源氏と戦うにあたって、考えていることがあった」


 この当代随一の知将は、巨星・清盛を失い、一門都落ちした平家に、乾坤一擲の勝利をもたらさんと、いろいろと画策していた。

 そのうちのを、どう使うかと思っていたが、この「海中の声」こそがふさわしいと判じたから、笑ったのだ。


「それは――人魚だ。いや、ちがうと思うかもしれんが、人魚、ということにしよう」


「はあ……」


 平家水軍の旗艦ともいうべき軍船の、大将の御座所。

 そこで、知盛は片手で拳を作り、片手の手のひらを打つ。


「そも、われらの祖父、忠盛どのもじゃな、伊勢の別保で、浦人(漁民)から人魚を三疋さんひき、献じられたことがあって」


 それは「古今著聞集」にも載る逸話で、結果として平忠盛は人魚を「帰してやれ」と受け取らなかったという。

 ただし、献じた浦人は一疋いっぴき、人魚を食べてしまったらしい。


「え? 食べたんですか?」


「そうだ。特段、何の効能も、何かの力を得るといったこともなく、ただ美味うまかったと……」


「……そうですか」


 何やら拍子抜けする話だ。

 音に聞く八百比丘尼のように、不老長寿になったということもないとは。

 知盛はその重衡の、拍子抜けした表情を見て、また笑った。


「……つまりは、こういう怪異やら仏罰やら、皆、『ある』と思い込むから、その後の何かの幸い、あるいは不幸が起こると結びつけ、『ある』となってしまう、ということなんだろう」


 人魚の肉を食うたからというて、それによって、何も起きないこともある。


「……だから、南都を焼き討ちしたからというて、そのあと、すぐ清盛入道が――父上が亡くなったというて、結びつけるな。結びつけると、見えるものも見えなくなるぞ」


「で、でも兄上は」


 この重衡に、何も言わなかったではないか。

 にじり寄る重衡に、知盛は苦笑した。


「必要だと思ったからやったんだろう。やり過ぎだったところはあるが、仕方なかったんではないか」


「……なら、何故そうと」


「言ったところで、お前は納得するのか?」


 知盛はまた無表情になった。

 そして語る。

 父・清盛の死という出来事が重なった中、おのれを責める重衡に、さらに責めるようなことをしても、意味が無いと思った――と。

 また、逆に褒めたところで、そんなことあるかと激昂して、また落ち込むだけだろう――とも。


「兄上」


「……そんなことより、今から源氏といくさして、そして見返してやれ」


 手はずは整ったと、知盛は御座所から出た。

 まだまだ夜は開けない。

 それでも、東の空は白みつつある。

 もうすぐ、水島に着く。

 着いたらうかがう。

 機を窺ってから、戦う。


「充分に、待つ」


「そうだ。それにはお前の聞いた海中の声、いや、人魚の声がと告げてくれたと言うて……」


「い、いや、兄上。さっきも言うたが、おれが聞いたのは、ヒ、とか、ゲイ、とか……」


「鳴き声、のようなものなのだろう」


 知盛は、人魚の正体というか、看做みなされているは、海獣のたぐいだと推定している。

 であれば、人語を話さなくとも、鳴いて、それで仲間や家族とやり取りをしていたのだろう。


「あたかも、内緒話のように、な」


 軍船が揺れた。

 肩を抱き合う知盛と重衡。

 そのまま笑い合ってしまう。


「……通盛みちもりはすでに児島に入っている」


「はい」


 この時代、児島半島はまだ半島ではなく島で、中国と四国――屋島を隔てていた。

 また、重衡らが向かっている水島(現在では柏島と乙島の周辺地域)と、向かい合うように児島それは存在している。

 それは事前から聞かされた作戦である。

 水島で重衡が戦い、その裏から通盛――平通盛がその裏からという、挟み撃ちの作戦だ。

 ここで、裏手が通盛というのが気が利いている。

 なぜなら、通盛は南都焼討の際に、重衡の副将として戦っている。


「あっ」


「どうした」


「もしや……通盛もふくめて、南都を焼き討ちした者どもに、機会をお与えに」


偶々たまたまだ」


 平家において、重衡と通盛は兵を率いる立場にある。

 だから、南都を攻めた。

 だから、水島でも戦ってもらう。


「それだけのことだ……」


 知盛は目をしばたたかせた。

 その視線の先に、水島が見えたらしい。

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