人魚と内緒話 ~ 源平の戦い、水島合戦異聞 ~

四谷軒

01 海中の声

 ひそひそ。

 くすくす。

 うふふ。


 ……そんな声が響いて来るのを、平重衡たいらのしげひらは聞いた。

 夜、海の上を征く、揺れる船の上のことなので、何かの波の音がそう聞こえたかと思ったが、そうではないようだ。


「……間者か」


 重衡は佩刀の柄に手をかけながら立ち上がる。

 そう、重衡は船上、まどろんでいる最中であった。


「源氏の手の者か」


 時は寿永二年(一一八三年)、秋。

 治承・寿永の乱──いわゆる治承四年(一一八〇年)の以仁王もちひとおうの挙兵に始まる「源平の戦い」の中、重衡は、兄の知盛と共に、讃岐の屋島から船団を率いて、備中びっちゅうの水島(現在では柏島と乙島の周辺地域)を目指している最中であった。


「……いや、源氏がここまで来ているわけはないか」


 そう、いま重衡ら平家の軍は、水島に源氏の兵がいると聞いて、屋島から出張っている。

 その源氏というのは木曽義仲で、そして兵を率いているのは義仲自身ではなく、同じ源氏の一族である足利義清という武将である。



 源義仲──木曽義仲は信濃からでて、北陸道を進撃し、鎌倉の源頼朝を差しおいて、先に上洛を果たしてしまう。


「朝日将軍と名乗るが良い」


 後白河法皇は義仲の入京をよみし、そのような称号を許したという。

 義仲は有頂天だった。

 あれだけ栄華を誇った平家は、都落ちした。

 従兄弟の頼朝を出し抜いて、京を制した。

 天下を取った。

 そう、思った。

 だがそこからは地獄だった。

 養和の飢饉という厄災が起こっていたためである。

 鴨長明の『方丈記』によると、


 ――又、養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覚えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくみのらず。


 とある。

 その飢饉により、西日本――京から農作物がなくなってしまい、京の人々が飢え苦しんでいたところへ、義仲軍の上洛である。

 義仲にとって、食糧とは納められるもの、差し出されるものであり、そうでなければ――奪うものである。

 こうして京は地獄と化した。

 略奪、狼藉、略奪、狼藉………。


「かくなれば、西国の平家を討て」


 とうとう痺れを切らしたのか、後白河法皇は義仲を西に差し向けることにした。

 義仲としては、がら空きとなった京に、義仲に代えて頼朝を入れようとしている意図が、ありありと見えた。


「ふん。平家を討てだと? 本心からそう思っているのか」


 業腹ごうはらな義仲は、まず同族の足利義清に兵を与え、都落ちした平家の新たなる拠点――屋島へと向かわせた。

 そして自身はそのあとを、ゆっくりと追うようなかたちで、西進した。

 もし頼朝が京を窺った場合、すぐさま舞い戻れるように。



「――そしてその足利義清とやらは今、水島の近くのおかにいると聞く。義仲の思惑を汲んで、なかなか兵を進めようとせぬ」


 重衡はそうひとりごちながら、瀬戸内の夜の中、そろそろと舟のに向かった。

 さきほどからの、まるで内緒話をするような――ひそひそ声を聞くために。

 を手でつかみ、海中へと耳を傾ける。

 夜の海は不思議だ。

 星空を映してきらきらと輝くうつくしさと、

 吸い込まれ、引きずり込まれるようなおそろしさがある。

 それでも重衡はその声を聞こうと、思い切り身を乗り出す。

 すると。

 ぶくぶくと泡が湧いて来るような。

 そんな、音の中で。

 その、声は聞こえた。


「これではその――海中の声と内緒話をしているようだ」


 のちに重衡はそう述懐した。

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