第1話 目覚め



 ――はっ、と、突然意識が醒めた。


 だけれど、なんだか頭に霧がかかっているように、ぼんやりともしていた。


(ここ、は……。私は……?)


 寝台に横たわっていたので、身体を起こす。

 見回してみると、窓のない、扉が一つあるだけの小さな部屋にいるようだった。

 寝台の横にしっかりとした造りの椅子があるのを見て、誰かが座っていたんだろうか、と思う。


 そっと触れてみる。冷たくは、ない。


 自分の行動に首を傾げたところで、部屋にある唯一の扉がキィ、と音を立てて開いた。

 思わず身構える。そこに現れたのは――。


(誰、だろう……。見覚えがある……ような気はするけれど……)


 まだ若い、背の高い青年だった。体つきはしっかりしていて、しなやかな筋肉がついている。その顔は端正で、人好きのする造作をしていた。

 だけれど、それが誰なのか、ぼんやりしたままの頭は教えてくれない。


「ああ、目が覚めたんだ。シィ……よかった……」


 とてもとても嬉しそうに微笑まれる。その人は涙ぐんでさえいた。

 それほどに目覚めを喜ばれる間柄らしいのに、私には彼の名前さえわからない。


 ――呼ばれた、自分の名前らしき『シィ』という響きには、覚えがある気がしたけれど。


「シィ。どこか、痛むところはない?」


 寝台横の椅子に座って、青年が問うてくる。そこで初めて自分の身体を見下ろした。

 簡素な衣服を着た、女の身体だ。きちんと感覚もあるし、痛むようなところもなかった。

 相変わらず、思考にはどこか霧がかかっているような感じだけれど。


「――痛い、ところは……」


 問いに答えようとしたら、随分とかすれた声が出た。長く声を出していなかったのだと、身体で理解する。


(長く、声を出さないような何かがあった……? どうして私は、ここに至るまでの何も覚えていない?)


 ぶわりと、不安のようなものが湧き上がってきて、その衝動のままに口を開く。


「ここ、は? 私は、……あなた、は……?」


 喉への負担が大きくて、端的なものになってしまったけれど、青年はこちらの問いを過不足なく読み取ったようだった。


「もしかして、覚えていない? ――何も?」


 少し迷って、小さく頷く。

 青年の顔や、自分の名前らしきものについてはなんとなく覚えがあるような気はしたけれど、それだけだ。そこから何も想起されないのであれば、覚えていないも同然だろう。


 驚かれたり、困惑されたりするかと思った。けれど、青年は穏やかな瞳を伏せて、「そう」とだけ呟いて――どこか安堵したようにも見えた。


「質問に答える前に、シィの喉をどうにかしようか。――首元に触れても?」


 青年に触れられることを想像しても、拒否感のようなものは浮かばなかった。

 問題ないとの意味を含ませて頷くと、彼はそっと、右手の人差し指と中指を私の喉元へ当てた。


「『万象よ、世界よ、ここに癒やしを』」


 どこか謳うような言葉が紡がれると共に、すぅっと、喉の痛みが消えていく。幾分か、思考の霧も薄まった気がした。


「どう? 喉の調子は戻ったんじゃないかな」


 小さく声を出してみる。負荷はもう感じなかった。

 「大丈夫」と告げると、青年はそっと息をついて「よかった」と微笑んだ。


「じゃあ、質問に答えようか。――ここは、俺の……家、みたいなものかな。君は、シィ……シエル。シエル・フェーデ。シィは愛称だよ」

「シエル・フェーデ……」


 その名前は、舌によく馴染んだ。馴染んだけれど、何か、――何かが違うようにも感じた。


「俺は、ラーイ・メレイヤ。俺と君は、同じ村で育った幼馴染みで――将来を、誓い合った仲だった」

「ラーイ……?」

「そう。……何か思い出した?」


 その名前も、やはり舌に馴染みがあった。ラーイ、ラーイ、と何度か口の中で音を転がす。


 いくつかの場面が頭に浮かんだ。目の前の青年の面影のある小さな子どもに手を引っ張られている場面、もう少し成長した様子の子どもと手を繋いで野原に寝転がっている場面、少年と呼ばれるくらいの年になった彼が何かを誓うように私の手を押し頂いている場面、それよりももう少し大人びた面差しになった彼が――ラーイが、真剣な表情で何かを伝えようとしている場面。


 ――そう。そうだ。


 私はシエル・フェーデ。ラーイと共に村で育った幼馴染み。

 両親は早くに流行病で亡くした。住んでいた村の人々が優しかったから、それでも生きてこられた。


 どこか、何かが遠いような感覚に包まれながらも、聞いただけじゃなく、自分の記憶として思い出せた。


「思い、出した……」

「何を?」


 少しだけ緊張の孕んだ声で、ラーイが訊ねてくる。私は思い浮かぶままに答えた。


「私の、こと。ラーイのこと。村のこと。少しだけ……。でも、まだ……なんだか頭がぼんやりしてて……」

「……シィは、そんなふうになっても仕方ない、ひどい目に遭ったんだ」

「……ひどい目?」


 それはなんだろう、と考えても、何も思い出せない。

 ずきん、と頭が痛んで、顔を顰める。ラーイが心配そうに顔を覗き込んできた。


「どこか、痛む?」

「あたま、が……」

「ああ……」


 何故かそこで、ラーイは安心したように息を吐いた。


「……無理はしない方がいい。思い出したいのなら、ゆっくり思い出して」


 労るように、慈しむように言われて、そういうものなんだろうか、と思う。

 でも、確かに、目を覚ましただけでラーイが涙ぐむほどだったのだ。それが奇跡のような、ひどい状態だったのかもしれない。


 ラーイの口ぶりからすると、身体のどこかに怪我でもしたのかもしれない。

 今はどこも痛まないけれど、大きな怪我がすっかり治るほどの時間、目を覚まさなかったのかもしれなかった。


(……まあ、今は考えてもわからない……。ラーイも詳しいことを話すつもりはないみたいだし……)


 ラーイの名前をきっかけに、断片的に記憶が蘇ったように、少しずつ思い出せることがあるのだろう。


 また、思考にかかった霧が濃くなってきた気がする。頭がぼんやりして、重くて、身体を起こすのがつらくなってきた。


「身体、つらい? 無理しないで寝ていて」


 察したラーイが、身体を支えながら寝台に横たわらせてくれた。


 意識が遠のいていく。

 やさしく掛布をかけてくれたラーイが、また謳うように何か言葉を紡いだけれど、聞き取れないまま思考は闇に沈んだ。



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