第3話
ケンくんがぐるぐると考え事をしているあいだに、気がつけば夏休みがやってきました。8月になってお父さんの会社も休みになると、お父さんの故郷の高知県に行くことになっていました。
ケンくんはたまにしか会わないけれど、おばあちゃんのことが大好きでした。だって、他のおとなみたいにケンくんを子ども扱いしないからです。おばあちゃんとお話しをしていると、自分もおとなの仲間入りをしたような気分になるのでした。しかし、今回は少し事情がちがいます。近頃は、ぜんぜん関係ないことに対しても胸ポケットのコウシくんが口を出すようになってきているのです。
お家で晩ご飯を食べながら、お父さんがぼーなすで新しい車を買いたいと言う話をしている時も、
今の車もあるのに買い替えるなんて、絶対お金がもったいないでしょ。もっと賢い使い方をしたらいいのに
例えばそれが学校やゲームのことならコウシくんの言及することも想像がつきます。でも、車とかお金のことについて、コウシくんが実際にそんな事を言った記憶はありません。どちらかといえば、お母さんがケンくんとふたりの時にひとり言のようにつぶやくことみたいでした。いまや胸ポケットのコウシくんは勝手にいろんな人の意見を代わりに喋り始めていました。相手が誰であれ勝手に反応する、コンビニの入り口の音楽みたいでした。しかも、それは耳を塞ぎたくなるいやな音楽でした。
おばあちゃんのお家に着いた時、ケンくんが洞窟にいるように暗い顔をしているのにおばあちゃんはすぐに気が付きました。でもその原因が分かるまではそっとしておこう、おばあちゃんはそう思いました。なぜなら、ケンくんは他の人に聞かれなくても自分の考えをきちんと話すことができる子だと分かっているからです。
みんなで晩ごはんを食べて、お父さんはビールを飲んで、ケンくんと一緒にお風呂に入りました。お父さんは久しぶりに帰ってきたので昔の気分を取り戻したのか、湯船の中でタオルを勢いよく沈めて空気を溜めて、タコさんを作る遊びをしました。ケンくんは、そしてコウシくんは、もうそんな遊びでは喜ぶようではありませんでした。
暑くなった体を月明かりのえんがわで冷ましていると、おばあちゃんがケンくんの隣にやってきて言いました。
「ケンちゃん、晩ごはんは美味しかった?」
ケンくんはさっき食べた夕食の味を、舌の上で思い出しました。
うん!おいしかったよ。イカの天ぷら、明日も作って!
ほころんだおばあちゃんの笑顔を見て、ケンくんは嬉しくなりました。
「はいはい、分かったよ。また作ってあげるね。
ケンちゃん、学校はどう?」
おばあちゃんはケンくんの目線がすぐに外れたのに気付きました。
……勉強はよく分かんないけど、友だちもいっぱいできたし楽しいよ!
ケンくんは賢い子だから、きっとおばあちゃんを心配させるようなことは言わないだろう、という予想はしていました。でも、友だち、という言葉をいうときに少しためらっていた気がしたのをおばあちゃんは聞き逃せませんでした。明るくなってきた月が、ケンくんとおばあちゃんの横顔を静かに照らします。
「ケンちゃん、いいかい
学校は楽しくなきゃいけない場所じゃないんだよ
ケンちゃんが楽しいと思える場所を見つけたら、そこで思いっきり楽しんだらいいのよ」
おばあちゃんは穏やかだけれど真剣に伝えました。ケンくんは潤んだ目でおばあちゃんを見つめ返します。でも何て言ったらいいのか分かりません。
「ケンちゃんはケンちゃんの、自分の心に従いなさい、自分の言葉をよく聞きなさい
わかった?」
ケンくんはこくりと頷きました。おばあちゃんはケンくんがケンくん自身のやり方で気持ちを整理できるように、少し黙っていました。
おばあちゃん、おれね、友だちとケンカしちゃったの。そしたら、その友だちがね、おれの胸のとこに住み着いちゃったの。いつもその友だちが話しかけてきてさ、でも、こっちからは話しかけられないんだ。謝れないんだ
やっといつものケンちゃんに戻った、とおばあちゃんは安心しました。
「そうかい、そんなことだったのかい。じゃあ代わりにおばあちゃんがケンちゃんの胸に住み着いて、その子を追い出してあげるよ」
おばあちゃんが胸ポケットに収まっているのを想像して、ケンくんはおかしくて思わず笑いました。でも、おばあちゃんは冗談で言ったのではありませんでした。
夏休みがもうすぐ終わる頃、ケンくんは学校が始まるのが少し怖く感じました。友だちのみんなに会うのは楽しみでした。でも、久しぶりに友だちと接したコウシくんがどんなことを言うか、想像しただけで気が重かったのです。それでもケンくんはおばあちゃんに言われた通りに、自分の心の声に従うと決めていました。カゲイくんがどんなに夏休み中の自慢話をしてきても、どんなにキバツな自由研究を持ってきても、あるいは宿題を忘れてきても、ケンくんはそれに対して自分の感じたことだけを気にしようと決めていました。それらはコウシくんのすぐに反応しそうな、噛みつきやすいエサでした。
新学期が始まる日、変な緊張感をまといながら、前をしっかり見据えて学校に行きました。教室に入るとまだカゲイくんは登校していませんでした。思わず少しホッとして、ランドセルの中身を机の中に移し替えます。宿題をちゃんと全部持ってきたことを確認していると、背中に、どん、という衝撃がありました。机に手をついて顔を上げると、カゲイくんの日に焼けた肩に背負われたランドセルが、ケンくんの横を通り過ぎて行きました。
カゲイくんは友だちとおしゃべりをしていてケンくんにぶつかったことに気がついていません。ケンくんは夏休み前の1学期の気持ちが再び湧き上がって、じわじわ悲しくなりました。
バカだから視界が狭いんだな、見えなかったならしょうがない
胸ポケットのコウシくんも獲物をとらえたみたいに強い言葉を話し始めます。
自分が周りにめいわくをかけてるなんて考えてもないんだろうな、もっと想像力をつけてほしいよ、まったく
前までと同じことを結局繰り返してることに、ケンくんは胸が苦しくなってきてしまいました。どうしておれだけコウシくんの声にこんなに苦しまなきゃいけないんだ、と誰かを責めたい気持ちになりました。いっそ耳が聞こえなくなればいいのに、とも思いました。でもその時、おばあちゃんの教えを思い出しました。
ケンちゃんはケンちゃんの、自分の心に従いなさい、自分の言葉をよく聞きなさい
おばあちゃんの真剣な顔も浮かんできました。ケンくんも表情を引き締めました。そして、コウシくんに向かって、搾り出すように語りました。
「それは、コウシくんも同じだよ。おれがずっと苦しんでることに気付いてないんだもの」
声は震えていました。胸ポケットのコウシくんは言葉をとめて、初めて上にいるケンくんに視線を向けました。
「自分にそのつもりがなくても、嫌な言葉を言っちゃって誰かがそれを受け取っちゃったら、その相手の言葉になる。おれは、おれの言葉じゃないのにコウシくんの嫌な言葉を聞いてからずっと、喉に骨が刺さったみたいに、同じ痛みに耐えてたんだ」
溢れてくる気持ちに口が追いつかなくなるくらい、すらすらと言葉が出てきます。実際には、気持ちの方が早く噴出してきて、その全部を音声として留めることができていないような感覚もありました。コウシくんはなにか言いたそうな顔でこちらを見ていました。
「でも、おれがコウシくんに言った言葉もそうだったんだって、分かったんだ。おれがただふざけて、コウシくんが笑って答えてくれると思って言ったのが、コウシくんの心にトゲを刺しちゃったんだね」
ケンくんは自分が実際に声に出して喋ってるのか、心の中で考え事をしてるだけなのか、区別がつかなくなってきました。クラスのみんなに頭のおかしい奴だと思われているかもしれない、ということも気にする余裕がありませんでした。でも、コウシくんの声がそうだったように、ケンくんの声もコウシくんにしか届いていないんじゃないか、という直感がありました。ドキドキしている心臓の方を見ると、コウシくんが優しく頷いていました。
「コウシくん、ごめんね」
はっと気付くと、コウシくんは胸ポケットからいなくなっていました。
「カゲイくん、ケンくんにぶつかっただろ。謝りなよ」
そう訴えたのは、ちゃんとこの教室のなかのひとりとして存在するコウシくんでした。胸ポケットからコウシくんが戻ってきた!とケンくんは嬉しくなりました。カゲイくんは気づかなかったことをケンくんに謝りました。
「コウシくん!やっと戻ってきたんだね!」
「え?どういうこと?」
どうやらコウシくんは胸ポケットのことを覚えていないみたいでした。周りのみんなもコウシくんが久しぶりに現れたことになんにも反応していません。
「夏休みだったんだから久しぶりに学校に来るのなんて当たり前じゃん」
ケンくんは不思議に思いましたが、胸ポケットに小さなコウシくんが入っていたことに比べれば、不思議なことはありませんでした。それよりも再会の喜びでいっぱいでした。
「コウシくん、今日学校終わったら遊ぼ!またゲームしよう?」
「いいけど、ゲームよりさ、」
コウシくんは少し恥ずかしそうにしました。
「外でドッジボールとかしようよ、みんなも誘ってさ」
『……がやる遊び』、何回も胸ポケットから飛んできたあの言葉がケンくんの頭をよぎります。どうしてコウシくんがそれをやりたいと言うのか、知りたくなりました。でも、それを聞くことがまたコウシくんを悲しく怒らせて、再び本物のコウシくんがいなくなったらどうしよう、と不安になりました。
ケンちゃんの心の声に従いなさい、心から出た言葉なら相手もちゃんと受け取ってくれるはずだよ
えっ、と驚きました。まるで糸電話を通じて耳元でケンくんだけに向けて喋りかけられてるような、この感覚にすぐピンときました。胸ポケットを見ると、ケンくんのおばあちゃんがちっちゃくなって入っていました。今度はコウシくんに代わっておばあちゃんが住み着いたのです。もちろん、おばあちゃんの声はケンくんにしか聞こえていませんでした。
ケンくんは自分を落ち着かせておばあちゃんの言葉を頭の中で反復します。自分の心からの声を伝えれば、ちゃんと伝わるはず。
「コウシくん、この前はドッジボールなんかやらないって言ってたのは、どうしてだったの?コウシくんの気持ちを、おれはちゃんと知っておきたい」
ケンくんは勇気を持って尋ねました。この前みたいにイヤな軽いつもりではないことをしっかり分かって欲しくて、コウシくんの目をまっすぐ見て言いました。
コウシくんは少し考えて答えました。
「ぼく、お兄ちゃんがいつもゲームしながらブツブツ独り言を言ってるのを聞いてるんだ。お兄ちゃんがクラスの友だちにいじめられたときは、決まって悪口を言うの。
バカがやる遊びっていうのはその悪口のひとつ。ぼくのなかにお兄ちゃんの言葉が住み着いちゃってたから、つい出てきたんだ」
ケンくんは自分の想像力の狭さに思い至って恥ずかしさが込み上げました。コウシくんもケンくんと同じだったのです。
自分の心の声に従いなさい、それを伝えなさい、そうすれば相手もちゃんと受け取ってくれるはずだよ
おばあちゃんの言ってたことは本当だったんだ。ケンくんは優しく胸ポケットに手を当てました。
胸ポケットのコウシくん はいの あすか @asuka_h
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