第2話
胸ポケットのコウシくんは、小さくなっていること以外は昨日の姿のままでした。肩から上をポケットの外に覗かせて、ドッジボールの体育館を見物しています。真上からケンくんに見られていることには気付いていないようです。ケンくんは何だか分からないけれど、このことは誰にもバレちゃいけないと思って、急に心臓が冷たくドキドキするように感じました。他に外野になっている友だちが胸ポケットのコウシくんに気付いていないかどうか、静かにきょろきょろ見回してみましたが、幸いみんなはドッジボールに集中していました。ケンくんは小声でささやきました。
コウシくん、ねえ!、コウシくん
胸ポケットのコウシくんは反応しません。まだみんなのドッジボールを見ています。
ねえってば!なんでそこにいるの、コウシくん!
ケンくんの声は届かないようです。ケンくんはだんだん焦ってきて、ひそひそ声で必死に話しかけました。その時、ケンくんの横を勢いよくボールが転がっていきました。避けられたボールが外野まで来ていたのです。ケンくんは我に帰ってボールを追いかけますが、体育館の壁に跳ね返って相手チームの内野に戻ってしまいました。中腰の情けない体勢のまま、内野と外野を区切る白線の前で立ち止まりました。
「おいい、ケン!何やってんだよ!」「ちゃんとやれよお」
チームの中心のカゲイくんとその友だちが大声で文句を言ってきました。でも本気で怒っているんじゃありません。それくらいはケンくんにも分かりました。
ゴメンゴメン、急に来たからさ
明るい言い方をイシキして、カゲイくんに釈明しました。
「ケンのせいで負けたら、お仕置きだからな!」
カゲイくんが言い返しました。ケンくんはお仕置きなんてごめんだと思いながら、とりあえずへへへと笑い返して、何と返事をしようかなと思案しました。すると、胸ポケットから声が聞こえました。
カゲイくんのせいでつまんないんだよ、しょうがないじゃん
その声はコウシくんでした。ケンくんはとっさに胸ポケットを押さえて声を封じましたが、こもった声がまだ何か喋っています。
カゲイくんのためにボールを回してるみたいで、みんなつまんないんだよ
コウシくんははっきりとした口調で、カゲイくんをあげつらうことを言いました。ケンくんはカゲイくんが怒ったかもしれないと思ってそっとカゲイくんの方を見やりましたが、カゲイくんはもう次のラリーに関心が移っていました。どうやら声はケンくんにしか届いていないみたいです。
安心すると同時に、コウシくんの言葉は頭の中でこだまします。カゲイくんのためにボールを回してるみたいで、つまんない。今までそんなこと思ったこともありませんでした。でも、何だかずっと前から思っていたことのようにも感じました。ケンくんはますますドッジボールが楽しくなくなってしまいました。
たいいくの時間が終わると、いちばんに教室に戻りました。胸ポケットのコウシくんをつまみ出してどこかに隠そうと思ったのです。しかし、中身を見てみるとそこには何も入っていません。あれっ?なんでだろう……。あ!どっかで落っことしちゃったのかもしれない!そう思ったケンくんは急いで服を着替えて、さっき通ってきた体育館までの道順を早歩きで戻ることにしました。みんながここを通る前に見つけ出さなきゃ!廊下を隅から隅まで目をこらして探します。水道の下も、階段の曲がり角も、いそうなところは隈なく捜索しましたが、小さなコウシくんはいませんでした。そのうち、向こうのほうから遅れて戻ってくるみんなの話し声が反響してきました。ケンくんは諦めて、さっき体育館で見たコウシくんは気のせいだったのだ、と思うことにしました。渡り廊下の反対側からカゲイくんたちが歩いてきます。
「お、うんこのケンじゃん!」「ほんとだ、うんこ男だ」
カゲイくんたちはケンくんを見ておかしそうに笑いました。ケンくんは何のことだか分かりませんでしたが、ドッジボール中にうわの空だったのとそれが終わったら一目散に体育館を出たので、トイレをがまんしていたのだと思われたようでした。
い、いやちげえし、次の授業の準備してただけだし
とっさの言い訳も余計に勘違いの真実味を増して、笑われるだけでした。
「ケン、今日学校終わったら中央公園でキックベースしよーぜ」
キックベース、そう聞いたらいつもなら喜んで遊びに行くところでした。でも、ケンくんの心には、
バカがやる遊びじゃん
カゲイくんとやってもつまんない
自分のものではないはずの言葉が浮かんできてしまいます。いつものように放課後が近づいて早く校庭に飛び出したい衝動は感じませんでした。ケンくん自身でも分かるくらい不自然に会話が途切れて、頭の中がぐるぐるしました。行きたいんだけど、行きたくない。行っても楽しくないのを知ってるから。どうしよう、どうしよう。そう悩んでいると、突然、
キックベースなんか、何が楽しいの?勝手にやってろよ
いなくなったはずのコウシくんの声がしました。ケンくんが胸元を見ると、着替えた服の胸ポケットにまたコウシくんが入っていたのです。しかも、どうしてだか、さっきまでよりも話し方が乱暴になっている気がします。ケンくんはさらにどうしたらいいのか分からなくなって、何も言わずにその場を歩き去ってしまいました。体育館でもそうだったから、きっとコウシくんの声は自分にしか聞こえていないはず。それだけを願いながら、教室に戻りました。
それからというもの、コウシくんの声のせいで何事にもうんざりしてしまいました。だって、クラスで楽しいことが起きると胸ポケットのコウシくんが必ず冷や水を浴びせるようなことを言うからです。イヤなのはそれだけではなく、ケンくんもそのコウシくんの声を無視することができないことです。
なぜなら、コウシくんの言うことも確かに正しいひとつの真実を言い当てている気がするからです。みんなが心のどこかで思ってはいるけど言わないでいることをコウシくんは平気で口にしてしまうのです。コウシくんの言葉を聞くたびに、ケンくんは心が削られて小さくなっていくように感じました。胸ポケットのコウシくんは正しいことを言ってるけれど、それは簡単に反論されうる脆い主張でした。
年に一度学校を開放してお父さんお母さんたちに向けて出し物をする学習発表会を控えて、ケンくんたちのクラスが何をするか話し合った時、みんながどんな出し物がいいのか分からなくて意見が出なかったのをコウシくんは、
誰もやりたいのがないんだったら、やらなきゃいいじゃん。何も意味ないでしょ、これ
と、憚ることなく断じます。もちろんケンくんにだけ聞こえています。ケンくんは、確かに一理あるのかもしれない、と思いました。でも、お父さんもお母さんも学習発表会を楽しみにしているのを知っていたし、第一みんなだってやりたくない訳じゃありませんでした。どんな出し物が現実的な選択肢になり得るのか分別がつかず、意見を飲み込んでいただけなのでした。だから、コウシくんの声は当たっているようで的外れだ、とケンくんは感じていました。ところがコウシくんにこちらの反論が届かない以上、考えるエネルギーを浪費させられるだけでした。仮に言い返せたとしても、コウシくんはああ言えばこう言うだろう、という長い水掛け論が想像上で繰り広げられるのです。気付けば自分で自分を疲れさせているのでした。
ケンくんはこのごろひとりでいる時も、頭の中でそんな考え事が行ったり来たり、生まれたり消えたりします。お母さんにお願いして胸ポケットの無い服を買ってもらいましたが、いつの間にやら胸ポケットが生えてくるように付いていて、中には小さなコウシくんがいるのです。
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