道後温泉の父と。
宮藤才
第1話
「行ってきます」
キッチンから出て、振り返る。母はちらともこちらを見ない。「今日はやっぱり行かないよね? 明日にする?」。
母の返事は決まって溜息だ。
分かってはいるけれど、メゲるはメゲる。
母は昔から、一度機嫌を損ねると一ヶ月でも二ヶ月でも口をきいてくれなくなる。「先に謝っちゃえばいいんだよ」なんてことも言われたが、何しろ何のことで怒っているのかすら分からない。謝りようが無い。「些細な行き違い」というものは、漠然と察するレベルで謝ったところで、ろくな事にはならないのだ。
思い切って理由を聞いてみた事もあったが、案の定話がこじれた。教えてもらえない。謝りどころが無いと言うのは結局のところ「許さない」という追い詰めだ。父が離婚に踏み切ったのもそんなところに理由があるのだろうと、一人納得したりもした。
だが今回は話が違う。心当たりがあった。それでも僕は、意識不明患者に呼びかけるように、日常いつもと変わらず母に挨拶をし、一緒に食事をして、テレビを見ながらクイズの答えを母に振ったりした。
「あの日の夜」を境に、母との関係は決定的に変わってしまった。
あの頃、僕の我慢は限界に達していた。
「いい加減にしてくれ! だったら父さんと行けば良かった!」
と、言いたいところだったけど、実際は、
「ちょっと、友達の家に遊びに行ってくる」
とやんわり家を出た。終電を乗り継いで、今は内子町に住む父さんの家に行った。そりゃあ、母といくら紛争状態だからといって、父を引き合いに出すのは母の面子に関わる。可哀想に思えた。その程度の気は使う。
そして、父は亡くなった。
朝方僕を車で送った帰り道、高速で居眠り運転のトラックに追突されて死んでしまった。窒息するくらい僕は泣いた。母も泣いたのは、僕からすれば意外だった。
嬉しかった。
その一瞬だけは確かに心が通じた筈なのだが、人の心というのは一度開いてもすぐ閉じると知った。
誰の所為でも無いと分かっていても僕は罪悪感を抱いてしまうし、僕を責める事で母の心が救われるのなら、そうして欲しいとも思う。
そう言った訳で今回の母の沈黙の行には、幾分正当性が含まれている。
以来、母は『沈黙の行』を貫いている。
最後に母と交わした言葉はなんだったかな。
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