第2話

「はあ、しんどい」

 心の奥底から染み出した声に苦笑して、僕は昼日中にも関わらず道後へと足を向けた。

                  

 道後温泉に対する想いは複雑だ。

 僕の誕生日には決まって家族三人で訪れ、湯に浸かり、三階の霊の湯の個室で坊っちゃん団子を食べて、お茶を飲んだ。

 中学を卒業と同時に、両親は離婚した。別れの日に父と二人で入り、帰り道商店街で道後ビールをなめた。

「やっぱりまだ早かったな」

笑って残りを美味そうに飲み干した父を見て、「早くビールの味が分かるようになりたい」と言ったのをよく覚えている。

 以来両親が離婚して三年、近隣に住んでいながら訪れなかった。

 当然一人で来たのも『その時』が初めてだった。よっぽど精神的に追い詰められていたのだろうとニヒルに笑えるようになったのも、神の湯の効能、ではなく、ある人のお陰だ。

         

 湯船の中央「山部赤人」の長歌の書かれた御影石の湯釜、御影石の前に、今日もその人物は浸かっていた。

「学校はいいのか?」

「午後から行くよ」

「無理しないでいいんだぞ。こっちは時間ならいくらでもある」

「一周忌なんだよ? お墓参りに行けないから、せめてさ」

「当人がここにいるのに一周忌とはね」

「大体、父さんが離婚なんてするから、法事がややこしいんだよ。母さんが出席しにくいじゃないか」

「遠慮なく行けばいいのに」

 父さんは実家の墓地に埋葬された。おじいちゃんと一緒のお墓に。

「僕だけ出席出来ないよ。それに母さんが気を悪くする」

「全く。お前は気をまわしすぎだ。苦労するぞ」と笑う父は、生前と変わりない。

 さて。

 死んだ父が道後温泉に平然と浸かっているという光景を見て、最初は悩みすぎて正気を失ったのかとも思った。いや、失礼。言葉のアヤ。理詰めで現実を捻じ曲げるほどの「自我の塊」である僕は残念ながら、何があっても正気を失えそうにない。

 掛け湯をして、湯船の縁に座る。僕が熱いのが苦手だと父なら知っているから「肩まで浸かれ」などとは言わない。そんなことで僕はあっさり父を本物だと受け入れた。それに、どうやらここは「そういう場所」らしい。

「今日は?いつもの二人は?」

「漱石先生とのぼさんは三階の坊っちゃんの間に行ったよ」

 父とここ道後の湯で再会して以来、松山ゆかりの文人達と出会うことも多い。特に漱石先生と正岡子規さんは父のお気に入りだ。

「湯あたりしない?」

「熱さには慣れてる。一度火葬場で焼かれたからな」

「父さんて案外ブラックだよね」

死んでからの方が、父さんのことを理解できるようになったのは皮肉だというと、「親子であれば、それぞれの役割を演じざるをえないからな」などと、暗に母さんの擁護をちょいちょいする。

「僕も自分の役割を果たしているだけだよ」と抗議すると「そうだよなあ、ごめんな」などと殊勝なことを言う。父さんは離婚して以来会えば「母さんを頼むな」と言っていた。それが僕を縛っているのではと心配してくれているようだ。

「そうだな……母さんは相変わらずか?」

「喋らないね、かれこれ一年。父さんが亡くなってからはジェスチュアすら返してくれない」

「そりゃあ……辛いだろう?」

「慣れたよ。今始まったことじゃないしね」

「そんなこと慣れないでいい」

 慰めに感謝して、僕は立ち上がった「もう行くよ」。

 幽霊の父と浸かっていたら、いくら半身浴でも湯あたりしてしまう。

「無理するなよ」と言う言葉を背に、僕は湯船を出た。

         

                        【つづく】

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