君と今日もキスをする
紫鳥コウ
君と今日もキスをする
息が白い。夕暮れのなかを雪が走りそうな予感がする。斜め下に眼をやると、ランタンのように明かりが灯っている。光が宿っているのは、あとはこの教室だけかもしれない。
ぎゅっと
机の上に伏せておいた日本史の教科書の余白は、シャープペンシルの芯から吐き出た文字でいっぱいになっている。テスト範囲のおさらいは終わってしまった。日本史だけではなく、すべての教科で満点を取る自信がある。
そのとき、美術室の灯りが消えた気配がした。
右手で黒板を抑えると、
先輩は目を瞑る。ずっと寒いところにいた僕たちの唇は、どちらも冷たかった。
それでもだんだんと、熱が集まってきた。先輩の手は僕の背中にまわっていて、離れたくないという気持ちを織り成しているようだった。
毎日こうしているから、この状況を当然のように受け入れてしまっている。
キスもうまくなったのではないだろうか。舌はいれないこと。これだけは約束事になっている。
先輩にとって、そこは越えられない一線なのだろう。そのかわり、どれくらいの時間をかけてもいいというのが、暗黙の了解としてある。
ところどころ絵の具がこびりついている体操服から、制服へと着替えるあいだ、見張り役として、うす暗い廊下で、教室から
指で唇に触れてみる。先輩の唇の感触と似たような弾力を探してみる。しかし、それはどこにもない。
先輩を傷つけないようにと綺麗に切りそろえた爪に、チョークの粉のようなものがついているのが、
「じゃあ、わたしは帰るから」
教室のドアが開いたかと思うと、先輩はこちらに視線をやることもなく、まだ明かりがついている階段の方へと去っていった。
黒の制服も、
チョークの粉も、絵の具も、体操服に付くのならば気にならないと先輩は言う。指を
その夏の滝のような黒髪が、黒板に押さえつけられることへの抵抗はないのだろうか。先輩はこうしていつも、黒板を背にして僕を見上げる形にしたがる。そうなるように、なにも言わずに誘導する。
「卒業製作は順調に進んでいますか?」
「もうすぐテスト期間だけど、わたしは毎日夕方まで、美術室にいるから」
音無先輩は推薦で芸大に行くことが決まっているらしく、あとは課題の卒業製作さえ提出すればいいらしい。
「着替えるから出ていって」
リュックのなかから、制服を取り出しはじめる。
人の気配のない冬の夜の廊下で、白い息を吐きながら、先輩が着替えている教室を守る。
中庭は静けさの上に寂しさを重ねて、春には咲き誇る桜の樹を黙らせてしまっている。雪曇りの空は、明日もうす暗い朝を用意することだろう。
来週の月曜日から期末テストで、答案が返されてしまえば、短い冬休みに入っていく。
今日も体操服を着た先輩が姿を見せた。ひさしぶりだった綺麗な夕焼けは、うす曇りの夜に追い払われてしまい、ちらちらと雪が舞いはじめていた。
「着替え終わるのを待ってますね」
ぼくはさっさと教室を出ていく。
「ちょっと待って」
「はやく着替えてください。教室も寒いですけど、廊下ってもっと寒いんですよ」
「まだ、その……してないんだけど」
「今日は、する気になれないんです」
カーテンを閉めた窓の近くで、畳まれた制服を取り出す先輩を横目に、ぼくはもう一度、教室のドアを閉めた。
「行きましょうか、先輩」
さっさと帰ろうとする音無先輩に手を差しだす。
先輩は立ち止まったまま、ぼくの眼の奥にあるなにかを探り当てようとしているらしかった。そして
と思うと、教室の電気が消えて、あたりはなにも見えなくなってしまった。
「僕たちって、ほんとうに不器用だなって思います」
暗がりのなかからくっきりと、先輩の声が聞こえてくる。
「あと三カ月くらいで、おしまいになるけど」
「夏や秋のような三カ月にしましょうよ。冬にはじまって、春に終わるんですから」
階段の方へと歩き出そうとする僕の手が引っぱられた。胸のあたりに熱のこもった吐息を感じる。
「まだ……明かりのなかでしていい顔が分からないから」
僕は、そっと先輩の背中に手をまわして、しっかりと抱き寄せた。不思議と、朝の日差しに包まれているような気がしていた。
〈了〉
君と今日もキスをする 紫鳥コウ @Smilitary
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