君と今日もキスをする

紫鳥コウ

君と今日もキスをする

 息が白い。夕暮れのなかを雪が走りそうな予感がする。斜め下に眼をやると、ランタンのように明かりが灯っている。光が宿っているのは、あとはこの教室だけかもしれない。

 暮色ぼしょくは深まり夜にまれていく。「あったか~い」コーヒーももう冷え切っている。ストーブの熱はすでにどこかへ行ってしまった。

 ぎゅっとつむって、パッと開くと、眼はじんじんとした。深呼吸をすると、肺がちくちくと痛む。

 机の上に伏せておいた日本史の教科書の余白は、シャープペンシルの芯から吐き出た文字でいっぱいになっている。テスト範囲のおさらいは終わってしまった。日本史だけではなく、すべての教科で満点を取る自信がある。

 そのとき、美術室の灯りが消えた気配がした。


 右手で黒板を抑えると、音無おとなし先輩の上に僕の影が落ちた。うつむいている顔をぐいと持ち上げると、潤んだ目のなかに僕が映った。

 先輩は目を瞑る。ずっと寒いところにいた僕たちの唇は、どちらも冷たかった。

 それでもだんだんと、熱が集まってきた。先輩の手は僕の背中にまわっていて、離れたくないという気持ちを織り成しているようだった。

 毎日こうしているから、この状況を当然のように受け入れてしまっている。

 キスもうまくなったのではないだろうか。舌はいれないこと。これだけは約束事になっている。

 先輩にとって、そこは越えられない一線なのだろう。そのかわり、どれくらいの時間をかけてもいいというのが、暗黙の了解としてある。

 ところどころ絵の具がこびりついている体操服から、制服へと着替えるあいだ、見張り役として、うす暗い廊下で、教室かられる明かりを背にたたずむのも、もう習慣になった。

 指で唇に触れてみる。先輩の唇の感触と似たような弾力を探してみる。しかし、それはどこにもない。

 先輩を傷つけないようにと綺麗に切りそろえた爪に、チョークの粉のようなものがついているのが、心許こころもとない明かりのなかでも分かった。

「じゃあ、わたしは帰るから」

 教室のドアが開いたかと思うと、先輩はこちらに視線をやることもなく、まだ明かりがついている階段の方へと去っていった。

 黒の制服も、うるしのようなロングヘアも、光源があれば長く伸びているはずの影も、暗がりのなかに沈みこんでいる。冷たい静寂が漂うなか、階段を降りていく先輩の足音だけが響いている。


 そでからちょこんと出ていた手を取って、指を滑り込ませていく。

 チョークの粉も、絵の具も、体操服に付くのならば気にならないと先輩は言う。指をからませ合いながらキスをするときは、自然と、唇を強く求めてしまう。

 その夏の滝のような黒髪が、黒板に押さえつけられることへの抵抗はないのだろうか。先輩はこうしていつも、黒板を背にして僕を見上げる形にしたがる。そうなるように、なにも言わずに誘導する。

「卒業製作は順調に進んでいますか?」

「もうすぐテスト期間だけど、わたしは毎日夕方まで、美術室にいるから」

 音無先輩は推薦で芸大に行くことが決まっているらしく、あとは課題の卒業製作さえ提出すればいいらしい。

「着替えるから出ていって」

 リュックのなかから、制服を取り出しはじめる。

 人の気配のない冬の夜の廊下で、白い息を吐きながら、先輩が着替えている教室を守る。

 中庭は静けさの上に寂しさを重ねて、春には咲き誇る桜の樹を黙らせてしまっている。雪曇りの空は、明日もうす暗い朝を用意することだろう。


 来週の月曜日から期末テストで、答案が返されてしまえば、短い冬休みに入っていく。

 今日も体操服を着た先輩が姿を見せた。ひさしぶりだった綺麗な夕焼けは、うす曇りの夜に追い払われてしまい、ちらちらと雪が舞いはじめていた。

「着替え終わるのを待ってますね」

 ぼくはさっさと教室を出ていく。

「ちょっと待って」

「はやく着替えてください。教室も寒いですけど、廊下ってもっと寒いんですよ」

「まだ、その……してないんだけど」

「今日は、する気になれないんです」

 カーテンを閉めた窓の近くで、畳まれた制服を取り出す先輩を横目に、ぼくはもう一度、教室のドアを閉めた。

 目下もっかにあるはずの中庭は、静けさと寂しさのなかに沈んでしまって、まったくの暗闇に覆われている。音をたてるものがひとつもありはしなかった。

「行きましょうか、先輩」

 さっさと帰ろうとする音無先輩に手を差しだす。

 先輩は立ち止まったまま、ぼくの眼の奥にあるなにかを探り当てようとしているらしかった。そしてほのかに笑みをみせてくれた。

 と思うと、教室の電気が消えて、あたりはなにも見えなくなってしまった。

「僕たちって、ほんとうに不器用だなって思います」

 暗がりのなかからくっきりと、先輩の声が聞こえてくる。

「あと三カ月くらいで、おしまいになるけど」

「夏や秋のような三カ月にしましょうよ。冬にはじまって、春に終わるんですから」

 階段の方へと歩き出そうとする僕の手が引っぱられた。胸のあたりに熱のこもった吐息を感じる。

「まだ……明かりのなかでしていい顔が分からないから」

 僕は、そっと先輩の背中に手をまわして、しっかりと抱き寄せた。不思議と、朝の日差しに包まれているような気がしていた。



 〈了〉

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