第5話
5章 “過去のわたし”
「赤いポストって何処から聞いたの?」
「忘れた。なんで?」
「気になって。誰か見た人はいるの?」
「エリは見たって言ってたような気がする」
「エリって誰?」
「新聞部。学校であったら聞いとく」
「ありがとう」
簡潔で分かりやすい。ミツキから送られてくるLINEに絵文字も顔文字も付いたことはない。そもそもLINEをする仲でもなかったが、藍堂のことをきっかけに、やり取りが多くなった。だが、もうその必要も無くなった。
退院後、普通の生活に戻った。ばあちゃんは相変わらずテレビに向かって相槌をして、ヒグチさんも相変わらず帽子とマスクをしている。
ケンジもようやくLINEに既読がついた。もう彼女なんて作らないと言っていたが、おそらく1ヶ月後には忘れるだろう。
そして数日が過ぎた。
あれからミツキからのLINEはない。こちらから追いLINEしても既読がつかない。
「...」
ケンジの一件で、この手の不安は居ても立っても居られなくなっていた。
直接家に行ってもいいが、仲のいい福野ミカに話をすることにした。正直彼女には近寄り難い雰囲気がある。常に帽子を被っている、不思議ちゃんな一面もある変わった女子。だがあのミツキが大口開けて笑う相手は、彼女を除いて見たことがない。彼女も確か藍堂と仲が良かったはずだが、今日は1人らしい。
「福野。少しいいか?」
昼休み、知らない仲ではないが1人でご飯を食べている彼女には、いつも以上に話しかけ辛い何かがあった。
体をよじらせて背中を見せる。具合でも悪いのか?俺はそう思い声をかけたのだが、彼女の返答はただ一言「なに?」と鋭い言葉だけだった。
「...ミツキのことなんだけどさ。あいつと連絡取り合ってる?」
「知らない」
「...何か言ってなかったか?」
「だから知らない」
正直怖かった。出直そうとすると彼女から「待って!」と止められる。ミツキのことは心配だけど、福野とはあまり話したいとは思えなかった。
でも、話しているうちに、彼女は彼女なりにミツキを心配している節があった。だからミツキの過去を勝手に話してしまった。後で怒られるかもしれないが、福野が他のやつに言いふらすとも思えない。それにミツキも福野相手だったら話しているだろうと、そう思った。
そしてミツキのことは福野曰く、今はそっとしといてあげて欲しいとのことだった。福野自身ミツキと話せていないらしく、どうすればいいのか悩んでいるみたいだ。なので俺が「家に行こうと思うけど着いてくるか?」というと福野は「水野はハーゲンダッツ2人分買ってきて。私が渡してくるから」と言った。「2人分?」と聞き返すと、「私の分も」と、さも当たり前のように言ってみせた。
なんとなくミツキが好いている理由がわかった気がした。
だがその福野も次の日には休んだ。
ミツキからのLINEはあったが、「ごめん」と。彼女らは彼女らで何かしらの問題を抱えているようだった。
ただどうしたものか、手掛かりとなるものが何もない。エリという新聞部とも話はしたが有益な情報という情報は何も得られず、俺は途方に暮れていた。いっそこのまま分からないことにしておけば、とも考えなくはないが、いずれ解決することを先延ばしにしたところで仕方がない。ともなれば、赤いポストで唯一分かっている、ミツキとの会話で聞いた赤いポストの目撃時の話。
“夜の行き慣れた道で、目の端にある赤い物体”
「また、探してみるか」
以前の同じように探すしかない。願い事はもう叶えてもらう必要はないけど、今回は出会えるのだろうか。
西陽が差し込む教室で何もせず、じっと時間を潰す。
確か昨日もこれぐらいの時間だった。坂出ハルと対話したあの放課後、実はあまり覚えていない。そして時雨病院のことも、テレビでは若い男女の遺体の報道がされていたが、結局のところ昨日のことは何も思い出せない。ただ、身体中を誰かの両の手を突っ込まれ、掻き回されているような感覚だけが、今も鮮明に思い出す。掻き回す中でしっかりと臓物を握ってくるあの感覚。目を瞑るたびに吐き気がする。何か毒でも飲まされたのか、あるいは吸わされたか。でもケンジはなんともないらしいし、ヒグチさんも特に何も言っていなかった。俺の精神的な問題なのだろう。
もう坂出ハルの顔すら思い出せない。
イノワ...「おい、イノワ」
不意に呼ばれる名前に体が大きく反応する。
突っ伏している形から飛び上がったその姿に、声をかけた本人ですら驚いていた。
「すまん、寝てたか。でもそんなに驚かなくてもいいだろ..」
「..あぁ、ごめん」
クラスの友達のノリヒロだ。部活が終わって忘れ物を取りに来たのだろうか、廊下には彼女らしき人が教室を覗いて待っている。
「こんな時間まで何やってんだよ、病み上がりなんだから、早く帰ったほうがいいんじゃねーか?」
「あぁ、うん。ちょっと用事があってな。待ってたんだ」
そいうと廊下にいる彼女が「もしかして藍堂さん待ってるとか?」と揶揄うように言った。
「確か藍堂さんも隣の教室にいたし、今日一緒に帰るとか?」
「...」
「おい、やめろって。悪りぃな、邪魔して。そろそろ暗くなるし、早く帰っとけよ。最近物騒だからな」
ノリヒロは廊下の彼女の手を引っ張って連れて行く。
「お前、そいうところ直せって言ってるじゃん。感じ悪いからな」
「えぇ〜、でもそいうことじゃん。気になっちゃったんだし、聞いてもよくない?」
「人のことにずかずか土足で入るようなことは、やめろって言ってるんだよ」
人がいない廊下はよく響く。ノリヒロは責任感が強く友達思いのいい奴だ。
だけどノリヒロが気にしてことよりも、俺は彼女が言っていたことの方が気になった。
「...藍堂、まだ学校にいるんだ..」
フラれたばかりだというのに、未だ彼女の影を追う。忘れたくても同じ学校に通う中で、嫌でも目に入る。
「...」
「...」
「...誰待ってるんだろ..」
藍堂のことで頭が埋め尽くされる。何をどうすれば、彼女は振り向いてくれるのかを考えるのもどこか心が躍る。何をしても、何処にいても彼女が隣にさえ居てくれれば、俺は...
「あぁ、くっそ..!」
居ても立っても居られない俺は学校から離れることにした。どっかの公園で時間を潰して夜を待てばいい。学校に居座ることはなかったんだ。こんなところにいたって仕方がない。早くここから...
「水野くん」
「...あっ..」
教室を出ようとしたその時、夜空を流れる星々のように長く輝く美しい黒髪と、優しさと温かさが溢れてくる、見るだけで心がほっと安らぐようなタレ目が、こちらを見つめる。
あり得ない状況で、夢にまで見た構図で、そして藍堂は俺の名前を呼んだ。鼓動が今までにない速さで波打つように高鳴る。
「今さ、クロイさんが水野くんのこと教えてくれてね。ちょっと話でも出来たらなーって」
あぁ.. 澄み切った湖畔に響くハープの音色のような、心を解きほぐす声に思考が止まる。
「水野くん..?もう帰るところだった?」
「あ、いや!全然!あっ。帰るところだけど、まだ帰らないっていうか、全然話すのは大丈夫っていうか..」
通話では思いの丈を詠ったが、目の前にすると普通の言葉ですら喉に詰まる。それでも藍堂は笑わずに俺の言葉を待ってくれている。その瞳に俺は好きになってしまったんだ。
「話って昨日の告白のこと..?」
散々パニックになったおかげか、徐々に落ち着きを取り戻す。
「うん、それもあるかな。他にも水野くんとは色々と話したいと思ってたんだよね。私、水野くんのことあまり知らないから..だから、ちゃんと知りたくて..」
体内の細胞一つ一つが踊り出すような、何もかもが輝いて見えた。あの藍堂が、俺のことを..あぁ..まるで夢の中にいるようだった。
「歩きながら話す?それとも教室で話す?」
迷わず教室を選んだ。迷いはない。今の俺は歩けない。
俺は自分の席に座って、藍堂は福野の椅子を俺の席のところまで持ってきて座った。わざわざそんな事しなくてもとも思ったが、藍堂らしさと思えばそれもいい。
「えっと..その、昨日はごめんね」
俺の机を挟んで藍堂が言う。ここまで近い距離で話したことはない。本当に息が詰まりそうだ。
「なんて言うかさ、ちょっとよく分かんなくて..えっと、難しい言葉ばかりで。水野くんが私のことを好きって思ってることは伝わったから、今その思いはないって断っちゃったけど、水野くんのこと何も知らないくせに、断るのって失礼だなって..
だから昨日言ってた、慈眉善目?と濡れ羽色..?の意味は調べたから分かったんだけど..他の言葉はちょっと聞き取れなくて、今また聞かせてもらってもいい..?」
「...」
顔から火が吹きそうとは、まさにこのことなのか。俺が思う藍堂を伝えたかったのだが、一切伝わってすらいなかった。それどころか今それらの説明をしろと..?
これは聞く人によっては、ちょっとしたイジメとも捉えてもおかしくはない。だが彼女は違う。これは彼女なりの歩みより。ならば説明せざるを得ない。そしてもう一度、詠えるのなら詠いたい。
「濡れ羽色の髪は、宵闇の如く深遠な美を纏い、月の光を浴びて神秘の輝きを放つ。
君が微笑を浮かべるその瞬間、私の鼓動は加速し、言葉を喪失する。君の瞳は清冽な星影のように煌き、その一瞥は私を慈眉善目にさせる。
君の紡ぎ出す一語一句が、私の内なる世界を彩り豊かに染め上げる。
君の存在は私の光源であり、君の傍にいるだけで、この世は燦然たる光に包まれる。君を護り、永遠に愛し続けたい。私の心魂は君に捧げられ、君と共に歩む未来を切に願っている。
愛しき君よ、我が魂のすべてを、君に捧げんとする」
黄金色の輝きに包まれる中で、藍堂はその目をぱっちりと見開き俺を凝視する。
「..えっと...。なんか、ごめん」
大人しく腰を下ろすが、彼女の目の輝きは消えていなかった。それどころか「やっぱ通話で聴くよりも、直接言ってくれる方が嬉しいね..」とはにかんで俯く。
「イノワくんの、私への想いだよね?」
「...うん。そう、俺の気持ちだ」
「そっか。イノワくんの気持ちか。ありがと」
夕焼けに染まるその笑顔に、ただただ心奪われて堕ちていく。
夢の中を漂うような静寂に19時を知らせるチャイムが鳴り響く。
「そろそろ学校出よっか」
「そうだね」
校内を2人で歩く。彼女に合わせる足並みはいつものテンポより若干遅く、歩きずらい。だけど今はそれすら愛おしい。
「イノワくん。まだ時間ある?」
彼女が言った。
校門の前の別れ道、このまま帰ってもよかった。思いの丈を詠い、好きな人に喜んでもらった。その返事はまだ聞いていないが、でもそれでもよかった。俺のことを避けずに、また話が出来るのが何よりも嬉しかったから。
「うん、もちろんだよ」
でも、それ以上に藍堂が俺に歩み寄ってくれているこの感じが、どんなことよりも嬉しかった。恋人にはなれないかもしれないけど、友達以上にはなれるかもしれない。そう思った。またこうやって2人並んで話せるのだと。それでいいじゃないか。恋人でなくても藍堂は笑ってくれる。好きな人じゃなくても藍堂はそばにいてくれる。友達でもいい。そうじゃなくなった時の方が俺にとっては辛いのだ。
四つ葉公園のベンチに腰を掛け、学校から少し歩いてきたばかりの静けさの中で、俺は藍堂と向き合う。彼女は時折、微笑みの中に驚きの表情を見せ、その顔には「なるほど」とか「すごい」という感嘆が浮かぶ。俺の詠は確かに彼女に届いている。だが、それはまるで珍しい動物を見つめるような興味本位のものであり、愛情ではないことがわかる。ほんの数時間、それでも藍堂はこの瞬間だけでも俺を見てくれていたんだ。
夕日が沈み、公園の街灯が灯り始めた頃、沈黙の中で藍堂がぽつりと話し始める。
「ねぇ。水野くん」
彼女の声はどこか切なげだった。
「私さ。友達と話せないでいるの。喧嘩したわけではないから、なんで彼女が話を聞いてくれないのか分からないの」
「会ってみた?」
「...それっきり会えてないの。ミカに話そうとしても、ミカも避けてるようで、自分の思いに不安になる..」
「..不安?」
「私のせいで2人が避けているんじゃないかって。私の思いが2人を不安にさせて距離を置いているのかもしれないって」
「...」
「でもね、今日水野くんと話せて、それは違うって分かったの。
水野くんは私のために詩を作って、私のために読んでくれた。それは私のことが好きだから。水野くんの思いは好意は、私全然嫌な気分にも不安な気持ちにもならなかったの」
「...」
「だからね。伝え方がいけなかったんだって」
「えっと..あい..」
「水野くん」
彼女は俺の言葉に被せる。
「水野くんは好きな気持ちを詩にする。でも私は、好きな気持ちを一つにしたいの。私と、例えば水野くんと一つになりたい」
そう言うと彼女は俺の目の前に立って、顔を近づける。それはもうキスをしてしまう距離まで。そして彼女の吐息を感じながら、彼女の最も深い思いを聞いた。
「水野くんは、好きな人に食べられるとしたら嬉しい..?」
その質問の意味は分からなかった。緊張でも興奮でもない胸の鼓動が、一切の思考を停止する。
「ごめん...よく..分からない....」
どう答えるべきなのか、なんて言って寄り添うべきなのか。
「なら、私が今、水野くんを食べたら、うれしい?」
「...わかんない...わかんない」
藍堂は俺の手を握り、優しく唇と唇を重ねた。
「..水野くん..」
そう名前を呼ぶと、また唇を重ねる。
太ももに彼女の重みを感じながら、ただ身動きが取れないまま、やられるがまま、彼女の舌が俺の口の中でねっとりと動く。
彼女が何をしたいのか、先程の話の繋がりは、好きでもない相手になんで、彼女の答えは。
なにも、もうなにもかもがどうでもいい。藍堂フミは今俺だけを見ている。それでもういい。
「イノワ君!」
夢の中を彷徨うような浮遊感に身を任せ、暗い闇の中へ誘われる途中、小さな小石に躓いた。ふと目を覚ますとそこには、ヒグチさんがいた。どうやら家まで運んでくれたらしい。
「大丈夫か?」そう言われたので頷く。「自分で抑えられるか?」と、口元に指を刺すジェスチャーと共に、持っていたハンカチを手渡される。おぼろげながら映るそのハンカチには今付着したのであろう、真っ赤な血が一面に広がっていた。制服のズボンに垂れる血を見て、この血は自分の血であることを理解する。ヒグチさんは今まで俺の口元を押さえていてくれていた。
何があったのか、深刻そう話しかけるヒグチを横目に、まるで他人事のように水野イノワは藍堂フミをことを考えていた。
舌先に違和感を覚えながら、自分の中の思い巡る感情が、口から流れ出るこの血のように溢れ溢れる。
彼の中で何かが芽生える。
ミツキはずっと泣いていた。
私も思わず泣いていた。ミツキのお母さんも、納棺師さえも。
涙を抑えていたわけじゃない。でもミケが火葬される最後の姿を見た時、抑えようのない涙が溢れた。最後の別れ。その言葉が深々と胸に突き刺さる。そして言葉にならない思いが、白い小さな骨が、真っ白な器に納められていく。
「ミカ、今日は本当にありがとう」
車内では一切喋らなかったミツキが、私の家の前に着いた時、泣きながら口を開く。「私の方こそ、一緒に行かせてくれてありがとう」そいうと、彼女は持っていた変わり果てたミケの骨箱を強く抱きしめる。
「また落ち着いたらLINEして」
どう言葉をかけるべきか、最近ずっと考えている。
「...ありがとうね..」
小さく、か細く、消えてしまいそうな声で、彼女はこの場を後にする。徐々に小さくなっていく彼女を乗せた車に、どうしようもない消失感が襲う。まるで家族を失ってしまったような、辛く、切ない気持ちが押し寄せる。
もう今日は適当なもので済ませよう。こんな時でもお腹が空く。昨日作った残り物、足りなければそうめんでも。そう思いながら階段を上がる。その途中、スマホにLINEの通知が届く。送り主はフミだった。
長々と送られてきた内容は、要約すれば、今日泊まりに行きたい。という内容だった。
「えぇ..」
声が思わず漏れる。ミツキの件で、という意味だろうが、流石に今日は無理。彼女らの仲を取り繕うほど、今の私にはそんな余裕はない。
「ごめん、明日でもいい?」そうLINEすると、既読がすぐに付いた。そして、「なら話だけでもさせて」と一呼吸おかずに送られる。彼女も不安に思っているのだろうか、自分の部屋の階に着き、家の中に入る。「いいよ、今から通話する?」と送ると既読はすぐにはつかなかったが、インターホンが家中に鳴り響く。
「...えっ..」
思わず体が反応する。入ってまだ数秒も経たずして押されるインターフォン。その意味を考える余地はなかった。
「ミカ。あけて」
ドアノブがゆっくり動くそれを見て、思わず鍵を閉める。
「なんで鍵閉めるの?」
扉の向こうから聞こえてくる声には聞き覚えがあったが、鍵を開ける気にはなれない。いや聞き覚えがあるからこそ、開けようとは思えなかった。
「フミ..?」
「うん。ごめんねいきなり。でも話だけさせて」
柔らかい声。間違いなくフミの声だ。だが思考が追いつかない。今開けていいものなの?彼女の突拍子のない行動に、そしてミツキに送った内容に少なくとも私は恐怖心を抱いていた。
「開けてくれないの..?」
そんな声に罪悪感を感じるが、扉の前で固まる私の手は動かない。
「...」
「私、ずっと謝りたくて」
フミは少し間を置くと、扉の向こうから話し始める。
「私ね、ミカと出会ってからすごく楽しかった。毎日が新しい色に染まっていって、何でもない日でも特別な日になるの。どんなに嫌なことがあってもミカが笑ってくれるだけで、それだけですごく幸せだった。
ミカの存在は私の心を明るく照らしてくれる。
だから、ミカ。私ね。
ミカのことが好き。ミカの笑顔を見ていたい。ミカをもっと近くで見てたい。私にはミカが好きなの..
他の誰でもない、ミカが好き。
だから、ミツキのことで、あの言葉で不安にさせちゃったのなら謝るから、だからもう、私を避けないで..」
「...フミ..」
「..ごめんね、本当に..」
最近は本当にどんな言葉をかけるべきなのか、悩むことばかりだ。フミは昔からどこか抜けている所があった。そのことで喧嘩になったことも。その時も同じく、フミが滲ませる声で謝っていたんだっけ。今回のは正直、ミツキが許してくれるかどうかだけど、このまま追い返す訳にも行かない。
私は鍵を開けた。そこには泣き崩れるフミの姿があった。
「ミカ..」
「もう大丈夫だから、私の方こそ避けるようなことしてごめんね」
「ミカ..!」
まるで子供のように飛びつくフミに驚くも、今まで警戒していた恐怖心は彼女を見た瞬間に消え去っていた。
「ちょっとフミ、大丈夫?」
そのあまりにも強く抱きしめる抱擁に、今まで彼女がどんな思いでいたのかを理解する。が、その中で匂う違和感に私は顔を歪ませた。今まで嗅いだことのない、何とも言い難い匂い。本当にフミから?もしかして私の家から?そんな疑問を思いつつも、抱きしめる中で彼女に顔を近づける。間違いなく、フミ自身から匂うものだった。
「フミ...。ちょっと、離れて...」
彼女を離そうとするも、未だその力は緩めない。おとなしい見た目をしているが、彼女は運動部。私よりも力があってもおかしくはない。
開けた扉がゆっくりと閉まる。そして押し倒されるようにして態勢が崩れ、フミの下敷きになった。その時に明かりのスイッチを押してしまったのだろうか、部屋の中は静寂と暗闇に包まれる。
「ミカ...ミカは、私のこと、すき?」
目が慣れない暗闇の中で、彼女の吐息と声が聞こえる。目の前にいるはずなのにまだ姿が見えない。
「フミ..ちょっと、どいて」
必死に抵抗するも両の腕を抑えられ、狭い玄関でうまく身動きが取れない。段々と目が慣れてくる中で彼女の、恍惚感満ちる表情が浮かび上がる。
「ミカ..は、私のこと..すき?」
「なに言ってるの?早くどいて!」
「私はね、ミカのこと大好き...ずっとずっと大好きだったの..」
「フミ..お願いだから、どいて..」
「私ね、小さい時うさぎを飼ってたの。でもおじいちゃんがその子を殺して夕飯に出してくれた。私は怖かったけど、そのあまりにも美味しそうな匂いに、食欲が抑えられなかった。その時の味は今でも忘れられない...
ずっとミカはいい匂いだなって、思ってたんだ...」
言葉を失う福野。藍堂はそんな福野の表情を見ながら顔を耳元に近づけて言う。
「だからね、ミカ...お願い。お願いだから、痛くしないから、優しくするから...耳だけ..耳だけ食べさせてぇ...」
「いたっ、いたい、痛いよ!」
「痛くしないから..痛くしないから!お願いだから、すぐ終わるから..!」
「フミ!!やめて!やめてっ!!」
「ミカ〜!ミカ!ミカ、ミカ、ミカミカミカ!...大好き..」
今にも泣きそうな声に、笑顔を浮かばせながら、藍堂は福野の耳を噛みちぎる。
福野はあまりにも強烈な痛みに悶えるも、その手が離れることはない。
「どいて!!」
声を荒上げ、何とか動く足で藍堂を引き離そうとするが、更に体を密着させられ、福野の力ではどうすることも出来ない。その必死な抵抗の中で藍堂は音を立てながら、ゆっくりそれを食べている。
「ミカの耳...すっごく..美味しい...」
「フミ..もう離して...もうやめて..」
「泣かないで、ミカも、ミカも食べていいから..私を食べていいから..ね?」
「助けて!!誰か!誰か助けて!!!」
叫ぶ中、藍堂は唇を重ねる。そしてその口の中にあった福野の耳を、福野の口の中へ押し込む。
この異常、この奇怪、この残酷な目の前の現実に、福野ミカは叫ぶことさえも出来ず、ただ口の中で自身の耳の感触を味わう。
身も悶える絶望の中、気を失いかける最中に、玄関の扉が開く。
「ミカ!!」
その声に応えることは出来なかったが、その声の主はこの狂気じみた現状を、普通ではないこの状況に、元凶である覆い被さる藍堂を引き離す。
「ミカ、ミカ?うっそ、なんで..」
突きつけられる現実に理解が追いつかない。だがここにいては危ない。そう判断すると、朦朧とする彼女を背負い、階段を駆け下りる。途中福野は口の中に押し込まれた自身の耳を吐き出すと、泣きながら、
「ミツキ...ありがとう..ありがとうね..」と恐怖に怯える手を抑えながら強く言った。
「大丈夫、大丈夫だから!」
一気に一階まで駆け下り、病院へ行こうと尚、走り出そうとするが、朝喜ミツキは何者かの視線を感じて目を向けた。その先には6階の手すりに立つ、藍堂フミの姿があった。
そして彼女は、福野ミカの名前を呼びながら、地面へ落ちる。
逃げ出すように駆ける朝喜の背中で、福野は確かに聞いた。最後の藍堂フミの声。それは彼女が心の底から望む本心であり、両親が絶対に表には出さないようにと望んだ彼女の言葉。
「ミ...カ.........タ...ベ...テ..」
この事件は瞬く間に広まった。メディアは時雨病院の件と紐付け、一連の事件には藍堂フミが関わっていると報道された。藍堂の両親は娘の死に嘆く暇も与えられず、引っ越しを余儀なくした。
ミカは病院に行く途中に気絶をして、未だ目を覚ましていない。階段の途中で吐き出した福野の耳は、衛生的な面と時間の経過から、再接合は不可能とされ、今ある残った部分の形を整えるに終わる。そして1日が経過した後、彼女はようやく目を覚ました。
真っ白の病室の中で、風に煽られるカーテンが福野の目覚めをお祝いするかのように大きく広がってみせる。
その真っ白の中で、1人の背の高い男がこちらを覗いて、「俺が分かるか?」と、言った。ボヤける視線に福野は枯れる声で「だれ?」と言うと、背の高い男は「覚えていないのならそれでいい」と言って部屋を出て行ってしまった。
その男から香る匂いに、福野は少し昔のことを思い出しながら、また眠った。
数日後、ミカは無事退院をし、ミツキとの再会を果たした。当時の記憶は残っているものの、なぜミツキが来てくれたのか、それを聞いた時、彼女の口から水野イノワの名前が出た。「イノワから突然電話が来てさ。藍堂フミの居場所を知ってるかって」と言うと、福野は驚いたように「水野が?」と答える。「うん、それで知らないって答えたら福野にも連絡してみてくれって。なんか聞こえにくい声だったけどアイツのスマホだったしね。で、ミカに通話しても繋がんなかったから、急いで行ったら叫ぶ声がしってわけ」スマホ、あの時、押し倒された時に玄関に落としてしまっていたらしく、後で渡された時には画面がぐちゃぐちゃだった。
そしてあの時の藍堂に、なぜ彼女がああなったのか。その話は彼女たちの間で話されることはなかった。
日が経つに連れ、その事件のことも皆の記憶から徐々に消えていく。そして赤いポストの噂は一切と聞かなくなったという。
私の味 福ノ太郎 @taro2233
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