第2話 速く走りたい!
私は足が速い。足が速いし、持久力もある。でもあいつはもっと凄い。でもあいつは陸上部にはいない。
天応高校陸上部長距離班にいる私は唯一の女子部員。短距離班には何人かいるけど、長距離班は私以外いない。
ちょっと寂しいけど、そんなことを言っていては私の目標は達成できない。私はもっと速く走りたい。
屈伸をして、アキレス腱を伸ばして、足首を回して、その後軽く30メートルくらいを走る。これを”流し”という。流しは3回やる。これが練習前の私のルーティンだ。そしてちょうど3回流し終わったとき、サングラスをかけた監督が練習場にやってくる。
その監督のもとに選手がぞろぞろと集まる。もちろん私もその一員だ。10人の選手が監督を囲むように集合し、ここで今日の練習メニューが伝えられる。
「お疲れ様。さて、新年度になったわけだが、どうだ。キャプテンの中野」
「はい。強いチームになりそうです」
「ほう。来週から新1年生の見学も始まる。監督としてはもっと選手を増やしたいと思っている。頼んだぞ」
「はい。任せてください」
「頼もしいな。では今日の練習メニューだが……AチームとBチームどちらも10キロ走を行う。ペースは、Aチームが1キロ3分15秒、Bチームが1キロ3分30秒だ。休み明けだが無理はするな。よし、行ってこい」
監督の指示が終わり、私はスタートラインに向かおうとした。しかし監督は私を呼び止めた。
「……緑町! ちょっと待て」
「……はい?」
「悪いが今日はBチームで走れ。監督命令だ」
「え、でも……」
「監督命令だ」
監督の目力は強かった。私は恐れおののいて「はい」と言うしかなかった。いじわるな監督さんだ。
そして監督の合図で一斉にスタート。トントントンと地面を蹴る音が好きだ。土の地面では味わえないような踏み心地だ。
これでも県内一の強豪と言われている天応高校陸上部。もう卒業してしまった先輩は、去年インターハイに出ている。ここで頑張れば私はさくちゃんの夢を叶えられる。そう思ったから私はいまここにいる。
もっと速く、もっと速く。私たちのいるBチームからどんどん差をつけていくAチーム。本当はあっちで走りたい。
きつい練習の方が楽しい。さくちゃんならきっとそう言う。さくちゃんは私の道しるべ。これからもずっと――
私たちBチームは10キロを走り終え、それぞれスポーツドリンクを口に運ぶ。
「緑町、悪かったな」
監督は声をかけてくれるとともに、タオルを手渡してくれた。
「お前は女子だからな。いくら速くても、男子のトップ層と同じ練習を続ければお前の体は壊れる。監督としてそれだけは防がなくてはならない」
「心配無用ですよ。ケガしたって走りますから」
「ダメだ。お前はそんなに強くない。強がってるだけだ」
「……そんなことないです」
本当にいじわるな監督さんだ。私はもっと速く走りたいのに。
俺はやっと待合室から解放される。大学病院と言ったら待ち時間の長さだよな。
「失礼しまーす」
俺は内科の一室に案内される。先生は何度も会った第二の父親のような存在で、今日はいつもに増してニコニコだ。
先生は聴診器をつかって俺の心音を確かめて、確かにうなずいた。
「……うん。先生の診察も今日でいったん終わりになりそうだね。よく頑張ったね、飛鳥君」
「という言うことは……完治ってことでOKですか?」
「完治ではない。再発のリスクはゼロではないということだよ」
「はい。でも走っていいんですよね?」
「うん。走ってもいい。でも異変があったらすぐに来るんだよ」
「それは……分かってます。でも俺は約束を叶えるために走るしかない」
ここから――。ここからだ。俺のリスタート。待っててな、咲良。
「ではこれにて、若宮飛鳥君の治療を完了します。お疲れさまでした」
先生は重たい空気を一蹴するようにたくましい声で言った。
俺は先生と固い握手を交わして、深くお辞儀をしてから診療室を出る。胸に手を当ててみる。確かに俺の心臓は鼓動を続けている。俺は生きている。
「ただいまー。ママごはん!」
「ダメ。先お風呂。それまでご飯は出さないから」
「ママごはん!」
「ダメ。先お風呂」
「えー? 仕方ないなぁ」
ママは綺麗好きだ。汗かいたままご飯は食べさせてくれない。ご飯くらいいいでしょ、お風呂はその後ちゃんと入るから。私はいつも思っている。疲れ果てた体にはまずはエネルギー補給でしょう。
私は制服を洗濯機に放り投げる。浴室のドアを開け、浴槽にダイブ。お風呂は入るまでが面倒だが、一度入ると次は出るのが面倒になる。そう言えばさくちゃんも長風呂だったな。私が出た後もなかなか部屋に戻ってこなかった。私は暇してゲームをしていたんだ。
飛鳥のやつは楽な人生を歩んでやがる。でもあいつは言った。夏までには、と。
私は信じていいのかな。あんな奴の言葉なんて信じて損をするんじゃないか。
「バーカ。裏切り者!」
そう言ってみるも、あいつのことを信じてみたい自分がどこかにいた。さくちゃんの夢は、あいつがいないと叶えられないから。
それから30分くらいは浸かったと思う。私は重たい腰を上げてようやく湯船から出ることができた。
「あっちぃ。まだ春だぞ」
火照った身体を覚ますようにうちわで煽りながらリビングに向かうと、ママは食事を並べているところだった。
「あんたって子は、髪もかわかさないで……」
「いいじゃん、自然乾燥で」
私は「いただきます!」と元気よく言ってカレーライスを頬張った。うん、美味しい!
「芽依、服汚さないようにね。洗濯しても落ちなくなっちゃうから」
「はーい!」
「……なんかいつもより元気ね。何かあったでしょ?」
「え? そうかな……? 記憶にございません」
「芽依を元気にしてくれるのは、咲良と……あとは……うん。なんでもない」
ママは何かを言いかけてやめた。そのまま残った食器を洗いに行った。
カレーって食べると体の芯から熱くなる。私は扇風機の風力を最大にする。
よく分からない。よく分からないけど未来は明るい。自然とそう思えた。
病院から帰ってきて自分の部屋に戻る。勉強机の上には写真立てがあって、そこには咲良と芽依と俺の三人で撮った写真が入っている。もうほとんど覚えていないけど、小さいころに行った遊園地で撮った写真だ。
今見る写真は、またいつもとは違って見える。今までは白黒に見えていたが、今はちゃんとカラーで見える。そんな風に思う。
その写真に写る俺たちは笑っている。心の底から笑っている。
あの日から、俺たちは心の底から笑っていないだろう。でも笑いたいと思っている。もし笑うことができる日が来るとしたらそれは、俺の我慢と芽依の努力が報われたということなのかもしれない。
夢。それが手に届きそうな場所にある。だから今、ここから――。
外してよ、桜色のシュシュ。 @sukopet
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