第5話

 そこに、ひたひた、ひたひた、という音が聞こえてきたのは、水槽を順番に見ていって半分くらいになったときだった。水滴が歩いているような音に、ガイアは周囲を見まわし、ディアナは焦った調子で入り口とは間反対の先にあるドアの一つを開けた。

 そこには、子どもが立っていた。黒い髪、黒い服を着ている細身の子ども。しかし、その全身が濡れそぼっていた。肌に張りついて乱れる前髪の隙間から、橙色と緑色を重ねたような色の光が微かに覗き込んでいる。どうやらそれは双眸らしかったが、深く澱んでいた。その視線に責め立てられている心地がして、ガイアは目を逸らす。

 ディアナは子どもの肩に手を添え、子どもの目線をまっすぐ見るように屈む。指先がわずかに震えていた。

「ポルックス。どうして」

「……ガラスを割って出てきたの」

「だめじゃない。お父さまに見つかったらどうするの」

「いいの。兄ぃにに会えるなら」

 不思議な会話だ。ガイアは横耳を挟みながら聞いていた。このいたいけな子どもは、――ポルックスはガラスにでも閉じ込められていたのか?それを割って抜け出した。兄に会うために。でもそれを、ディアナの父は許さない。ディアナの父は子どもを閉じこめるような者だ。会ったこともないのに、不信感がどんどん募ってゆく。ディアナも、父の行動を咎めはしないのだろうか――?

 突然、ディアナが倒れた。ガイアは糸が切れたように慌てて駆け寄る。彼女の白い肌はより蒼白さが増していて、今にも透明になってしまいそうだ。白銀の睫毛が伏せられ、冷や汗をかいている。子どもはその場にうずくまって、ごめんなさい、と消え入りそうな声で呟いたのが聞こえた。

「ディアナに何をした?」

「やめて、ガイア。私が悪いの」

「そうだ。おまえには一等級は強すぎる」

 地を震わせるように、身体の芯に響く声が部屋中をこだました。子どもは反射的に立ち上がり、踵を返して逃げようとする。それより素早く、大の男が二人立ち塞がった。筋骨隆々の方が転んだ子どもの腰を掴み、持ち上げる。細い方が顔をぞんざいに掴む。ぐしょ濡れの顔が、涙でいっぱいになっていた。

「やめて。やめなさい」

 ディアナが息も絶えそうな声で男たちを睨みつけた。白金色のひかりは鋭く、男たちは渋々といった様子で子どもを地に下ろした。だが、襟首を掴む手は離さなかった。

「いい子だ、ディアナ。疲れたろう。今日はもうおやすみよ」

 地響の声。しかし、今度は妙に軽く、優しい。次の瞬間、ガイアは飛びのいた。二人の間に、いつの間にか大男がディアナの肩を抱くようにして立っていた。甘言を囁く妖蛇のごとく、男はディアナに取りついている。

「ごめんなさい、お父さま」

 今までに聴いたことのない、ディアナの冷たく抑揚のない声。ガイアは血の気が引くのを感じた。これが、この大男がディアナの父親か。想像を絶する恐ろしさだ。ディアナと同じ白銀の長髪には白い毛が所々混じり、豪奢な服装は得体の知れなさを増調させている。背を向けるような形で顔を窺い知ることができなかったが、出たちだけで並々ならぬものを感じさせる。

「でも。ポルックスは許してあげて」

 ディアナの声にわずかに芯が灯る。ガイアの固まった身体がようやく動き出すと、一直線にポルックスの元へ駆け寄った。護衛らしい二人のちぐはぐな大男に槍の切先を向けられながら、ガイアはポルックスの両手を取って顔を覗き込む。お互いの瞳がぶつかる。ガイアは息をのんだ。澱んでいたと思ったポルックスの瞳は、近くで見ると橙色と緑色の煌めきが奥行きまで続いて、うつくしい。吸い込まれそうで、思わず見惚れていた。

 だが、ガイアの手に何かが入り込む。そっと覗き込むと、それはポルックスの瞳の色と似た、不思議な色合いの石だった。両手が影になると、自分から白い光を発する。

 ガイアは改めてポルックスの瞳を見た。橙と緑の斑目は、何かをすがっている。

「これ。この石を、兄さんに渡せばいい。そうだな?」

 ポルックスが答えるのを待たずに、二人は引き離された。細身男にポルックスは取り押さえられ、筋肉男にガイアは引っ張られる。ポルックスは涙を流しながらも、大人しく奥の方へと連れて行かれる。もう、ガイアもディアナの方にも目を向けることはなかった。それでも、最後に目配せした一瞬で、ガイアはその答えを理解していた。

「お前は誰だ」

 またしても、地を震わせる重低音。その次の瞬間には、ガイアは宙を舞っていた。あまりにも突然のことで、しかも放り投げられたような形になったので、ガイアは柱に全身をぶつけて、勢いよく顔から地に落ちた。ガイア、と悲痛で愛おしい声に撫でられて、見上げると目前にディアナの顔があった。彼女の顔はいまだに透明に近い白色で、瞳は潤んでいる。安心させようと笑う暇もなく、口元に生暖かい液体が流れた。塩気と苦味が襲ってくる。

 甲高い靴音と、重々しい衣擦れの音。黒く艶のある切先が目前に近づく。どうやら父親の靴らしい。それで踏みつけんと、品定めをするかのように足を揺すっている。

 ガイアは痛みの残る顔を上げて、父親の顔を見ようとつとめた。しかし、今度は遥か高く、逆行のせいで見えない。それでも、なぜか眉間に皺を寄せたのはわかった。

「こやつ、光がない」

「そう、そうよ。話していたでしょう。彼が地球の星人。ガイアよ」

 足の振動が止まる。途端、父親は巨大な身を屈めて、ガイアの顔を注視した。ガイアの方もやっと、彼の顔を捉えることができた。

 皺が所々に刻まれた白灰色の肌、鷲のような鼻立ち。いつしか風の噂で聞いた、異国の地に住む人々のはなしからイメージしていたような、影が深くできる顔た。そしてなんといっても、やはり瞳に目が行く。黒い目だ。星一つない夜空のようで、吸い込まれるのではなく――強い力で引っ張られそうになる。声と同じく重々しい色だ。

「お前、先の餓鬼の瞳を見てどうだった」

 低い唸り声。なぜか声音を潜めるようにしているためか、がらがらと皺がれて聞こえる。ガイアは答えに迷った。、突き飛ばされてしまうかもしれない。ただの悪い妄想だったが、確信に近いような気がした。

「苦しくはなかったか。強くはなかったか」

 こちらを気遣うような言葉だが、慈しみのかけらもない。むしろ脅されているような心地だ。ガイアはディアナをちらと見る。彼女もまた、彼をまっすぐ見据えていたが、いつになく複雑な表情を浮かべている。ディアナは、ポルックスの瞳をずっと見ていると、苦しくなっていた。彼女はひかりに弱いということをまた思いだす。でも、俺は――

「……強い眼差しだったとは思う、吸い込まれそうなくらい。でも、苦しくはならなかった」

 ガイアは一つ一つ、言葉を選ぶようにして答えた。蚊の鳴くような声だった。しかし、暫しの沈黙の後、父親はふっと笑った。小さな嘲笑でさえも、重々しい空気を震わせるようだった。

「お前に仕事をやる」

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黎明のスターダスト-プロローグ 冠城唯詩 @satellite451

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