第4話
翌日。とはいえ、この世界は不思議なもので朝と夜の区別がなかった。ずっと空は暗く、巨大な白金色の月を中心にして星がその周りに散りばめられている。ずっと夜なのだ。
ガイアがこの地に来訪して、ディアナに様々な話を聴き、そうして彼女が切り上げて、おやすみを言う。それからしばらくして、彼女がまたおはようを言いに来る。外はまだ暗がりであったが、きっと地球でいう朝が来たのだろう。ガイアは素直に寝室から抜け出して身支度をすると、執事らしい男に食卓の間へと案内される。
ディアナの住居は実に広く豪奢だ。混じり気のない白で塗られた壁は神秘的な紋様で飾られ、天井に吊り下がる電飾には透き通った石が煌めいている。遠くまで長く続く純白の道は、しかし驚くことに住居内にあるものなのだ。ガイアが地球にいるときに暮らしていた、洞穴を掘って木や藁で雨風を凌ぐものとはまるで違っていた。
いつか住み慣れたとしても、案内がないと迷ってしまいそうだ。ディアナと朝食を囲みながら冗談めかして言うと、
そういうわけで、ガイアとディアナは今でいう白鷺の城も、幾万も続く長い城も顔負けの城を散歩することになった。
「ここは図書館。たくさん本が置いてあるの。この世界のことも、
天井が果てしなく吹き抜けた大広間に図書館はあった。だが、ガイアは何せ「本」というものに触れるのは初めてだった。壁一面を埋め尽くす色とりどりの板の一つを手に取ってみる。ずっしりとした重みがあり、手触りの良い表面はなぜだか温かみがあった。板はどうやら開くことができるようで、その先には薄い生地が幾重にも重なっている。その生地の表面には、黒いしみのようなものが無数に、規則正しく整列している。どうやら「・」と「―」の羅列のようで、あるきまりに従っているようだが、どうしても詠めない。これは、いわゆる隣国で開発されたいう「文字」というものなのだろうか。文字があれば、自分の言ったことなどを残せるようだが、ガイアはまだ文字というものをよくわかっていなかった。またいつか、読み方をディアナに教えてもらえればいい。
そう思ってはっとして、ガイアは板を元の位置に戻すと、ディアナを探した。彼女は板を物色するように眺めていたが、ガイアが来ると静かに微笑んで図書館をあとにした。思えば、自分はどれほど本を眺めていたのだろうか。また夜になりやしないか。ガイアにはまだ、窓の外を見ても時刻の区別がつかなかった。
城内には実に様々な施設があり、いろいろな品が置いてある。食物を育てる畑、美術品を飾り立てる部屋、遺跡のような年代物が展示されている広間、外の景色がガラス張りで見える浴場、水を張った大海のような湖に飛び跳ねる噴水。
まさに文明を集約させたひとつの世界が広がり、ガイアにはまだ不慣れだった。巨大な白い画面が壁一面を覆う部屋に連れられ、妙にツルツルとした肌の機械人形が飲み物と菓子を、床を滑りながら運んでくる。ガイアは下を俯いたまま飲み物だけ受け取ると、勢いよく口に流し込んだ。だが、爽やかに弾ける音が飲み物から聞こえて、舌を刺激する。思いもよらない痛みに、ガイアは咽せてしまった。
「大丈夫?……ごめんなさい。ちょっと急ぎすぎたわね」
ディアナは近くにいたメイドに、映画は今度にするわ、と告げると、ガイアの背中を優しく摩り始めた。
「すまない。この城はびっくりすることだらけだな。目が回ってしまった」
もう一度、泡が無数に浮かぶ飲み物をあおる。口の中で泡が弾ける音を聞くのは慣れてしまえば面白かった。しばらく二人の間にささやかな沈黙が流れる。だが突然、それを破るように、室内の灯りがすべて消えた。ディアナが癒しを求めるような息遣いで深呼吸をひとつしたのが気配でわかった。ガイアは、彼女が光に弱いということを思い出していた。城内の灯りといえば、今でいう常夜灯ほどのほんのりとした明るさの程度だったが、それでも彼女も、少しずつ消耗していたのだろうか。二人の間に置かれたトレイの上で、飲み物を取る指先が触れ合う。お互いに一瞬戸惑ったが、ガイアは素知らぬふりをして、灯りひとつない真黒の天井を見つめていた。
やがて、黒い空間にぽつぽつと小さなひかりが灯り始めた。それは無規則に、無数に散らばっていく。色も大きさもまばらで、一筋の尾を引きながら彼方へと飛んでいくのもある。まさにガイアが地上で毎晩見ていた、そして昨晩二人きりで見た夜空と同じ光景だ。
二人はしばらく感嘆の声を漏らしながら見ていたが、ディアナはまたいつもの調子でガイアに問いかけた。
「ねぇ、あなたも夜が好き?」
「ああ。月が見えるから」
ちょうど、夜の面を縫って月が昇ってきた。月明かりに照らされたディアナの真白い顔は、赤みを取り戻していた。
「君こそ、星のひかりは大丈夫なのか」
「ええ。あまり見すぎると、昨日みたいになってしまうけれど。――本当に、少しだけなら平気なのよ。なのに、お父さまは――」
言いかけたところで、この部屋で起こったことがそのまま巻き戻るように、星のひかりはぽつぽつと消えていく。もとの一面の黒になると、また部屋の明かりがすべてともった。無機質な明かりに照らされたディアナの俯き顔は、長い髪に隠れて見えない。ガイアもまた言いあぐねていると、ディアナは握りしめていた拳を後ろ手に回して、つとめて明るい声で言った。
「行きましょう、ガイア。ごめんなさいね、最後にどうしても一緒に行きたいところがあって。ついてきてくれる?」
ガイアはああ、とだけ言って彼女についていく。
思えば、ガイアはディアナのことをまだあまりわかっていない。お父様、と消え入りそうな声で言っていたことから、父親はいるのだろうか。けれども、あまりいい関係ではないということか。この広すぎる城で、父親と二人だけ。どんなに心細いことだっただろう。ガイア自身もまた、むらの人々に崇められ、見えない壁をつくられ、夜な夜なひとりで月を眺めていた頃を思い出していた。
ディアナの手招きで入った部屋は、ひっそりと暗かった。しかし、暗い中で真っ青の光が所々目を引く。円柱状の柱が無数に立って連なっているのがわかると、それは一本ずつが水槽だった。青い光に照らされたそれらは、一つ一つが海の世界のようだった。近づいて見ると、大きさのまばらな魚たちが群れをなして軽やかに、自由に泳いでいる。青と黄の縞模様、紅玉のようにつぶらな大軍、白く細い指の間を撫でられるように滑る橙色、透明で丸っこい不思議な浮遊物。ガイアは摩訶不思議な生き物たちの虜になっていた。
「すべて、
ガイアは首を横に振った。魚といえば、むらの青壮年たちが海から捕ってきてくれて、皿の上で死の靄を纏わせた瞳をこちらに向けてくるものしか見たことがなかったような気がする。生きた魚とは、こんなにも鮮やかで活き活きとしているとは。命を捕って食べる人類の傲慢さに、ガイアは初めて奥歯をぎりぎりと鳴らした。
目の前の水槽の中、指ほどの体長の魚が、口をぱくぱくさせて細かい微生物を食べている。それを見て、ガイアに新たな疑問が湧いた。
「俺は微生物で、竜で、猿だったと言ったな。だが、その記憶はない」
「そうね。一つは進化の問題ね」
進化?ガイアにはまだ知る由がない概念だった。何せ、科学者が進化論を唱えたのは、ガイアが地球を抜け出してから千五百年以上も後のことである。
「最初、地球は全て海だった。その中に、小さな生物が生まれた。陸が現れると、陸上で生きられる生物が生まれる。それは竜に進化した。そうして、やがて竜が滅ぶと、生き残った生物の中で頭脳の高い生き物がより多く生き残る」
ディアナは静かに語り続ける。信じられない話ばかりなのに、妙に耳にしたことがあるような懐かしさを感じてしまうのはなぜだろうか。透明なガラスに、疑問符だらけの顔が写り込む。
「そうやって、頭のいい猿が増えて、進化して、人類になったのでした」
寝る前の読み聞かせをする母親のように、ディアナは手をひらひらさせた。ガイアは眉間に皺を寄せたまま、続きを待って眠れない幼子のような表情になる。
「俺たちは
「そうなるわね?まぁ、だからこそ。
「一体どのくらいかかった?」
「そうね。……ざっと、四十六億年くらいかしら?――何、驚いた顔しているの。その間、あなたは
それこそ凄いことじゃない。ディアナは柱の間を縫うように、身を軽やかに回しながら無邪気に笑う。ガイアはぎこちない指を、水槽に添えてみる。食い意地の張っているらしい魚が、自分と同じくらいの大きさの指に齧り付こうと、懸命に口を動かしている。それでも、皺のよった小さな唇はガラスを滑るだけだった。
それから、ガイアはどうしても気になっていた疑問をもう一つ投げかけた。
「なぜ、
「だって――、だって、ずっと見てたもの」
「四十うん億年、途方もない年月を?」
「
おもしろい。ガイアはなぜか、言葉をするりと飲み込めなかった。
「だから、わからないことは何でも聞いてね。私は自称・
――なんだ、ディアナにとって俺はただの興味深い観察対象ってことだ。そう思うと、ガイアの中の何かが萎んだ。ディアナの方は楽しげな口調で話しながら、白銀の瞳にまた、哀しみの色を湛えさせていた。
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