倉田 奈央
第91話 指切り
いつもより遠くから聞こえるアラームの音に、いつもより時間がかかってようやく気づき、目を覚ました。
一番初めに視界に入った背の高い棚に、一瞬ここどこ?!となったけど、2秒で思い出した。
「おはよー!バッグの中から鳴ってるみたいだけど、アラーム止めちゃっていい?」
声をかけられた方へ顔を向けると、ぼやけた視線の先には肌触りの良さそうな家着を着た明さんがキッチンに立っていて、まるでハリウッド女優のプライベートのようだと思った。
「……おはよう……うん、ごめんね……」
寝起きのスローなテンポでそう返すと、明さんは玄関先に置いたまんまだった私のバッグの前にしゃがみ、中からスマホを取り出してアラームを止めてくれた。
「……ありがとう……ごめんね、ゆっくり寝てて……」
そう言ったけど私が眠りについたのはつい一時間前だった。
そんなに飲んでないからお酒は残ってないけど、正直この睡眠時間と精神状態で満員電車に乗るのかと思うと寝起き早々に絶望した。
もし許されることなら、別日にフルマラソンを走る罰を受ける代わりに、今日はこのまま寝かせてほしいとさえ思った。
でもそんな救済システムを神は与えてくれないし、そんなこと言ってられないのが社会だ……。
「ずっと寝かしててあげたいけど、研修って仕事と変わらないもんね?どうするの?行く前にいったん家帰るの?」
毎朝必要以上に早く起きているから、まだ部屋の時計は6時前。急げば家に帰れる時間ではあるけど、とてもそんな気力はなかった。
「……直接行こうかな。昨日と同じ服だけど、どうせ着いたら作業着に着替えるから誰にも見られないし」
「疲れてるだろうしそれがいいね。あ、じゃあ今のうちにお風呂入ってきていいよ!」
「……ありがとう」
「化粧水とかドライヤーとか置いてあるもの何でも勝手に使って」
「……助かるや、ごめんね」
急いでシャワーを浴び、色々と準備をしてバスルームから出てくると、焼き魚御膳のような朝ごはんが小さなテーブルに2人分用意されていた。
「……すごい……すっごいちゃんとした朝ごはん……」
なかなかお目にかかれない朝ご飯に、嬉しいよりも先に驚きが出てしまった。
「いつもは朝なんてテキトーなんだけど、今日はなおのパワーが出るようにしっかりした朝ごはん作ってみた!」
「ありがとう、明さん!すごい力出そう!」
「って言っても、焼き魚もご飯もチンするだけのやつだけどね!お味噌汁もお湯入れるだけだし。でもサラダだけは手作りだよ!」
すると明さんは、海老とブロッコリーにゆで卵、アボカドまで入った豪華なサラダを冷蔵庫から取り出して、テーブルの真ん中に置いた。
「わぁー!すごい美味しそう!!」
「つまみの残りで作ったからちょっと豪華だよ」
「ありがとー!」
「さ、食べよっか」
私たちは焼き魚がレンチンのレベルじゃないとか、最近のインスタント味噌汁は味噌が生きてるとか、このサラダだけで何杯も酒が飲めるとか、大絶賛しながら朝ごはんを食べた。
昨日の夜、私が尾関先輩のことを忘れられてなかったという事実が発覚してしまったことを除けば、いつもと何も変わらない2人だった。
私にしがみつきながら眠ったか弱い少女のような明さんはもういなくて、見せてくれる笑顔はいつもの眩しさだったけど、私が目覚める前に冷たい水で腫れたまぶたを冷やしていたのか、すっぴんとは思えないくらい綺麗な素顔には、ほんの少しだけ昨日の涙の形跡が見えた。
それでも明るく振る舞おうとする明さんを見てると、私は針金で体を締めつけられるような罪悪感を感じた。
「……私さ、昨日はまたふり出しに戻っちゃったなって思ったんだけど、朝起きてよく考えてみたら、そんなことないのかもって思ったの」
このまま昨日のことには触れないままかと思っていたら、明さんは突然、どストレートに話しを始めた。
私は食べるのをやめて、まっすぐに明さんの目を見て聞いた。
「だってさ、もともと出会った時はレベル0だったなおの私への気持ちが、友だちから恋人になって、好きって言ってくれるようになって、今はレベル3くらいまではいってるじゃん?……きみかさんのことはレベル10かもしれないけど、でも、その差は確実に縮まってるんじゃないかなって!」
「……明さん」
「付き合って3ヶ月でここまで来てるんだから、むしろ未来は明るいかも!……って、なおが私とまだ付き合う気があるならなんだけど……」
「あるよ!」
間髪入れずに返事をすると、明さんはうつ向きかけた顔を上げた。
「あ……あるよなんて言い方ごめんね……。私、本当に明さんにひどいことばっかりしてそんなこと言える立場じゃないんだけど……明さんがまだ側にいてくれる気があるなら、私は明さんといたい。その気持ちは変わらないから……」
すると明さんはお箸を箸置きにカシャンッ!と置き、今までずっと息を止めていたみたいに大きく息を吸った後、天井を見上げその息をゆっくりと吐いた。
「よかったぁ……やっぱりもう付き合うのはムリとか言われたらさすがにどうしようもないかと思って、私内心すっごいビビってたんだー……」
明さんがそんなふうに思ってたなんて、全然気がつかなかった。
「それでも私といてくれるんだもんね……私、がんばるからね」
「……そんなふうに言ってくれてありがとう……。てゆうか、レベル3とか!そんなに低くないからね!」
「ほんと?じゃあリアルに今はレベル
「そ、それは……」
「冗談だって!すぐ困った顔するなおがかわいいからちょっといじめただけ!」
私が気まずく思わないようにあえて話題にしてくれてる……。
絶対に心は痛んでいるはずなのに、こんなふうにいつも自分より私のことを考えてくれる明さんのことを心から愛しいと思う……。
「ねぇ、なお」
突然、明さんは笑うのを止めて、真剣な顔で私を見た。
「なに?」
「……昨日思い知って分かったんだけど、なおの中のきみかさんは多分一生消えないね。多少心の変化があったとしても、完全に消えることは……多分ない……」
「…………」
「今までは消すのに必死だったけど、当たり前だなって思った。初恋なんだから……。だから、苦しいけど私はそれを受け入れようと思う」
平気なんかじゃないのは分かってるけど、そう話す明さんは、驚くほど穏やかな表情をしていた。
「その代わり約束が欲しいの。例えなおがこの先もずっときみかさんのことを好きだとしても、ずっと私の側にいるって約束してくれる……?」
その時、一瞬自分の中に、迷いに似た感情がうごめいたのを私は確かに感じていた。
それでも、そうだとしても、それ以外に私に選択肢はないと思った。
いくら私が先輩を好きなままでも、私と先輩の間には未来はない……。
「……うん、約束する。……尾関先輩のことが消えなくても、私は明さんの側にいるよ……」
私がそう言うと、明さんはほころぶように笑って右手の小指を差し出した。
「私は、絶対になおを誰よりも何よりも大切にするって約束する……。指切りげんまんしよっ!」
「うん……」
固く小指を結んでから、明さんは私を引き寄せるように抱きしめた。
この先、こんなに私のことを愛してくれる人には絶対に出会えないと思う。明さんと過ごす時間はいつも幸せで満たされる。
明さんの側にいればこれからいくつ歳を重ねたとしても、きっと毎日変わらずに笑っていられて、この上ない人生を送れるんだろうと思う。
……なのに私はどうして苦しい思いばっかりさせてくる尾関先輩を忘れることが出来ないんだろう……
あんなふうに簡単に私への気持ちを切り替えて、彼女まで作ってる先輩を、どうしてまだ好きなんだろう……
一番辛いはずの明さんが現実に向き合ってくれてるんだから、私も逃げ回らずにごまかさずに、ちゃんとその気持ちを認めることにした。
でもそれは、前に進むため。
明さんと2人で手を取り合って同じ道を歩いていくため。
体が離れると、少しだけ気まずそうに明さんはまた何か言いたそうにした。
「……あとさ、もう一つだけお願いいい?」
「うん」
「今度からは、二人でいる時はあんまりきみかさんの話題出さないでほしいくて……。あえて避けるのはムカつくとか言ってたのにごめんね、やっぱりちょっときついかなって……」
「……そうだよね、ごめんね」
「別に絶対にNGワードってことじゃなくて!こないださ、ゾンビーナ1の映画一緒に見たのきみかさんだって教えてくれたでしょ?あの時は話してくれて嬉しいって思ったんだけど、ああゆうのも、今度からはわざわざいいかな……。せめて二人でいる時だけは、例え表面上だったとしても、なおは私だけを想ってるって思い込みたい。誰にも邪魔されない時間にしたい。だから……」
「……分かった。もう、極力先輩の話はしないようにするね」
「……器小さくてごめんね」
「そんなことないよ……」
そのお願いをされた私は、実は少しほっとしていた。私も、明さんが傷つくと分かっていながら尾関先輩のことを口にするのにはずっと抵抗があった。
それでも真実を……と貫いてきたけど、明さんがそう望むなら、尾関先輩への想いは全て私の心の部屋に閉じ込めておく。
そうやって、2人でいる時間は2人で笑って過ごそう……
出かける時間になると、新婚の妻のように玄関でハグをして、いってらっしゃいのキスをして、明さんは私を送り出してくれた。
いつもとは違う電車に乗り込むと、睡眠時間の足りていない脳を必死に使い、明さんと尾関先輩のことを考えていた。
言葉にすると本当に最低な話だけど、私は尾関先輩が好きだけど、明さんのことも好きだと思っている……。
明さんは好きをレベルで例えて話していたけど、私はそもそも明さんへの『好き』と、尾関先輩への『好き』はレベルや大きさの違いじゃない気がしていた。
好きってなんなんだろう……
ここに来て私は、哲学者のように答えのない答えを探すことにただただ頭を巡らせるようになった。
そしてそれは、その週の週末が来ても続いた。
コンビニラバー 榊 ダダ @sakaki-s
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