尾関 きみか

第90話 ガラスの破片 




 プレゼントが落ちた場所は、ちょうどよくゴミ捨て場のすぐ近くだった。



 顔を上げる。10mくらい先に奈央の背中があった。

 奈央が私に言ったことは、言葉通りの意味じゃないけど、心からの本心だと思った。




 わずか数秒の間に矢つぎ早にぶつけられた言葉たちは、ガラスのシャワーを浴びたみたいに私の体中に突き刺さったままだった。



 10m先だった奈央が20m、30m先になってゆく……



 他の人ならよかった。

 奈央だからだめだった。

 それ以上奈央に走り寄ることが出来ない自分が一番嫌だった。




 ゴミ捨て場には朝の回収を待たずに、ルールを破った通行人が放り投げたようなビニール袋が2、3個あった。同じようにそこに紙袋ごと置いて去ればやり過ごせそうだった。



 だけど、本人がいらないと言ったものを拾い集める意味なんてないと分かりながら、私は地面に落ちたぬいぐるみや小さな花、割れたボトルの欠片をしゃがんで集めた。

 あるじに捨てられたこの子たちを、やっぱり私は置いていくことが出来なかった……。




 粉のようになったものはどうしようもないけど、板チョコひとかけくらいのガラスの破片は、右手の親指と人指し指でそっとつまんで左手の掌の上に一つづつ乗せて集めていった。

 その作業に慣れ始めた時、ふいに縦に持ってしまったせいで尖った部分が人差し指に刺さった。



「つっ……」



 すると、スポイトから押し出されるような勢いで、目では見えないほど小さな穴から血が溢れ出てきた。



 小さな小さな傷なのに、一瞬その痛みで胸の痛みがまぎれて楽になれた気がした。



 奈央の姿は、ついに夜の闇に溶けてなくなっていた。

 私は、集めたガラスの欠片を乗せた左手をゆっくりと握りしめた。










 家に帰ってベットに横になっても、胸の奥からは取り除けないガラスの破片を感じた。

 好きな気持ちは今も変わらずにあるのに、奈央のことを考えるのが苦しかった。

 えなさんが巻いてくれた包帯の下、傷がまるで何かの生き物のように時々うずくと、そのたびに胸の痛みと余計な思考の邪魔してくれた。




 今日と同じように、こんなふうに泣きながら眠りについたもうひとつの夜を思い出した。

 また余計な記憶が勝手に浮かんできた。白い包帯に赤い染みが滲んだ。






 ***





「げ。お前、血漏れちゃってんじゃん!」



 次の日の朝、店へ出勤すると、挨拶よりも前にあんなさんが私の左手の包帯を見て言った。



「……替えの包帯無かったから……」

「けっこう傷深かったから病院行った方がいいってえな言ってたよ」

「そんな、別に大丈夫ですよ」

「……ちょっと裏来い」



 あんなさんは他のバイトの子たちに断りを入れて、私をバックヤード連れて行った。



「そこ座んな」



 言われた通りに座ると、あんなさんは小さな脚立に乗り、ロッカーの上からしっかりとした作りの、重そうな木箱を下ろした。



「手出せ。包帯巻き直す。そんな血まみれの手でお釣り渡されたらお客さん引くわ!」

「……すみません」



 そう言われたら何も反論はない。私は素直にあんなさんに従った。



「うわぁ……どこが大丈夫なんだよ……ほら!自分の手見てみな!」



 そう言われて傷の部分を見ると、パックリと開いた傷からは鮮明な赤い色のが見えていた。



「うぇ〜……ゲロ吐きそう……保健室の掲示板かよ!」

 


 そう言いながらもあんなさんは手慣れた様子で傷の手当てを始めた。



「お前はほんとかたくなに病院行かないよな、所さんかよ」

「……なんですかそれ」

「所さんて大怪我しても医者にかからず自力で治すらしいよ、昔テレビで言ってた」

「……そうなんだ」

「包帯、自分で巻き直したでしょ?」

「寝てる間にほどけちゃったから、片手で巻いて……」

「やっぱし。あんなヘッタクソなの、えなのわけないもんなー」



 適当で口の悪い会話に反して、その処置は美しいくらいに見事だった。正直えなさんよりも手際がよく、ほとんどプロの手つきだった。



「……あんなさん慣れてません?」

「救急法の資格持ってるもん」

「……まじで何者なんですか……ていうか、なんでそんなの持ってるんですか」

「こうゆう時の為だよ」

「…………」

「本当はまじで病院行った方がいいけど、どうせ行かないだろうからせめて毎日私んとこ来な、消毒してやるから」

「ありがとうございます……」



 手当てを終え、あんなさんはまた脚立に乗って使い終わった救急箱をロッカーの上へ戻した。



「絶対に左手使うなよ!一切!少しでも傷開くといつまでも治んないし、後でヤバいことになるんだから。縫合一歩手前レベルなんだからね?あと、ある程度良くなるまでは酒もやめとけよ!」

「……分かりました」

「そもそももう店長なんだからさ、仕事だってバイトに指示だけ出して、お前は見てるだけでいいんだよ。バイトリーダーみたいに働いてんじゃないよ」

「指示だけとか、そんなの気まずいですよ」

「気まずいとかじゃないんだよ、サッカーだって監督は外から見てるもんだろ!選手と一緒になってボール追っかけないだろ。お前はラモスなんだよ!」

「……ラモスって……サッカーのことなんか全然知らないくせに例えに出すから、精一杯がラモスじゃないですか……しかもラモスは監督じゃなくて選手だし……」

「そうなの!?でもあれでしょ、引退してどっかの町のチームの監督とかやってるでしょ」

「……まぁやってるかもしれないですね」

「なんだよ!折れんの早いな!もっと来いよ!」

「……来いって言われても」

「……相当へこんでんな。……ま、そりゃそっか。あんなにずっと持ち歩いてたプレゼント、受け取ってもらえなかったんだもんな……」

「…………」

「立ち直れないって感じ?」

「別にそんなことないですよ。そんな簡単に上手くいくなんて思ってなかったし」

「……よしっ!じゃあ今日終わったら飲みにでも行くか!」

「でもさっきあんなさん、傷が良くなるまでしばらく酒はだめだって……」

「あ、そうだった。忘れてたわ」

「えー……」

「じゃあノンアルビールで焼肉でも行くか!怪我してる時はやっぱ肉でしょ!肉!尾関大好きだもんな!肉!」



 あきらかに元気のない私を元気づけようと、あんなさんは身振り手振りをつけてテンション高く誘ってくれた。



「……本当にすみません、今日はちょっと……」 

「…………ん?」

「……今日はちょっとゆっくり休みたいかなって……せっかく誘ってもらったのに本当にすみません……」



 私が深々と頭を下げて謝ると、あんなさんは奇妙なものを見るような目で私を見た。



「……いや……まぁ……そりゃ休むのが一番いいわな、普通に……」




 あんなさんがそんなふうにぎこちなくなる原因は分かっていた。

 出会った7年前から、どんなことがあってもあんなさんの誘いを断らなかった私が、初めて誘いを断ったからだ。



 心から申し訳ないと思っていた。嫌われるんじゃないかという不安にも襲われた。それでも、どうしてもそんな気にはなれなかった。


 

 一人はどうしようもなく寂しいのに、今日だけはどうしても一人になりたかった。





















 









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