第89話 どこにも行かないで 




 そのままずっと、まっすぐ歩き続けた。 

 先輩が私の姿を確認出来ないところまで来ると、立ち止まって明さんに電話をかけた。

 すると、コール音が2回鳴る手前で、明さんはすぐに電話に出た。



「……もしもし?」

「明さん!!」

「なお、どうしたの?」

「ごめんね!練習中だよね?あの、何時になってもいいから、終わったら会えない?どこでも行くから!」

「……今いつものスタジオだけどもうすぐ終わるからタクシーでおいでよ。駅で待ってる」

「……ありがとう……」



 スタジオのある駅にタクシーが着くと、ロータリーに立っている明さんをすぐに見つけられた。明さんも同時に気づいて、手を上げてタクシーを誘導する。扉が開き、愛想よく後部座席へと乗り込みながら、明さんは自分の家の場所を運転手さんに告げた。



 ゆっくりとスピードを上げ、再びタクシーは夜の道を走り出す。



「大丈夫?」



 明さんは理由は何も聞かずに、それだけを私に尋ねた。



「……うん」



 私も何も説明せずに、ただ明さんの肩に寄りかかった。明さんは私の背中をトントンとゆったりとしたテンポでたたきながら、もうひとつの手ではやさしく手を握ってくれた。



 部屋へ入ると、明さんは一度も腰を下ろさないままで紅茶の用意をし始めた。狭く小さなキッチンに立つ明さんに、私は後ろから抱きついた。すると、明さんは私の方へ振り返り、黙ったままで優しく抱きしめ返してくれた。



「……私……本当に明さんが好きだよ……」



 私を包み込むように抱く明さんの胸に顔をうずめて言った。



「私も、なおが誰よりも好きだよ」



 曇りのない真実の言葉が、私の胸をチクリと刺す。



「……何があったか聞かないの?」

「……言いたくないことかもしれないから、なおが話したくなったら聞くよ」

「…………」



 明さんの体に回した手に力をこめると、明さんはなだめるように私の後頭部をなでた。



「……今日……仕事帰りに葉月に行ったの……」

「うん」

「……えなさんと話しながらカウンターで飲んでたら、尾関先輩が偶然現れて……」

「……うん」



 今、伝えなきゃいけない……。その時私がどう感じて何を思ったのかを。

 そして、今、泣いている理由を……



 なかなか次の言葉に続かない私を急かすことなく、明さんはその間もずっと温かい体で私を包みこんだまま、体をさすってくれていた。



「……私……やっぱり尾関先輩のこと……」



 そこまで口にした私は、この先の言葉が明さんにどんな傷をつけるんだろうと怖くなってしまった。

 すると、明さんはそんな私の顔を覗き込むようにして、こぼれた涙を指拭った。



「なのに、私のところに来てくれたんだね。嬉しい……」



 姑息で卑怯な私は、黙ったまま明さんにしがみついた。



「……私、どっかで気づいてたのかもしれないな……なおがきみかさんのこと忘れられてないこと。あんなに執着してたのに、誕生日のすぐ後から線を引いたように突然平気になったもんね……。違和感はあったんだ。でも気づきたくなかったから、目を伏せてたのかもしれない……」



 私は明さんの顔を見ることが出来なかった。



「今考えれば、防衛本能だったのかもね。聞いたことない?あまりにショックなことが起きると、人間てその記憶自体をなくしちゃうって話……。それに似たようなものでさ、これ以上好きでいると辛すぎるから、知らず知らずのうちに痛みも苦しみも何も感じなくなるように、なおは自分をコントロールしてたのかもしれないね……。それくらい、きみかさんのことが好きすぎたってことかな……」

「そんなこと……」



 言葉につまってしまった私は、一瞬上げた顔をすぐに下げてしまった。

 すると、明さんはそんな私の左頬に柔らかい右手をそっと添えた。



「なおはやさしいから、それでも私のこと捨てられないんだよね……」

「そんなんじゃないよ!私は本当に明さんのことを好きで……」

「でも、きみかさんのことはもっと好きだろうから」




 私には明さんのその言葉を否定してあげることが、出来なかった。




「……きみかさんのところに行きたかったら行っていいんだよ?なおがきみかさんを好きなことは、初めて出会った日から知ってたことなんだから。裏切りなんかじゃないし、なおは何も悪くないんだから……」



 そう絞り出すように言った明さんの顔はすごく無理をしていた。



「そんなこと言わないで……」



 明さんの服の裾を掴んで揺らしながらそう言うと、明さんは辛そうな顔のまま、私を抱き寄せてキスをした。




 熱い唇が触れた瞬間に舌が入ってきて、私もそれに応えるように返した。

 キスを続けながら、迫られるように後ろ歩きでキッチンから部屋へと少しづつ移ってゆく。ベッドのマットがふくらはぎに当たった時、明さんは私を背中からベッドの上へ倒れさせた。



 軽いバウンドが収まると、明さんは許可もなく私の服を脱がし始めた。その手つきはいつもの優しいものじゃなく、まるで許しきれない憎しみが隠されているように乱れていた。

 


 明さんは、あらわで無残な姿になった私の耳を舐め、痛いと感じるほどの力で胸をもてあそび、私の体の全て支配するように抱いた。



 私は明さんの求めるまま従った。

 私の名前を繰り返し呼び続ける明さんの顔は切なすぎた。切なすぎて、明さんがキスを欲しがる時は、目を閉じたまま口を開いた。




 自分も私も壊すくらい激しいセックスの後、明さんは全身で私の全身をきつくきつく抱きしめた。



「……きみかさんのところに行ってもいいなんて嘘……本当は行ってほしくない……どこにも行かないで、ずっと私の側にいて……愛してるの……なお……」



 最後はすがりつくように私の右腕に抱きついたまま、明さんは眠りについた。





 暗い部屋に、カーテンのわずか数mmほどのすき間から、街灯の白い光が漏れている。




 体は酷く疲れてるのに眠ることが出来ず、涙のすじが残る明さんの横顔を、私は朝までずっと見ていた。













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