第88話  もう二度と




「実務研修始まってからだいぶ経つよね?どお?大変?」 

「ほぼ雑用ですけど、どんな形でも動物に関われて幸せです。毎日勉強になってます」

「そっか。ならよかった」



 先輩は私の返答に嬉しそうにしながらジョッキの半分を一気に飲んだ。えなさんはそれを見届けると、私たちから少し距離を置くようにして目の前から離れていった。



「聞きましたよ?先輩、店長になったらしいですね」

「聞いたんだ!まぁなんやかんやあってね」  

「なんか少し貫禄出たんじゃないですか?」

「それ、遠回しに老けたって言ってる?」



 先輩は自虐的にとったけど、私の言ったことは本当だった。立場がそうさせるのか、久しぶりに対峙した尾関先輩はどこか落ち着き払った雰囲気を醸し出していて、以前よりもさらに大人に見える気がした。

 だけど、そんなことは本人には言わなかった。



「そっか、老けたんですね」

「おい!」

「でもやっぱり大変ですか?バイトと違って店長って」

「別にー。今はまだほとんど肩書きだけで、やってることはバイトの時と変わんないからね。いまだに一人で『揚げたてでーす』って言ってるし」

「まだ一人で言ってるんですか?!もう店長なんだから、それこそ権力を駆使してバイトに強要すればいいじゃないですか!」

「だって可哀想じゃん、中には『揚げたてです』NGの子もいるかもしんないしさ……」



 先輩がちょっと意地悪そうな横目で私を見る。



「……確かに」



 不思議だった。



 最後にあんな別れ方をしたまま何ヶ月も顔を合わせてなかったのに、今日も話し始める前まではどう接するべきか頭で考えまくっていたのに、実際に話し始めると、まるでコンビニのレジの中にいるように私は先輩と自然に話をしていた。



 今もまだ私はバイトの身で、私たちの間にはなんにもなかったように、あのいつもの日常の中にいるみたいだった。



「……でもあれだね、しばらくぶりだけど全然変わってないね!」



 だけど、この先輩の言葉で、私は急激に幻から覚めた。



 正直、バカなんじゃないかと思った。あの頃の私なんてもう何一つ残ってなんかないのに、先輩はそれに全く気づいていない。



「……先輩は少し変わりましたね」

「そお?どこが?」

「……髪がちょっと雰囲気変わったし、話しててもなんか前より明るくなった感じがします」

「そお?自分ではそんな変わった感じしてないけどなー」



 そう言いながらも、ここに来る前に何かいいことでもあったのか、常にうっすらニヤニヤしていて、それが少し気に入らなかった。



「あっ!」

「え?」

「足元になんか落ちてるよ!ってか、バッグ開いてない?」

「えっ!?」



 カウンター下の棚に押し込んでいたバッグを見ると、指摘された通り、チャックが半分近く開いていた。

 慌てて閉めている間に隣の先輩はひょいっと椅子から降り、落ちていた何かを拾った。軽やかな動きで戻ってきた先輩が再び椅子に座る時、小さな風が起きて、覚えのある匂いを私に届けた。



「はい!」

「……ありがとうございます」



 力なく出した左手の上に乗せられたのは、研修先で使っている顔写真つきのIDカードだった。



 よりによってこんなものを見られるなんて……と、カードに印刷された間の抜けた自分の顔に目をやると、



「かわいいね」



 覗き込むようにしながらさらりと先輩が言った。その言葉に、無防備な私の心臓がドクンと反応をする。



「……べ、別に全然かわいくなんか……」

「かわいいじゃん!そのカード、猫の顔の形だよね?」  

「…………猫?」



 ややこしい言い方のせいで恥ずかしい勘違いをさせられて、どこにぶつけたらいいのか分からない怒りと羞恥心が、煮えたぎるようにこみ上げてきた。



「あっ!あぁ!!いや!その、写真もすごくかわいいよ!むしろ、写真のがもっとかわいいし!」



 私の様子で唐突に状況を理解した先輩は、慌てて取り繕ってきた。つけ焼き刃のような雑なフォローの言葉は、さらに私を苛立たせた。



「……別にいいですよ、気使って無理にそんなこと言ってくれなくても」

「気使ってなんかないって!ほんとにほんとだから!」

「もういいですって」

「適当じゃないから!本当にかわいいって思ったから!なんなら今日顔見た瞬間から、さらにかわいくなったなって思ってたし!」



 彼女がいるくせにほかの女に対して簡単に「かわいい」を連発する。ほんとどうかしてると思うし、彼女が不憫にすら思える。

 それなのに、その場しのぎのフォローだと分かっていながらも、尾関先輩が「かわいい」と口にするたび、私の体の制御出来ない部分はいちいち反応を示していた……。



「ありがとうございます」

 


 これ以上もう面倒なので、適当にお礼を言って強制的にその話を終わりにした。すると、先輩は自分の主張を受け入れられたと思い込み、納得顔でビールを飲んだ。



「……そう言えばさ、明ちゃんとはどう?うまくいってんの?」



 ……は?この流れからいきなり明さんの話を振るって……本当に尾関先輩は何を考えてるのか分からない。



「うまくいってますよ」

「……二十歳の誕生日は、明ちゃんとデートしたの?」



 そう聞かれた時、あの日のベンチでの先輩の姿が思い浮かんだ。



「そりゃ付き合ってるんだから、誕生日は彼女とデートしますよ」

「……そりゃそうだよね……彼女だもんね……」



 まただ……



 笑顔と真顔を繰り返しながら、その間でふと悲しそうな顔をする。自分は好き勝手してるくせに、嫉妬心を忍ばせてくる。それに気づくたび、苛立ちが募って仕方ない。



「……じゃあ今幸せなんだ?」

「そうですね。明さんは私をいつも安心させてくれて、不安になるようなことは一切ないですし、幸せですよ」

「へー不安にならないんだ」



 すると、突然先輩の態度がガラリと変わり、嫌味っぽい口調で私を小馬鹿にするようにそう言ってきた。



「……なんなんですか?」



 ただでさえイラついてるのに、喧嘩腰な言い草に私も嫌味をたっぷりと込めて言った。



「いや、普通好きな人といると理由なんかなくても不安になるもんじゃないかのかなー?って思って」

「どうしてそんなこと言うんですか?」

「本当にそう思ったから。それって本当に好きって言えるのかなって」



 余裕な感じで分かったように言われ、いい加減耐えられなくなった。



「私帰ります」



 もう数秒だってこの場にいたくない。私はすぐさま席を立った。



「待って!!」



 尾関先輩が素早い動きで私の左手首を掴んだ。異常に高い先輩の体温を手首の肌に感じる。一瞬で、心臓ごと握られたような感覚に襲われた。触れている部分から脈へと血が流れ込んでくるように熱い……


 

 息がつまりそうになりながらゆっくりと左を向くと、先輩は捨てられた子犬のように寂しそうな顔をしていた。



「……ごめん、嫌なこと言って……。せっかく久しぶりに会えたから……出切ればもう少しだけ隣に居て欲しいんだけど……」



 その一つ一つの言葉と行動が、前を向いて進んでいたはずの私の心の壁にじわじわとヒビを入れて崩そうとしてくる。

 


 すごい勢いで体の細胞が同時に覚醒をして、何度も何度も繰り返したあの痛みを一気に呼び起こした。胸を槍で突き抜かれたように痛い……



 いくつもの夜を越えて明さんと少しづつ塗り潰してきたものが、唇も体も重ねずに、手が触れただけで、目を見ただけで、全て元通りに戻ってゆく……





 私は忘れてなんかなかった……?

 この痛みから逃げるため、何も感じなくなるように気持ちを、感覚を、殺していた……?







 その時、カウンターの上に無防備に置いてあった先輩のスマホから着信音が鳴った。



「あっ、ごめん!音になってた……」



 先輩はそう言いながら強く掴んでいた私の手首から手を離し、電話には出ずに留守電に切り替えようとしていた。



 唐突に解放された私は立ち尽くしたまま、先輩の操作するスマホの画面にふと視線を落とした。





 そこには『もも』という名前が表示されていた。






「私、本当に帰ります」

「えっ!?だから、ちょっと待ってって!」



 また軽々しく私の手を掴もうとする先輩の手を、今度は払うようにしてはねのけた。



「明日仕事早いんです。失礼します」



 私の様子に気づいて心配そうに戻ってきたえなさんに断りを入れると、私はバッグを鷲掴みにして棚から抜き取り、尾関先輩の顔を見ないまま葉月を飛び出した。



 商店街を抜け大通りにぶつかると左へ曲がり、車道に沿った歩道をとにかく走った。走りながら否定を続けた。




 ……思い過ごしだ……




 好きなんかじゃない……




 久しぶりに会って少しテンパっただけだ……




 早く尾関先輩からもっと離れたところに行かなゃ……



 早く明さんに会わなきゃ……



 早く……早く!!




 その時、




「奈央!!」




 あの声で名前を呼ばれた。



 明さんに何度も呼ばれてきたのに、尾関先輩が口にしたたった2文字にこんなにも反応する自分の体に嫌気がさした。



 追ってきた先輩は勝手に二の腕を掴み、走る私を力づくで止めて無理矢理振り向かせた。



「触らないで下さいっ!!」



 私は思いっきり腕を振って抵抗したけど、力いっぱい掴んだ先輩の手はほどけない。




「離して下さいっ!!」

「やだ」

「なんなんですか!?」

「奈央に、ずっと会いたかった……」



 顔を背けているのに、勝手に視界に入ってきて目を見つめながら言ってくる。

 逃れようとここまでずっと頑張ってきたのに、そうやってまた無責任に私を引きずりこもうとしてくる。

 もう振り返らないために覚悟を決めて選んだ正しいはずの選択を、取り返しのつかない誤った後悔へと変えようとしてくる。



「私は会いたくなかんかなかった!!」

「奈央……」

「今日とかじゃなくて、そもそも尾関先輩となんか出会いたくなかった!!」



 叫びながら私は泣いていた。



「……もう本当に……お願いですから離して下さい……」



 頭を下げて懇願するように言うと、脱力するように力が抜け、先輩はようやく私の腕から手を離した。



「……もう行きます」

「待って!これだけ!帰るなら、せめてこれだけでも受け取ってくれない?もし今度会えたら渡したいと思ってたの……二十歳の誕生日プレゼント……」



 うつ向いた視線を移して見ると、差し出されたのはボロボロの紙袋だった。



「……あっ……、袋はちょっとひどいけど、中身は大丈夫だから!」



 突き出された紙袋からわずかに見えたのは、ゾンビーナのぬいぐるみだった。



 あの人には綺麗な花束だったのに、私には…………



「…………ません……」

「……え?」

「いりません!」

「お願いだからこれだけ受け取ってよ!中にてが……」 



 ゴミ袋のようにくたびれた紙袋を押しつけるように渡され、ついに限界になった。



「いらないって言ってるじゃないですかっ!!」



 乱暴に言い放ち、紙袋ごと先輩を両手で突き飛ばした。




 ……………パリンッ……




 紙袋は地面へとまっすぐ落ち、中からガラスが割れるような音がした。ほんの一瞬悪いことをしてしまったような気になったけど、足元に散らばったプレゼントの中に、あの人へのものとは比べ物にならないほど小さな花を見つけて、その気持ちはすーっと消えていった。



「……前にもらったぬいぐるみも、もうとっくに捨てましたから。また渡されても本当に困ります」

「…………え……」

「……もう本当にいらないんです。プレゼントも、尾関先輩も」



 私は涙を拭いてから、しっかりと目を見て言った。



「だからもうどっかに行って下さい。二度と現れないで下さい。もしまた偶然どこかで会うことがあっても、もう私に声をかけないで下さい。顔も知らない他人みたいに、もうなんにも関わらないで下さい!お願いですから、もう私の目から完全に消えて下さい!!」




 私は尾関先輩の返答を待たずに、シャッターを下ろすように背を向けた。




 そして、今度はゆっくりと歩いてその場を去っていったけど、それ以上先輩が追ってくることはなかった。























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