【完結】蝉の暮らす家(作品240305)

菊池昭仁

蝉の暮らす家

第1話

 私のホームページに建築依頼のメールが届いた。




      宮永新一みやながしんいち先生


      はじめまして、門倉と申します。

      30坪前後の平家を考えています。

      ご相談させていただくことは可能でしょうか?

      よろしくお願いします。


                     門倉涼子




 それが涼子との最初の出会いだった。




 それから3日後、涼子が私のアトリエを訪ねて来た。

 彼女は細面ほそおもてのスレンダーで美しい中年女性で、30代半ばといったところであろうか?

 時折見せる笑顔が寂しいひとだった。

 私は彼女の年齢を聞いて驚いた。

 48歳だというが、とてもそうは見えなかった。

 10歳は若く見えた。



 「私、先生のファンなんです」

 「ありがとうございます」

 「先生の「キッチンから始まる家づくり」というコンセプト、いつも憧れていました。

 こんな素敵な家に住みたいと。

 予算は土地込みで3,000万円ほどです。

 建築地は太平洋が見えるところであれば、どこでも構いません。

 建築場所も探していただけませんか?

 この予算では難しいですか?」

 「私はお金で依頼を判断するようなことはいたしません。

 私と同じ感性で家を作れるかどうかです。

 いくらカネを積まれても受けないこともあれば、逆に赤字にならなければお受けすることもあります。 

 そんな無礼な建築家に家を頼む時点で、あなたはどうかしています。

 だがそんな人は嫌いではありません」

 「色んな建築会社さんを回りました。でも中々意見が折り合わず、悩んでいました。

 そこで以前から気になっていた宮永先生に思い切ってお願いしてみようと思ったんです。

 あと、ひとつお願いがあります」

 「なんでしょう?」

 「半年で作って欲しいのです」

 「それは門倉さん次第になります。

 私の家づくりについて来れるかどうかです。

 土地の選定から始めるわけですから、かなり難しいかもしれません。

 お急ぎになる理由は何ですか?」

 「私の余命があと半年だからです」

 「・・・」

 「私、末期のガンなんです。

 今まであまりいいことがない人生でした。

 だからせめて最期くらいは自分の理想の家で死にたいと思ったんです。

 病院ではなく、自分の大好きな家で最期を迎えたいんです」

 「私に「棺の家」を作れと仰る訳ですか?」

 「そうです」


 涼子はまるで他人事のようにそれを肯定した。


 「お断りします。

 家は生きるための場所です。しあわせに生きるための場所なんです。

 私がキッチンから家づくりを発想するのは、家族の笑顔は食卓から始まると考えるからです。

 死ぬのがわかっている人に、家は必要ではありません」

 「随分ストレートに仰るんですね?」

 「すみません、ヘンな気遣いは出来ない性分なので。

 「家が悲しむ家」を私は作りたくはない」

 「家が悲しむ?」

 「家は生きています。

 主を失った家はみるみる朽ち果て行きます。

 人がいなくなった家はやがて廃墟になります。

 草が生え、家が次第に傷んでいく。

 家とはそういう物なのです。

 そして家は人と同じ、永遠に未完成なのです。

 そこに暮らす人たちと共に進化し、後退もする。

 それが証拠に吉田松陰の松下村塾は今でもあの小さないおりに英知が宿っている」

 「私、海の見える場所で暮らすのが夢なんです。

 小坂明子の『あなた』の歌詞のような家で暮らすのが。

 一度、結婚に失敗してからずっとひとりでマンション暮らしをしていました。

 そして病気になりました。

 死ぬのが怖いんじゃないんです。せめて最期くらい、自分の夢だった家で死にたいと思ったのです」

 「門倉さんだけが死ぬわけではありません。

 私もその時がくれば死にます。死なない人間なんて誰もいませんよ。

 滅んでいくとわかっている家を作る意味があるんでしょうか?」

 「家にも生きる意味があるなら、私にも生きる意味はあるはずです。

 それって私のわがままでしょうか?」



 私は12年前、死のうと考えたことがあった。

 生きるのが面倒になったからだ。

 人生には不条理が多すぎる。私は生きる希望を失くしていた。


 そして今、眼の前にいるこの女はナイフを突きつけられながら毎日を生きている。

 そんな人間の最期の願いを、自分のくだらない拘りで消してもいいのだろうか?


 私は仕事を受けることにした。


 「ではひとつ条件があります。

 私の家づくりに文句を言わないこと。

 なぜなら1秒でも長く、門倉さんにその家で生きて欲しいからです」

 「文句なんて言いません。私、先生のファンですから」

 「では、ご希望を伺いましょう」

 「よろしくお願いします」



 午後の白い日射しが、私たちをやさしく包んでいた。 




第2話

 「それでは門倉さん、色々とお聞きしますのでよろしくお願いします」

 「はい、よろしくお願いします」

 「かなりプライベートな質問もしますので、答えたくない場合は答えなくて結構です」

 「わかりました。何でも訊いて下さい」

 「新居に住む方は門倉さんだけですか?」

 「はい。両親は既に他界し、兄弟もおりません」

 「お付き合いしている人は?」


 彼女は少し考えてからその質問に答えた。


 「病気になってから、お別れしました」

 「どんな人でしたか?」

 「年上の方で、2年ほどお付き合いしました。

 普通の人です。ただ結婚はしていましたけど・・・」

 「不倫ですか?」

 「そうなりますね。でもそれって家を作るのに必要なことですか?」


 腹立たしそうに言った。


 「答えたくないことは答えなくてもいいとお伝えした筈です。

 いい家を作るには、施主のことをどれだけ深く知るかなのです。

 家に関わらず、衣食住を提案する場合、相手の思考にどれだけシンクロ出来るかは重要なことです。

 服も料理も、そして家も同じです。

 お客様も知らない、お客様の好みを知ることで、お客様に驚きと感動が生まれる。

 服や料理は失敗してもまた簡単に作り直すことが出来る。

 しかし家はそうはいかない。

 特に日本人は新築に拘りがある。クルマも新車を欲しがりますよね?

 私の家づくりに時間が掛かるのはそのためです。

 施主となるべく長くお付き合いをして、依頼主の生活を知ることから始めるからです。

 大抵の場合、ご家族もいるわけですから、私はご家族全員と面談をします。

 小さなお子さんでも決して「ちゃん」付けで呼ばず、「さん」を付けて応対します。

 5歳の幼稚園児も10年後には15歳ですから。

 そしてよく食事を共にします。

 特に食事には人柄が出るものです。

 何が好きで、何が苦手か?

 どんな食べ方をして、どんな会話をするか?

 食事をするとその人がどんな人でどんな考えを持っているかがわかるものです。

 自宅へもお邪魔をします。稀に泊めていただくこともあります。

 本棚を見ればどんなことに興味があり、どんな思想を持っているかが分かります。

 額に飾ってある賞状やインテリア、グッズなども重要です。

 家は女性のためにあると言っても過言ではない。

 だから本音を言えば、ベッドを共にすることが、いちばん相手を知るには良いのですが、それは道徳的に許されるものではないですけどね? あはははは

 いかに施主の生活に馴染み、そして施主のご家族を幸福に出来るかを考えて図面を引く。

 着心地の良い、周りの人から憧れるような家。

 オーダーメイドの服を作るような家づくりが、私の理想なのです」

 「先生とベッドを共にするのはご辞退いたします。うふっ」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 お互い、それは逆の意味だと分かっていたからだ。


 「では質問を続けます。好きな小説家は?」

 「林真理子に渡辺淳一、宮部みゆきとかですかね?」

 「好きな音楽は?」

 「なんでも聴きますよ、クラッシックもJ-POPも、そして演歌も。

 石川さゆりとか、吉幾三も好きです。

 洋楽だとスティングやエリックカルメン、バニーマニロウとかも好き。

 後は椎名林檎に明菜ちゃん。アイドルならV6の・・・」

 「わかりました。V6もTOKIOも誰が誰だかわからないので結構です。

 ジャニーズが好きだということですね?」

 「特に岡田准一が好きです」

 「そんな気がします、門倉さんを見ていると。私も彼には好感を持っています。

 好きな役者は?」

 「役所広司さんが好きですね」

 「いい役者ですよね? 私も好きです。 

 今村昌平監督の『うなぎ』、あれは良かった」

 「私もあの映画は何度も見ました。

 ところで先生、私の家の好みについてはお訊きにならないんですか?」

 「さっきから聞いていますよ」

 「えっ? 私の好きなことばかりしか話していませんけど。

 どんなお部屋が欲しいとか、キッチンは対面にしたいとかお風呂は1.25坪にしたいとかを?」

 「好きなものを伺えば、どんな家にしたいのか、イメージが浮かんで来るものです。

 駄目な住宅屋はお客さんの家の好みしか聞かない。

 「ご予算は?」「どんな間取りにしたいですか?」「当社は高気密高断熱で・・・」とか。

 お客さんは家づくりの素人です。

 お客さんの要望のまま家を作るのは簡単な事です。

 髪型は日本髪、服はソニアリキエルのワンピース、靴はナイキのスニーカー。

 それで良い家になるわけがない。

 日本の街を歩けばわかるはずです。酷い家ばかりだ。

 それは作る側も、依頼する側も自分の都合で家を作ろうとするからです。

 たまにいい家だなあと思う家もありますが、ガッカリするのは無機質のカーポートが付いていることです。

 欧米では考えられない。

 そんな家が欲しいなら、テレビでコマーシャルをしている、利益重視のゴミ会社に頼めばいい。

 家は家族を守り、育む芸術なんです。

 家を考える時、大抵は住宅展示場に行きますよね?

 そこで出会う営業マンがいい営業マンかそうでないか? 一発で見抜く方法があります。

 家は営業マンで決まります。住宅会社に依頼する場合は特に」

 「どんな方法で?」

 「それは「あなたの趣味は何ですか?」と訊ねることです」

 「趣味?」

 「しかも即答出来ることが重要です。

 なぜなら仕事しかしない人間、夢のない人間に、「夢のある家」は作れないからです。

 本も読まない、映画も音楽にも興味がない。

 美術館にもカフェにも行かず、話題のレストランにも行かない。

 恋愛の経験も乏しい。

 そしていちばんダメな営業マンは、挫折を経験したことがない営業マンです。

 人の苦しみや悲しみに共感できない人間は、家を作る仕事をするべきではない。

 家づくりは感動なんです。

 依頼主が気付かない、日々の生活に幸福を感じられるような家。

 みんなが仲良く暮らせる家。人生は嵐の連続です、そんな家族を癒し、守ってあげられる家を作ることが私の建築家としての仕事なんです」

 「先生にお家を頼んで良かったと思います」

 「それは家が完成して満足した時に言って下さい。

 ではヒアリングを続けますね?」

 「お願いします」



 長時間に渡るプラン・インタビューが終わった。


 「今日のところはここまでにしましょう。

 体調は大丈夫ですか?」

 「はい、凄く楽しかったです。 

 こんなに笑ったのは久しぶりです。

 どんなお家が出来てくるのか、とてもワクワクして来ました」

 「気に入っていただける家にしますね?

 次回も今日の続きになりますが、今度はランチを挟んでのヒアリングにいたしましょう。

 何か食べたいものはありますか?」

 「先生のお勧めでかまいません。楽しみにして来ますね?」


 私の心は複雑だった。


 (この施主は本当に死んでしまうのだろうか?)


 こんな切ない家づくりは初めてだった。

 私は建築家ではなく、名医になりたいと思った。

 彼女を治せる、有能な医者に。




第3話

 私は約束通り、彼女をランチに招待した。


 「どうです? このお店は?」

 「ちょっと意外でした。先生ならおしゃれなイタリアンのお店なのかと勝手に想像していました。

 でも良かった。私、和食が好きなので嬉しいです」

 「ここのお店は僕のお気に入りなんです。

 私の設計したお店なんです。いい建物でしょう?」

 「先生のそういうところ、好きです。

 まるで子供が自分の工作を自慢するみたいで」

 「子供の工作? 酷いなそれは?」


 私たちはまるで恋人同士のように笑った。


 「ごめんなさい、「巨匠」に失礼なことを言ってしまって。

 先生にだけはお世辞も嘘も、おべんちゃらも言いたくないんです。

 先生にはこれからもなんでも言うつもりです。怒られても、気分を害されても。

 私は先生を全面的に信頼しているから」

 「それは僕も同じです。

 ここは何を食べても美味しいお店なんですよ。

 2年前、このお店は火事で焼けてしまい、そのご縁で私が建てさせていただきました。

 火災保険も下りず、大将は軽トラの屋台から再起したんです。

 前もすごく流行っていて、ミシュランの話もあったそうです。

 金沢の有名料亭で、二番板だった方です」

 「とてもいい御出汁の香りがします」

 「流石は門倉さんだ、いい嗅覚をお持ちです」

 「私、鼻だけはいいんですよ、ワンちゃんみたいに」

 「ここは利尻昆布と枕崎の鰹節をメインに出汁を取るそうです。

 「赤だし」のお味噌汁もとても美味しいですよ」

 「わあ、楽しみ。私、八丁味噌が大好きなんです」

 「では何にします? お好きな物をどうぞ」


 彼女は真剣にメニューを見詰めていた。


 「その割にメニューは普通ですよね? お値段もお手頃ですし」


 私は笑った。


 「どうして笑うんですか?」

 「食べてみればわかりますよ」

 「それじゃあ、この「中とろ定食」をお願いします」

 「では私は敢えて「海老フライ定食」にしようかな?

 ダメですよ、後でそれも食べたいなんて言っちゃ?」


 そこへオーナーがやって来た。


 「新ちゃん、今日は彼女といっしょかい? キレイな人だね?」

 「大将、のお客さんだよ。俺の大切なお客さん。

 中とろ定食と海老フライ定食をお願いします」

 「はいよ、特別バージョン、新ちゃんスペシャルを出してやるからよ」

 「大将、もう涎が出ちゃうよ」

 「牛じゃねえんだから。あはははは」


 オーナーは笑顔で厨房へと消えて行った。



 「新ちゃんだなんて、随分仲がいいんですね? 友だちみたい」

 「私のお施主さんたちはみんな、家族ですからね? もちろん門倉さんもです。

 私はみなさんと仕事をする時、初めにこう宣言します。



   「あなたたちのことはお客さんだとは思っていません」



 と。そして付け加えます。



   「家族だと思っています」



 とね? だから門倉さんも家族なんです。

 私は門倉さんを家族だと思って家を造らせていただきます。

 私たち家族の家を」

 「それって私の兄ということですか? それとも親戚の叔父さん?」

 「いえ、ロクデナシの夫です」

 「あら素敵。「あ・な・た」、なんてね?」


 本当に笑顔の美しい人だと思った。

 私は彼女の笑顔に見惚れた。



 料理が運ばれて来た。


 「何、なんなのこれ? 定食屋さんじゃないみたい! しかもこのお刺身、チルド?

 艶々してトロリとしているわ!」

 「どうぞ食べてみて下さい。

 私の分もすぐに来ますから」

 「それでは遠慮なく、お先に」


 刺身を口に入れた瞬間、彼女の顔がパッと輝いた。


 「こんなおいしいお刺身、食べたことがないです!

 それにこのご飯、ひとつひとつがちゃんと立っているみたい!

 とてもモッチリとして甘味がある!」

 「ここの大将はね? 「羊の革を被った狼」なんですよ。

 定食屋という名の「高級料亭」なんです」

 「茶碗蒸しには柚子のいい香り、そしてしなやかなうどん。

 薄い白出汁醤油なのかしら? とてもおツユがきれい・・・。

 大葉の天ぷらなんて、銀座の老舗天ぷら屋さんにも決して引けを取らないわ。

 それにこの糠漬の奥深い爽やかさ。

 もう、死んじゃい・・・」


 彼女はそれを言いかけて止めた。


 「ね? 驚いたでしょう?

 私もこんな料理みたいな家づくりを心掛けています」



 女将が料理を私の海老フライ定食を運んで来てくれた。


 「はい先生の海老フライ、お待ちどう様」

 「女将さん、相変わらず大繁盛ですね?」

 「誰かさんの設計と、大将のおかげね?」

 「大将のおかげですよ。そして美人で気の利く女将さんがいるからです」

 「このお店、どんどん私たちにも、そしてお客さんたちにも馴染んで来るというかホッとするというか、何だか安心するのよねー。

 良かったですね? 新ちゃんにお家をお願い出来て。

 この先生、嫌いな人の家は絶対に作ってくれないのよ、生意気でしょう? うふっ」

 「女将、せっかくの海老フライが冷めちゃうよ」

 「はいはい、ではごゆっくり。

 あとでチーズケーキ、サービスしてあげるわね? もちろん珈琲も」

 「ありがとうございます。さあて、熱々のうちに食べようかなあー」

 「随分大きな海老フライですね?」

 「でしょう? 食べたいですか?」

 「食べたい・・・、です」


 彼女は少女のようにはにかんで見せた。


 「では、特別ですよ?」


 私はもう一本の海老フライを彼女の皿にそっと乗せた。


 「あの~」

 「何ですか?」

 「そのタルタルソースもいいですか?」

 「あっ、そうでしたね? これは失礼しました。

 海老フライにはこれじゃないとね?

 ここのタルタルソースは、ピクルスの代わりに「ラッキョウ」が入っているんですよ。

 もちろんマヨネーズもすべて大将の自家製です」


 彼女はその海老フライを食べた。


 「うーん、すごーい!

 こんなに美味しい海老フライ、初めて食べました!」

 「良かった、門倉さんに喜んでもらえて。

 どんな家にするか、今日で大体まとまって来ましたよ。

 土地はいくつか選定しておきましたから、これからクルマで見に行きませんか?」

 「是非お願いします」


 彼女はうれしそうに食事を続けた。

 それはまるで高校生のように。 




第4話

 高速道路の白いセンターラインを吸い込むように、クルマは滑らかに走っていた。


 「いい天気で良かったですね?」

 「海にドライブなんて何年ぶりかしら?」

 「高速で1時間ほどで太平洋に出ます。いいですよね? 海は」

 「先生が羨ましいわ、そんなに簡単に海に来れるところに住んでいるなんて」

 「僕は門倉さんの方が羨ましいですよ。

 だってこれからは毎日海を見て暮らせるんですから」

 「いいなあ、海。大好き。

 早く海の見える家に住みたい」

 「海が見える建築地を3か所リストアップしておきました。

 私も今日、初めて訪れます。

 法律的な条件やロケーション、価格、土地の性質的な物はおおよそチェックしておきましたから、あとは門倉さんとの相性ですね?

 家づくりは加点方式なんです。

 これも付けたいあれも欲しいというように。

 でも土地選びは減点方式なんですよ。

 すでに出来上がっているわけですから、どこまでその土地の条件で妥協出来るかなんです。

 たとえば中学は遠いけど小学校は近いからいいとか、コンビニは近くにはないけどショッピングモールならクルマで5分だとか。

 駅には遠いけどバス停は近いとか、その土地で「どこまで許容出来るか?」なんです。

 土地選びは大切です。料理を乗せる器ですから。

 料理に器を合わせるか? 器に料理を合わせるかなんです、建築は」

 「どっちがいいんでしょう? お料理か、それともお皿か?」

 「門倉さんの家づくりは「海の見える家」がコンセプトですから、土地に家を合わせるべきです。

 だから私が作る家に合う器、土地を見つけます」

 「どんなお料理になるのか楽しみです」

 「実は昨日、ラフ・イメージを作っておきました。

 それを各々の土地に配置してみました」

 「えっ、もうですか?」

 「あくまでもラフですよ、私の悪戯いたずら描きです」

 「見たい見たい! 今すぐ見たい!」

 「ダメです、現地に着いてからご披露いたします。

 その方がよりイメージし易いので。

 気に入っていただけるかどうかは分かりませんが、門倉さんに初めてお目にかかった印象を大切に描いてみました。

 先ほど食事をしながらお話をしていて、私のイメージ通りだと確信しましたが、お気に召すかどうかはわかりません」

 「凄く楽しみです、私のために先生が考えてくれた家の設計プラン。

 どんな家なのかしら?」


 


 料金所を通り抜けると、遠くに海が見えて来た。


 「あれ、海ですよね?

 少し窓を開けてもいいですか?」


 私は助手席のパワーウィンドウを開けた。

 少し湿った潮風が車内に入って来た。


 「海の香りがする」

 「なんだかホッとしますよね?

 ナビだとあと10分ほどで最初の候補地に着きます」



 そこは住宅地というよりも、近くにゴルフ場もある、リゾート地のような場所の土地だった。

 別荘のような家が疎らに点在している。


 遠くの岬には灯台が立っていた。

 小高い丘にあるその土地の眼下には、果てしない太平洋が広がっていた。

 海に沈む夕日は見えないが、日の出にはこの海全体が黄金に輝くことだろう。


 心地よい海風が吹き抜けて行く。

 彼女のスカートの裾が、やさしく風にそよいでいた。



 「いかがです、この場所は? いい風が吹いて・・・」


 そう言いながら私が彼女を振り返った時、彼女の瞳から大粒の涙が零れていた。

 彼女はその涙を拭おうともせずにこう言った。


 「ここに決めました。

 ここがいいです、ここにお家を建てて下さい」

 「でもまだ1か所目ですよ? 他も見た方がいいのではありませんか?」

 「いいんです、ここで。

 ここがいいんです。ひと目惚れしました。

 それに他を見たら迷うと思うんです。

 だからここでお願いします」


 確かに彼女に残された時間は少ない。

 土地選びに時間を掛けるわけにはいかなかった。


 これで料理を乗せる皿は決まった。

 私は図面ケースからイメージ・パースと平面、立面図、そして配置図を取り出し、クルマのボンネットの上にそれを広げて見せた。



 「これです、私の考えた門倉さんの「海の家」のイメージは」


 彼女は大きく目を見開いて、私の描いたパースに釘付けになっていた。

 

 「・・・すごい、これが私の家・・・」

 「海の景観を壊さないように考えてみました。

 緑の屋根に白いラップ・サイディングの壁。

 建築資材には風や塩害に強い物を考えてあります。

 屋根の形を急勾配にしたのは平屋の場合、屋根を低く設定すると、逆に有効風圧面積を広げることになり、軒の部分からも風が屋根を持ち上げようとします。

 建物は簡単には倒れませんが、屋根を持っていかれることもあります。

 コスト面から考えると低い屋根が理想でしょうが、今回は屋根をわざと高くして、勾配をキツくすることで風を逃がす設計にしました。

 これは実際の流体力学に基づく考えです。

 そして小屋裏を吹抜けにすることで室内の解放感を演出しました。

 玄関は茶色にしました。本当は木製の方が質感はいいんですが、ヘムロックやボンデロッサ・パインを使うと塩害の心配があります。

 海側の窓は大きな窓にしました。海が身近に感じられるように。

 つまり200インチの大型ビジョンに、いつも『海』という映像が映し出されているわけです」

 「海と家が一体なんですね?」

 「その通りです。では間取りをご説明します」


 私は近くに落ちていた木の枝を拾い上げ、地面に間取りを描いていった。


 「平面図をご覧下さい。

 まずこちらが玄関になります。玄関を開けるといきなり海の見えるLDKになります。

 ゆったりとした対面キッチン、奥行のあるパーティ仕様の天板にしてみました。

 そしてここがトイレです、車椅子でも使い易いように広く2帖にしました。

 お風呂はここになります。引戸にしてありますので開けたまま入浴することも可能です。湿度の低くなる冬場には有効になります。

 こちらも車椅子でも中に入れるように3本引きの引戸にしました。

 洗面所はニー・スペースを取り、椅子を置いて使うことも可能です。

 寝室はこちらになります。

 海の見える8帖を取りました。それから・・・」

 「ありがとうございます。

 もうお家が見えるようです、私のお家が」


 すると彼女は小坂明子の『あなた』を口ずさんだ。



      もしも わたしが 

       家を建てたなら

 小さな家を・・・ 



 「あなたの家、私に任せて下さい」

 「先生、よろしくお願いします」


 そう言って門倉さんは私に手を差し出し、私に握手を求めた。

 私はその手を強く握った。

 その手はとても冷たく、か細い手だった。




第5話

 無事に土地の売買契約も終わり、私は本格的にプランの作成に入った。


 「では、これから確認申請の段取りをします。

 つまり、建築基準法に基づく設計に入るということになります。

 これで建築の許可が下りればいよいよ着工です」

 「建築確認が下りるまでには何日くらい掛かりますか?」

 「建築指導課に提出すると10日から2週間はかかりますが、民間の業務委託された建築センターへ提出すれば比較的早く下ります。

 ゆえに今回は建築センターで建築許可を取ることにします」

 「いよいよですね? ワクワクしてきました。

 よろしくお願いします」

 「それではまず、全体的なイメージはこれでいかがですか?」

 「先生のイメージでお願いします。

 あのグリーンの大きな屋根も、私が希望していた通りですから」

 「そうでしたか。平屋は意外とコストが掛かりますし、殆どの場合、「町の集会所」みたいなものが多いのが現状です。

 なぜだと思いますか?」

 「どうしてですか?」

 「面倒だからです」

 「面倒?」

 「平屋を希望される方の殆どは高齢者か、少人数での同居になります。

 2人とか3人とか。

 どうしても業者から甘く見られてしまう傾向にあります。

 住宅会社は原価を抑えようと、ダウンサイジングと部材をケチる。

 その結果が集会所なんです。

 ちなみに奇抜な家もダメです。

 テレビで劇的リフォームを売りにしている番組がありますよね?

 まともな住宅屋はあんな奇抜な家は作れても作らない。

 なぜならすぐに飽きることが分かっているからです。

 数カ月はいいかもしれません、でも、じきに思うのです、「なんでこんな家にしちゃったんだろう?」と。

 気の毒な話です。

 平屋は難しい。

 無駄な物を徹底的に排除して、洗練された家を作る。

 屋根ひとつ取ってもそうです。

 風の影響を考えれば通常は勾配を緩くする。

 しかし、海沿いの風は凄まじく強い。

 だから風が上手く逃げるように設計し、屋根の構造を頑丈にして重量を増す。

 コストはかかるが、安全と耐久性には代えられません。

 サッシもそうです。

 最近はトリプルサッシも使われるようになりましたが、熱貫流率が3倍向上するわけではない。

 サッシの重量は殆どがガラスなので、それだけ建物の構造にも負担が掛かるわけです。

 遮音性能は上がるかもしれませんが、要は適材適所に何を使うかなのです。

 高断熱高気密住宅は表裏一体なんです。

 断熱と機密は両輪でなければならない。

 断熱材を厚くしても隙間が多いと効果は劣ります。

 海沿いにおける塩害対策も重要です。

 瓦屋根がいいと考えますが、どんどんトップヘビーになり重心が上がってしまう。

 そして瓦屋根の場合、風速が37m/sを超えると飛散する危険が高まる実験結果が出ています。

 外壁も通常のハウスメーカーは16mm厚のサイディングを使いますが、それはコストとデザイン、後のクレームを考えてのことです。

 だが外壁に塩が付いたり汚れたりすると、ケルヒャーなどの高圧洗浄機を使用することを考えますが、それは避けた方がいい。

 外壁をコーティングしているシリカが剥離してしまうからです。

 海に家を建てることは色々な面を総合的に考慮しなければならないのです」

 「構造や材質についても先生にお任せします」

 「かしこまりました。では内部はどうでしょう?

 何かご希望はありますか?」

 「間取りはこれでお願いします。

 かしこまった人は訪ねて来ませんし、それに玄関からすぐにLDKだと何かと都合がいいですから」


 おそらく彼女は自分の遺体の搬出を考えているのだろう。

 それを想うと切なくなった。


 どうしてこんなやさしい誠実な人が、人生の半ばで死ななければならないのだろう?

 それはあまりに不公平ではないのだろうか?


 「では、水回りはいかがですか?」

 「車椅子になる前にいいんですけどね?

 トイレも洗面も、お風呂もそれで結構です。

 色とデザインは後でもいいですか?」

 「もちろんです。

 ではキッチンはどうでしょうか? 

 私はあまり対面キッチンはお勧めしません。お料理が好きな方には向かないからです。

 現実問題として、見せるキッチンか使い易いキッチンか? ということになります。

 特に共働きの場合は家事炊事の効率化は大前提になります。

 対面キッチンはお洒落ですが、お玉やフライパン、鍋などは吊るした方が使い易くて衛生的です。

 布巾やまな板、グラスなどを考えると壁を利用した方がいいからです。

 理想はフレンチやイタリアンの厨房です。

 システムキッチンは見せるためのキッチンなのです。

 でも門倉さんのように、ひとりで炊事や食事をされることを考えると、そのままキッチンで作って食べる方がいいし、後片付けもラクです。

 そして大好きな海も、テレビや映画も見ることが出来る。

 ゆえに対面キッチンの奥行が850mmタイプがいいと思います。

 キッチンの高さについては身長の半分プラス5cmが基準ですので850mmから900mm、870mm等もあります。 

 車椅子となると700mmから750mmがいいかもしれませんが、洗面所は椅子を使うニースペースはあってもいいですが、キッチンについては車椅子は危険です。

 キッチンについてはとても一度では説明し切れません。そして一番楽しいところでもあります」

 「ショールームで現物も見ることも出来ますか?」

 「もちろんです。住宅設備機器の選定にはショールーム見学も予定していますのでご安心下さい。

 LDKは解放感を出すために吹き抜けにしてもよろしいですか?」

 「実は吹き抜けにしたかったんです。構造材は見えてもかまいません」

 「それはよかった、私もそのつもりでしたから。

 そして重要なのが壁と床です。

 壁は遠赤外線の線量が多い、珪藻土と漆喰を混ぜたものを考えています。

 NASAの研究によると、生物が生存するためには遠赤外線が欠かせないそうです。

 冷暖房の効果も格段に違います。

 ご存じのように遠赤外線も電磁波ですから、人体の7割が水だと言われていますので、その水分子に影響してくるので、炭火焼肉などと同じ原理でカラダの内部までも温まります。

 次に重要なのが床です。

 あまり硬い材質だと足が疲れてしまいます。かと言ってスリッパやサンダルも不便です。

 コンクリートの上を裸足で歩くと疲れ易いですよね? それに脳やカラダへの衝撃も良くはありません。

 それからお手入れ。既成のフローリングはお手入れはし易いですが、有機性化合物が多い物はお勧め出来ません」

 「床材の先生のお勧めは何ですか?」

 「もみですね? かなり高価ですが、門倉邸には樅を考えています」

 「照明はランプみたいなものが好みです」

 「私も同意見です。夜は山小屋みたいなやさしい感じはどうでしょう?」

 「いいですね! 是非それでお願いします!」


 いつの間にか宵闇が迫っていた。


 「お腹空きましたよね? 今夜はイタリアンをご馳走させて下さい」

 「また先生の作ったお店ですか?」

 「あはは その通りです」

 「楽しみです、先生の作品とイタリアンのお食事」


 彼女は嬉しそうに笑った。




第6話

 マホガニーと漆喰で作られたそのイタリアンレストランは、ワインレッドのテーブルクロスが掛けられた円卓が

15卓ほどあり、ソムリエもいる本格的な店だった。



 「上品なお店ですね?」

 「お店は上品ですけど料理は意外にワイルドですよ。

 もちろん、大盛りであるとか、粗野という意味ではありません。

 ガツンと来るイタリアンです」

 「楽しみだわ。でも、ドレスコードは大丈夫かしら?

 もう少し、お洒落してくればよかった」

 「門倉さんはこの店にも、お料理にも負けていませんから大丈夫です。

 そう私が判断したからここへお連れしました」

 「先生といると、いつもいい気分にして下さるからうれしいです。

 お家、もっと早くお願いすれば良かった」

 

 そこへソムリエの川久保がやって来た。


 「いらっしゃいませ、宮永先生。いつもありがとうございます。

 後でオーナーシェフのマルコも参ります。

 今日のコースは春も終わり、梅雨に入る前のイメージのお料理ですので、ルーチェ・デッラ・ヴィーテルチェンテの2017年物がお勧めでございます」

 「川久保さんのお勧めならそれでお願いします」

 「かしこまりました」


 彼女は店内を見渡して言った。

 

 「この前の定食屋さんもそうでしたけど、宮永先生の作るお店は明るいですよね?」

 「私は暗い飲食店は嫌いなんです。

 だってせっかくの料理や酒が見えないじゃないですか?

 よく暗い店で、テーブルの中央だけがスポットライトで照らされているお店もありますけど、あれは料理人に自信がないからだと思います。

 だってそうでしょう? 料理に何が入っているかわからないじゃないですか?

 照明の暗い鮨屋なんて入りたいですか?

 料理は目でも楽しむ物です。

 まあ、料理を楽しむためではなく、その目的が女性を口説くためのお店なら話は別ですけどね? あはははは」

 「じゃあ先生は、私を口説く気はないということですね?

 先生もそんなお店に行くこと、あるんですか?」

 「それはありますよ、私だって男ですからね?」

 「うふっ、そう見えます」

 「今日はコースですので、嫌いな物や食べられない物は残して下さい。私が食べて差し上げますから」

 「ご心配には及びません、全部食べます」


 そう言って微笑む彼女の瞳に店の灯りが美しく映っていた。


      美人薄命


 この美しい女性があと数カ月で死んでしまう?

 とても私には信じることが出来なかった。



 アンティパストが運ばれて来た。


 「イタリアンの前菜は肉の赤、チーズの黄色、そして野菜の緑でイタリア国旗をイメージして作られると言いますが、このアンティパストを見ただけで私の言ったワイルドという意味がわかりますよね?」

 「仰る意味がよく分かりました。野生に満ちた魂を持った貴公子のようなお料理。

 この繊細なワインも、この素敵なお店も、そしてこのヴィヴァルディの音楽のすべてが混然一体になっているんですね?」

 「食べるという行為は人生を豊かにしてくれます。

 イタリア人はよく言いますよね? 人生はMangiare(食べて) Cantare(歌って) Amore(愛し合う)だと。

 私の座右の銘です」


 そう言って私は照れ笑いをした。

 その時、彼女のナイフとフォークを動かす手が停まった。


 「死にたくない・・・。

 私、本当は死にたくないんです。

 家を作る前までは、早く死にたいとさえ思っていました。

 今、先生に会ったこと、後悔しています。

 だって先生のお話を聞いて一緒にいると、もっと生きたいと思うからです。

 今までの私の人生は、一体なんだったんだろうって?

 短大を卒業して法務局に入りました。

 単調な毎日でした。

 朝、役所に行って、夕方、残業も無く帰る生活。

 恋人も友だちもなく、孤独でした。

 そして職場の上司との不倫。

 病気になり、余命宣告をされた私を捨て、私をまたひとりぼっちにしました。

 私、まだ人生を全然楽しんでいないんですよ。

 もっともっと、楽しいことが沢山あった筈なのに・・・」


 ポタポタと彼女の目から涙が零れた。

 私はその涙がテーブルクロスに沁み込んでいくのをただじっと眺めていた。


 「後悔のない人生なんてありませんよ。

 私も後悔の連続でした。

 現に今も後悔しています。

 なんでもっと早く、門倉さんに会えなかったのかと。

 そうすれば、もっと初期の段階であなたの病気に気付いてあげることが出来たかもしれない。

 病気も治せたかもしれない。

 手遅れにならずに済んでいたかもしれない。

 ああしておけば、こうしてあげれば良かったとね?

 私が言えることではありませんが、人生なんて長生きしたからいいというものじゃない。

 いかに生きたかなんです。

 門倉さんは今まで真面目に生きて来た、誠実に。

 それはとても素晴らしいことだと思います。

 食事を続けましょう。

 たとえ明日、この世が無くなろうとも、この一瞬を大切にしましょう」


 私はワインを飲み、料理を口に運んだ。

 かのゲーテは言った。


   涙と共にパンを食べた者でなければ

   人生の味はわからない


 今、私たちはその人生の味を噛みしめていた。




第7話

 女を自分の寝室へ招き入れたのは、いつのことだっただろう?

 私たちは無言でキスをした。

 ただ自然に。


 それは彼女への同情でもなく、梅雨になってアジサイの花が開くように、私たちは愛し合った。

 どちらから誘うでもなく、それはまるで出会った時からこうなることが決められていたかのように。


 部屋の灯りは消したままにした。

 それは病に蝕まれた、彼女の衰えたカラダを晒すことが忍びなかったからだ。


 「灯りを消して・・・」


 と、涼子に言わせたくなかった。

 だがカーテンは全開にした。

 スーパームーンの青白い月光が、私たちの若くはない肉体を、やさしく照らしていた。



 「あったかいのね? 人のカラダって?」


 私は冷たい涼子の体を抱きしめ、何度もキスをした。


 「こうしていると、ずっと前からこうしていたみたいだ」

 「ホント、ずっとこうしていたみたい・・・」


 私たちはじっと身じろぎもせず、お互いのカサついた愛を持ち寄った。

 肉欲だけのそれではなく、お互いの愛がすり抜けていかないように、私と涼子は肌を合わせた。

 それはとても心地良いものだった。

 そこにはお互いを想う、ゆるぎない信頼関係が存在していたからだ。


 「ごめんなさいね? 私、もうオバサンだから・・・」

 「素敵だよ、とても」

 「オッパイだって、小さいし・・・」

 「好きだよ、この胸。そして君のすべてが好きだ」

 

 私は涼子の緩やかな起伏の頂に口づけをした。

 涼子の体がビクンとそれに反応した。

 そして涼子が言った。


 「ここ、触ってもいい?」

 「もちろん」

 「うれしい・・・。凄く硬くなってる・・・」

 「君のおかげだよ」

 「やさしくしてね・・・。

 もう随分こうゆうことがなかったから・・・」

 「痛かったら言ってくれ」

 「うん・・・」


 彼女のソコは、十分挿入に可能なほど濡れていた。

 私は静かにそこへ自分を宛がうと、予告をした。


 「それじゃあ、ゆっくりと入れるよ?」

 「はい・・・」


 涼子は囁くようにそれに同意した。

 私が亀頭の部分を滑り込ませた時、涼子が軽く呻いた。


 「痛っ・・・」

 「大丈夫?」

 「大丈夫・・・、ゆっくりお願い」


 ショートケーキに付いている、薄いビニール・フィルムを剥すように、私は彼女の中に自分を慎重に進入させていった。

 彼女の顔から苦悶する表情が消え、顎が上がり、甦る快感に白いシーツを握り締めた。

 私は自分のペニスの根本が涼子の入口まで到達したことを確認すると、そのまま動かず、彼女がそれに慣れるまでじっとしていた。


 「あなたが私の中に入っているのがわかるわ・・・」

 「温かくて、いい気持ちだよ」

 「少し、動いてみて・・・」


 私はゆっくりと腰を動かし始めた。

 ゆっくりと、滑らかに。

 彼女の熱い吐息が漏れて来た。


 「大丈夫みたいだね?」


 涼子は黙って頷いた。

 その動作をしばらく続けていると、涼子が言った。


 「生理はもうないから大丈夫、そのまま中に頂戴」

 「じゃあ、その時が来たら僕の腕を掴んで合図してくれ。そのまま出すから」

 

 涼子は眼を閉じ、頷いた。



 やがて彼女のか細い指が、強く私の腕を掴んで叫んだ。


 「来て!」


 それは今までのセックスでは経験したことのない射精感だった。

 月の光の中で、私たちはお互いの優しさを、体全体に感じた。

 まるで新婚初夜のように。




第8話

 私の家にはあまり物がない。

 自分が描いた絵が数点と、観葉植物のアレカヤシとパギラ、そしていくつかのサボテン。

 床にはチーク材を使い、壁は漆喰にした。

 黒革のソファーに大きなオークのダイニングテーブルと、壁掛けの大型テレビ。

 それと趣味のオーディオセット。

 あとはグランドピアノが一台、あるだけの家だった。


 それは作曲家が家であまり音楽を聴かないのと似ているかもしれない。

 坂本龍一はオフィスで音楽を聴かないらしい。

 自分以外の音楽は、創造の妨げにしかならないからだ。

 私は自分のいる空間は、なるべく白いカンバスのままにして置きたかった。


 ストイックに生活することが、自分の作品のクオリティを高めることになると信じていた。

 つまり、自分の欲望を創作へのエネルギーに変換して来たつもりだった。

 だが、それも危うくなった。


 涼子はレタスの葉を指で千切り、サラダの準備をし、私はベーコンエッグを焼いていた。

 女と並んでキッチンに立つことなど、今まで一度もなかった。

 今まで付き合った女はいたが、私が作るか、女が作るかだった。


 「ねえ、トマトはどうする? 私はキューブにざく切りするのが好きなんだけど?」

 「俺もそれが好きだ。あと玉ねぎを多めで頼む」

 「私も玉ねぎ大好き。みじん切りでいいよね?」

 「ああ、それでいい。ベーコンはどうする? 俺はカリカリに焼いた方が好きだけど?」

 「私も同じ。

 なんだか私たち、好みが一緒みたいね?」


 こんな何気ない会話が、今の私たちにはしあわせだった。


 「カフェ・オ・レでいいか?」

 「うん、ミルク多めでお願い」


 いつもはエスプレッソだったが、今日は涼子に合わせてカフェ・オ・レにした。

 彼女の体には刺激が強いと思ったからだ。



 「では、いただきます」


 白いレースのカーテンから、新鮮な朝の光が差し込んでいた。

 白い食器やグラスが輝き、そしてそこには涼子の笑顔があった。

 

 「フリージアの香りって好き。お花はいつも飾っているの?」

 「近所の花屋で金曜日にね。

 独身男の家は殺風景だからな? 女の代わりだよ」

 「何年振りかしら? 男の人と朝食を食べるなんて?」

 「俺も同じだよ」

 「朝食って特別だよね?」

 「昔はよく「夜明けの珈琲」とか言っていたけどな? 珈琲だけじゃ味気ない」

 「そして一緒に作って、一緒に食べる朝食。

 すごく理想だったの、この朝食のカンジが」


 彼女も私と同じことを考えていたようだった。


 「ブラームスとモーツアルト、どっちがいい?」

 「ブラームスかな? 今の気分は」



 私はカラヤン指揮のベルリンフィルのレコードに、慎重にレコードプレイヤーの針を落とした。

 ヴァイオリン協奏曲ニ長調。


 涼子はカフェ・オ・レのカップを白い手で包み込むように飲んでいた。

 

 「海の家が完成するまでの間、ここで一緒に暮らさないか?」

 「えっ」

 

 そして彼女はカフェ・オ・レに視線を落とした。


 「ダメよ。私、もうすぐ死んじゃうんだよ?」

 「死なないやつなんて誰もいない。

 俺もいつかは死ぬ。それに君より先に俺が死ぬ可能性だって十分にある」

 「これ以上、しあわせになったらお家が完成する前に死んじゃうかもしれない。

 ありがとう、でも、凄くうれしい・・・」

 「君への同情で言っているわけではない。

 恋とは下に心と書くだろう? 

 恋は下心なんだよ。


        take and take


 相手から奪うもの、それが恋だ。

 でも愛は心が真ん中にある、あれもしてあげたい、これもあげたいという献身の想いだ。


        give and give


 それが愛だと思う。

 僕は君にもっと沢山のことをしてあげたい。

 君を愛したいんだ」

 「でも新一さんに私がしてあげられることはあまりないわ。

 そしてこれからさらに、あなたへの負担が増えていくのよ?」

 「君に出来ることはある。君だけにしか出来ないことが」

 「それはどんなこと? お掃除もお料理もお洗濯も出来なくなっていくのよ」

 「君にその時が来るまで、笑顔でいてくれたらそれでいい。俺はそれで満足だ。

 僕は君を笑顔で送りたい」


 私は涼子を後ろから強く抱きしめた。


 「逆らっても駄目だ、もうそう決めたんだ。

 ここで一緒に暮らそう」

 

 彼女は私の手に自分の手を重ねた。


 「海の家が出来たらどうするの?」

 「そこで一緒に暮らそう、毎日海を見ながら。

 そしてお互いを見詰めながら、自然に」


 私たちはそっと唇を重ねた。

 ブラームスの音楽に包まれて、カフェ・オ・レの味がした。




第9話

 確認申請の許可が下りた。

 いよいよ着工である。

 普通のハウスメーカーなら、着工前にはクロス、電気配線や照明器具、住宅設備機器、場合によってはカーテン、外構工事までもが決めさせられてしまう。

 まだ現物が出来上がってもいないのにだ。

 その理由は会社主導で建築を進めることにより、効率良く業務を進め、利益を確定させることにある。

 つまり、打ち合わせが多くなるのが面倒だからだ。


 契約まではニコニコ顔で、契約後は掌を返す営業マンは多い。


 「契約後は俺たちがイニシアチブを握るんだ」と平気で公言する営業もいる。

 他の商品と住宅が大きく違うのは、クルマのように完成品ではないということだ。

 家は出来てみないとわからない。

 ゆえに家を選ぶ前に人を、会社を選ばなければならない。

 会社の中でお客さんを呼び捨てにしている最低の営業マンもいるのだ。

 

 だがお客さんの側にも礼儀を知らない人も多いのも事実だ。


 「俺は客だ!」


 悲しいかな、そういう態度の輩もいる。

 「作らせていただく」という業者と、「作っていただく」という施主の、良好な関係がないと良い家は出来ない。

 我々は慣れているので完成のイメージは既に出来てはいるが、殆どの施主は初めての家づくりである。

 建物の施工が進んで行くと、


    「もっと良くしたい!」

    「間違っていた!」

    「イメージと違う!」


 当然である。

 そしてネットでの情報を鵜呑みにする施主も多い。

 いちばん困るのは「家づくりのブログ」を参考にする施主だ。

 失敗例はいい、問題なのは「こうして良かった」である。

 ブログのネタを誇張するがために、どうしてもオーバーな表現になってしまうからだ。

 経年変化も考えていないことも多い。

 そしてよく言われるのが、


  「メンテナンスのかからない家にして下さい」


 である。家は生きている。愛情を込めて育てていかなければならないのだ。

 手を掛けることで家に愛着が生まれる。

 家はそこに住む家族の話をじっと聞いているのだ。


 「こんな家、建てなきゃよかった」


 そして家族が喧嘩ばかりしていると家は悲しみ、その家族を家から追い出そうとする。

 家は家族を嵐の海から守る船なのに。


 私の場合は工程に支障が出ないギリギリまで色決めを伸ばす。

 床や建具もそうだが、クロス、カーテン、照明器具は木工事の完成ぎりぎりまで待つことにしている。

 建物が完成に近づいて来るとイメージがし易いからだ。

 私は家づくりを施主に楽しんでもらいたいし、自分たちも楽しみたい。

 家づくりの成功は施主と業者、職人がワクワクすることにある。

 なぜなら物には作る人たちの魂が宿るからだ。


 ただし、水回りについては先行配管が必要になるので色は別として、物は先に選ぶ必要がある。

 特に私の場合、フルオーダーシステムなので、着工までには決定しなければならない。

 今日はキッチン、バス、洗面台、トイレを選びにショールームへやって来た。


 

 「どれを選んでいいのか迷っちゃう」

 「好きな物をゆっくり選ぶといい。

 まずはトイレから行こうか? 気に入らない場合は他のショールームを見てもいいからね?」

 「でも同じメーカーさんの物で統一した方がいいんでしょう?」

 「大丈夫だよ。大手の住宅メーカーでは事前に大量発注するので、標準の住設機器は既に決められてしまっている。

 でも私の場合は好きな物を選んで構わない。

 ただし、修理やメンテには同じ物で統一した方がいいけどね? いろんな業者が来るのも面倒だから」

 「わかったわ、新一の言うとおりにする」


 涼子は楽しそうにショールームの中を見渡していた。



 「本日担当させていただきます、寺館です。

 よろしくお願いします」

 「こちらはいつもお世話になっている寺館さんだ、とても頼りになる人だよ。

 僕たちの家なんだ、よろしくね?」

 「えっ? 宮永先生の奥様ですか?」

 「うん、女房なんだ」

 「先生、独身じゃなかったんですね?」

 「ひとりは寂しいからね?

 やっと僕でもいいという人に巡り会えたんだ」

 「それはおめでとうございます!

 相変わらず素敵なお家ですね? これは先生ご夫婦の別荘ですか?」

 「いや、自宅なんだ。

 海の見える家でね、凄くいいところだよ」

 「海の見える家だなんて、素敵ですね?」


 涼子はさりげなく、私と手を繋いだ。

 私たちはトイレから見学を始めることにした。


 「お洒落なデザインね?」

 「今はタンクレスが主流だからね?

 極端な節水タイプは排水管への影響もあるからあまりいいとは言えない。

 それが売りの会社も多いけどね?」

 「じゃあこれでいいわ、色は白でお願いします」

 「かしこまりました。オプションはいかがしますか?

 自動開閉とか便器のライトとかもございますが?」

 「僕は立ったままはしないし、蓋の開け閉めくらいは自分でするよ。

 それに便器の中を照らす照明はいらない。

 トイレの照明は100wの人感センサーのダウンライトだしね?」

 「あなたの言う通りでいいわ」

 「洗面台は椅子を使うので、ニースペースのある物でお願いします」

 「ではこちらの1種類になりますが?」

 「色は選べるんですよね?」

 「もちろんでございます」

 「じゃあ扉は床に合わせて欲しいんですけど」

 「床は樅になるから将来は飴色になる。 

 するとこのミディアムオークが妥当だろうな?」

 「かしこまりました」

 「次はお風呂になります」

 「お風呂はあなたが決めて。私はお風呂にあまりこだわりはないから」

 「それじゃあバスは飛ばそう。

 キッチンをお願いします」

 「うわー、楽しみー!」


 涼子がキッチンに立てなくなっても、私が料理をするので天板の高さは900mmにすることにした。

 高く設定しておけばサンダルを履けば調節出来るからだ。

 天板が低いと腰が疲れる。


 「天板はこのキラキラしたクォーツ・ストーンのブラックにしたい。

 パンとかウドンも作りたいし。

 黒だと粉が目立つし、白いお皿も栄えるでしょう?」

 「それからアルカリイオン整水器を付けよう。

 浄水器だけだと水道水のトリハロメタンなどは除去出来ても、イオン分解することで水の分子がきれいに並んで出て来るんだ。

 体への吸収もいい」

 「わかったわ。シンクの色は選べるわよね?

 私はこの白がいいなあ」

 「はい、では換気扇はいかがでしょう?」

 「換気扇は最新鋭の物にして下さい、寺館さんに任せるよ」

 「かしこまりました」

 「キッチンの換気は重要だからね?

 あとは君がキッチンに立ってワクワクするかどうかだ。

 炊事をするのが楽しくなるようにしよう」

 「ではワクワクするキッチンにして参りましょう。

 なんだかとっても素敵なお家になりそうですね?」



 

 私たちはラーメンを食べて帰ることにした。

 並ぶような店は彼女の負担になるため、小さな街中華の店にした。



 「ここは結構穴場なんだよ、常連さんばかりなんだ。

 中華そばと餃子を下さい」

 「今日は奥さんと一緒かい?」

 「どうしても一度、ここに連れて来たくてね?」

 「それじゃあこれ、サービス。

 俺が作ったザーサイ、旨いぜ」

 「ありがとう、よかったな? 涼子」

 「うん」



 昔ながらのナルトが乗った、シンプルな中太縮れ麺の醤油ラーメンだったが、スープは本格的だ。

 この店はガイドブックや食べログには乗っていない。

 大将が有名店になることを嫌っていたからだ。

 そして忙しくなると味が落ちるからだという。

 

 「俺と女房でやれる店でいいんだよ。

 カネなんかあの世に持ってはいけねえからな?

 俺の作る料理を旨いと言ってもらえばそれでいいのさ。

 好きな料理を作っていられれば、俺はそれでしあわせだよ」


 こんな店は貴重だ。

 涼子は美味しそうにラーメンを啜っていた。


 「すごく美味しい! 絶対にまた来ますね!」

 「女房もお気に入りのようです。大将、またファンが増えましたね?」

 「男はキライだが、美人は大歓迎だ!」

 「私もです」


 私たちは笑った。




 帰りのクルマで涼子は私の肩に頭を乗せていた。

 

 「今日は奥さんにしてくれてありがとう」

 「今日は?」

 「うん、すごくうれしかった」

 「何を言ってるんだ? これからも俺たちはずっと夫婦じゃないか?」

 「それってもしかして?」

 「プロポーズだよ。俺と結婚して欲しい。

 でもこの家は僕にくれないか?」

 「お家はあなたにあげる、でも結婚はダメ。出来ない。

 こうして一緒にいるだけでしあわせよ」

 「俺じゃイヤか?」

 「イヤよ、タイプじゃないもの」

 

 それは彼女の見え透いた嘘だった。

 死ぬことがわかっている自分と、結婚なんてさせられないという彼女の思い遣りだった。

 でも私はせめて最期まで、自分の妻として涼子を看取ってやりたかった。


 「これは強制だ、君を「宮永涼子」にする刑に処す」

 

 涼子はハンドルを握る私の手に自分の手を重ねて泣いた。


 「ヘンなプロポーズ・・・」



 私はカーステレオのスイッチを入れ、予め用意しておいたメンデルスゾーンの結婚行進曲をかけた。

 片手で涼子の肩を抱き寄せて。

 

 星が煌めく美しい夜だった。




第10話

 地鎮祭の日がやって来た。


 「良い天気になりましたね? あなたたちは神様に愛されていらっしゃる」

 「神主様のおかげですよ。いつも出雲神社様の地鎮祭は快晴ですから」

 「では準備をいたしますので、少々お待ち下さい」

 「お手伝いをさせて下さい」

 「よろしくお願いします」


 四隅に杭を打ち、いみ竹を縛った。

 南に向けて祭壇を設え、御酒、野菜、果物、お水、お塩、お米、鯛、そして御初穂料を供えた。

 北東の竹からしめ縄を時計回りに張って行く。

 御幣束をしめ縄に付けた。

 1辺に4枚や3枚を貼ることが多いが、それは神社様によって異なる。

 右手前にきれいな乾いた土を盛る。「鍬入れの儀」をするための準備である。



 「いよいよ始まるのね? 地鎮祭って初めてだからワクワクしちゃう」

 「最近は「地鎮祭ってやらなければいけませんか?」という若い施主もいるが、これはとても大切な儀式なんだ。

 この土地は誰の物だと思う?」

 「神様の物よね?」

 「たとえ所有権が君にあろうと、この地球は神様の物なんだ。

 だから神様に対して「この土地に私が家を建てることをお許し下さい」と許しを請う儀礼なんだよ。

 人間は愚かだ。水や緑、鉱物や宝石、そして火も土の五行、そして陰と陽である月と太陽、善と悪もすべて神が司っているということを忘れている。

 すべてはこの陰陽五行のエレメントで人は生かされていることに気付いていない。

 このコップ一杯の水にも神様が宿っているんだ」

 「それ、凄くわかる気がする。私、神様にこうして生かしていただいているから。

 そしてあなたと巡り会えた」

 「自然って凄いよなあ。この地球が24時間で1回転するんだよ?

 よくその遠心力で吹き飛ばされないよね? この大地の香り、太陽の光、吹き渡る風。

 さあ始まるよ御施主様、どうぞこちらへ」

 「はーい、先生。じゃじゃなかった、あ・な・た」

 「では門倉涼子様の地鎮の儀をこれより執り行います」

 「すみません、門倉ではなく、宮永涼子でお願いします」

 「宮永先生の奥様でしたか? 失礼いたしました」

 「いえ、先日そうなったばかりなので、畏れ入ります」

 「そうでしたか? それはおめでとうございます。

 我が出雲神社は出雲大社の御霊分けで縁結びの神様でもあります。

 これも神様の引き寄せた御縁かもしれません。

 では改めまして、宮永涼子様、地鎮の儀、謹んで執り行います」



 やさしい風が吹いていた。

 私と涼子は祭壇に向かって玉串を捧げ、二礼二拍手、一礼をして工事の安全を祈願した。



 最後に神主様に記念写真を撮っていただいた。


 「はい撮りますよー。ハイ、チーズ」

 「ありがとうございました」

 「はじめて一緒に写真に写ったね?

 これ、待ち受けにしようかしら?」


 うれしそうにはしゃぐ涼子だった。

 ふたりで写真に納まるのは初めてだった。

 


 

 一日があっという間に過ぎて行く。

 楽しい時間は早く、そして苦しい時間はゆっくりと進む。

 アインシュタインは何故それを相対性理論に盛り込まなかったのだろう? 時空の歪み。

 私はこの時間が永遠に続けばいいと思った。



 ベッドに入るといつも私たちは手を繋いで眠った。


 「寝るのが怖い、朝が来ないようで・・・」

 

 私は涼子を抱きしめて言った。


 「僕も怖いよ、朝になったら君がいなくなっていたらどうしようかとね?」

 「私が眠るまで、こうしていてね?」

 「もちろんだよ、ずっとこうしていてあげるから安心して眠りなさい」

 「ありがとう、新一」


 余程疲れていたのか、すぐに彼女の寝息が聞こえ始めた。

 私は彼女にキスをして、静かに目を閉じて祈った。


 (明日もまた、私たちに変わらぬ朝が来ますように)




第11話

 地鎮祭も終わり、基礎工事が始まった。

 毎日のように私たちは現場を見に出掛けた。

 

 「だんだん実感が湧いてきたわ。夢が叶うのね? 私の夢だった海のお家が」

 「そうだよ、大きな窓とたくさんの愛が詰め込まれた小さな家がね?」

 「お家って、たくさんの人が協力して造ってくれる物なのね?」

 「そうだよ、この家でも1万パーツ以上の部品と部材、延べにすると1,000人以上の職人さんや技術者たちが携わってくれているんだ。

 工場の人や流通関係者、それを支える事務管理部門のスタッフさんなど、たくさんの人の汗と想いがこの家には注がれているんだ。

 この基礎工事だって見ている分には簡単そうに見えるかもしれないが、すごい重労働なんだよ。

 僕も自分でやったことがあるが、死ぬかと思った。

 夏場なんか熱中症で3回も倒れたからね?

 雨の日も風の日も、寒い日も日照りの強い夏の日にも一生懸命に作ってくれる。

 だから工事金額が高いとか安いとかという価格だけを求める人の家は作りたくはないんだ。

 職人さんたちの苦労を知ろうともしないから。

 そういう人は他の会社に頼むか、建売住宅を買えばいい。

 僕は思うんだ、しあわせになるために家があるんだと。

 家族が争うような家なら、家なんて建てない方がいい。

 家なんて無理して建てる物じゃないんだ」

 「私も無理してるのかな? どうせ死んじゃうのにお家を建てるなんて間違っていると思う?」

 「涼子の家は別だよ。この家は涼子の夢だからね?

 1か月後には骨組みになる、いよいよ上棟だ」

 「あなたに頼んで本当に良かったわ」

 「いい家が欲しいと誰もが願う。宝くじが当たったら、まず豪邸を建ててとか言うだろう?

 一生懸命家づくりを勉強して、ネットでもたくさんの情報を集めて、多くの住宅展示場を見て回る。

 色んな会社にプランを描いてもらい、見積りを比較検討する。

 現場見学会にも出掛けたりしてね?

 でも本当はね、そんなことをする必要はないんだ」

 「どうして? たくさん情報を集めて検討することがどうして悪いことなの?」

 「それはね、「物が人を選ぶ」からなんだ。

 ベンツもバーキンも、ロレックスの時計もみんな、持つ人を選ぶ。

 仮に手取り20万円の若者が、月々10万円のローンを組んでベンツを手に入れたとしても、それを維持出来なくなって手離すことになる。

 自分の身の丈に合わない物を手に入れても、それが自分の元から去って行く。

 物には魂があるんだよ。魂が宿るんだ。

 例えばハサミ、試しにやってごらんよ。

 「いつもありがとう、君ってすごく切れ味がいいね?」って褒めてあげてごらん、不思議と凄く切れるようになるから。

 クルマもそう、洗車してきれいに磨いてあげると、なぜか走りがグンと良くなる。

 さらに「いつも安全によく走ってくれてありがとうな?」とかいうと、それに応えるようにビューンと加速が良くなる。

 人が作る物にはたとえ割り箸一つでも魂が宿るんだ。

 だから物を粗末にしてはいけないし、物を増やさず、心を込めて大切に使うことが大切なんだ。

 100円ショップで要らないガラクタをお買物ごっこのように買うのは決していいことではない。

 なぜなら物にもよるだろうが、100円で売るためには仕入れを限界まで抑える必要がある。

 東南アジアの貧しい国や、日本の町工場から買い叩いた商品には悲しみが籠っている。

 辛い労働を安い賃金で働かされて出来上がる物だからだ。

 ゴミ屋敷が悲惨なのはゴミのせいじゃない、そのがらくたに悲しみの霊が集まって来るからなんだ。

 家は自分に生命保険まで掛けて買う不思議な物だ。

 オカルトで話をしているわけではない。

 話は長くなってしまったが簡単なことなんだよ。

 人に親切にして誠実に生きている人には、ステキな家が与えられるという話さ。

 だから人にいじわるばかりしている人が、いくら情報を集めて家の勉強をしても、いい家にはならないということなんだよ」

 「じゃあ私はいい人っていうこと?」

 「当たり前じゃないか? 僕が心を込めて作る家なんだから」


 私たちはしあわせだった。

 家が出来上がるのが楽しみだった。



 

 家での夕食が終わり、涼子が薬を飲む時間になった。

 沢山の薬がダイニングテーブルに並ぶ。


 「はい、水」

 「ありがとう。やんなっちゃうわ、こんなにたくさんのお薬を飲まなきゃ生きられないなんて」

 「半分僕が飲んであげようか?」

 「ばか・・・」


 涼子は力なく笑った。

 工事が着工してから、彼女の容態は家の進捗に反比例するように、急速に衰えて行った。

 食欲も落ちて来たので、食事はなるべく消化の良い物を選んで作った。


 「卵粥なら食べられるか?」

 「うん、ごめんなさいね? 面倒を掛けちゃって」

 「謝ることはないよ、辛い時はお互い様だ。

 僕が風邪でダウンしたら君が作ってくれればいい。

 永谷園の鮭茶漬けでいいから。

 俺は君のダーリンなんだから、僕に出来ることは遠慮はするな、甘えていいんだよ」

 「そのあなたのやさしさが、重い時もある・・・。

 ごめんなさい、イヤなこと言って」


 そんな苦しそうな涼子を見ている自分も辛かった。

 そしてそれが涼子にも伝わっている筈だった。




 そんなある日のこと、ついに彼女の苛立ちが爆発した。


 「もう少し食べないと」

 「いらない、もう食べられないの」

 「でも食べないと体が・・・」

 「要らないって言ってるでしょ!」


 彼女は梅粥の入った器を手で払い除けた。

 茶碗が割れて、床に梅粥が哀しく広がった。


 「ごめんなさい・・・」

 「破片で足を切るといけないから、そのままそのまま。

 でも良かった、まだ怒る元気があって。生きてるって証拠だよ」

 

 私は床の掃除を始めた。

 そうなのだ、これからなんだ、ふたりの地獄が始まるのは。

 涼子は泣いていた。


 「家が出来る前に私、死んじゃうのかなあ?」

 「大丈夫、僕がついているから。

 涼子とあの海の家で一緒に暮らすまでは死なせやしない、絶対に」

 「死にたくないよお・・・」



 私は割れた食器を片付けて手を洗い、エプロンを脱いだ。

 そしてピアノの前に座ると、久しぶりに鍵盤に触れた。


 『エリーゼのために』を弾き始めた。

 涼子のために。


 涼子が私の背中に抱き付き、か細い声で言った。


 「ごめんなさい・・・」


 私はピアノを弾くのを止め、彼女を強く抱き締め泣いた。

 

 (神様、どうかこのひとを守る勇気を私にお与え下さい)


 私はそう願った。




第12話

 突然、涼子が吐血した。

 私はすぐに救急車を呼び、病院へ付き添った。

 救急隊員が私に訊ねた。


 「かかりつけの病院はありますか?」

 「はい、壬生の医大病院へお願いします」

 「わかりました。担当の先生は?」

 「消化器外科の大西先生です」

 「わかりました。ではこれから医大病院へ向かいます」

 「お願いします」

 


 涼子は酸素マスクをされ、少し苦しそうだった。

 救急車の内部には心臓と血圧のモニターが作動していた。

 私はずっと涼子の手を握っていた。


 「大丈夫だよ、もうすぐ病院だから」

 「あ、な、た・・・」

 「何だ?」


 彼女の口元に耳を近づけた。


 「病院は、い、や・・・。

 びょ、う、いん、では、死に、たく、ないの・・・」

 「わかっているよ、大丈夫。すぐに一緒に帰れるからね?」

 

 涼子は静かに頷いた。

 涼子の手が少し、汗ばんでいた。




 幸い、数日の入院で退院出来ることになった。

 私は大西准教授に呼ばれた。


 「失礼ですが、涼子さんの「ご主人」でよろしいですよね?」

 「はい」

 「残念ですが、かなり衰弱しています」

 「あと、どのくらい、ですか?」

 「持って3カ月といったところかもしれません。

 今度出血すると、かなり厳しい状態になります」

 「延命処置は可能でしょうか? いま建築中の家の完成まで、あと2か月なんです」

 「お家を?」

 「ええ、妻の夢なんです。海の見える家で暮らすのが。

 出来ればそこで最後を看取ってやりたいのです」


 大西准教授はカウンセリング・ルームの天井を見上げた。


 「そうですか? 本当はこのまま病院に入院していただければ、1か月程度の延命は可能なのかもしれませんが、それでは家を見ることが出来ません。

 宮永さんのお考えはいかがですか?」


 私は即答した。


 「家で私が看病します。在宅での訪問看護をお願い出来ませんか?」

 「わかりました。検討してみましょう。 ところで宮永さん?」

 「何でしょう?」

 「人を看取るということは大変なことです。

 精神的にも肉体的にも。

 死期が近づくと、その人から逃げたくなることもある。

 辛いことですよ、死にゆく者の哀願する眼を見るのは。

 あなたにその覚悟がおありですか?」

 「正直「あります」とは言えません。

 でもやるしかない、耐えるしかありません。

 家内と結婚する時、それを覚悟して結婚しましたから。

 先生、もし逃げたくなったら私はどうすればいいでしょうか?」

 「逃げることです。そしてまた、戻ってあげればいい。

 無理はしないことです。すべて相手に伝わる事ですから。

 奥さんは、ご主人に無理をされることがいちばん辛い。

 医者をしていると、多くの患者さんを見送ることになります。

 全員助けたい、でもそれは不可能です。

 医者は神ではないのですから。

 奇跡は起こせないのです。

 でもこれだけは言えます。「死はすべての人間に平等に訪れます」と。

 一人の例外もなくです。

 私は医者になって20年以上になりますが、死なない人間に出会ったことがありません。

 もちろん僕にもあなたにも、必ずその時がやって来ます。

 どうせ旅立つなら、安らかに送り出してあげましょうよ。愛を持って。

 そう思いませんか?」

 「あなたが主治医で本当に良かった。心からそう思います」




 3日後、涼子は退院した。


 「ねえ、お家、どこまで出来た?」

 「基礎は完成したよ。

 明後日、土台を敷いて次の日に足場を掛ける。その翌日が上棟だ」

 「見に行きたいなあ、いいでしょう?」

 「ああ、見に行こう。涼子の「海が見える家」を」

 「ごめんなさいね、わがままを言って」

 「楽しみだね?」

 「うん」

 



 そして上棟の日を迎えた。この日も雲一つない快晴だった。


 「ほら、あそこにクレーンが見えるだろう? 建方が始まっているんだ」

 「どんな風になっているのかしら?」

 


 足場が見えて来た。

 ほぼ柱は立て終わり、胴差や梁、桁が組まれていた。



 現場に到着すると、木のいい香りがしていた。

 カケヤを叩く音が心地よく響いている。



 「どんどんお家が組みあがっていく。素敵・・・」




 そして夕方には屋根の野地板が敷かれ、無事、上棟になった。



 「親方、ありがとうございました」

 「明日、屋根屋が下地の施工に来るそうだ。

 さっき見て、帰ったところだよ」

 「棟梁、ちょっとお願いがあるんです」

 「何だい?」

 「なるべく工期を短くして欲しいのです」

 「どうして?」

 「妻が、もう長くないんです・・・」

 「えっ?」

 「だから少しでも早く、この家に住まわせてやりたいんです。

 この家で妻を看取ってやりたいので。

 もちろん追加の手間はお支払いしますので、大工の数を増やしていただけませんか?

 お願いします」

 「そうだったのかい・・・。

 俺も3年前、女房を亡くしたからよお、わかるよ、アンタの気持ち。

 何とかするよ。材料だけ、どんどん現場に入れてくれ」

 「無理を言ってすみません」

 「早く住まわせてやりてえよなあ?

 まだ若いのになあ・・・」

 「よろしくお願いします」



 車椅子の涼子のところへ戻ると、涼子は大粒の涙を流していた。


 「もっと小さい家かと思ってた。だって地縄を張った時、本当に小さい家だなあと思っちゃったから。

 とても素敵なお家、ありがとう、新一。

 早く住みたいなあ」

 「さっき親方に頼んで来たよ、なるべく早くお願いしますって」

 「それで親方さん、何だって?」

 「頑張ってくれるそうだよ」

 「よかったー。完成まで生きていられるかしら? 私」

 「君がそんな弱気じゃ駄目じゃないか?

 ちょっと骨組みの中に入ってみようか?」

 「えっ、いいの?」

 「特別だよ。さあヘルメットを被って、僕におんぶするんだ」


 涼子を背負った時、あまりの軽さに思わず私は泣きそうになった。


 (これが涼子の命の重さなのか? あまりにも軽過ぎる)


 「ほら、ここが玄関だよ。そしてここがLDKだ」

 「海が見える! 波の音も聞こえる!」

 「ここがキッチン、そしてダイニングだ。

 それからここにテレビがあって、ここにソファを置こう」

 「ねえ、ちょっと降ろして」

 「わかった、静かに降ろすからね?」



 涼子は床の下地に足を着けた。

 そしてゆっくりとキッチンへと歩いて行った。


 「ここのあたりがキッチンなのね?」

 「そうだよ、どうだい? 全体がよく見渡せて、海が見えるだろう?」

 「見える! 見えるわ! 海も、そしてあなたも!」


 夕日を背にして、海が輝き始めていた。

 私はこの時、このまま時が止まればいいと願った。




最終話

 涼子が死んだ。

 家が完成する1週間前、余命宣告より1か月も早く、涼子はこの世を去った。

 一進一退を繰り返しながら、涼子は頑張った。




 「家の方はあと1週間で完成だ」

 「ねえ、久しぶりにお家が見たいから連れてって」

 「ここのところ、調子も良さそうだし、見にいこうか? 君の「海が見える家」を。

 ベッドで寝てばかりいるのも、退屈であまり良くはないか?」

 「あなたと暮らして気付いたことがあるの。

 私が本当に欲しかったのは海が見える小さな家じゃなくて、あなたとこうして静かに暮らすことだったんだって。

 だから、もう夢は叶ったの。

 もう何も思い残すことはない・・・」

 「まだまだ足りないよ、僕はまだ君を愛し足りない。

 これからじゃないか? 僕と君の人生は?」

 「もう十分。ありがとう、新一」




 翌日、私は涼子をクルマに乗せ、建築中の海の現場へ向かった。


 現場は足場も離れ、外観はすでに完成している筈だ。

 内部はキッチンや水回り設備も取り付けが完了し、壁の漆喰がまだ下塗りの状態だったが、漆喰が塗り終われば照明器具を取り付け、あとは養生を剥してクリーニングをすれば完成だった。



 「ねえ、西野カナ、聴いてもいい?」

 「いいよ、どんな曲?『トリセツ』とか?」

 「それも入っているけど、今日の気分は『Dear Bride』なの」

 「いい曲だよね? 僕も好きだよ、その曲」

 「あなたも西野カナなんて聴くのね?」

 「オジサンが聴いちゃ駄目なのかい?」

 「そんなことないわ、私もオバサンだもん」


 涼子はCDをカー・コンポに入れた。

 西野カナの伸びやかな美しいバラードが、車内の沈んだ雰囲気を彩った。

 その歌を労わるように一緒に口ずさむ涼子。




 海の家に到着した。


 「素敵、夢のお家が完成してる・・・」


 私は涼子を車から降ろし、そのままお姫様抱っこをして家に歩いて行った。

 彼女は恥ずかしそうに、それに従った。


 「夢だったの、お姫様抱っこしてもらうの」


 涼子は私の首に手を回した。

 羽毛のように軽くなった彼女に、私は涙を必死に堪えた。


 (泣いてはいけない。今ここで泣いたらすべてが台無しになってしまう)



 カバーが掛けられたキッチンの前に涼子を立たせた。


 「海が、見える・・・」


 私は大きな窓を開け、潮風と波音を家に招き入れた。


 「もうひとつの夢も叶ったのね?」

 「あと、もう少しだけどね?」

 「私ね? 今度生まれ変わったら、またあなたと結婚したい」

 「僕も君を必ず探し出して、プロポーズするよ。

 今度はちゃんと恋愛ドラマみたいに、サプライズを仕掛けてね?」

 「そしてね、子供はふたり欲しい。男の子と女の子。

 男の子はサッカーが大好きで、イケメンで成績は中の上。

 女の子はね、あなたみたいにピアノを習わせて、あなたに目元が似ているの。

 とってもかわいいのよ、一緒にお洋服なんか買いに出かけたり、カフェで好きな男の子の話を聞いてあげたりして、新一パパとの思い出話なんかしてあげて。

 そしてこのお庭で家族4人、週末にはバーべキューをするの。

 そうだ、ワンちゃんもいないと。

 あのお馬さんみたいにきれいな白いボルゾイとかがいいなあ。

 そしてね? そしてそんな光景を、ビールを飲みながら、新一が満足そうに見ているの。

 みんなのお肉を焼きながら。

 「ほら、みんなもっと食べなさい」って笑って・・・」



 それを言い終える途中で、涼子が倒れた。

 私はすぐに涼子を抱き起こした。


 「すぐ救急車を呼ぶからな!

 しっかりしろ! あと、あともう少しなんだ! 目を覚ませ涼子! 死んじゃ駄目だ!」

 「いいの、いいの、よ・・・。もう、十分・・・。

 私の、夢、は、もう、叶った、から・・・。

 だから、だ、から・・・。

 この、まま、あな、たの・・・、腕に、抱か、れて、いたい・・・。

 ありが、とう、あなた・・・」

 「ダメだ! ダメだ涼子! この家を、この家の完成を見届けるんだ!

 死んじゃダメだ! しっかりするんだ! 涼子、涼子!」



 私は泣き叫び、何度も彼女の名前を叫び続けた。

 だが、彼女はやさしく微笑んだまま、眠るように息を引き取った。




 人は皆、必ず死ぬ。人は死ぬために生きている。

 それなのに、生きる意味などあるのだろうか?

 どうせ人は死ぬ運命なのに。


 私と出会って涼子は幸福だったのだろうか? 

 人の死とは結局、どれだけ生きたかではなく、いつ、どこで、誰に看取られてあの世に旅立つことが出来るかだと思う。

 死は何の前触れもなく、無情に人生を中断してしまう。

 だから後悔のない人生など存在しない。

 彼女の家は未完成ではあったが、彼女が最期に言った、「ありがとう」の言葉が私への褒美であったとするならば、私の愛は彼女に届いたと言える。




 彼女の海が見える家が完成した。

 私は辻井伸行の弾く、ラヴェルの『亡き王女の為のパヴァーヌ』を新築の香りのする家でかけた。

 あの日と同じように、海に向いた窓を全開にして。


 彼の弾く、その曲の第一音は、まるでいつ、彼の指が鍵盤に触れたのかさえ、わからぬほどに繊細なものだった。

 彼の演奏する、ラヴェルと波の音のコンチェルトが始まった。

 私はそのまま膝から崩れ落ち、海に向かって彼女の名前を叫んだ。



      「涼子ーーーーーーーー!」



 

 悪戯に長い、夏の日の夕暮れ。蝉しぐれが聞こえる。

 短かったふたりの夏が終わろうとしていた。



                      『蝉の暮らす家』完




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【完結】蝉の暮らす家(作品240305) 菊池昭仁 @landfall0810

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