1章 白き龍士と夕焔の竜

一、龍の座す國(1)

 かつて、大地は災禍に満ちていた。


 地震、台風、落雷、山火事、水害に民は苦しみ、荒れた心は殺人、強盗、姦淫……数多の人災をももたらした。当時の支配階層にあったものは自らを神と称していたが、神は彼らを助けることをせず、自らに相応しい宮殿にと、高い高い塔を建てた。無論、それを建造したのは民の労力であり、財の出処も重い課税によるものだった。世は大いに乱れ、誰もが生を儚んでいた。




「と、いうのが昨日までの話だったのう」


 そう言いながら、白妙しろたえの衣を纏った老爺は、部屋の窓を静かに開けた。その様を、一室に集った子供たちは真剣な眼差しで見つめている。開かれた窓からは、眩い朝の日差しが鮮烈に飛び込んできた。柔らかに吹く風で、老爺の白髪が朝日に踊る。衣の袖がはためいて、彼の腕に刻まれた刺青が顕になり――老爺はほぅ、とひとつ息を吐くと、生徒たちへ向き直った。


「では、今日は昨日の続きから。皆は、『降星神ふるほしのかみ』については知っておるかの」


 問いながら、老爺はよろよろと教卓に就く。手元の巻物きょうかしょを捲り、子供たちに微笑みかける。


「はい! はいっ! はーい!」


 子供たちが一斉に手を挙げる。


「悪い『旧神ふるきかみ』を倒して、世界を救った偉い神様です!」


「うんうん、そうじゃな、遙か昔、我々の住むこの世に、新たな秩序を作りたもうたお方じゃ。では、その秩序の守り手とは誰じゃったかの?」


「はい! 十の天神さまと、十二の地祇さまです!」


「はいはーい! 天神さまは人に似ていて、地祇さまは獣に似た姿をしておられます!」


「先生! 僕たちの『帝國』を護って下さってるのは、『辰』の地祇さまですよね!」


 子供たちは我先に我先にと手を振り、老教師が指名するより前に、めいめい答えを述べていく。


 ……喧しい。


 明るい部屋の端で、少年はぼそりと毒を吐く。そんな彼を目に留めながらも、老爺は長い顎髭を撫でながら呵呵と笑う。


「ほっほっ、皆にはちと簡単すぎたようじゃの……では、今日は聖典の第三節、新たな神の降臨と神祇の成り立ちについてじゃ」


 あぁ、やはり今日もまた、このつまらない『教え』を聞かされるのか、と少年は老爺をめつけた。そんなものに意味は無い、何の救いも、価値も無いというのに。


(……まぁ、それは辰神たつのかみに限らずだけど。でも、他の神のことなんか正直どうだっていい)


 他の國の神が尊かろうが卑しかろうが、少年にとってはどうでも良かった。けれど、辰神だけは。この國――シンを守護し、導く龍の地祇だけは、絶対に赦さない。絶対に、認めない。崇めてなどやるものかと、少年は内心に憎悪の炎を燻らせていた。そんな少年の態度を気にも留めず、老爺は聖典の講釈を続けていく。




 都に来た日、少年は軟禁先の屋敷から脱走することだけを考えていた。実際に脱走し、すぐに捕まり、手足に枷を嵌められた。それは特殊な呪が刻まれた枷で、屋敷の外で彼は立つことすら出来なくなった。


 なので二日目は、その枷で屋敷中の窓という窓を叩き割って回った。取り押さえられ、光の差さない密室に閉じ込められた。生きているだけで腹が立つので、いっそ舌でも噛んでやろうかと少年がほくそ笑んでいた時、屋敷の主である老爺が彼のもとを訪れた。


 少年から彼に贈ったものは、憎悪の眼差し。毒でしかない言葉。ありったけの怨嗟で武装した少年の元を、その老いた神官は何度も何度も訪れた。何度も何度も、彼に道を説き、愛を伝え、未だ十にも満たない幼い身体を抱きしめた。少年が暴れるたびに老神官の皺だらけの手や頬には痣が出来たが、それでも彼は怯まなかった。そして、三月ほどが過ぎた頃――遂に、少年は老爺の熱意に根負けしたのだった。以来、少年は神官候補生の子供たちに混ざり、宮廷の大神官である老爺の教えを受けている。


 だが少年は忘れない。辰神は、かつての少年を助けてくれなかったことを忘れない。助けてくれたのは、他でもない、この老神官だ。その彼が自分の行く末を案じるならば、大人しく従おう。彼と同じ道を往き、彼のような大人になろう。そう思うくらいには、少年は義父――この神官に恩義を感じていた。それは、一度は人から外れた彼が取り戻した、ただひとつの人の心というものだった。




 ふと左腕が痛んだ気がして、少年は衣の袖を捲る。そこには、義父と同じ模様の刺青が刻まれていた。

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