【完結】眼科病棟(作品240329)
菊池昭仁
眼科病棟
9月6日(日)曇り 入院初日
53年間生きて来て、初めて入院した。
そして手術。
どんな風にするのだろう? 医療ドラマみたいに全身麻酔でやるのだろうか?
麻酔医って阿部サダヲみたいな人だろうか? それとも内田有紀?
「4つ、5つ、6つ、にゃにゃつ・・・。はい落ちた」とか、「サイナス」とか言われるのだろうか?
20代の頃、友人が盲腸になった。
「菊池、麻酔が凄く痛くてよお。
麻酔液を背骨に注射してベッドを調節して比重に合わせて患部に作用させるんだ」
「それ、絶対にイヤだなあ」
怖かった。私は意気地がないから。
あんなに恐ろしい嵐の海を耐えた私が実に情ない話だ。
だが流石は1,000床もある大学病院、設備もスタッフも一流だった。
ベッドはシモンズの電動ベッドだった。
寝心地は最高だった。
色んなことを気付かされ、反省もした。
宇都宮に来て約2年。これからという時に目が見えなくなるという。
「俺の人生は何だったんだ?」
そう思った。
宇都宮に来たのは転勤だった。
その支店のスタッフは、能力も技術も、そして人間性も最低だった。
私は社長と知り合いでもあり、業績不振の挽回を託されての入社だった。
「支店の業績が悪いんだ。立て直して来てくれ」
「わかりました」
かなり自信はあった。いつものように短期で実績をあげることは可能だと判断した。
そんな私の態度が鼻についたようで、支店の社員たちからは陰湿な虐めを受けた。
一番のイジメは「接客の禁止」だった。
お客さんと会えなければ受注は出来ない。
展示場で接客をするにはその支店の社員全員のロープレ試験に合格しなければならないシステムになっていた。
ロープレはそれを指導する人間のレベルが高くないと話にならない。
私はそれに反抗的だった。
他店の成績優秀な営業マンは私を褒めてくれたが、ここの支店の若い連中は店長たちに忖度し、私を嘲笑した。
支店のスタッフはそれを面白がっていた。
特に店長はやっと店長になれた実績のない、社長の息子と大学の同級生だったこともあり、やっと店長になれた男だった。
3ヶ月が過ぎた頃、
「菊池さん、社長から「早く展示場に出せ」という命令ですから今日のロープレ試験で合格にします」
と言われた。
社長は私の今までの実績と性格をよく知っていたので、赴任する際に私にこう言った。
「アイツには息子を支えて欲しいと思っているからイジらないでくれ」
だがイジられたのは私の方だった。
その「子供店長」に私はキレた。
「ハイ駄目! 合格は明日になりますー あはははは」
「もういい。今月で辞めるから」
その時、生憎社長は海外にいて相談することが出来なかった。
社長はその若い店長を責めることはせず、私に激怒した。
「この野郎! 絶対に許さねえからな!
俺はヤクザも弁護士も知ってるから覚悟しろ!」
社長はカリスマがあり、私は好きな社長だったので、本社に呼ばれ、社長から給料を現金でもらう時、そこから20万円だけ受け取り会社を辞めた。
社長は驚いていた。
私はこのままここで仕事を探すことにした。
そして今の会社の社長に拾ってもらったのである。
実質的な経営は社長の息子の専務がやっていたが、実に優秀な男だった。
私の理解者はこの専務だけだった。
スタッフからは相変わらずどこに行っても嫌われていた。
妻とは既に離婚し、家族とは離れて暮らしていた。
親友は遠方、見舞いに来る者はなく、私は孤独だった。
ひとりで入院の支度をした。
何でもひとりで出来ることが返って悲しかった。
自分勝手で短気。能力を過信して人を信用しない。
カッコばかりつけて思いやりがない私の末路だった。
それが今まで自分の生きた結果だった。
不安で眠れないまま朝を迎えた。
9月7日(月)曇り 入院2日目(手術日)
裏切者の夫も、だらしない父親もいらないということだった。
それがこの結果をもたらしたのだから仕方がない。自業自得である。
私はただ家族にもっといい暮らしをさせてやりたかっただけなのだ。
家族を守ろうと必死でがんばったつもりだった。
だがそれは私の勝手な自己満足でしかなかった。
私は女房が言う、「普通の生活」では飽き足らなかったのだ。
私は自分が親からしてもらえなかったことを子供たちにしてあげたかった。
そして理想の夫婦像を女房に押し付けていただけなのかもしれない。
バカな男だ。
所詮俺は結婚には向いていない男であり、自分が子供なのに子供を育てようとした。
実に滑稽な話である。
まずはこの悲惨な今の状況から目を背けず、受け入れることだ。
なってしまったことは仕方がないではないか?
後は医者に、天におまかせするしかないのである。
「良くなりたい」ではなく、「失明しても生きていける勇気」が欲しい。
家族に会いたい。
でも会ってどうする? 家族はこんな父親、夫を見たくはないはずだ。
こんな不様に弱った私など見たくもないだろう。
かえってイヤな思いをさせるだけだ。
父親は、夫は常に強くパワフルでなければならない。
こんなしょぼくれた姿を見せるわけにはいかないのだ。
会えない、会いたくないと思われているくらいが丁度いいのである。
そして私には「会いたい」と言える資格はない。
レオンにも会いたい。
思い切り抱きしめて撫でてやりたい。
散歩に連れて行ってやりたい。
レオンだけは私を受け入れてくれるはずだ。
子供たちはいつまでも子供ではない。
彼らには彼らなりの悩みも迷いも、そして夢もある。
父親はただ存在するだけでいい。必要とされた時に支援をしてやればそれでいいのだ。
彼らはもう子供ではない。
子供は親離れしてこその大人なのだから。
女房には自分の理想を押し付けてばかりいたと思う。
私は仕事に拘りはなかった。何になりたいという夢もなかった。
世界中を周り、好きなことをして結婚した。
女房が専業主婦として安心出来る生活が送れるように稼げれば、仕事など何でも良かった。
今まで仕事で辛いと思ったことはない。
家に帰れば女房が俺を待っていてくれる、それだけで十分幸福だった。
そして今、自由という名の孤独になった。
所詮、人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでゆくものだ。
死なない人間など誰ひとりいない。
金持ちも貧乏人も、偉い人間も偉くない人間も皆、死んでゆく。
「人は死ぬために生きている」のだ。
人は良く死ぬために良く生きなければならない
100才で死ねばいいのか? かわいい盛りで死んでしまった2才の幼子は不幸なのか?
人にはそれぞれ決められた寿命がある。
人は病気や事故で死ぬのではない。ましてや自殺など、創造主に対する冒涜でしかない。
自殺する運命などない。
私は思うのだ。生きることは修行だと。
そして死はこの世での修行の終わりなのだと。
死は決して悪いことではない。天寿を全うすることで人間は、より良く生まれ変われるはずだ。
手術当日である。 ドキドキする。
看護士さんがやって来た。
「菊池さん、今日の13時から手術ですね?
下着を脱いでこの手術着に着替えて下さい」
「はい」
「では10分前になったら迎えに来ますね?」
そう言って看護士さんは颯爽と病室を出て行った。
部屋は5階の4人部屋だった。
見舞いが来ないのは私と隣の老人だけだった。
看護士との会話を聞いていると、どうもここへは2度目のようだった。
他のふたりには奥さんと子供たち、親や親戚、恋人が来ていた。
眼科は基本的に食事制限も点滴も少なく、病室ではあったがのんびりとしていた。
時間になり、定刻に看護士さんが車椅子を押して迎えに来てくれた。
「それじゃあ菊池さん、この車椅子に乗って下さい」
「ドラマみたいにストレッチャーで行くのかと思いました」
「今回の手術は部分麻酔なんですよ。だから車椅子になります」
(部分麻酔?)
私はまた怖くなった。
私は生まれて初めて車椅子に乗った。
驚いた。子供はこの目線で見ているのかと。
そして街で見かける車椅子の人たちも、このような景色を見ているのだと。
車椅子を押してもらいながら、裏の暗い廊下を通っていると、緊張している私を気の毒に思った看護士さんが話し掛けてくれた。
「手術は初めてですか?」
「手術をするのも入院したのも初めてです」
「今回の目の手術は歯医者さんみたいに椅子に座ってやるんですよ」
「歯医者みたいに椅子で?」
「そうです、だから意識はあります」
その光景を想像した私は更に怖くなった。
睫毛が入っただけでも痛いというのに、目にメスを入れる?
だがそれはすぐに諦めに変わった。
そのエレベーターは重症者や手術のための患者、そして死体を運ぶものらしかった。
冷たく、浮遊霊を感じる気がした。
手術室の前に到着した。
ドアは二重の自動ドアになっており、最初のドアが開くと、手術着を着たナースたちに迎えられた。
「菊池昭仁さんです。よろしくお願いします」
「わかりました。本日は左目の手術で間違いありませんね?」
「はい」
「では念のため、お名前と生年月日をお願いします」
「菊池昭仁、昭和37年・・・」
「はい、ではご案内しますね?」
「菊池さん、がんばって下さいね?」
「ありがとうございます」
その看護士さんの言葉で私は少し救われた気がした。
そこは大きな通路があり、左右にいくつかの部門の手術室があり、ロックや演歌が流れている手術室もあった。
長時間に及ぶ手術の場合にはそのようなことがあるとは聞いたが、その通りだった。
私の手術中の音楽はなんだろう?
出来ればLed Zeppelin の『Stairway to Heaven(天国への階段)』だといいのにと思った。
私は結婚式の時に妻と選んだ、竹内まりやの『本気でオンリーユー』を思い出して苦笑いをした。
ステンレスの扉が開き、佐藤医師たちが待っていた。
音楽は掛かっていなかった。
「この椅子に座って下さい」
その椅子は機械の台の上にあり、ガンダムやエヴァンゲリヲンの操縦席のようだった。
天井には大きな無影灯が微かに見える。
電動リクライニングが倒され、助手や研修医がやって来て、手術の準備を始めた。
目の麻酔は佐藤医師がしてくれた。
若いナースが私に声を掛けた。
「抗生剤の点滴をしますね? 少しチクリとします」
新人のようで緊張しているのが伝わる。
チクリではなかった。かなり痛かったが我慢した。
なぜか針を刺した辺りが冷たい液体が広がる感触があったので、
「すみません。左手が冷たい感じがするのですが」
すると助手が言った。
「あれ? 液漏れしてるな? ナースはどこへ行った?」
ナースは既に逃げていなくなっていた。
「ではこれより手術を始めます」
モニターの電子音や手術器具のふれあう音、医者たちの会話も聞こえた。
若い医師が佐藤先生に尋ねた。
「先生、このメスは先生の自前のメスですか?」
「そうだよ」
「今度、ボクにも貸してくれませんか?」
「それはチョットねえ」
どんなメスなんだろうと思った。
医者も料理人のようにマイ包丁ならぬ「マイ・メス」を持っているのだろうか?
手術はかなり長時間に及んでいた。
少し、麻酔が切れて来たような感じがした。
「先生、麻酔が切れて来たような気がするんですが」
「わかりました。麻酔を追加しますね?」
「お願いします」
最終的に4時間の大手術だった。
「硝子体を生理食塩水に置き換えてあります。
網膜を定着させるためにこれから1週間、うつ伏せ寝で安静にして下さい」
ベッドにはマッサージの時に使う、便座のような枕が準備されていた。
拷問のような1週間が始まった。
頭が割れそうに痛くなり、吐き気もした。
私は度々ナースコールをして、鎮痛剤を処方してもらった。
本も読めず、テレビも見ることが出来ない。
そして話し相手もいない。
ラジオだけが私を慰めてくれた。
9月8日(火)雨 入院3日目
左目は大きなガーゼと絆創膏でしっかり保護され、寝ている間に無意識に擦ったりしないようにと保護ゴーグルを買わされ、それを装着して寝ていた。
辛い。
手術した左目からの出血が続いていた。
私は「血の涙」を流していた。
相変わらず違和感があり、頭痛と吐気が続いていた。
専務が進捗中の私の仕事の引き継ぎを兼ねて、見舞いに来てくれた。
専務は私より10歳ほど歳下だったが有能なプレイング・マネージャーだった。
苦労知らずの端正な顔立ちの見かけによらず、中々の苦労人であった。
彼の名刺には「一級建築士」と自慢気に書かれていない。
お客さんに対しても一級建築士であることを隠して商談をする。
住宅営業で一級建築士を持っている者は少ない。
名刺にそれを書いただけで信頼されることもある。
だが彼はそれをしない。
それは建築に対しての自分の信念があるからだと思う。
彼の設計にはあまり文句は言わなかった。
そういう建築士に私は今まで出会ったことがない。
名ばかりの設計もろくに出来ない建築士は多い。
私の痛々しい姿に専務は言葉を失っているようだった。
談話室で缶コーヒーを飲み、業務の引き継ぎをして帰って行った。
人と話すことで、少し気分が晴れた。
目が見えないので日記の文字はイメージで書いていた。
パソコンやタブレットならブラインドタッチが出来るので、文章を書くのは容易だったが、病室でキーを叩くわけにはいかない。
まるで速記のような文字で書いていたので、後で解読するのが大変であった。
病室にはトイレも完備していたが、うつ伏せ寝が辛い私は、同じフロアにあるトイレを使い、頻繁にヘリポートで離発着を繰り返す、ドクターヘリを見ていた。
(『コード・ブルー』のような重篤な患者がいるんだろうなあ)
私はパイロットになりたかった。
だが航海士になった。
別に船乗りに憧れたわけではない。気付いたら航海士になっていた。
私は父の夢だった、パイロットになって父親を喜ばせたかった。
父は当時、200倍という難関を突破して自衛隊のパイロットの試験に合格したが、その合格通知を母である私の祖母に隠されてしまい、父は銀行員になった。
父は祖母を責めなかったと言っていた。
それは特攻隊のイメージがまだ残る昭和では、祖母が父のことを心配しての母心だったからだ。
一度、地元のゼネコンに勤めていた時、営業部長のコネでヘリに乗せてもらったことがある。
稲田に水が張られた時期で、とても美しかったのを覚えている。
眼科の入院患者には殆ど食事制限がない。
しかも入院期間が短い。
長くても1週間程度で退院して行くようだった。
私は一体、いつ退院出来るのだろう。
そしてこの眼帯を外した時、左目は以前のように見えるようになるのだろうか?
佐藤医師の診察の後、説明を受けた。
「右目は手術せず、網膜の70%をレーザーで焼いて温存することにします。
経過を見て、もし痛みが続くようであれば左目にシリコンオイルを注入します。
血圧が高いんですよねえ、降圧剤を打ちますね?」
「仕事もあるのでいつ退院出来そうですか?」
「・・・厳しいかもしれないなあ」
その間の空いた言葉で、退院はまだ先のようだと私は理解した。
ただ気になったのは、佐藤医師の曇った表情だった。
彼は手術について触れなかった。
私は「手術は成功しました」という言葉が欲しかった。
サザエさん、クレヨンしんちゃん、ひみつのアッコちゃん、ちびまる子ちゃん。
仲のいい家族が思い出される。
こんな時こそ家族の支えが欲しい。
ムシのいい話である。
そんなことを言えるような生き方をして来なかったではないか。
失明したらどうやって生きていけばいいのだろう。
誰も頼ることは出来ない。弱気になる。
手を差し伸べてくれる奴は何人かいるが、だからと言ってそれに甘えるわけには行かない。
私が大金持ちで財産があれば別だが、これ以上、迷惑を掛けることは出来ない。
知り合いの不動産屋の社長の話を思い出した。
「土地を売りたいという盲目の婆ちゃんがいてな?
家に上げる時も話し掛けるんだよ。「こんにちは、ご依頼があった不動産屋です。お邪魔しますよ」ってな?
そしてお茶を淹れてくれようとするから「私がやりますよ、今、急須にお茶の葉を入れました。お湯を入れています。湯呑みにお茶を注いでいます」という具合にだ。
そうすることで安心してもらえるからな?」
私もそうなるのだろうか?
世の中には目の見えない人などたくさんいる。
もしそうなったらその時に考えればいい。
「そうなったらどうしよう」などと考えるのは無駄だ。
不安は「期待の裏返し」なのだから。
期待しなければ不安は生じない。
もう考えるのは辞めよう。
まだ右目があるではないか?
座禅と同じだ。「打たれまい打たれまい」と思う心が瞑想の邪魔になるのだから。
一歩進んで打たれに行くべきなのだ。
目が見えなくなっても、私には耳も鼻も口もある。
音楽も聴くことが出来て、人と会話も出来る。花の香りや食事の匂い、好き嫌いもなく食べることが出来て、排泄も出来る。
手や足、指も全部揃っている。
そして何よりも、こうして生きているではないか。
これは奇跡なんだ。
この世に当たり前なんてひとつもない。
それは失って初めて気付くことである。
今、私は自分を見つめ直す機会を神様から与えられているのだ。
いかに今まで自分が思い上がって生きて来たのかを。
これを「内観」というのかもしれない。
私は人生の休日を与えられた。沈思黙考。
死ぬ時は「前のめりのまま」で死にたい。
なぜならそれは生きる戦いを辞めないということだからだ。それはファイティング・ポーズなのだ。
仰向けになって大の字で死ぬことは、「もうどうにでもしてくれ」という「諦め」の態度だからだ。
思い起こせば確かに素晴らしい人生だった。
世界中を周り、どんな巨大船も動かせる船長としての一級海技士の資格も取った。
美食に旨い酒、デカい屋敷に住み、高級外車にも乗った。
毎日湯水のようにカネを遣い、女を抱いた。
まさに大統領のように働き、王様のように遊んだ。
いつ死んでも後悔はない。
『北斗の拳』のラオウではないが、
「わが生涯に一片の悔いなし」
の境地に俺はある。
思い残すことは何もない。
今、自分は学んでいるのだ。
9月9日(水)雨 入院4日目
雨が続いていた。俺の気持ちと同じ、雨。
ラジオで台風18号が東海、近畿に上陸する可能性が高いと言っている。
ラジオはいい。真実だけを端的に伝えてくれる。
テレビのお天気オヤジのように、悪天候を嬉しそうに伝えることもない。
ニュースを事実だけを伝えてくれる。
悲惨な事はリアルに伝えない。
「同居している男は、3歳の女の子に熱湯を掛け・・・」
とは言わない。
雨でも晴れでも、入院して目が不自由な今の私には、どうでも良かった。
人生はサッカーのようなものかもしれない。
相手選手の妨害を躱しながらゴール近くまでやって来ると、今度はゴールキーパーがゴールを守っている。
ようやく放ったシュートが、キーパーによってガードされてしまう。
そしてまた、相手選手の中を掻い潜り、シュート。
またゴールを邪魔されてしまう。
それを何度も何度も繰り返し、やっとゴール。
歓喜に打ち震える。
人生も同じだ。
相手選手もゴールキーパーもいるからサッカーは面白い。
そして自分もサッカーが上手くなる。
相手選手の妨害も、キーパーもいないゴールにいくらシュートをしてもつまらない。
人間には困難や障害が必要なのだ。
若い頃、中村天風師の創設した、『天風会』で実践哲学を学んだ。
当時、天風会の会長だった杉山彦一先生は、最初の講義で黒板にこう書かれた。
How to Live?
衝撃だった。「君は人間としていかに生きるか?」
私はそう解釈した。
天風師は言う、これを唱えて生活せよと。
私は力だ
力の結晶だ
何ものにも打克つ力の結晶だ
だから何ものにも負けないのだ
病にも 運命にも
否 あらゆるすべてのものに打克つ力だ
そうだ!
強い 強い 力の結晶だ
人間は「力の結晶」であり、無限の可能性を秘めていると仰る。
末期の結核となり、死を待つだけだった中村天風師はカリアッパ師と出会い、死の病を克服する。
そうだ、俺は力の結晶体なのだ。
「俺は失明する、もう駄目だ」
と、くよくよ悩んでいても何にもならない。
私は自分が病気であることを忘れることにした。
背の高い奴や低い奴。太っている奴、痩せている奴。
イケメンとそうでない奴。
片手しかない奴、目が見えない奴。
人間の肉体は魂の器でしかない。
裕福な家に生まれようと、貧しい家に生まれようと、その与えられた環境の中で生きていくしかないのだ。
人と違うのは「個性」なのだ。
堂々と生きればいい。
死ねば肉体は焼かれ、骨だけになる。
大きな屋敷も高級車も、地位も名誉も、財産もすべて置いてあの世へ向かう。
つまりすべては神様から与えていただいたレンタル品、借物なのだ。
妹に電話をした。
「どうしたのお兄ちゃん? 何かあった?」
「昨日、手術をしたんだ」
「どこを?」
「左目だ」
「大丈夫なの!」
「ああ、お前の方はどうだ?」
「私は大丈夫だよ。いつ退院出来るの?」
「来週には退院出来ると思う」
「そう。大変だったね?」
「まあな」
「退院したら退院祝いに一緒に飲もうね?」
「そうだな」
少し気分が軽くなった。
医大で事務職をしている妹は東京に住んでいた。
歳が離れていることもあり、娘みたいな存在だった。
東京に行くと、たまに一緒に酒を飲んだりしていた。
妹は親父に性格が似ていた。
穏やかでいつも笑っているので友人も多く、職場の上司や同僚にも人気がある。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と、家にも日本にいることが少なかった俺によく懐いていた妹。
小さい頃はよくおんぶしてやったものだ。
娘とは一緒に酒を飲んだことがなかった。息子とも同じだった。
俺は仕事が忙しく、親父と一緒に酒を飲んだことは少なかったが、学校を卒業して初めて親父と酒を飲んだ時にはお互い照れくさかったのを覚えている。
一緒に酒が飲みたい歳になって、親父はもう死んでしまった。
「親孝行、したい時に親はなし」
とはよく言ったものだ。
どうしてこの世には善と悪が存在するのだろうか?
なぜコインのように表裏一体で善悪が存在するのだろう?
社会主義と資本主義。
悪いことを経験することで良いことがわかるからなのか?
良いことばかりでは魂が育たないからか?
キリストはユダヤ人に磔にされ、釈迦も自身が悟りに近づいた時、魔王はそれを妨害しようと三人の魔女を送り込んだ。だが釈迦はその誘惑に負けることはなかったという。そして今度は悪魔の軍勢を率いて釈迦の瞑想を邪魔しようと矢を放ち、石や剣の雨を釈迦に注いだがそれらはすべて花びらに変わって行ったという。
釈迦は悪魔に向かい、こう言ったそうだ。
「汝ら悪魔の武器とは「快楽」「不平不満」「飢え」「むさぼり」「怠け心」「恐怖」「疑い」「虚栄心」「名誉欲」そして「傲慢」である」と。
俺は悪魔に取り憑かれたままだ。
悪と戦うことで人は成長する。
神様は人の成長を喜んで下さる。
交通事故で失明の危機にあった同僚が言っていた。
彼は一級建築士の優秀な現場監督だった。
「もうこれで本が読めなくなるのかと思うと、死のうかと思った」
今、彼の気持ちがよくわかる。読みたかった本はたくさんあった。
本当の喜びとは成長、進化である。自分も、そして他人に対してもだ。
昨日より今日、今日より明日と人間は成長するために生きなければならない。
筋トレには負荷が必要なように、人間の魂の成長にも苦悩が必要だ。
聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして視覚。
耳と鼻、手足や肺、腎臓、睾丸、卵巣など、重要な物にはスペアがある。
船舶や航空機のように、安全を支える部分は二系統が備わっている。
「こっちが壊れたらこっち」という具合に。
そして最も大切なのが視覚、目だ。
情報の90%以上は目から入ってくる。
目が見えなくなる、光が消えるとはどんな感じなのだろうか?
暗闇の中での生活。出口のないトンネルを歩くとは?
俺はそれに耐えることが出来るのだろうか?
医者になろうと考えたこともあったが、ここに入院して俺には無理だと思った。
こんな過酷な仕事はない。
治して当たり前、失敗すれば批難され、告訴され、そして自らも自責の念が拭えなくなる。
たとえ医学部に入って医者になっても、精神的に脆弱な私はすぐに潰れてしまうだろう。
「あなたの余命はあと半年です」
と、死刑宣告をするのも辛いだろうが、
「あなたは目が見えなくなります」
という眼科医も過酷だ。
それにより、自ら命を断つ者も少なくはないだろう。
もちろん目が見えるように出来ればこれほど喜ばれる医者もいないだろうが殆どの場合、手術になる患者は手遅れか、完治する可能性の低い場合が多い筈だ。
「目がおかしい」と感じた時点で、すでに病状は静かに進行しているからだ。
ナースがやって来た。
「菊池さん、体温と血圧を測りますねえ」
やさしい手だった。
彼女は点眼液を7本も差して去って行った。
9月10日(木)曇り 入院5日目
台風18号は秋雨前線の影響を受け、50年に一度の大雨をもたらした。
何もかもが白い病室。
井上陽水の『白い一日』を思い出す。
作詞:小椋佳
作曲:井上陽水
真っ白な陶磁器を 眺めては 飽きもせず
かといって 触れもせず そんな風に 君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく
うつ伏せ寝にも慣れて来た。
病室の患者が家族や恋人と退院して行く。
そしてまた新しく患者がやって来る。私はすでに牢名主になっていた。
何もすることもなく、する気にもなれず、出来ることもなく、ただうつ伏せに眠ているだけの退屈な毎日。
朝昼晩にはナースの体温と血圧のチェック、点眼がある。
午前中は先生の診察とガーゼの交換。
看護士さんたちとも仲良くなった。
「菊池さん、いつも何を書いているんですか?」
「日記だよ、闘病日記」
「へえー、マメなんですね?」
「やることがないからね」
「目が見えないのによく書けますね?」
「何となく指の感覚で書いてるから誰も読めないよ。
自分でも読めないしね?」
入院して気持ちが沈んでいる時に、やさしくしてくれる彼女たちはまさに天使だ。
この大学病院では看護士さんが食事も運んでくれる。
看護士さんたちの仕事は過酷だ。
ここのナースはみんなスレンダーだ。太れる仕事ではないらしい。
眼科なので定時で帰れるのかもしれないが、精神的にはラクではないはずだ。
失明して絶望している患者を見るのは辛いだろう。
仕事を辞めてラーメン屋をやろうかなあ。
ラーメン屋をやっている時は評判が良かった。
あの頃は過酷だった。一週間で7kg痩せた。
グループの風俗店にスナックの店長。キャバクラにホストクラブのマネージャーに立ち飲み屋の店長、居酒屋でのランチに女の子の送迎に店舗開発。管理運営。そしてラーメン屋の店長。
ラーメン屋は深夜零時から朝の5時まで営業した。
ヤクザ同士の抗争でドンパチがあったビルの地下の店だったが、常連さんも付いて、結構繁盛した。
「闇の帝王」からも褒められた。
「お前は何でもやれるんだな?」
一日2時間の睡眠時間で死ぬかと思った。
ラーメンを作るの好きだった。
スープは佐野実さんのレシピを使った。
スープが外注の麺では合わず、製麺機が欲しくなった。
白河ラーメンが一番だと言うヤクザのフロント企業の常務が食べに来て、「会長、コイツのラーメンは俺が完成してやるよ」と言って、翌日、会長に呼ばれて「一緒にやってみないか?」と言われた。
「私は会長に言われてラーメンを作りました。あの男の好みのラーメンを作る気はありません」と言ったら会長はそれ以上何も言わなかった。
気が利くパートのおばさんがいれば食ってはいけるだろう。
目が見えるようになったら旅に出たい。
北陸がいいなあ。富山、金沢。
海外はもう無理だ。佐藤医師は飛行機は大丈夫だと言うが、気圧が低くなるのが怖い。
目がポテチの袋みたいにパンパンになる気がする。
最期はハワイで死にたい。豪華客船なら行けるかもしれない。
せめてもの救いは日本中、世界中を回ったので、目が見えなくなっても思い出
はある。
全盲の天才ピアニスト、辻井伸行さんは生まれた時から全盲だったという。
目が見えていた人が視力を失うのと、元から目が見えない人も夢を見るのだろうか?
生まれた時から視力を失っていた人でも夢を見るが、「見えない」という。
つまり「見たこと」ではなく「感じたこと」の夢だそうだ。
私は途中から視力を失ったが、実に鮮明な夢をカラーで見ることが多い。
辻井さんのようにピアノは弾けないし、琵琶法師にもなれない。
これから俺に出来ることは何だろう?
今まで目が見えていたのだからそれで良しとしよう。
退院したら寿司を食べに行きたい。
9月11日(金)晴れ 入院6日目
手術して5日が過ぎた。風呂に入りたい。
退院したら温泉に行きたいなあ。
毎日温かいペーパータオルを看護士さんが持って来てくれる。
「菊池さん、背中、拭いてあげましょうか?」
ベテラン婦長なら気軽に頼めるが、美人ナースだと気が引ける。
カラダを拭いてもらうなんてとてもとても。
それでも快く背中を拭いてくれる。気持ちがいい。
特に下半身は入念に拭く。もちろん自分で。
ガーゼを交換する時に左目を少し開けて見たが、グレーにしか見えない。
それでもいくつかの黒点は消えていた。少しは改善したようだ。
右目は眼底出血をしてからようやく血が沈殿したらしく、前のように見えるようになった。
視力は眼鏡使用で1.0。凄く嬉しい。
このままなら運転免許の更新が出来るかもしれない。
片目でも眼鏡使用で0.7以上あればいいらしい。
頭が痛くなるので本は読めないが、テレビが見れるようになった。
うつ伏せ寝はもう効果がないだろうと自分で勝手に判断し、仰向けに寝てみた。
久しぶりにぐっすり眠った。
夢を見た。鮮やかな花の夢だった。
視力が2.0以上あった頃のように鮮明なカラーの夢だった。
私のベッドは北向きの窓際にあった。
見えるのは別棟の病棟しか見えない。
個室や女性の病室は南向きなので、美しい緑や空が見える。
ヘリポートがあるのでドクターヘリも見えるので退屈はしない筈だ。
最初、緊急入院ということもあり、相部屋のベッドの空きがなかったので個室を勧められたが、霊媒体質なので怖いのと、入院費が高額なので困った顔をしていると、別な人を個室に回して、私を4人部屋に入れてくれた。
お金持ちや偉い人のための特別室もあった。
(政治家がマスコミから逃げるための部屋がここなのか?)
と感心した。
カーテンを開けて病棟の壁を見ていると、婦長が部屋にやって来て叱られた。
「ダメじゃないですか? うつ伏せ寝をしていないと。
明るいのは禁物ですからね。安静にしていて下さい」
サーッとカーテンを引かれてしまった。
うつ伏せ寝をして、婦長が出ていってから横向きで寝て、イヤホンでテレビを見ていた。
おふくろに電話をしたが呆れられた。
「何やってんの! まったく! 遠いからお見舞いには行けないからね!」
おふくろは少しボケ始めていた。
親父と別居して、他界した親父は私たち家族と屋敷に住んでいたが、母親は女房と折り合いが悪く、妹夫婦と一緒に暮らしていたが義理の息子とも犬猿の仲になり、自分の故郷で年金暮らしをしていた。
俺が船を降りたばっかりに、すべてが狂ってしまった。
俺が家族を不幸にした。
女房も子供たちも、そして両親も妹、姉ちゃんも。
だが後悔しても仕方がない。
すべては終わったことだ。
覆水盆に返らず
こうして右目はまた見えるようになった。
これ以上何を望むというのだ?
幸福とは「幸福だと感じる心を持つこと」なのだ。
ポケットに500円があれば、「500円しかない」と嘆くのではなく、「500円もある」と希望を持つことだ。
そして何よりも俺はまだ、こうして生かされているのだから。
9月12日(土)晴れ 入院7日目
入院して一週間が過ぎた。洗濯しないと下着と靴下がない。
下の売店に降りて行って洗剤を買い、ついでにアイスとアンパン、トマトジュースを買った。
この大学病院にはスターバックスとレストランもあるが、入る気にはなれない。
そもそも私は珈琲があまり好きではない。ましてやスタバの「なんちゃらフラペチーノ」に1,000円近くも出す気にはなれないし、レストランでサンドイッチなど、おしゃれな女医さんでもあるまいに、食べる気にもなれない。
大きな病院なので銀行もあり、ATMもずらりと並んでいる。
ここはちょっとした街になっている。
街ではあるが「傷病者の街」である。
病院のコインランドリーを探した。
だがこの病棟のコインランドリーには全自動洗濯機と乾燥機が2台ずつしかなかった。
(なるほど、洗濯物は家族が家に持ち帰ってして来てくれるのか)
そう思うと少し寂しくなった。
俺には洗濯をしてくれる家族もいない。
洗濯が終わるまでじっと待っていると、カーディガンを羽織った、中年女性がやって来て、終わった洗濯物を持って帰って行った。
俺は想像した。彼女の境遇を。
(家族は小学生の子供と夫、夫は洗濯をしたことがない? 母親は九州に住んでいるのでお見舞いには来なくていいと言った? シングルマザーで子供は中学生の男の子? ひとり暮らしで洗濯してくれる人がいない?・・・)
もちろん入院する前も自分で洗濯をしていた。
私は仕事もプライベートもいつも背広にネクタイなので、殆ど私服を持っていない。ゆえにクリーニングに出すことが多い。
自分で洗うのはシャツとパンツ、それにタオルや靴下くらいな物なので、洗濯は1週間に1度、コインランドリーで済ませてしまう。
その時は何も感じなかったが、入院している時の洗濯には虚しくなった。
つまりそれは、
洗濯をしてくれる人もいない自分
ということの再認識になるからである。
俺は今まで一体何をして生きて来たんだろう?
再婚を勧めてくれる人もいたが、私はとてもそんな気にはなれなかった。
別れた女房や子供たちが、イヤな気分になるからだ。
私には人を幸せに出来るだけの器量がない。
別れる時に女房から言われた。
「これ以上不幸な女は増やさないでね」
そして私はひとりで生きることを決めた。
どうせ永くは生きられまい。
別に孤独死をして無縁仏になるのが怖いのではない。
腐敗してウジの湧いた私の死体を、片付けてくれる人たちに申し訳なく感じるからだ。
大家さんにも行政の人にも迷惑が掛かってしまう。
せめて死んだらすぐに見つけて欲しいものだ。
出来ればまだ温かく、糞尿が漏れないうちに。
本当なら死体が自然に還る、富士の樹海とか、海で死んだほうが迷惑も掛からないのだろうが、今の私にはまだその勇気がない。
病院で死ぬ? それが一番いいが、こんなに忙しいドクターやナースさんたちに世話になるわけにはいかないな。
だからアパートには必要最小限の生活用品しかない。
掃除と整理整頓は常にちゃんとしているつもりだ。
トイレも風呂もキッチンも、いつ誰が来ても使えるようにとキレイにピカピカに磨いている。
男やもめにウジが湧く? あり得ない話だ。
若い頃から自衛隊みたいな生活をしていたのでそれが役に立っている。
子供を産むこと以外、何でも自分で出来てしまう。
女子力は高い。
俺は独身オヤジの鑑だな? 手が掛からない。
だが結婚している時は女房が何でもしてくれていた。
俺はそれに気付かずに、感謝もしなかった。
ゆえに末路はこうなるわけだ。
ありがとう、俺の奥さんだった人。
今頃遅いか?
私はベッドに座り、乾いた洗濯物を自分で畳んだ。
9月13日(日)曇り 入院8日目
やっとうつ伏せ寝から開放された。
ベッドが電動リクライニングなのが助かる。
手術後、上体と足を少し上げて一週間ぶりにグッスリと寝た。
「もう手遅れだよ」とジジイの眼科医に嗤われて大学病院を紹介され、すぐに手術をしてもらった。
左目の眼帯が外れた時、どんな世界が広がっているのだろう。
テレビドラマのように眼帯が外れて、「見えます、先生、見えるようになりました!」と叫んでみたい。
せめて光を感じるようにはなりたいものだ。
入院して家族も見舞客も来ない自分を反省した。
住宅営業マンをしているくせに、私は人付き合いが苦手だった。
御中元に御歳暮、年賀状を貰っても返さない恩知らずな俺だった。
いつの間にか人と関わるのが億劫になっていた。
昔は毎日のように酒飲みに誘われ、意識がなくなるまで酒を飲み、大声でみんなと笑っていた。
積極的に人付き合いをした。
だがそれが面倒臭くなってしまった。
自分を隠すように偽りの自分を演じて生きて来た結果がこれだ。
結局、人のしあわせとは「愛する人たちとのつながり」なのだ。
ショウペンハウエルは言う。
幸福とは快楽を得ることではなく
「あまり不幸ではない人生」を言う
ペシミストとしての彼らしい考え方である。
思えば私も厭世主義者だった。
この世は常に残酷で悲惨なものであると、辛酸を舐めて必死に生きて来た自分の闇がそこにある。
満たされない自分
自分がしあわせだと思える人生こそが幸福なのだ。
他人と比較したりする、相対的な幸福は物欲でしかない。
快楽を追求することは苦悩を伴うものである。
上流階級と貧困層。
人間は親を選んで生まれて来るというが、成功するチャンスだけは等しくあるはずだ。
ショーペンハウエルは人間は3つの要素からなっていると言う。
性格や人格、思想などの内面性と、地位や財産などの所有的外面。
そして他人からの評価。イメージされる事の外的評価であると。
人の欲望には際限がない。海水を飲めば更に喉が乾くように、欲望はやがて悲劇的な死を迎える。
ゆるぎない自分を持つこと
他人との比較や評価を気にすることなく、いかに自分という存在を認めることが出来るか?
人から認められたいという承認欲求は誰にでもあるものだ。
いくらカネを稼いでも、満たされない不幸な金持ちは山ほどいる。
動物的本能で快楽を求め、自分を探している虚しさに気づいていないのだ。
かつての私のように。
動画配信で予約の取れない店の常連であることを自慢し、高級シャンパンをグルメ気取りで飲み、希少部位だけを使った気取った料理を口にして満足気に頷く愚か者たち。 吐気がする。
ロクにフランス語も分からないくせに。
そしてまた、カネはなくても満たされた人生をおおらかに過ごしている者もいる。
ソクラテスは街で売られている商品を見て、
「この世にはこんなにも私に不要な物で満ち溢れている」
と言ったそうだが、食欲、性欲、睡眠欲が満たされているとすれば、あとは自己実現欲求しかないはずだ。
人間とは実に贅沢な生き物だ。
健康な身体があっても、身体に出来た小さな傷や出来物に思い悩んでしまう。
幸福な生活が出来ていれば、悩むことなど何もないではないか。
賢者は快楽を求めず 苦痛を避ける
アリストテレスはそう言ったそうだ。
仏教でも「この世の一切は苦である」と断言しているではないか。
金銭的な富は炎の中にある。ゆえにそれを掴もうとする者は業火に焼かれてしまうことになるのだ。
人は弱い。弱いから安心を求める。
安心とは何か? それは家族や組織、職場や学校、チームに所属することだ。
寄らば大樹の陰
俺は大樹になれもせず、大樹にも寄り添わなかった。
そのくせ他人からの評価を常に気にして生きて来た。
所詮、人の評価など一時的なものであり、絶えず変化して行くものなのに。
成功すれば「やっぱり菊池はすげえよ、お前なら絶対やれると思った」と言われ、失敗すれば「だから言ったじゃないか? 必ず失敗すると」 他人の評価など、そんなものである。
本当の幸福とは「自分に満足出来る自分になること」なのかもしれない。
入院すると人は哲学者になるようだ。
何もすることがない毎日。退屈は地獄だ。人間には「やるべきこと、生き甲斐が必要だ」と実感する。
一日を小さな人生として捉え、一生であると毎日を生き切る。
朝に感謝して目覚め、夜、布団に入り感謝して目を閉じる生活。
退院したらそうしよう。過去の後悔や未来の不安に囚われずに。
命は絶えず動いている、活動することで人は生きているのだ。
昨日より今日、今日より明日と魂を成長させたい。
人間の喜びとは自分と、愛する者の成長なのだ。
創造する喜びを大切にしたい。今の俺は良い家を作ることだ。
不幸は夜が近づくようにジワリジワリとやって来るものだが、幸福は朝日のように突然現れる。
諦めるな、自分。
9月14日(月)曇り 入院9日目
いつになったら退院出来るのだろう? 入院した時の同室患者はもう誰もいない。
息子が入院したのか、母親が付き添いに来ていつまでも病室で話をしている。イライラする。
「ブドウでも食べる? 何か持って来て欲しい物はない?」
私だけではなく、同室のみんなは思っていたはずだ。
(談話室で話せよ! バカ親子!)
俺も「ブドウ食べる?」とか言われてみたいよ。
今ならシャインマスカットがいいなあ。
女房もそうだが、母親は息子がかわいいものだ。父親が娘を溺愛するように。
私はその親子の会話に耐えられず、自分から部屋を出て談話室に向かった。
温かい珈琲を飲みながら、5階の談話室でドクターヘリが飛び立つのを眺めていた。
私は数年前、広島へ向かう飛行機から見た、地上の風景を思い出していた。
高速道路を蟻のように走るクルマ。その小さなクルマの中に更に小さな人が乗っているのだ。あのビルにもあの家にも人がいる。
地球から見れば砂粒のような人間たち。そのちっぽけな人間があのクルマを作り、このジュラルミンの300トン近くの塊を、時速800~900kmのスピードで飛ばし、宇宙にも人類を送っている。
音楽、美術、文学。様々な美を産み出し、文明科学を発見し、発明を繰り返している。
人間は地球というひとつの生命体の一部なのだ。
そんな人間がこの地球を破壊してしまうほどの原爆や水爆を考え、1万発もの核爆弾を作り出した。
たったひとりの人間の脳がだ。
そしてその同じ人間の俺は今、左目を失いかけて沈んでいるのは実に滑稽だ。
左目が今、どうなっているのかわからない。目の周りを消毒し、眼帯のガーゼを交換する時に目を開けてもいいのだろうが、怖くて開けることが出来ないでいた。
(真っ暗だったらどうしよう?)
幸いなことに、閉じた瞼からも光は感じていた。
先生から「目を開けて見て下さい」と言われるまでは目を開けたくはない。
また元のように見えるはずだ。こんなに長く入院しているのだから。
アメリカの病院に飾られていた格言を思い出す。
金持ちになりたいと神様に願ったら
お金のありがたさを知るようにと貧乏になった
健康になりたいと神様に願ったら
健康のありがたさを知るようにと病気になった
そして俺は神様から目が見えていることの素晴らしさを教えていただいている。
たとえ左目がダメでも右目を残していただいた。
それだけで私は十分しあわせだ。
目が見える、なんてありがたいことだろう。
看護士さんたちとも親しくなり、入院も悪くはないと思った。
休みなく働いたことへの褒美なのかもしれない。
何度も叩き落され、何度も這い上がって来た。
高待遇に誘われて、2年ごとに会社を変わった。
嘘つきの経営者ばかりだった。
業績が良くなると約束した条件を守らなくなる。
会社がよくなれば、うるさい私は目障りになるらしく、自分から会社に呼んでおいて「イヤなら辞めてもらってもいい」と言われ、会社を辞めた。
そして半年から1年でその会社は消えた。
所詮、能力がないからサラリーマンをしているのだ。
仕事が出来るから社長になれたわけではない。運がいいだけなのだ。
自分のために働いてくれる人間が、なぜかそいつには集まって来る。
あとはそいつらが勝手にカネを稼いでくれる。
社長は高級車に乗りゴルフ三昧、女遊びをして社員を恫喝していればいい。
だがその社長以上の社員は会社にはいない。社長以上の社員であれば、自分で独立しているはずだ。
そして俺も社長になった。そして3回失敗した。口惜しいが俺は社長の器ではなかった。運もなかったし人望もなかった。
親の会社を継いだ親友から言われたことがある。
「お前はカネに執着しないからダメなんだ」
意外だった。カネの話をしない奴だったからだ。
何をやらせても一流な男だった。高専では決して人前で努力している姿を見せなかったが、勉強もスポーツもいつも一番だった。
そして人を惹きつける魅力のある男だった。
何度も助けてもらった。それなのに今だに恩返しが出来ていない。
「感謝」という言葉が俺には欠落していた。
「もっともっと」とカネばかりを追い駆けていた。
そして糖尿になり、左目を失いかけている。
運良く糖尿病の名医と出会い、奇跡的にインシュリンの注射もせずに血糖値は改善された。
だが腎臓や心臓、脳へのダメージは否めないと言われた。
「菊池さん、大学病院に勤めていた時の私の患者さんにね、両目を失明して両足も膝下から切断した人がいました。 「先生、これじゃ自殺することも出来ねえよ」と笑っていましたよ。
楽しみはラジオを聴くことだけだそうです」
俺はまだ歩けるだけましだな? まだ右目も見えているし。
9月15日(火)晴れ 入院10日目
ようやく眼帯が取れた。
診察を終え、佐藤医師の声が沈んでいた。
「見えるようになりますから安心して下さい。手術は成功しました」
という言葉も、「残念ですが・・・」という言葉もなかった。
つまり「手は尽くしましたが手遅れでした」ということだと私は理解し、治る見込みについての質問はしなかった。
厚い曇りガラスで見ているようだった。私は落ち込んだ。
夜中の3時頃、正面のマザコン君がいきなりお経を唱えだし、「オイ! オイ!」と誰かに叫んでいる。
カーテンで仕切られているので状況が見えないだけに、私は怯えた。
怖い夢でも見ているのか? 病院だけに背筋が凍った。
以前、父方の祖父の葬儀を終えて夜、自宅に帰って来て、俺と妹、おふくろは茶の間でテレビを見ていて、親父は襖を隔てた部屋で眠っていた。
すると突然、親父が寝ている部屋から読経の声が聴こえてきた。親父の声ではなかった。
親父は信仰心がなく、お経など知らない筈だった。
私たちは3人は顔を見合わせ、固まった。
さすがはおふくろである、「誰かいるの!」とスクッと立ち上がり、襖をバッと開けた。
(おじいちゃんの幽霊でもいたらどうしよう)
私は怖かった。祖父とは幼い時に会っただけだったからだ。
親父は寝ていた。
「あなた! お経の声がしていたわよ」
「そうか・・・」
親父は意外と冷静だった。
祖父はウチの家族を心配していたから、一緒について来たのかもしれなかった。
俺が俺がの「我」を捨てて
おかげおかげの「下」で生きる
俺は今まで自分勝手に生きて来た。だからこうなった。
因果応報である。
私の敬愛する斎藤一人さんはこう仰る。
しあわせになるにはしあわせの種を蒔くんだよ
そしてしあわせの果実を収穫するんだ
悪因になる種を蒔けば 後で苦しみを刈り取ることになる
しあわせの種とは何だろう?
それは人のしあわせを願い、その手助けをすることだろう。
神様はこの世を笑顔の絶えない楽園にされたい筈だから。
人は幸福になるために生まれて来たんだよ
ひとりさんはそう教えて下さる。
俺は人の成功を妬み、競った。「負けたくない」と。
俺の努力は他人からの称賛を求めた努力だった。
「人からよく思われたい」と。
「俺は世界を股にかけた、国際航路の航海士だったんだ! お前らとは違う!」
そんな自意識過剰でイヤな奴だった。
俺は生き方を完全に間違っていた。浦島太郎。
困難を乗り越えれば神様からのご褒美が貰える筈だ。だが困難を乗り越えてもまた困難がやって来た。
「その道は間違っているぞ」
それは神様からのメッセージなのだそうだ。
俺はやらなくてもいい苦労をずっと続けていた。
ちゃんと人のために尽くせば、そこそこの幸福な人生が約束されていたものを。
俺はそれを自ら蹴飛ばして生きて来た。
人より苦労して、人より不幸せになっている愚か者だ。
人を批判したり悪口を言えば、また批判や悪口を言いたくなる人間が眼の前に現れる。
それに俺は気付かなかった。
自分の考えが「自分のいる世界」なのだ。
ひとりで美味しい料理を食べて、人にそれを自慢しているだけの生き方。
しあわせを独り占めしていた。
その美味しい料理を人に分けてあげる、レシピをみんなに惜しみなく教え、あるいは作ってあげる。そしてみんなで食べる。
「美味しいね?」と。
そんな人間にならなければならない。
今日からでも遅くはない、誠実な生き方をしよう。
未だ退院の日は知らされていない。
これが両目も見えなくなったら、「死んだ方がマシだ」と思うのかもしれない。
9月16日(水)曇り 入院11日目
看護士さんが二交替制だと聞いて驚いた。
つまり彼女たちは、1日12時間勤務ということになる。
医療ミスが起きないことの方が不思議なくらいだ。
一人で50人近くの患者を受け持つらしい。
元航海士だった俺は、昼の4時間と夜の4時間、一日合計8時間の三交代制の航海当直になっていたが、ブリッジには椅子がない。立ちっぱなしでの4時間はかなりキツかった。
緊張と疲労から、立ったまま居眠りをしたこともあった。
昔の兵隊さんは「歩きながら寝た」というが、まんざらウソではない筈だ。
命を預かる看護士が12時間勤務。
医者はもっと過酷だ。
「家には風呂に入って着替えに帰るだけですよ」と、自嘲している医者もいた。
救命救急になると、家にすら帰れないらしい。
知識と経験に裏付けられた瞬間的判断と行動。タフな精神力が医者には欠かせない。
彼らは医学生の頃からの勉強の大変さから、3日位は平気で眠らずに働くことが出来る。
ラクが出来て収入が良くなるのは、大学教授になるか、開業してからのことだ。
医者は稼ぎがいいと思われているが、それなりに大変な仕事のようだ。
東京の大学病院で事務職をしている妹が言っていた。
「お兄ちゃん、若いドクターなんて月8万円くらいしか貰っていないんだよ」
だから実家が金持ちの医者以外は、他の病院でバイトをするのだそうだ。
寮で医学部志望の先輩がいた。
部屋に遊びに行くといつも勉強していた。
壁には大きく、
医は仁術なり
と書かれた大きな貼紙がしてあった。
先輩の同級生は笑っていた。
医は算術なり
だと。あの先輩は医者になれたのだろうか?
会社で一番良くしてくれたAさんがお見舞いに来てくれた。
ありがたいことである。
こんな俺を見て、さぞドン引きしたことだろう。
突然、元女房から電話があった。
「ナースステーションに着替えとか渡しておいたから、それじゃあね」
「会わないで帰るつもりか?」
私は少し腹が立った。
(それほどまでに俺をまだ憎んでいるのか?)
だがすぐに私は冷静になって思った。
女房が病室に訪ねて来なかったのは、俺の女と鉢合わせになるのがイヤだったからなのだと。
女とはとっくに別れていた。
俺と女がイチャついているところなど見たくもないからだ。
「大丈夫なの?」
「大丈夫? どうしてだ? まあ少し話せないか?」
渋々彼女はそれを承諾した。
談話室で少しだけ話をした。
「何か飲むか?」
「いらない。取り敢えず、下着とか持って来ただけだから」
「ありがとう、わざわざ遠くから大変だったな? 子供たちは元気か?」
「元気だよ。退院はいつになりそうなの?」
「まだわからない」
「そう。夕方までには帰りたいからもう行くね? お大事に」
元妻はそう言って席を立った。
1年ぶりに会った女房は、少し痩せたようだった。
「カネを渡したいから俺も一緒に下に降りて行くよ」
下りのエレベーターで、私たち「元夫婦」に会話はなかった。
気不味い沈黙が長く感じた。
私はATMでカネを下ろし、30万円を渡した。
「今月分の慰謝料。気をつけてな?」
「ありがとう。助かるわ」
女房は振り返ることもなく、大学病院のエントランス・ホールを出て行った。
私は彼女の姿が見えなくなるまでその後姿を見送った。
それほど会話はなかったが、俺のことを心配してくれていることが嬉しかった。
俺はひとりの女も幸せに出来なかったことを恥じた。
あれほど俺との結婚をせがんだ女も、俺が女房と離婚した途端、俺と疎遠になった。
俺は女と別れた。
女は言った。
「元嫁はあなたのことを凄く愛していたと思う」
電話で女房と対決した女の、それが最後の言葉だった。
今ではその女の顔すら思い出せない。
俺は一体何を女に求めていたのだろう。
俺が家に帰ると、子供たちはすぐに自室へと閉じ籠もってしまう。
女房は食事を温めるとすぐに二階の娘の部屋へと上がって行った。
俺は思った。
カネさえ渡せば家族にとって俺は不必要な人間だ
俺はその寂しさとやるせなさを、女たちと付き合うことで埋めようとした。
虚しい別れだった。
「家族のために」とがんばっていたつもりの俺が、いつの間にか「家族を犠牲にして働いていた」ことに気付かなくなっていた。
いかに自分の生き方が間違っていたのかを、また今日、女房と会ったことで思い知らされた。
だがこれで良かったのかもしれない。
俺の面倒を家族は看なくてもすむからだ。
その意味で俺は、良き父親であり、良き夫だった。
ひとりで静かに死んでいく俺。
墓参りになど来なくてもいい。
家族は俺から離れられて幸福だと思うことにした。
9月17日(木)雨 入院12日目
ぐっすり眠った。
だが左目がまだ完治していないので違和感はある。
夢を見た。鮮明なカラーの夢だった。
「ハンガリアン・ラプソディが好き」
「ブラームスのか? ハンガリー舞曲 第5番」
「うん、あれを聴くとね? カラダが熱くなるの。
あんなにセクシーな音楽はないわ」
俺は飲みかけのジン・トニックに手を延ばした。
女優の木村多江に似た、見知らぬ女が夢に出て来た。
いいところで目が醒めた。
徳川家康が「桶狭間の戦」で主君、今川義元を失い、松平家の墓前で自害しようとした家康を、その寺の住職が死ぬことを思い止まらせたというこの言葉。徳川軍の旗印にもなったそうな。
穢れたこの世の中を
心から
徳川家康ですら絶望し、死のうとした。
そして、
人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つことばかりを知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
退院したら東照宮の家康公の墓参りに行こう。
人間はいつの時代も、そして権力者でさえも苦悩の中で生きていた。
俺の苦悩などたかが知れたものだ。
9月18日(金)曇り 入院13日目
このリゾートホテル(大学病院)に来て12泊13日。スイート・ルームのような高額な宿泊費の割に温泉にも浸ることも出来ず、カロリーバランスの良い質素な食事で4kgも痩せた。
運動もせず、ただ寝ているだけなのに。
美人ナースはいるが、触っちゃ駄目だ。
毎日食事をしてテレビを見て、ラジオを聴いて寝るだけの入院生活。
仕事をしている時は疲れてどこでも寝ていた。
今は寝ることが「義務」になると、睡眠は「苦痛」でしかない。
これは天国ではなく地獄だ。
生きるとは活動をすることであり、人は生き甲斐なしでは生きては行けない。
右目の網膜剥離を抑制するためのレーザー治療が始まった。
網膜は70%くらいまで焼いても視力に支障はないそうだ。
だが光の感じ方が明る過ぎたり、暗過ぎたりした。それでも失明するよりはマシだ。
普通のレーザー治療なら数発で済むから痛みは殆ど無いが、私の場合は一回のレーザー照射が数百発にも及ぶ。
施術をする佐藤医師も大変だ。それはジョルジュ・スーラが描く、点描画を描くような緻密で根気のいる作業だからだ。
私の知人はレーザー治療が未熟な女医に片目を奪われたと言っていた。誰でも出来るものではないらしい。
機械の前に座り、頭と眼球を固定される。動いたら大変なことになる。
まるで拷問だった。
私はその激痛に耐えなければならない。眼球が引っ張られるような痛みに脂汗が吹き出る。
血圧は200以上にも上昇し、やっと機械から開放された私は嘔吐した。
左目の抜糸をした。上瞼の出血が止まれば目を開けることが出来ると言われた。
ドキドキする。今度はちゃんと見えるだろうか?
思いがけず、同僚のYさんが見舞いに来てくれた。
Yさんは私よりも年上で、レーザー治療を受けたことがあるらしい。
親近感が湧いた。
明日が見えない。お笑い芸人のヒロシではないが、
「明日が見えんとです」
だが過去はよく見えるようになった。愚かだった自分の過去が。
傍若無人のくせに、人目を気にして生きていた俺。いつもカッコばかりつけてやせ我慢をしていた。
自分の能力を過信して、周りに嫌な思いを沢山させた。
「俺の言う通りにやればいいんだ!」
会社でも家でもそう振る舞っていた。
カネが入って来るほど孤独になって行った。
山に登れば登るほど、風当たりは強くなり、吹雪に雷雨も激しくなって来る。
酒と女、ギャンブルに暴飲暴食。仕事での重圧で睡眠不足の毎日だった。
そして財産も家族も女も、そして健康も失った。当然の報いだ。
人は蒔いた通りの種が実を結ぶ。因果応報だ。
私は一生懸命、不幸の種を蒔いていたのだから。
「苦労をしている時には、それを学んでいるんだよ」と、斎藤一人さんは教えて下さった。
そうだとすれば、俺は今まで相当学んだ。猛勉強させられた。
仕事、家族、健康、お金・・・。
新幹線のホームで新幹線を待っていると、無意識に黄色いブロックを超えていることがあり、ハッとして我に返ったりした。
俺は死んだように生きていた。
何度も失敗し、ゾンビのように復活した。
斎藤一人さんはおっしゃる。
「困難を克服してもしあわせになれず、また困難がやって来るのは、それはその道、生き方が間違っているということを神様が教えて下さっているんだよ」と。
俺はしなくてもいい苦労を延々と続けていた。
ギリシャ神話のシーシュポスのように、重い石を苦労して山の頂へ押し上げた瞬間、麓へ転げ落ちてゆく石。
そしてまたそれを麓から押し上げるシーシュポス。
それを繰り返しているうちに、その苦役にいつの間にか喜びを感じるようになってゆくシーシュポス。
俺の人生も同じだった。
「不幸な人生を懸命に生きる自分」が好きになっていたのだ。
だがそれは間違っている。
なぜなら人間はしあわせになるために生まれて来たのだから。
大学進学をさせてもらえなかった親を恨み、自分勝手で我儘な経営者を呪い、自分を心配してくれた家族や友人の声に耳を傾けず、差し伸べてくれた手を振り払って俺は生きて来た。
俺が人生を誤って生きているのはわかる。では正しい人生とは何だ?
斎藤一人さんは仰る。「まずは人を妬んだり、蔑んだり、悪口や批判をしないこと。そして人に親切にするんだよ。
そして「ありがとう」を言い、人から「ありがとう」と言われるような生き方をするの。
そうすれば神様が道を示して下さり、奇跡が起きるんだ」と。
私はすっかり穢れてしまった心を清めることから始めなければならない。
だがそれは簡単なことだ。人にやさしくすればいいのだから。
なにも大きなことをしなくてもいい、例えば次に来る人のためにドアを開けて待っていてあげるだけでいいのだ。
そして愚痴や妬みを言わないで、楽しい話をすればいい。
人の成功を心から喜んであげる。
そんな小さなことの積み重ねが功徳の種を蒔くということなのだ。
俺は人生を遠回りしたが、幸福とは何かを学んだ。
幸福とは、
「幸福とは自分の周りにたくさん落ちている。
それに気づくだけで幸福になれるのだ」
私は既に幸福だった。
9月19日(土)晴れ 入院14日目
人生はひとり旅。
今になって思えば、俺は寂しさを女で埋めようとしたのかもしれない。
俺の居場所は既に家庭にはなかった。
がんばって働いていたら、いつの間にか家族から避けられるようになっていた。
あの頃の俺は怖かったという。
恋に恋していたような、女子高生のような恋愛ごっこ。
俺は未だに恋愛が何なのか、分かってはいない。
女の愛し方がわからない。
50を過ぎたオッサンが、家族からも愛想を尽かされ、いつ退院出来るのかさえ分からない、勾留生活。
俺は結婚には向かない男であり、結婚してはいけない男だったのだ。
「結婚式で泣く男とは結婚してはいけない」らしい。
そんなやさしい男は、すぐに周りの淋しそうな女に入れ込んでしまうからだと言う。
俺は自分の結婚式で、ずっと泣いてばかりいた。花婿なのに。
ただうれしかった。殆どを海外で過ごしていた超遠距離恋愛を、4年も続けた。
この女と暮らせるならば、仕事なんて何でもいいと思った。
離婚の「離」の字も考えたことはない。そんなのは他人事だと思っていた。
毎日がしあわせだった。俺は。
不倫。それは実りのない恋だった。傷つけ合って別れた。
人はなぜ恋をするのだろう?
カネも時間も掛かるこのゲームに、なぜ人はのめり込むのだろう?
ユーミンの歌ではないが、
昔の恋を懐かしく思うのは
今の自分がしあわせだからこそ
今の俺はしあわせなのか?
失明するかもしれないというのに?
本も映画も、テレビも美しい景色も見えなくなるかもしれないのに?
一人で買物も出来ず、美味しそうな料理も、美しい女も見ることが出来なくなるというのにか?
好きだったクルマの運転も出来ず、料理も作れない。
そんな毎日に俺は耐えられるだろうか?
耐えられまい。
家族の愛に飢えていた。
俺は間違っていたのだ。家族を凄く愛していたことはウソではない。
出来ることは何でもした。温泉、海外旅行。大きな屋敷、乗り心地のいいクルマ。
時間の合間を縫って子供たちとキャッチボールに天体観測、釣りに潮干狩り。
一緒に絵を描いたり、ウドンを打ったり、ケーキを作ったり、眠る時には絵本も読んであげた。
だが嫌われてしまった。
それは俺の自己満足だったのかもしれない。
離婚してから女房に言われた。
「普通の生活で良かったのよ。私たちは贅沢なんか望んではいなかった。
人並みに暮らせればそれで良かったの。
あなたは本当にして欲しいことをしてはくれなかった」
大人になった子供たちからも言われた。
「相談したい時にパパはいなかった」と。
簡単に言えば、しあわせの価値観が違っていたということだ。俺は家族にしあわせの押売をしていたのだ。
女房は両親が公務員で、恵まれた環境の中で育った、お嬢様だった。
一方の私はすべてにおいて我慢を強いられて育ち、理想の家庭生活を持っていた。
高級外車に乗り、大きな屋敷に住んで家族に贅沢をさせてあげることが私の夢だった。
そしてその夢を実現し、家族は俺の元から去って行った。
当然の報いである。それは私の夢であり、家族が望んだ暮らしではなかったのだから。
俺は家族を食わせるために精一杯だった。家族のために自分を犠牲にし、そして家族を犠牲にした。
俺は不幸の実がなる木を、一生懸命育てていたのだ。
そして家族も自分も不幸にした。
クルマは3ヶ月、家は1年で飽きてしまうものだ。
結婚生活をちゃんと続けている人たちは凄い。尊敬に値する。
俺はちゃらんぽらんのロクデナシだ。エゴイストでペシミスト。
忙しいとは「心を滅ぼす」と書くが、私は心を亡くしていた。
失明したらこれからどうやって生きていけばいいのだろう?
按摩師?、鍼灸師?、指圧師?、琵琶法師? 琵琶は引けないか。
ましてや辻井伸行さんのようにピアノも弾けない。
宗教家? 無理な話だ。神様に救われている私が神様を語るなど、ふざけた話だ。
占術師? 疲れる。
どうした俺? やけに今日は暗いぞ。
9月20日(日)晴れ 入院15日目
日曜日になると見舞客が増え、病室は賑やかになる。
私には見舞客は来ない。
笑い声が病室に響く。私はいたたまれなくなり、眺望の良い談話室へと出て行ったが、ここにも数組の患者と見舞客がいた。
惨めだと思った。
一般的な眼疾患の患者は軽症が多く、手術後、数日で退院してゆく。
私のような深刻なケースは稀だった。
ゆえに眼科病棟は脳や内蔵系の疾患とは異なり、食事制限もなく、のんびりとしていた。
泣き叫んだり
その代わり、眼科病棟には絶望があった。
生きながら味わう地獄
左目は少しづつではあるが、見えて来そうな気がしていた。
硝子体を入れ替えればまた、見えるようになるのではないだろうか?
網膜は定着しているはずだ。
なるべく眺めの良い談話室に行き、遠くの景色を見ることにした。
小学生の頃、「望遠訓練」というのがあり、休み時間は遠くの山々を見るようにと指導されていた。
「いいか、目は大切だ。遠くの緑の山を見ることは目にとてもいい効果がある。
緑は目に凄くやさしい。お医者さんの手術着が緑色なのも、患者さんを安心させるためだ」
子供の頃から目は良かった。健康診断ではいつも2.0だった。それが唯一の自慢でもあった。
「菊池君の目って、とても綺麗な目をしてるわね?」
女子からもよく褒められた。いい気分だった。
睫毛が長く、潤んで澄んだ瞳。
航海士として勤務するようになると、さらにそれが役立った。
当時、GPSはまだアメリカ軍が独占しており、船舶にはNNSSという、人工衛星が飛んで来ないと正確な位置が掴めないポジショニング・システムしかなかった。
航海士の重要な職務のひとつに正確なポジショニングがある。
つまり、本船の現在位置を大海原の中で正確に把握する必要があるからだ。
トワイライトになり、水平線がハッキリと見えるうちにSIXTANT(六分儀)を使い、正確な天体高度を測定する。
普通では見えない、微小な光を放つ星を5つ選んで高度を測定するのだ。
薄暮とは言え、空はまだ明るい。
天体航法には正確な天体高度と時間のデータを測定しなければならない。
時間はクロノメーターという精密時計で測定する。
天体の正確な位置を手計算で行うと、複雑な数式を幾つも使い、1時間も掛かってしまう。
六分儀のメーカーである「TAMAYA」が開発してくれた「航海電卓」はとても便利だった。
データを入力するだけで、すぐにその天体の方位を導き出し、その天体たちの方位線が交わる中心が船位となる。
丁度ポケット・コンピュータが出始めた頃で、その数式をプログラムして、独自の船位計算システムを作ったりもした。
私は星を見つけるのが得意だった。
目が悪くなるなんて考えたこともなかった。
「俺の目が悪くなるはずがない」といい気になっていた。
見えて当然だと思っていたのである。傲慢だった。
船乗りを辞めて一般企業に勤めると、パソコンやオフコンを使うようになり、急激に視力が低下して行った。
そして極度のストレスから糖尿病になり、今、失明の危機にある。
私は自分の目を過信し、労ることも、感謝することもしなかった。
「俺は目がいい」
当然の報いである。「目が見えて当たり前」だと思っていたのだ。
人はそれを失うことで、その大切さ、ありがたさを痛感する。
目を、健康を、親友を、家族を、女を失った。そして信用も失くした。
過去を悔やんでも仕方がない。世話になった人たちに恩返しをしなければならない。
一生を賭けて。
9月21日(月)晴れ 入院16日目
入院中は何もすることがない。本も読めないのでもっぱらテレビとラジオで時間を潰す毎日。
6時にナースの検温とバイタルチェック、点眼。
食事を終えて診察。そして昼にまた検温と血圧測定、そして点眼。ごはんを食べるといつの間にかまた看護士さんが検温等をして夕食。
意外にも入院生活の一日は早く過ぎてゆく。
50歳を超えると老いが迫って来る実感がある。
40歳では感じなかった体の衰え。
昔のようには行かない。記憶力もどんどん悪くなって行く。
一体俺はいつまで生きられるのだろう。あと20年? それとも1年? あるいは今日の夕刻に死んでいるかもしれない。先のことなど「神のみぞ知る」だ。
昭和初期までは「人生50年」と言われていたが、今では100歳など珍しくもなくなった。
長生きすることはいいことだが、それには長生きするだけの豊かな生活が伴わなければならない。
健康で財力もあり、妻や子どもたち、孫やひ孫たちにも愛され、穏やかに過ごす老後には憧れる。
そして最期はそんな家族や友人、愛人たちに看取られて死ねたら本望だ。
人間の一生はどれだけ長く生きたかではなく、いかに生きたかだと思う。
俺はすべての望みを叶えた。故に自分の人生に後悔はない。
だが迷惑を掛けた人たちに恩返しがまだ出来ていない。
このまま死んでしまうには、あまりにも無責任な話だ。
今こうしてベッドで寝ていると思う。人生は、
「ありがとう」を集めるスタンプラリー
なのだと。俺の人生は「ありがとう」を言ってばかりの人生だった。
「ありがとう」と言われる生き方をしたい。
死んでしまえば生きている人の記憶から自分が消えてゆく。
俺の場合は惜しまれて死んで行くことは無理だ。
花輪も弔問客もなく、無縁仏となって独りで死んでゆくのだ。
自分のエゴイスティックな「我」がそうさせた。
それでも
自分と一緒にいるだけで、ほっこりしてもらえるようなそんな生き方がしたい。
やさしくなりたい、強くなりたい。ちゃんとした大人になりたい。
何かの本で読んだが、「人の一生は28歳までの生き方で決まる」と書いてあった。
その通りなのかもしれない。俺は25歳で結婚をしたが、精神的にはまだガキだった。
失明するかもしれない今、子供たちからの電話もメールもない。
それほど俺は子供たちから嫌われているのだろう。
寂しくないのかと言えば嘘になる。子供たちに会いたい。
俺のあぐらの上に座って絵本を読み聞かせてやった息子、「パパ、いっしょにネンネしよう」と、枕を引き摺って俺のところにやって来た娘。
家族は仲良くなければいけない
それはただの呪縛だ。何故かいがみ合ってばかりいる家族もいるではないか。
「こうあるべきだ」などという考えは間違っている。
自分が相手のために尽くしたかどうかは自分が決めることではない。相手が決めることだ。
「あんなに愛してやったのに」とは自分の勝手な思い上がりだ。
相手がどう思おうが、感じようが、それは大した問題ではない。
何も考えず、見返りを求めない無償の愛。それこそが大切なのだ。
反省の日々はいつまで続くのだろう? この入院生活はいつ終わるのだろうか?
怖くて佐藤医師に訊くことが出来ない。
なぜなら先生からは「退院」の話が一向に出ないからだ。
つまりそれだけ私の症状は「危うい」ということになる。
俺は臆病な小心者だ。
9月22日(火)晴れ 入院17日目
ハンブルグから日本までは、約40日の航海だった。
それに比べればまだ半分も経ってはいない。
入院して17日目になったが、退院の目処はまだ立ってはいない。
かなり深刻な状態なのだろう。
明らかに眼科医たちは迷っているようだった。
代わる代わる訪れる同室患者の見舞客たちにうんざりする。
会いたい人に会えない自分。カーテン越しに楽しそうに談笑する人たちの声が耳障りだ。
俺の心は荒んでいた。
すべては自分の蒔いた種である。ベッドの周りが花や食物、そして愛すべき人たちの笑顔で囲まれるような生き方をしなければならない。人として。
他人のしあわせを素直に喜べる人間に。
ナースの山本さんは一番の美人だ。気が利いていつもやさしくしてくれる。
旦那さんや彼氏さんはしあわせ者だ。良い行いをして来たのだろう。
付き合う女がその男の価値を表す。男尊女卑になるかな?
丸山さんはナイチンゲール、看護士の鑑のような人だ。
いつも俺を気遣って励ましてくれる。
まさに地獄に仏。いや女神か?
いつからだろう、家族のことを見なくなったのは。
豪華な食事も、旅行もプレゼントも、家族のことを見てしていなかった気がする。
それはそれをしてやった自分に満足して、家族の反応を見ようともしなかったからだ。
高級な鮨屋やフレンチレストラン、焼肉屋に連れて行っても俺は家族の食べている姿を見ていなかった。
きっと喜んでくれているはず
だが、本当は彼らは喜んではいなかったのだ。
無理やり俺に付き合ってくれていた? 俺の自己満足のために?
俺は怖い顔でそれをしていたのかもしれない。実に傲慢だった。
色んな事業計画が頭を駆け巡る。
だが問題は資金をどうするかだ。
金を掛けずに出来ることはなんだろう? カネが欲しい。
若い頃、中村天風師の思想を学ぶ機会を得た。
いつのまにか俺は欲にまみれ、大切な天風哲学を忘れていたのだ。
すべては心の状態が決める
人間には生まれながらにして潜在意識が備わっている。
潜在意識と顕在意識、そして超意識。
否定も肯定もしない揺るぎない心。心耳を澄まして神の声を聴く。
宇宙の神秘がそこにある。
宮本武蔵は数々の命の遣り取りをした真剣勝負の中で、自分が「勝つか負けるなど考えたことはない」と言う。
虚心平気
心を穢してはならない。俺の思考は常に雑念に支配されていた。
信念、暗示、内省検討。
自分の心を常に見る。考えるのではなく感じることだ。
病は気から
病を忘れること。気に病まない。
信念が人を創る
自分の主人になることだ。雑念に惑わされず、自分の心を自分が支配しなければならない。
今、私は変わろうとしているのだ。
自己実現 心の中になりたい自分を想い描く
自己暗示だ。私は出来る、俺はなりたい自分を心に思い描く。
目が見えなくなると思えば見えなくなるし、死ぬかもしれないと思えば死ぬだろう。
俺は自分の将来を不安に感じ、恐れているだけだ。
考えるな、無になれ。
迷故三界城
悟故十方空
天風師は仰る。
人間は力の結晶である
心はどこにあるのだろう?
胸? 心臓というしな?
それとも頭にある?
心と思考、魂は別々に作用しているのか?
入院して感じたことは、これらの3つはそれぞれに独立しているが、連携しているということだ。
そして思考と魂は自分の肉体に存在するが、もしかすると心はカラダの外にあり、ラジオやテレビのように、天からの真理のメッセージを自分に伝えていただいているのかもしれない。
心こそ 心惑わす心なれ
心に心 心ゆるすな
俺の入院生活での内省検討の日々は続いていた。
焦るな。現実を静かに見詰め、まずはあるがままの自分を受け入れよう。
良くなろうが悪くなろうが、善く生きることだ。
9月23日(水)曇り 入院18日目
シルバー・ウィークも今日で終わり。俺は毎日が休日だ。
そろそろ病院食にも飽きて来た。
鮨が食べたい。トロ、鮑、ウニ、イクラ、平目に甘鯛、ボタン海老。
ビールも飲みたい。
『山岸屋』のワンタンチャーシュー麺に『太助』の牛タン、『ひやま』のトンカツ。
そして『益子人』の朝採れ新鮮野菜とハンバーグ、五穀米のプレート・ランチ。
『叙々苑』の焼肉に『ドンゾイロ』の鉄板焼。『精華苑』の中華に『治兵衛』の天ぷら。
旅に行きたい。北陸富山、金沢。仙台、会津、神戸、広島、博多に長崎。
ハワイにベルギーのアントワープ、ポルトガルのリスボン、イタリアのベニス、ガテマラのプエルトバリオス。
だが海外は無理だな? もう二度とは行けないだろう。
豪華客船なら別だが、飛行機は気圧が低いので、眼に圧力が掛かるからダメだ。
やはりパイロットも自分で操縦するより、酒でも飲んで乗客の方がいいのだろうか?
俺は乗客の方がいいけどな? 責任もないし、船上でキレイな星空を指差して、ギリシャ神話の星座の話でもしながらお姉さんでも口説いていたい。
ずっと自分は劣っていると思っていた。劣等感の塊だった。コンプレックス。
高専しか出ておらず、大学を出ていないとか、才能がないとか、イケメンじゃないとか。
自分は貧乏人の子供だから人よりも沢山の努力をしなければならないとか。
今思えば馬鹿げた話だ。俺は他人の評価ばかりを気にして生きて来た。
人と比較して生きて来たのだ。実にくだらない。
神とはこの宇宙そのものなんだ。神は人間と同じ格好をしてはいないのではないだろうか?
そして人間はダーウィンが言うように、猿が進化したものではない。
人間は霊長類の頂点にあるのではなく、人間は神様の御霊分けなのだ。
つまり自分には神様が内在しているということになる。
そして神はこの大宇宙の法則であり、宇宙そのものなのだ。
そしてそこで生きる人間である自分は、その大宇宙の一部なのだ。
万物は原子で構成されている。そして原子核は陽子と中性子、電子から出来ている。
すなわちこの肉体も、粒の集まりなのだ。
人間は莫大なエネルギーを秘めた光の粒なのだ。
中村天風師は仰る。人間は力の結晶だと。
力の
私は力だ
力の結晶だ
何ものにも打ち克つ 力の結晶だ
だから何ものにも負けないのだ
病にも 運命にも
否 あらゆるすべてのものに
打ち克つ力だ
そうだ!
強い強い 力の結晶だ
吾は今 力と勇気と信念とを持って甦り
新しき元気をもって 正しい人間としての本領の発揮と
その本分の実践に向かわんとするのである
吾は又 吾が日々の仕事に溢るる熱誠を持って
吾はまた
一切の希望一切の目的はこれを厳粛にして正しいものを
もって標準として定めよう
そして常に明るく朗らかに 統一道を実践し
ひたむきに人の世の為に役に立つ自己を完成することに
努力しよう
若くて健康で、仕事もプライベートも充実していた頃は、この天風先生の教えがよく理解出来なかった。
そして理解しようとも思わなかった。
だがこうして毎日自分の心と向き合っていると、これが如何に素晴らしい教えであるのか、今は痛感している。
そうなのだ、この世にはどうでもいいことが多すぎる。
それに一喜一憂しているのは自分に自信がないからだ。
俺には信念がなかった。ただデラシネ(根無し草)のように生きていた。
私は力の結晶であり、尊い存在なのだ。自分を愛さなければならない。
そしてどんなことがあっても、怒らず、恐れず、悲しまずに生きて行こう。
斎藤一人さんも仰るではないか?
未来は変えられないが 過去は変えられる
挑戦してみよう、この瞬間から。
9月24日(木)曇り 入院19日目
人生の遅い夏休みが続いていた。色んなことを考え、反省した。
今までの自分の自堕落な生活を。
どうして苦労の連続なのかを考えた。そして、吹っ切れた。
人間の生き方は考え方と行動で決まる
俺はあまりに卑屈だった。
そして自分を卑下していた。
俺なんか どうせ何をやっても駄目だ
自分がキライだった。
有り余る時間の中で、私は気付いた。
しあわせになるのは簡単なことだと。
愚痴や悪口、陰口。批判に批評。
怒り、不安、悲しみ、そして不信。
それを人にぶつけ、自分に浴びせた。
誓いの
今日一日 怒らず恐れず悲しまず
正直 親切 愉快に
自己の人生に対する責務を果たし
常に平和と愛とを失わざる
立派な人間として生きることを
厳かに誓います
中村天風
たったこれだけのことだったのだ。幸福で充実した人生を送ることは。
朝、目覚めてこの誓いの詞を宣誓する。
一日をこの誓いで始めて、今日を完結させる。そしてまた明日の朝、私は勇気と信念とを持って甦るのだ。
今まで何をしても成功出来なかったのは、自分が暗い言葉を話し、行動していたからだった。
自分で不幸の種を蒔いて綺麗な花を咲かせ、その花を
絶望の入院生活は決して不幸ではなかったのだ。
私に自分を見つめ直す時間を、神は与えて下さったのだから。
自分の頭に描いたことは殆どが実現した。
そしてそれはいいことばかりではなく、マイナスの想像も実現してしまったのである。
恐怖や不安、不信。私はマイナスのイメージも実現することに気付かなかった。
人間は思った通りの人間になる
ダイヤモンド・プリンセス号のような大型客船や数十万トンにも及ぶウルトラ・タンカー、俺は世界中のどんな船長にもなれる、最難関の資格も取得し、世界中を訪れ、いい気になっていた。
世界一周もした。好きな女との結婚、憧れのニューヨーク勤務の話もあった。そして地元に戻り、ゼネコンに入り、簿記や経営計画の立案を学び、宅建も独学で一発合格した。
住宅営業マンとして、注文住宅の受注で全国1位の成績も挙げた。
豪邸を建て、社長となり、高級車を数台所有し、「旨い鮨が食べたい」と新幹線で東京へ行き、芸能人が来るような高級クラブで酒を飲み、女を抱いた。海外旅行にも出掛けた。
1年で2億円を遣った。
だがその一方で、常に不安があった。
「もし受注がなくなって会社が倒産したらどうしよう」、「屋敷や高級車が取り上げられたら」、「病気になったらどうする?」、そして「離婚したらどうなるのだろう?」
新婚の時、離婚した女房に尋ねたことがある。
「俺が浮気したらどうする?」
「あなたを殺して私も死ぬわ」
俺はそれほど妻から愛されていた。それなのに、俺は妻を裏切った。
殺されていた方がしあわせだったのかもしれない。
俺はそれほどクズな亭主だった。
すべて実現した。人にして来たことがすべて自分にブーメランのように戻って来た。
俺は自分で自分を幸福にし、そして不幸にした。
天風会で杉山彦一会長から何度も教えていただいたのに、それがよく理解出来なかったが今ならわかる。
人生は心ひとつの置きどころ
しあわせになることは簡単なのだ。
嫌な想念を払拭し、人が嫌がるような、天に背くような言葉を吐かず、そんな行動はしないことだ。
そして神様から愛されるような生き方をすることだ。
良い生き方をして、良い行いをする。怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に。
そして平和と愛とを失わない生活をすることだ。
正しい理想を、理念を具体的に、鮮明に心に思い描くのだ。
コップに入れた泥水も、綺麗な水を注ぎ続けることでコップの水はやがて浄化する。
俺の心に溜った汚水を洗い流すのだ。
俺はどん底の中で、真理を掴んだ。
9月25日(金)曇り 入院20日目
再手術が決まった。
「菊池さん、左目に注入した生理食塩水をシリコンオイルに置換する手術をしてみたいと思いますがいかがですか?」
「先生におまかせします。よろしくお願いします」
再手術になることは既に予想していた。
先日の手術の際に、網膜がかなり弱っていたらしい。
手術に対する恐怖はもうない。歯医者で麻酔をかけて歯を治療するようなものだからだ。
ただまたうつ伏せになって寝るのかと思うと憂鬱になった。
だが生食水からオイルに変えれば痛みと吐気は抑えられるのかもしれないと思った。
川島なお美が死んだ。54歳。俺と同じ歳だった。
好きなタレントだったのに残念だ。
自分だとあまり感じないが、彼女のように陽気なイメージがあると、死ぬのはまだ早すぎると思った。
人は遅かれ早かれ、必ず死を迎える。
しあわせな時はしあわせを感じないものだ。
しあわせは不幸になって初めて、自分がいかに幸福であったのかに気付く。
健康も、俺のように病院に世話になって初めてそのありがたさを知るのだ。
たとえ目が厳しくなっても生きているだけで素晴らしいことなのだ。
今は冷静に、自分を第三者として俯瞰することが出来る。
神様は私に、生まれ変わるチャンスを与えて下さったのだ。
もう恐れるものは何もない。
今までこんなにがんばって、こんなに苦労して、沢山辛い思いをして来た俺が、不幸せになるわけがない。
俺はそう強気に生きることにした。
今度の手術は2時間ほどで終了した。
看護士さんではなく、佐藤医師が自ら車椅子を押して、病室まで送ってくれた。
先生は終始無言だった。
(手術は駄目だったんだろうな?)
私はそう感じた。もちろん先生に恨みはない。
日曜日も出勤し、私の目を診察してくれて消毒もして、ガーゼまで取り替えてくれた。
右目を残していただいた先生の判断は正しかったと思う。
もし右目も手術していたら、おそらく両目を失明していたかもしれない。
俺はツイていると思った。不幸中の幸いだった。
看護士さんたちもそんな私を労ってくれて、より親切にしてくれた。
ベッドのテーブルの上に真鍮製の懐中時計を置いていた。
手巻き式の時計の音を聞いていると気分が落ち着いた。
看護士の山本さんから訊かれた。
「菊池さん、これは何?」
「懐中時計なんだよ。ハワイに新婚旅行に行った時、義理の父親にプレゼントした物なんだけど、形見分けで貰った物なんだ。ゼンマイ時計だから音がいいんだよ、まるで時計が生きているみたいでね?」
私は懐中時計の蓋を開け、山本さんに見せた。
「きれいな時計ね?」
「うん、たまにスリーピースのポケットに入れて使っているんだ」
「お洒落ですね?」
「だろう? あはははは」
山本看護士のやさしい気遣いが伝わる。
そしてまた、拷問のうつ伏せ寝が始まった。
9月26日(土)曇り 入院21日目
三等航海士をしていた時、50代の二等航海士がハッチの金具に指を挟んでしまい、怪我をしたことがあった。
ちょうど日本を出港したばかりで、船舶衛生管理者だった私が傷の応急処置をした。
どうやら骨までは達してはいないようだったが、かなり出血していた。引き返すべきかどうか、キャプテンに進言すべきかどうか、私は迷った。
港に戻るとなると、数百万円の損害になる。
キャプテンが私に尋ねた。
「どうだ? 重症か?」
「出血が多いようです」
するとその二等航海士は言った。
「大丈夫ですからこのまま航海を続けましょう」
幸い、出血は止まったが、指は変形していた。
包帯を替えてあげていると彼は言った。
「五体満足の船乗りなんていないからね?」
彼は笑ってそう言った。家族はいない人だった。
確かに船乗りは危険な仕事だ。ちょっとした気の緩みで命を落としかねない。
山本五十六は軍人ではあるが、日本海海戦で左手の人差指と中指を失い、左大腿部を欠損していたという。
軍人も商船乗りも怪我はつきものだ。そして山本五十六は59歳でこの世を去った。
独眼竜と呼ばれた伊達政宗や海賊キング、キャプテン・ハーロックに丹下段平。タモリにパティシェの鎧塚。樹木希林なども片目だった。そしておすぎとピーコのどちらかも。
私の場合はたとえ見えなくなっても義眼にはならず、右目と連動して動くらしい。
カッコいいじゃないか? 「キャプテンハーロック・菊池」だなんて。
劉備玄徳は言った。
私欲を捨て 事にあたれ
ただ眼の前のことに集中すること。これしかないのだ。
先のことなど考えても仕方がない、なるようにしかならないのも人生である。
私は航海士を辞めて、食えない時は何でもやりながら、それでも建設業一筋で来た。
そして何度も高い業績をあげ、お客さんたちからも喜ばれた。
だが、難度試練を乗り越えても成功は長続きしなかった。
斎藤一人さんのお言葉を思い出した。
「それをやって何度も失敗するのは、それがあなたには向いていないという、神様からのメッセージなんだよ」という言葉をだ。
俺には建設業は向いていないということかもしれないと思った。
私が事業で失敗した最大の原因は、予算を度外視した家づくりにあった。
少ない予算で建築の技術者向けの雑誌に掲載されるような家ばかりを作っていたからだ。
私はいつの間にか、経営者であることを忘れ、芸術家になってしまっていたのだ。
予算を考えて作品を作るアーティストはいない。
私は自分の作品に酔っていたのだ。
では本当に私にあっている仕事とはなんだろう?
仕事とは自分が選ぶものではなく、仕事から選ばれるべきものであると言う。
私は毎日、それを自問自答しながらうつ伏せ寝に耐えていた。
9月27日(日)曇り 入院22日目
長かった入院生活も終わりが見えて来た。
佐藤医師はやれることはすべてやってくれた。ありがたいことだ。
たとえ左目が失明しても、もう後悔はしない。
この入院中に、俺は自分とゆっくり向き合うことが出来たからだ。
左目を失っても、私はいかに恵まれた生活をしていたのかを知ることが出来た。
足があって手があって、耳も聴こえ、鼻も効く。
飯も食えて排泄も自分で出来る。これは旨いとか不味いとかの味覚もある。
そして右目はまだ見えている。不幸中の幸いである。
家の事や子育て、女房は一生懸命よくやってくれた。
毎日俺の靴をピカピカに磨き上げ、背広にワイシャツ、ネクタイをクリーニングに出し、トイレ掃除に風呂掃除、毎日栄養バランスの良い食事を作り、天気の良い日には家族の布団を干してゴミ出しもすべてやってくれた。
私が出勤する時に、ついでにゴミ出しをしようとすると、
「大丈夫だよ、ゴミ出しなんか私がするから」
朝、出かける時にはまだ幼かった子供たちを起こし、
「パパにお出かけのチューだよ~」
そう言って子供たちからキスをされて、会社に行くのがルーティーンになっていた。
それが当たり前だと思っていた。
女房も子供たちも俺を愛し、期待し、尽くしてくれた。
業績が上がり、収入が増えるとより一層忙しくなった。
私は次第に家族のことを考えるゆとりがなくなって行った。
家族のために頑張っていた自分が、いつの間にか家族を「犠牲」にして働いていたのだ。
私は家でも会社でも横柄になり、暴君になって行った。
風邪で会社を休んだことは一度もなかった。健康には絶対的自信があった。
「俺は何でも出来る! 無敵だ!」
そう思い上がっていた。
そして家族を失い、仕事での極度のストレスから糖尿になり、視力を失った。
人は何かを失って、はじめてその大切さを知る。
どん底だった。
だが今、私はこの長い入院生活に感謝している。
これが短期の入院であれば、私は今までの人生を振り返ることもなく、「一体俺が何をしたというんだ! こんな目に遭うなんて!」と自暴自棄になり、失意の中、自ら死を選んでいたかもしれない。
私の気持ちは晴れやかだった。
以前、日経新聞に成功者と呼ばれる大企業の創業者たちの多くには、ある共通点があると書かれていた。
学歴がないこと
死にかけた経験があること
人望があること
だそうだ。人間の能力に大きな差はない。
脳の大きさに極端な差はなく、身長が5mもあったり、手が3本あったり目が3つあったりすることもない。
同じ人間なのである。
だが成功する人と凡人には大きな開きが出来る。
それを生じさせるのが、「思考」だ。
俺も学歴がなく、子供の頃に三輪車ごとアパートの二階の通路から転落し、死ぬところだった。
小児喘息でも苦しんだ。
だが人望がなかった。
私は他人より努力をしたつもりだったが、人から愛される人間ではなかった。
では人望とは生まれつき持った才能なのだろうか?
いや、それは違う筈だ。
人望とは「弱音を吐かず、他人の評価を気にしない者」が持っているものだと思う。
俺にはそれが欠落していた。
おそらくあと一週間程度で退院になるだろう。
それまでの入院生活を楽しもうではないか。
9月28日(月)曇り 入院23日目
私の入院が長引いていたので、私を心配してお客様のH様からお手紙とお見舞いをいただいた。
高校までアメリカのシアトルでご家族と過ごし、大学は日本の有名国立大学へと進学され、カラテの達人で応援団長。一部上場企業の国際法務部門で活躍されているスーパー・エリートである。
奥様も有名国立大学のチアをされていた方で、穏やかで豪快な、大阪の才女である。
素晴らしいご夫婦である。そして利発な幼い王子様と王女様。
お客様もカラテの練習中に目を負傷して入院の経験もあるそうで、目の病気で入院している私の気持ちをよく理解して下さった。
私の気分が少しでも落ち着くようにと、ゴンチチのCDとプレイヤーをプレゼントして下さった。
そのやさしい心遣いに涙が溢れた。
インストロメンタルの曲を選ぶところなどは、入院中の私に熱く沁みた。
彼はやはり一流だと感じた。
入院中の患者にとっては励ましよりも「癒やし」が必要だと言うことをご存知だからだ。
社員には愛されない私でも、お客様に愛されたのはうれしかった。
何度もゴンチチを聴いた。
そして夜、イヤホンで西田佐知子の『アカシヤの雨がやむとき』や、坂本九の『見上げてごらん夜の星を』をユーチューブで聴いて枕が濡れた。
親父世代の昭和歌謡だが、歌詞とメロディーがとてもいい。もちろん歌手も。
自分が歳を取るなんて考えたこともなかった。
皺くちゃの老人がアンチエイジングに余念がないのを見ていると、「哀れだなあ」と思ってしまう。
人生100年。子供の頃、40歳の大人を見ると、「オジサンだなあ」と思っていた。
還暦というと、「もうすぐ死んじゃうんだ」とも考えていた。
だが今の60歳は昔の40歳にしか感じない。80歳では60歳だ。
そして今の30歳はその半分の高校生位にしか思えない。
考え方があまりにも幼い。
自分は今でも幼いが。
老人になるということは、温泉に浸かるようなものではないだろうか?
「あー、いい湯だなあー」と、自分の今までの人生を振り返る。
いいことばかりではなかった人生を振り返る時期が老齢期ではないのだろうか?
俺はもう過去を捨てた。終わってしまった過去の反省や後悔は、未来の妨げになるからだ。
俺は今、この一瞬を精一杯生きることだけを考えて生きて行きたい。
過去も未来もどうでもいい。
今まで放ったらかしにしていた女房に、いつも付き纏うような老人にだけはなりたくない。
もう妻はいないが。
若者に迎合せず、しっかりと自分の道を歩いて行きたい。
9月には退院したい。
明日はまた、レーザー治療が待っている。引き攣るような痛みになったらギブアップしよう。
また脂汗が出るだろう。そして施術が終わると、周囲がピンク色に見えるのだ。
皮肉な薔薇色の人生。
処置室まではいつも看護士さんが車椅子で送迎してくれる。
車椅子になるのはイヤだが、押してくれる人がいれば、それは苦にはならないのかもしれない。
早く退院したい。自由になりたい。
9月29日(火)晴れ 入院24日目
退院したら自転車を買いに行こう。レーザー治療でまだ右目は本調子ではなく、近くは見えるが遠くがまだ良く見えなかったからだ。
ゆえに天気のいい日の通勤は自転車ですることにしようと思った。
信号は見えるが矢印が認識出来ない。
カーフェリーのキャプテンをしている神戸の親友に電話をした。
「おう、どうしたんや菊池?」
「入院したんや」
彼と話している時は、いつも関西弁になってしまう。
何でも話せる家族以上の存在だった。
「どこが悪いん?」
「糖尿で目が失明しそうなんだ。右目はレーザーで半分は焼いたが、左目は2回手術をしたが、どうやら駄目らしい」
「それは大変やったのう。今すぐには行かれへんけど、近いうちに会いに行くで」
「どや? 仕事の方は?」
「まあなんとかやっとるよ。お前は?」
「住宅屋のままや」
「そうか? でもなあ菊池、もう自分で会社やるのはあかんで。
お前は会社経営には向いとらん、やさしすぎるよってな?」
「もう会社はやらん、俺は社長の器やない」
本心だった。自分が社長に向かないことは、骨身を持って知っていた。
「サラリーマンがいちばんやて。気楽やからな?」
「そうやな? 給料を払う方より、もろうてる方が気楽や」
「奥さんと子供さんは?」
彼は何度か自宅にも来ていたので、女房と子供たちとは面識があった。
「先日、女房は着替えとかを持って来てはくれたが、子供たちはようわからん。何を考えておるのやら・・・」
「そうか・・・。悪いがこれから出港前のスタンバイなんや、また電話するよってな? 菊池、無理はするなよ。
お前はがんばり過ぎなんやから」
「忙しいところ、すまんな? カラダに気をつけてな?」
「ああ、菊池もな?」
彼は数年前に白血病になってしまい、半年間の入院生活を余儀なくされた。
亡くなった親父さんは元特攻隊員で、真珠の卸会社を経営していた。
私は彼から色んなことを学んだ。
食事にカメラ、ファッションに旅行。俺の師匠だった。
リーダーシップがあり、学級委員にも推挙され、人望もあった。
結婚式ではお互いにスピーチをする仲だった。
彼の祝辞に俺は号泣した。
俺たちは学生時代の5年半、同じ釜の飯を食った「家族」だった。
電話を切ってから泣いた。
友だちには入院したことは言わなかった。みんな全国や海外に散らばっていたし、心配を掛けるだけだったからだ。
退院したら連絡することにしよう。
彼は俺が会社経営をしている時の苦悩をよく知っていた。
だがその時彼は決して「辞めろ」とは言わなかった。
駄目になったら助けてやろうと思っていたのかもしれない。
俺が社長に向いていないことを、一番良く知っている親友だったからだ。
持つべきものはやはり友だちだと思った。
9月30日(水)晴れ 入院25日目
死んだ親父は食べても飲んでも品格のある男だった。
だらしない酔い方をしているのを見たことがない。
育ちのいい親父は子供の頃の俺の飲食に対して、
「お里が知れるよ」
と
女とメシを食いに行くと、
「食べ方がキレイね?」
とよく褒められた。親父のおかげだと思う。
魚は芸術的にすら食べることが出来た。
だが今はもう綺麗な所作が出来なくなってしまった。
飯は箸では食べられなくなった。飯粒が残ってしまうからだ。
酒も飲めなくなった。飲みたくもなくなった。
前はひとりでもよく街に飲みに出掛けた。孤独のドランカー。
行きつけだったショット・バーも今はない。
東北のバーテンダー・コンテストで優勝経験のあるマスターの店だった。
スコットランドの民族衣装である、あのタータンチェックのスカートを履いてマスターは接客をしていた。
最初はマスターのオリジナルカクテルを一杯。
その後はバーボンをチェイサー付きのロックで楽しむ。
ツマミは枝付きのレーズンとドライイチジク、プロシュートとゴルゴンゾーラ。そしてKissチョコ。
流れる大好きなオールディズ。
マスターと私は同じ歳だったが、お互いに敬語で話す。
俺とマスターは決して馴れ合いにならない。
俺たちはお互いに敬意を払っているからだった。
親父の真似をしてタバコを吸い、グラスを傾ける至福の時間。
外国人客も多く、日本にいることを忘れてしまう店だった。
病室が静かな時はベッドで天風会で習得したクンバカのヨーガをする。
早朝、自宅近くの公園のベンチで瞑想をしていると、何者かにどつかれることがあった。
見渡すと誰も居ない。オカルトである。
呼吸を整えることは重要だ。水、塩、食物、そして空気。よく生きるためには不可欠だ。
袈裟に座り全身のチカラを抜く。鼻から出来るだけゆっくりと細く空気を吸い、限界に達した時、息を止めて肛門をキュッと締める。
そして今度は口を少しだけ開けてゆっくりと細く静かに限界まで息を吐く。そして吐き切ったらまた肛門を締めるのだ。
それを天風会の講師の指導の元、ブザーの合図とともにこれを行った。
カラダは壊してしまったが、心まで病になることはない。
心身統一法が天風師の実践哲学である。
心がカラダをコントロールするのだ。
毎日のように続くレーザー治療。
「先生、もう大丈夫ですか?」
「もっとやらなければなりません」
俺も辛いが佐藤医師も大変だ。
早く退院したい。
10月1日(木) 晴れ 入院26日目
入院して1ヶ月になろうとしていた。
診察の際に佐藤医師に訊いた。
「先生、退院はいつになるでしょうか?」
「そうですねえ、検討してお返事します」
「よろしくお願いします」
「そうなるとしばらくは毎日通院していただくことになりますが、大丈夫ですか?」
「はい、出来れば通院でお願いします」
「まだレーザー治療の途中ですからね?」
またレーザーで網膜を焼かねばならないのかと思うと溜息が出た。
それにこの大学病院の眼科は有名なので、県内はおろか、遠方からも受診にやって来る。
待合室には200人ほどの患者とその家族が診察を待っていた。
おそらく朝の予約をしても、昼過ぎまで待たされるのは必至だ。
それでも家から通えるのはありがたい。
俺は今まで
あの電通の社訓のように。
『電通 鬼十訓』
1 仕事は自ら創るべきで 与えられるべきではない
2 仕事とは 先手先手と働き掛けていくことで 受身であってはならない
3 大きな仕事と取り組め 小さな仕事はおのれを小さくする
4 難しい仕事を狙え そしてそれを成し遂げるところに進歩がある
5 取り組んだら放すな 殺されても放すな 目的完遂までは
6 周囲を引きずり回せ 引きずる者と引きずられる者とでは 長い間に天地のひらきができる
7 計画を持て 長期の計画を持っていれば忍耐と工夫 そして正しい努力と希望が生まれる
8 自信を持て 自信がないから君の仕事には迫力も粘りも そして厚みすらない
9 頭は常にフル回転 八方に気を配り 一分の隙もあってはならない
サービスとはそのようなものだ
10 摩擦を怖れるな 摩擦は進歩の母 積極の肥料だ でないと君は卑屈未練になる
そして『地獄の特訓』、管理者養成学校で教えられたビジネス訓。
行動力基本動作10か条
第一条 ぐずぐずと始めるな 時間厳守
行動5分前には所定の場所で 仕事の準備と心の準備を整えて待機せよ
第二条 行動にあたっては短時間で最高の成果を上げることを心に誓え
そして心の中に達成意欲がメラメラと燃えるまでは 決して行動に移ってはならない
やってやるぞと一声叫べ
第三条 指示を受けたら大きな声でハイと返事をし ただちにとりかかること
いったん行動を開始したのちは猟犬の如く忠実に キツネの如く賢く そしてライオンの如く勇猛に
第四条 はじめに結果の報告書を作成し 仕事の進行と共に空欄を埋めてゆけ それを企画という
第五条 行うべき作業を列記し 項目に優先順位を記せ
第六条 行動は敏速を旨とす このためには動作はきびきびと 言語は簡潔明瞭にてきぱきと進めよ
第七条 質問されたら全員即座に手を挙げ 指名された者は簡潔明瞭に答えること わからない場合はわからな
い旨 はっきりと答えよ
第八条 いかなる困難に直面しても目的を放棄せず 時間が深更に及ぼうとも 最後までやり遂げる不退転の強
い意志をもて
第九条 行動の価値を決定するのは 所定時間と結果の善し悪しである
最も短い時間で最良の結果を得られるよう 常に手順と方法を工夫改善し 昨日よりも今日 今日より
も明日と 時間の短縮と結果の向上を図れ
第十条 行動は命令者への結果報告によって完了する やりっぱなしは何もしないよりまだ悪い
報告及び事後処理を完璧にやれ
若い時、俺は会長から1年間でこのような様々な研修を受けさせていただいた。
総額で1,000万円以上は私の能力開発に掛けてくれたはずだ。
将来会社の番頭にするために。
だがその時の私にはその貴重な経験は、あくまで業務の一貫でしかなかった。
後にその特訓のお陰で私は稼げるようになった。
どんなに頑張ったところで人一人の能力など知れたものである。
私は人と協力して仕事をすることが苦手だった。
言い換えれば、「バカばっかり」だと見下していたのかもしれない。「こんなことも出来ないのか」と。
大きな業績を上げるためには人のチカラを借りなければならない。
退院したら人の手を借りよう。ちゃんと頭を下げて。
10月2日(金)曇り 入院27日目
朝が来た。今日も右目は見えている。うれしい。
耳が聴こえ、匂いもわかる。食欲もあり、味覚もある。
手足が使えて話も出来る。
これは奇跡だと言うことを、俺はここに入院して初めて知った。
ロキソニンを早めに服用していたので、今日は痛みもない。
モッチーさんが担当でもないのに、心配して様子を見に来てくれた。
「菊池さん、痛みはない? 血糖値は?」
「おかげさまで調子がいいよ、いつも気にかけてくれてありがとう」
「それじゃあ私は交代だから上がるね? お大事に」
入院してから毎日、看護士さんたちに血糖値を測ってもらっていた。
血糖値が高い時はインシュリンの注射もしてくれた。
一時、低血糖になったことがあり、処方してくれていたブドウ糖を舐めた。
ずっと舐めていたかった。口にいれると一瞬で溶けた。
5日に退院することが正式に決まった。
退院したら回らない鮨とトンカツ、そしてラーメンを食べに行こう。
楽しみである。
10月3日(土)晴れ 入院28日目
感謝と希望。
私はこの入院で多くのことを学んだ。
私の人生にとって初めての入院、手術はかけがえのないものになった。
左目は失ったが、それ以上のものをたくさん得た気がする。
人生は心ひとつの置きどころ
天風会で学んだこの意味が、やっと理解出来るようになった。
心の持ちようが人生を変えるのだと。
素晴らしきかな我が人生。
10月4日(日)晴れ 入院29日目
大きな地球儀は屋敷にそのまま置いて来た。大切にしていた地球儀だった。
屋敷を追い出され、3DKのペットが飼える、古い賃貸マンションに引っ越した。
沢山の書籍も美術品も売り払った。
世界中を歩いた俺にとって、地球はとても小さく感じた。
辛い時はその地球儀を回して気分を変えた。
そんな小さな地球に、人間の存在は粒子のようなものだ。
分子? 原子? 中性子?
人間は地球という生命体の一部なのだ。
だがそんな人間の思考は宇宙をも超える力がある。
俺は入院してそれを知った。
五月雨を 集めて早し 最上川
秋風に 折れて悲しき 桑の杖
言葉は宇宙である。この芭蕉のたった17文字に宇宙が広がる。
そしてその言葉を紡ぐのが思考であり、思考を司る脳は宇宙なのである。
考えること、それは無限の可能性を持つということであり、正しい願いは必ず実現する。
子供の頃からカネで苦労した俺は、いつも親から聞かされて育った。
おカネは汚い物よ
そして私はお金に復讐した。そしてお金の大切さを学んだ。
お金は神の
質素倹約が美徳ではない。無駄遣いが駄目なのだ。
お金は何に使うかでまた自分の元へと還って来る。
正しいお金の使い途が重要なのだ。
そして大金持ちになった斎藤一人さんは仰る。
小金は自分の努力で 大金は神様が与えて下さるものです
何のためにお金が必要なのか?
そのヴィジョンが明確にイメージ出来て、自分の心が正しく作用すればお金は与えられる。
人をしあわせにするにはお金はないよりもあった方がいい。
より素晴らしい人生にするために。
俺はまたチャンスを与えていただいた。
つまり言葉が思考を、思考が言葉を産むのである。
思考には、そして言葉には人を変えるチカラがあるのだ。
お経も聖書もコーランも、トーラーもすべて言葉だ。
教祖が神様が仰った真理の言葉だ。
モーゼの『十戒』も言葉だ。
正しい思考は正しい言葉を生む。そして正しい言葉は正しい思考を与えてくれるものなのだ。
我思う ゆえに我あり
憎しみ、妬み、嫉みなどの「み」を考えず、言葉にもしない。
常に「明るく、仲良く、健やかな思考」を持ち、言葉でそれを伝えるのだ。
中村天風師が仰るように、
怒らず 恐れず 悲しまず 正直 親切 愉快に
である。
「楽しいなあ、うれしいなあ、しあわせだなあ」と口にする、考える。
感謝と奉仕を実践するのだ。
いよいよ明日、退院である。
10月5日(月)晴れ 入院30日目 退院
退院の日。
長いようで短い1ヶ月だった。
佐藤先生は忙しいようだったので、病院のアンケート箱に先生宛の礼状を投函した。
お世話になった看護士のみなさんにも挨拶をした。
退院の手続きと支払いを済ませ、病室を後にした。
迎えに来てくれる家族も女もいない。
だが気分は爽快だった。
大学病院のイチョウ並木が色づき始めていた。
山岡鉄舟は言った。
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
左目は厚い曇ガラスから見ているようだったが、ある日、朝起きると真っ暗になっていた。
毎朝、病院へ行き、診察が終わるのはいつも午後の1時を過ぎていた。
レーザー治療の日はクルマは使えなかったので、電車で通院した。
そんなある日、待合室で瞳孔を散大して診察を待っていると、20代くらいの精神薄弱らしい娘さんと、付き添いの母親がやって来た。
「なあ、私の目が見えなくなったのはお母ちゃんのせいだからね?
どう思う?」
「・・・ごめんね」
「どうしてくれるの? 私の目?」
みんなの前でそう
私を含め、200人近くの待合室にいた人たちが、耳を
みんないたたまれない思いだった。
目が見えなくなるという残酷な現実を、突きつけられた気がした。
その娘さんに悪気はない。ただ感じるままを母親にぶつけたにすぎない。
どうして私を産んだの?
極めてやさしそうなお母さんだった。
おそらく、彼女は今までの一度たりとも怒ったことはないだろう。そんな控えめなお母さんだった。
それから1年半が過ぎ、血糖値も下がり、安定した頃、クリニックの院長から腎臓透析の病院を紹介された。
「菊池さん、今すぐどうこうということではありませんが、一度知り合いの腎臓の専門医に診察をしてもらったらいかがですか?」
私は腎臓の検査を受けに行った。
幸い、腎臓透析が今すぐに必要というわけではなかったが、その医師は心電図の検査も行った。
心電図を見た医師は、少し悲しそうな顔をして私に言った。
「来週の木曜日、医大から心臓エコーの専門医が来るので、一度、心エコーの検査をされてはいかがでしょう?」
そして指定された木曜日、心臓エコーの検査を受けた。
「菊池さん、心筋梗塞です。紹介状を書きますからすぐに大学病院で精密検査を受けて下さい!
今、菊池さんの心臓は30%しか機能していません」
私は誰が心筋梗塞なのか、他人事のように聞いていた。
「そうですか? でも壊死した心筋が再生することはありませんよね?」
「・・・。せめてこの閉塞しかけている冠状動脈にカテーテルだけでも早く入れないと」
「もう何もしたくありません。心臓の治療によって右目が見えなくなってしまう可能性があるなら、失明して全盲になって生きる意味はありませんから。
折角ですが治療は結構です」
するとその医師は熱心に私に語りかけてくれた。まるで長年の友人のように。
「私も菊池さんと年齢が近い。とても他人事とは思えないんです」
「ありがとうございます、ご心配をいただいて。私は1秒でも長く、目が見えていて欲しいのです」
私はお客様の住宅ローンの手続きをする際、心筋梗塞と告知された時点で住宅ローンの支払いが免除される保険の説明をイヤというほど聞かされていた。
つまり、心筋梗塞は「死」を意味するのだと。不治の病。
ドラマでの死因はくも膜下出血か、心筋梗塞が殆どである。
私は告知を受けた日の帰り道、散りかけた、河原の桜の土手に仰向けになり、空を見上げて嗚咽した。
右目が見えなくなるのが先か、心臓が停まるのが先か?
私はこのまま川に飛び込んで死んでしまいたいと思った。
でも無理だな? 俺は元、水泳の選手だったからと自嘲した。
そして入院から約10年が過ぎた現在も、障害者手帳をもらい、運転免許も返納したが右目はまだがんばってくれている。視力、0.08。
心臓もたまに不整脈を起こすが、がんばってくれている。
毎日が奇跡の連続である。
人生とは薄氷の上を歩くものだ
Life is like walking on thin ice.
俺はまだ死ぬわけにはいかない。たとえ盲目になっても書き続ける。
素晴らしきかな、我がドラマチック人生。
『眼科病棟』完
【完結】眼科病棟(作品240329) 菊池昭仁 @landfall0810
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