おやすみ、プラネット

ヲトブソラ

おやすみ、プラネット

『この電車は当駅止まりです。この後、回送電車に……』


がちん、ぱち、ぱち…………がちゃん。


 五月雨でしける線路に停めた最終電車の扉を開け、自動音声のアナウンスを流しても電車から降りない客がいる。車掌室から床の濡れた車内を先頭車両に向かい、ゆっくりと歩き、忘れ物と降車していない客がいないか確認をしていく。


「嫌な雨だな」


 窓に猫が引っ掻いたような雫を残す細い雨。街の灯りは眠りにつきだし、車内の照明だけが嫌に白いと思った時、天井の照明が、ぱちっ、ぱちっと二度点滅した。またか、と、その“不具合に似た点滅”の下にいる吊り革に掴まったままのサラリーマンを見た。ため息を吐いて、色の無い彼には声を掛けずに通り過ぎる。彼は、彼が納得しない限り降りない乗客だ。鬱陶しく、湿度の高い空気と車輌が退役する前に降りて欲しいという胸の痛みを、体の中に吸い込み、次の車輌への扉を開けた。


「お客様、終点ですよ!」


「ふえっ?……あっ、すみっ、ません!すぐ!すぐ降ります!」

「濡れているので、足許にお気をつけ下さい」


 はあ、と、またため息を吐いて高い湿度と痛みを体の中へと押し込む。生きながらにして死んでいるような色の無い男性。どうか、辛うじて色の着いているうちは帰るべき家に帰る日々を送って欲しいと願う。


かた、たたっ、たん。


 またやってしまった。車掌に起こされるのは、今月に入って何度目だろう。慌て不器用にホームを踏むも、疲れと眠気でままならない足許が着いてこない。どうにか、絡みつく前に、ベンチへと身を預ける事ができた。瞬間、襲う息苦しいまでの倦怠感。浅くなった息でも鞄の中を確認する事だけは頭にあった。書類、手帳、財布、タブレット、スマートフォン………ひとまず、寝ている間に何も盗まれてはいない。しかし、こう何度も続けていると盗まれていてもおかしくないはずなのだが、何故か、その考えが不安に繋がらない。


「財布じゃなくて、死神とかに命を取られるかもなあ」


 新しい支所の立ち上げに三ヶ月の手伝いとして来たはずが、もう二年になる。いつの間にか背負わされた責任と、生活の匂いが染み付いた誰もいない部屋。電車の屋根から車体側面をつたう雨水を見ていると、パシュッ!と大きな音がして、がちゃがちゃと不器用にパンタグラフが降りる。


「お前もお疲れ様だね」


 バッグの中で小刻みに揺れる振動を感じたから、ため息を吐く。それはろくな事が書いていない報告のメッセージだと知っているからだ。ロック画面に映った着信通知の向こう側、スマートフォンの壁紙に設定していたおれの隣で笑う三人の笑顔だけに色が着いている気がする。改札への階段を降りていくと、今夜も聴こえてくる、あのギターと、あの唄声。


「この音も鮮やかな気がするなあ」


ジャッ!ジャカジャ、ジャッ、タン!タン!


 電車が帰ってきた。よれよれのスーツを着る真っ白い顔のサラリーマンと、今夜も一緒だ。あの人は家に帰ると家族がいるのだろうかと、何故か、考えてしまう。あの顔を見て、家族が何も感じないのだろうか、とも思う。この駅に停まる最終電車は、このまま一晩眠り、また朝早くから明日の人を乗せて、駅から駅へ走り回るのだ。ギターを弾いて、喉を鳴らしながら目にした路線図に、ふと子どもの頃を思い出した。覚えても、覚えても、覚えきれない路線図は、たくさんのおこづかいを使えば、どこまででも行けると思い込んでいた。


「When the night has come

 And the land is dark

 And the moon is the only light we’ll see

 No, I won’t be afraid

 Oh, I won’t be afraid

 Just as long as you stand, stand by me


 So darlin’, darlin’, stand by me

 Oh, stand by me

 Oh, stand

 Stand by me, stand by me」


 鉄道という交通機関や広くなっていく生活圏を知り、アルバイトができる年齢になると幾ら高いお金を出しても行ける場所は、ただ線路の敷かれている駅までだと分かる。だから、どこまでも知っている街までだ。人生を線路に、出来事を駅になぞらえる文章や詩を見かけることがあるけれど、そんな簡単に終点に行ける人生なら、電車に乗らずに駅でギターを弾き続けたいと思う。降りた駅でしか動かせない感情があるのなら、その駅の改札から出てくるひとつの感情たちに、別の感情を唄い続けたいと思う。


 そうやって心に言い聞かせて学校にも行かず、友達たちが自分の生活を実現させる現実は見ないようにしてきた。誰かが言っていた。夢は夢のまま、叶わないから夢なんだ、と。いつかは夢から覚めて、起きた現実で生きていくのが大人なんだって。


ぱちぱちぱちぱちぱちぱち


 私が最終電車で帰ってくると、改札を通る塩梅で、いつも彼は『スタンド・バイ・ミー』を弾き語り、演奏を終えるのだ。少し疲れた笑顔で「いつも、ありがとうございます」とケースにギターをしまう手を今夜は止めさせた。


「前から聞こうと思っていたのだけど、どうして最後にあの曲を?」

「ああ……っ、いや、とくに深い訳は……」


 そんな事を聞かれたのは初めてだ、と、照れ臭そうに、はにかむと「一日の最後に、誰かが隣にいてくれると心強いでしょう?」と真っ直ぐな目で笑った。一日の最後に誰かが隣にいてくれたなら……か。少し、その事を考えていると慌てて「あっ、今のは、決して、お姉さんを口説いた訳ではないですから!」と耳まで赤くして、あたふたする君だ。


「でも…………えぇと、いつも声を掛けてくれるのは、お姉さんだけで、その……」


 彼のたどたどしい言葉たちが躓いて止まった。わたしが髪をかき上げた左手を見たからだ。


「えっと……け、結婚………するんですか?」


 指輪を見て目をまん丸にして俯き、すぐに前を向いて視線を泳がせながら「おめでとうございますっ。あの!またっ、またお時間があれば聴きに来て下さい!」という一所懸命に、この指に指輪をはめてくれた昨日より何年も前の彼を思い出してしまった。


「もちろん!」


 本当は結婚をしたら、この街から離れ聴きに来ることは難しくなると思う。だから、今日こそ伝えたかった“君の唄声、好きよ”だったのだけど、今日は伝えちゃいけない言葉のような気がして、心の底に沈めることにしたのだ。


がち、くかくくくくくくっ、ドルン!ププーッ、グワっシャ!


 駅舎の奥、改札の前でいつもギターを引いている子を見ながら、エンジンを掛けて降車口の扉を開くと、いつものお客さんが乗り込んできた。疲れた顔を通り越して色のない男性が「こんばんは、お疲れ様です」と声を掛けてくれる。この男はいい奴なんだと思う。だから、こんな蒼白い顔をしているのだろうとも思う。しばらくして、乗り込んできた女性は、顔に疲れが出ていないとは言えないが、今日はいつも以上にやさしく、穏やかな三日月が口許にあった。それぞれに「こんばんは。お仕事お疲れ様です」と会釈とかけられる声に言葉を返すのだが、それは、たった三段の階段と交通系決済の通信が終わる一秒もない間の心の通じあいだ。


『発車します』


 若い頃は、ずいぶん重かったハンドルを軽々と回してロータリーを半周して赤信号に停まる。こっ、こっ、こっ、と、やさしく鳴るウィンカー。青信号になり発進するも、このバスにはクラッチペダルなんてものがないから、集中して周囲に気が配れる。入社当時、苦労したダブルクラッチと癖のあるミッションが懐かしくなるとは思いもしなかった。二十分ほど走り、そろそろだなと思った瞬間に押される降車ボタン。いつもの時間、いつものお客さん。いつもの道。いつものバス停。


「雨が降っていますので、夜道、足許にお気を付けて下さい」


ぼっ、どろろろろろろろろ。


 スマートフォンを肩と頬で挟みながら、恐らく今夜最後のバスの天井と降りてきた乗客が、傘を開くのを眺めていた。霧がかった五月の細い雨の中を走る唯一の光だ。携帯回線をつたった向こうから聞こえ続ける、ごちゃごちゃとした言葉に「その話は前にもしたよ。だから、もうその話ならしない」と冷たく会話を切る。相手は家族だが、彼らは、ぼくがぼくの人生を自分で決め、誰にも干渉されずに歩きたいと言った夜に大馬鹿者と言って何時間も罵った挙句、縁を切ると言った。そのくせに、こうやって『ちゃんと食べているのか?体調は……何か送ろうか?』と、大馬鹿者の人生に干渉してくる。ぼくは“あなた”が発した言葉たちを許した覚えはないし、ぼくも関わりたくない旨も伝えたはずが、これだ。


「あのさ。原稿が残っているんだよ、切るよ」


 一方的にスマートフォンの“通話を終了する”をタップしようとした。その画面が見える距離からでも再び聞こえてくる罵倒の声たち。ぼくらは家族だったけれど分かりあえはしなかっただけだ。家族だから、身内だから、親子だから、血の繋がりがあるから………そんなものは敬意をもって接する関係でない以上、何の意味もない。ベランダから部屋に入り、濡れてしまったシャツも気にせず、いつものようにシーツに包まった。数日の徹夜、少しの仮眠。手の中ではスマートフォンが映す動画配信サイトのナミビア共和国に住む動物たちが、砂漠のオアシスで水を飲んでいる。それぞれが過干渉になり過ぎず、また無関心にもならない距離で水を飲む順番を守っているのだ。


 少し休んだら、原稿に向かおう。ぼくの朝日はまだ沈んだまま、いつも照らすのは人工の光だけだ。


「おやすみ、ジャッカル」


さああああああああ。


 朝から止まない雨は、ついに夜まで濡らした。街灯やまだ眠らない部屋の灯りに照らされる雨粒を見るのが好きで、ベランダからきょときょろと眺める。湿度が高く、少し湿って重たくなった空気を、肺に入れるのも好きだ。


「ベランダにいるのが好きね」

「この時間の空気が好きなんだ。全く子供の頃から変わらない」


 そして、この話をするのは何百回、何千回目なんだろうね、と言って、妻と笑った。今日、最後の空気を体いっぱいに深呼吸しないともったいないなんて子どもの頃から思っている。それが、今ではこの時間になると、ぼくと同じようにベランダにいる男性の事が気になって、それを眺めている時間にもなった。バスが走るには少々、狭い道路の反対側にあるマンションで、その人はいつも最終バスが去っていくのを眺めている。もしかすると、あの最終バスに乗りたいのかもしれない。しかし、バスが来てから部屋を出ても間に合わない。だから、最短距離であるベランダから飛び降りやしないかと思う雰囲気を持つ男。ここまで、彼の事が気になるのは、ぼくが彼だったからだろう。或いは、彼のように去っていくバスを眺めるだけの人生を送っていたかもしれないからだ。


 今夜は寝室ではなくリビングのテーブルを移動させて、二人で手を繋いで寝っ転がり天井を見ていた。外は雨が降っているけれど、ぼくらが見ているのは星空だ。家庭用の小さな、それも一番安いプラネタリウムを買ってみたら妻も大喜びしてくれたのだ。


「不思議ね。これだけ小さな光があるだけなのに安心する」

「本当に。普段、何の為に照明を使うのか分からない」


 それは手元が暗いと何も出来ないからでしょ、と、笑うきみ。


「星も生まれて寿命を終えていくって不思議」

「星もぼくらと一緒。また大きな爆発で生まれてくるんだ」


 ぼくらには、この秋に生まれてくる子どもがいる。


「早く会えないかなあ」

「それってパパになるまで毎日言うの?」


 子どもを授かったと知った日からの、ぼくの口癖。まさか自分が親になるなんて想像も出来ず、そんな重役は出来っこないと思っていたのに、今やその日を三人で過ごす日々が、楽しみで、楽しみで、仕方がない。


「星を見ながら幸せな話をしている人が、この星にどれくらいいるんだろう?」


 季節を次に運ぶ雨は、明け方に上がるらしい。

 明日には朝日が街を照らして動き出す日になる。


すー、すー、すー、すー、


 決して、精密に出来ているとは言えない宇宙の姿。その瞬く星々を眺めていると隣から、私の大好きなやさしい寝息が聞こえてきた。彼と結婚して、何度も喧嘩をして、何度かは別れようと思った。だけど、こういう風に私たちの人生や生まれてくる子どもの父になる喜びや幸せを感じている姿を見ると、彼が隣にいて良かったと痛感する。さっき、彼が言った“星を見ながら幸せな話をしている人が……”という言葉も、実に彼らしい一言だ。そういう彼だから隣にいて良かったと思える。


 いつも何かを憂いている彼の頬を撫でて「大丈夫。明日は、きっといい日になる」と言って眠りにつく事を、この星に住む誰も知らない。いや、こんな幼稚な願いでも切実に願い、そうあって欲しいと思う私たちと“きみ”には、私の内緒がばれているのか。私の内緒を知る唯一の“きみ”に会いたいのは、私もなんだよ。


 手を伸ばして家庭用プラネタリウムの安いスイッチに触る。


「おやすみ、プラネット」


ぱちん。


おわり。

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