鎌鼬(9)
秋元静香が襲われてから一週間が過ぎていた。
被害届が出されてからの数日は周辺のパトロールが強化されてはいたが、静香が犯人の姿を全く見ていない事や、静香が髪を切られたと訴えている刃物で身体的な怪我を負っていない事もあり、それに割かれていた人員はすぐに行方不明の児童の捜索および誘拐の線での捜査へと取り込まれていった。
そして静香の事件自体が市民に知らされる事はなかった。
もし仮に、正確な事件の情報が知らされていたとしたら、第二の被害者となった
その日、今日子はいつもの飲食店でのパートを終え、定時である21時過ぎに店を出た。
普段なら家まで自転車で二十分程の距離だったのだが、この日に限って乗って来ていた自転車のタイヤがパンクしてしまったのだ。
帰ろうとしてその事に気付いた今日子だったが、時間的に空いている自転車屋はすでに無いだろうと考え、仕方なく自転車を押して家路についた。
商店街を抜け、人通りもまばらになった住宅街へと入る。
道路に設置された街灯の光は明るく、立ち並ぶ民家から零れ出る明かりで、月の隠れた夜であってもそれほどの怖さを感じさせない。
実際に今日子は通り慣れた道という事もあってか、何の警戒心も抱かないまま自転車を押して歩いていた。
初夏の風は夜とはいえ生暖かく、どこかの家の夕食で出されたであろうカレーの匂いを乗せて吹いていた。
家までの道のりの半分を過ぎた頃だろうか、恭子は不意に違和感を感じた。
それは一週間前に秋元静香の感じたものと同様のものであったが、この時の今日子にそれを知る術はなかった。
突然周囲の音が消えた。
それまで民家から微かに聞こえてきていた生活音や、遠くから聞こえてきていた雑音の全てが消えてしまった。
完全な静寂。
あまりの静けさに、耳の奥でキーンという耳鳴りのような音が聞こえる。
今日子は足を止め、自転車の籠に入れてあった鞄からスマホを取り出して時間を見る。
21時50分。
まだみんなが寝静まるにはやや早い。
それに周囲の家の室内には電気が点いている。
自分の耳の方がおかしくなったのかと思った今日子は、スマホの画面をタップしてダウンロードしていた音楽を再生してみた。
スマホからは少し前に流行った曲が流れ出し、それは恭子の耳にもはっきりと聞こえた。
ならばやはり周囲が静かになったのだろう。確かにここまで静かなのは気味が悪いけれど、偶然が重なれば有り得るのかもしれない。そう考えた今日子は再び歩きだそうとした。
「――いたっ!」
その時、踏み出そうとした右足首に痛みが走った。
それは押していた自転車を思わず手放してしまう程の鋭い痛み。
今日子はその場にしゃがみ込み、倒れた自転車がアスファルトの道路にガチャンと大きな音を立て、乗せていた鞄が籠から飛び出して地面に転がった。
「痛い……」
今日子は痛みのあった足首に手をやる。
ぬるりとした感触。
タイトスカートから伸びた細い足。
その右足首の前の部分が、履いていたストッキングごと何かで切られたように裂けて出血していた。
傷口を押さえながら、それまで立っていた場所に目をやる。
そして次に倒れている自転車を見た。
しかしそこには何も怪我を負うようなものを見つける事が出来ず、怪我と認識してからは更に傷口がズキズキと痛みを増していた。
家まではまだ少し距離がある。
このまま家まで耐えられるだろうか?鞄の中に何か傷口を押さえられるものがあれば良いんだけれど……。そう考えて、転がっていた鞄まで痛む足を引きずりながら近づき、再び地面に座り込むようにして鞄を手に取った。
幸い、鞄の中にはハンドタオルが入っていた。
それを二つに折り、裂けたストッキングの間を通して傷口に当てる。ストッキングの伸縮性のお陰でハンドタオルが傷口を多少なりとも圧迫してくれているようで、それまでよりは少し痛みが治まったように感じられた。
今日子は何とか立ち上がると、倒れていた自転車を起こし――
「仕方ないか……」
そう小さく呟いてサドルに跨った。
怪我をしている右足は出来る限り使わない。左足の力だけで自転車を漕ぐ。多分チューブは駄目になってしまうだろうけど、この足で歩いて帰るよりは余程マシだろう。そう考えた今日子は、タイヤのパンクした自転車に乗って帰る事を決意した。
そしてペダルを漕ぎ始める。
最初こそは力を込めた右足に強い痛みがあったが、走り出してからは何とか左足の力だけで進むことが出来た。
空気の入っていないタイヤのバルブが地面に当たる度にガタンと音を立てて振動を与えてきてはいたが、歩いて帰るよりはやはりこの方が良かったと感じていた。
しかし、そのバルブの音に気を取られていたことで、周囲の音が戻ってきていない事に今日子は気付けなかった。
翌朝、近所の住民が路地に倒れていた今日子を発見する。
両手首と両足首を何かで切られ、大の字に近い恰好で倒れていた今日子。
その首筋には、一際深く鋭い切傷が残されており、すでに絶命している事は誰の目にも明らかだった。
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