其の肆 鎌鼬(カマイタチ)
鎌鼬(1)
真っ暗な部屋の中で男は一人膝を抱えて座っていた。
男は瞬きする事も無くじっと見えない床を見つめ、その全身は何かに怯えているかのように震えている。
その膝を抱えている手の平には、何度も洗ったはずなのに拭いきれていないかのようなぬめりとした感触がある。
鼻腔を突く生臭く鉄錆びのような臭い。
暗闇に浮かんでくる驚愕と苦痛の表情を浮かべた人の顔。
男は怯えている。
自らの犯した罪に、その罪が公になる事に、そして――その罪を断罪する者が目の前に現れる事に。
男は知っていたのだ。
この世界には法によって裁かれない存在を滅する一族がいる事を。
そして人ならざる者として産まれた自分が、まさしく彼らの裁きの対象であることを。
知っていて――それでもなお、男の殺人への衝動は止められないのだ。
朝早くから携帯電話が鳴り響く。
起きたばかりだった伊関は、顔を洗いに部屋を出ようとしたところで引き返して電話をとった。
「はい。伊関です」
「あ、おはようございます」
電話の向こうから聞こえてきたのは後輩刑事の袴田の声。
そういえば昨日の宿直は袴田だったなと思い出す。
「ああ、おはよう。どうしたこんな朝早くから」
「伊関さん。例の事件の事なんですが……」
例の事件と言われて伊関には思い当たる節が二つあった。
一つは、今市内で起こっている児童連続誘拐事件。
もう一つは通り魔の犯行だと思わしき二件の殺傷事件。一人は殺害され、もう一人は当初意識不明の状態だったが、懸命な治療のお陰で何とか一命を取り留めていた。
袴田は誘拐事件を担当しており、伊関は殺傷事件の担当になっていた。
そしてその袴田が自分に連絡を入れたという事は、間違いなく後者の事件に関してだろう。
「……何か進展があったのか?」
今のところ二件の事件が同一犯の犯行かどうか分かっていないのと、児童連続誘拐事件というショッキングな事件の影に隠れる形で全国的には大きく報道されてはいなかった。
それでも地方の狭い街の中で同時に起こっている事件に、地元の人たちは子供だけでなく、大人すらも一人での外出をはばかるような風潮になっている。
「進展というのは不謹慎ですね」
「まさか……」
「三人目と思われる犠牲者が出ました」
伊関は顔を洗うまでもなく目が覚めた。
『16日未明、S県H市の路上で人が血を流して倒れているとの救急通報があり、至急救急隊員が現場に駆け付け、倒れている女性を発見。ただちに病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。
死因は刃物のようなもので切られた事による失血性ショック死との事です。
被害者は近くの私立高校に通う女生徒とみられており、昨晩学校から帰ってきていないとの通報が警察に寄せられていたとの事です。
警察は女生徒が下校中に何らかの事件に巻き込まれたものとみて、女生徒の足取りを調べるとともに、不審な人物の目撃情報が無いか捜査を進める方針です。
同市内では先月末より同様の事件が二件発生しており、警察は今後は同一の通り魔による連続殺傷事件の可能性も視野に――』
「くそっ!」
伊関は席に戻ってくるなりそう吐き捨てた。
「全く酷えことしやがる……」
彼の気持ちを代弁するかのように向かいの席に着いた老刑事――
「同一犯だとしたら――いや!そうに決まっている!そいつの被害者がこれで三人目ですよ!それなのに未だに犯人どころか、凶器の特定すら出来ていない!」
「防犯カメラにもそれらしき人物は映っていないし、目撃情報もマル害が一人で歩いていた情報しかないしな」
「何の証拠も残さずに消えるなんて事が出来るはずがないんですよ!絶対にどこかに見落としがあるはずなんです!」
「落ち着けよ。凶器に関しては本庁の科捜研が調べてくれているから直に判るだろうよ。すぐに判明しないということは特殊な得物を凶器に使っているからだろうし、そこからホシがすぐに割れるかもしれん」
「それまでに次の犯行を起こさないとも限らないじゃないですか!」
「お前の気持ちは分かるが、今の俺たちに出来ることは、残された少ない人数で足を使って聞き込みを続ける事くらいなんだよ」
それは和久井の皮肉の籠った言葉だった。
現在県警では児童連続誘拐事件に捜査員の手を取られ、本庁との合同捜査本部を設置した事で更に他の事件への対応が遅れがちになっていた。
はっきり言って人員が足りないのだ。
「こっちだって大事件なんすよ!人だって二人も死んでる!これからまだ増えるかもしれないってのに……」
「別にこっちを大したことない何て上も思っちゃいねえよ。それでも割ける人数には限界があるってこったな。まだ生きてるかもしれない子供。事故で死んだかもしれないって思っていたのが、もしかしたら生きてるかもしれないってなっちゃ、そりゃ必死に捜さにゃあならんだろ」
「分かってますよ!俺だってあそこから人を寄こせなんて思っちゃいないです!」
「じゃあ他の県警から連れてくるってのか?そっちだって抱えてるヤマはあるだろうし、別に人が余ってるわけじゃねえだろうよ」
「……それはそうですけど」
「納得出来ねえ気持ちは俺だって同じだ。それでも俺たちは動き続けるしかねえんだよ。そうする事で見えてくる事もあるだろうし、その事自体が次の犯罪への抑止力になってる場合もある。文句を言いたい気持ちは分かるが、言ったところで事件が解決するわけじゃねえや」
「……そうですね。こんなところで愚痴ってても何も解決しやしませんね」
やりきれない気持ちをぐっと抑え、伊関は渡された資料に目を通していった。
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