最終話

黒い油のこびりついたフライパンから、パチパチと新しい油のはじける小気味いい音が聞こえる。

インスタントコーヒーのパックをマグカップに入れ、少しづつお湯を落とすと、ほろ苦い香りが狭い部屋中に充満した。


油をまとった目玉焼きとコーヒーの混ざり合った香りがなんとも優しげで、最近の女のお気に入りだった。

こんがり焼いたトーストの上に薄くマヨネーズを塗り、白みをカリカリに焼いた目玉焼きを乗せると、コーヒーと一緒にテーブルに置いた。

トーストを一口齧ると、焦げ目の香ばしさとマヨネーズの酸味が鼻から抜ける。


テレビをつけると、休日の昼下がりにやっている長寿番組にチャンネルを合わせる。

昨晩は仕事が早く終わったので、ネットサーフィンはやめて早く眠った。

おかげで八時間くらいは眠れたので、今日は頭も身体もすっきりしている。

美味しいものを食べて美味しいと感じられることがこんなに幸せなことなのか、と柄にもない幸せを嚙みしめてみたりする。


もう寝ても寝ても眠いなんてことはないし、どれだけ疲れていても眠れない、なんていうこともない。


トーストを食べ終わり立ち上がると、後方でドアが開く気配がした。

「はーい。おじゃましますよっと」

 袋を持ってせわしなくやってくる足音。

冷蔵庫を開け、買ってきたものをしまい、すぐ隣にある簡易キッチンで手を洗ってから入ってくるのはいつものことだった。


「あんた、そろそろ大きい冷蔵庫買いなさいよ。あんな小さいのじゃなんにも入らないわ」

 お金がない訳でもないでしょうに、と言って三本連なっているバナナをマグカップの隣に置く。

ありがとう、とお礼を言って席を立った。

「みすず、お母さんお砂糖いらないからね」

 分かってるよ、とキッチン棚からコーヒーのパックを取り出す。

 

 あれから、目が覚めるとこの部屋にいた。

何事もなかったように日常はやってきて、女は再びみすずと呼ばれるようになっていた。

左手の薬指に指輪はなかったし、腹から何かを生み出した形跡もなく、当たり前のように女の席は営業部にあった。

そして案の定、話せる友はおらず、厚化粧の茉莉が慣れ慣れしく話しかけてきた。


淹れたてのコーヒーを自分の反対側に置く。

「ありがと」と言って受け取った手はカップを両手で掴み、暖を取るようにして口に運ぶと、大事そうにちびちびと唇と舌を濡らした。

窓の外ではそこかしこに霜が降り、分厚い雲と生気を失ったように根を竦める草木が寒々しさを際立たせていた。

こちらの冬はなんだか異様に寒い。

この六畳ほどの小さな部屋も、安物の電気ヒーターだけでは少々心もとないものがある。


「あら、女優さん結婚だって。おめでたいわねぇ」

 テレビを見て言ってから、その人は女の顔を見ていたずらな笑みを浮かべた。

「別に、あんた良い人いないの、なんて言うつもりはないわよ。お母さんはあんたのペースであんたがしたいようにすればいいと思ってるんだから。ってまぁ、本心では早くいい人見つけてくれた方が安心だけど」

「安心って言われても」

「職場に良い人いないわけ?」

「やっぱり聞いてるじゃん」

 

 くつくつと笑って、その人は自分が買ってきたバナナに手を伸ばした。

再びみすずに戻ってから、変わったことがある。

まずは羽本がいなくなっていたこと。

同じ部署にはいなかったということではなく、存在ごと跡形もなく消えていた。

その代わり別の営業部のエースがちゃっかり存在しており、しっかりと羽本の代わりをこなしていた。


「営業部のあの人なんて言うんだっけ。なんか自意識過剰な感じがして感じ悪いよね」

 そういう茉莉の再録音されたような発言も羽本に対してではなく、代わりのエースに対してとなっていた。

そしてもう一つ。


「職場に良い人はいないけど、付き合うかもしれない人はいる」

 冷めたコーヒーを口に運んでから女が言うと、バナナの皮をむく手が止まる。

「あら、そうなの? どんな人よ。なんでお母さんに言わないのよあんたは」

 段々と早口になり、しわがれた声を興奮の色が纏う。

せっつかれるまま、女はかいつまんで話した。


「かなり年下なんだけど。しかも地味だし」

「年下でも地味でもなんでもいいわよ。何やってる人?」

「同じ営業部の人」

「名前は」

「犬飼さんって言うの」


 そう、羽本はいなくなっていたが、犬飼は営業部に存在していた。

こうなってからしばらくは混乱が続いたが、少し落ち着いてきて、この世界をまた構築しようと思い立った時に、どういう訳か一番初めにとった行動が、犬飼に声をかけると言う事だった。


「どういう人なのよその犬飼君は」

「これと言ってなんの特徴もない人だよ。かっこいい訳でもないし、仕事ができるわけでもない。職場でも誰も気に留めないの。私と同じ」

「またそんなネガティブなことばっかり言って。でも好きなんでしょう」

「そりゃまぁ。だから付き合うことになったんだし」

 

 きゃあ、とダミ声が色めきだった。

「まさか娘の口から色恋の話が聞けるなんてお母さん感激しちゃう!」

 舞い上がってバナナを頬張る姿を見て、女は思わず苦笑いをした。

お母さんとか娘とか、そんなことをこの人の口から聞くのが未だに慣れないからだ。


 実は。変わったことは羽本や犬飼のことだけではない。

それどころか、細かいことを含めば本当に沢山のことが変わってしまった。

差し当たって挙げるとすれば、女の目の前にいるこの人は母親ではない。

顔が少し違う、どころの話ではなく、顔も髪質も声も、性格も何もかも全てがまるで違う。

前の母親はもっとたれ目で、寡黙で、思慮深く、そしてコーヒーが嫌いだった。


 そのほかにも女の顔にほくろが増えていたり、身長が十センチ以上伸びていたり、日本列島の上の部分がごっそりなくなっていたり、聞いたこともない国と戦争をしていたりする。

この状況をどう捉えようか、受け入れようかと考えても、もう理屈ではどう話を通すこともできない。


それで女は少し前、冬がやってきた頃に、考えることをやめたのだった。

あれこれ小難しく考えたところで、自分の意思とは関係なく何もかもが変わってしまう。

であれば結局、自分にできることなどない訳で、考えても無駄である。

それが女の出した結論だった。


「その犬飼君とは結婚しないの?」

「うん、なんかそういう話も出てきたかな」

「あらあらあらあら、いいじゃない」

 

 流れに抗うよりも身を任せることにした。

考えてみれば今のみすずとしての人生は、多少の苦難こそあるが、すずみと呼ばれていた頃よりはいくらか生易しいものだった。


おそらく犬飼は結婚しても今と変わらず、お互いにある程度は放っておいて、ある程度は支え合いながら暮らしていける、となんとなく思う。

それに、この人生にはあの得体のしれない男がいなくなった。

なによりぐっすり眠ることができる。それだけで天にも昇る気持ちだった。

このままいけば、唯一の家族であるこの母らしき人も喜んでくれる。


ふいに、インターフォンが鳴った。

この時間にネット通販で注文した家具が届くことになっていたのをふと思い出し、印鑑を持って立ち上がる。

「何買ったの?」

「カラーボックス」

 冷蔵庫を買いなさいよ、とぶつぶつ言う人をよそに前髪を整え、慌ててドアをあける。


分厚い作業用のダウンジャケットを着こんだ男が立っていた。

「こんにちは。いつもありがとうございます」

 やたら愛想のいい奥二重の笑顔に、心臓が止まりそうになる。

冬にも関わらず額に水滴のような汗を纏わせている男は、ダウンジャケットの袖でそれを拭った。


「それで、これは中にお入れしても?」

 声が出ず、女はその場に立ち尽くす。

思考が頭脳を破壊して、久しぶりに天地がひっくり返るようなめまいが襲った。

どうしてこの男がここにいるのか。

なぜまた……。


「みすず、どうしたのよもう。寒いんだから早くドア閉めてよ」

 母かどうか分からないその人がやってきて、あっと声を上げた。

「どうもこんにちは」

 

 男が大型犬のように愛嬌のある笑顔を向けると、その人は頬を緩める。

やはりこの人は母ではない。母は厳格で、自分よりも若い男に鼻の下を伸ばすような人間ではなかった。


「みすず。どうしたのよ固まっちゃって。みすず?」

 胸元に『お客様の喜びを運びます』と書かれた社員バッジをつけている。

名は確かに「羽本」と記されていた。

「いやぁ、それにしても寒いですね。今年の冬は特にそうだ。本当に、残念です」

 にこやかに笑う男の瞳はどこまでも淀んで、人間のものではないように見えた。

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眠りねむる 雪山冬子 @huyu_yukiyama

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