四章



 それから六日、咲歌は自宮からの外出を一切許されず悶々として過ごした。急拵えの下官と親しく会話する気にもなれなかったし、むこうもなにか言い含められているのか不必要な口を一切開くことなく、淡々と身の回りを整えるだけだった。不安と寂しさでますます憂鬱になっていく。


 しかし七日目に思わぬ来訪があった。


「咲歌!」


 踏み込んできたのは次姉。慌てて抱きついた。

醍亜だいあ姉さま……」

「不安にさせたな。辛かったろう。もうすぐ涼永が来てくれるぞ」

 背を優しく叩かれて泣くまいと噛み締める。大きく息を吸った。

「なにがあったのですか?案珠あんじゅ姉さまのお腹の御子が……流れたと」

 醍亜は渋く頷いた。

「ああ、そうだ。打毬試合の観戦が終わり、宮へ帰ってから進物を夕餉に召し上がったようなのだが、その後すぐに」

「醍亜姉さまはなぜ出られたの?」

「私が献上したのは鹿蜀ろくしょくで、食用ではなく愛玩用として差し上げたから檻に入れたままだった。だから疑いが晴れたのだ」

「どうして毒なんてものが」

「……そのことだが、咲歌。お前の阿膠あきょうはどのように用意したのだ?」

 どうって、と唇を震わせた。

「とても体に良いらしいと聞いたので、差し上げたいと」

「誰が調達した?」

 何故そんなことを訊くのだろう、と泡を食いつつ答える。

「こ、香円に話したら伝手つてがあるというから……」

 直後、醍亜は押し黙り、咲歌は生まれて初めて彼女の殺気立った顔を見た。

「ね、姉さま……」

「実はな、咲歌。お前が贈った阿膠のなかに骨蓉こつようが見つかった」

「骨蓉?」

「堕胎のための薬草だ」

 頭から血の気が引いた。

「ち、ちがう!わたしはなにも知らない!」

「ああ、分かっている。お前がそんなことをするわけがない……だが、詳しく聞かねばならない」

 待って、と震えながら再び姉を求めた。しかし醍亜は制して振り返る。涼永が現れた。

「涼永……」

「門衛は縄を解かれました。殿下、ご案じめさいますな。知らないことは知らないとおっしゃられればそれでよろしいのです」

 これほどまで他人行儀な涼永は初対面で挨拶した時以来だった。また急に心細くなり自分の体を抱く。

「ねえ、淳佐は?」

「淳佐と香円どのは殿下一番の近侍ですゆえ、まだ問答が終わっておりません」

「も……問答って。ご、拷問じゃないよね?ひどいことされてないよね?」

 自分で問いつつ、言わなければよかった、と後悔した。涼永の表情がさらに硬くなったからだ。

「……殿下。どうか、正直に、ありのままを。さすれば疑いは晴れます」

 力強く立たされる。喉が引きってうまく声が出ない。

「――――ど、どこへ……」

 やっと囁けば、涼永は前を見据え温度の感じられない声音で答えた。

「泉主が召見しょうけんなされます」

 咲歌にはそれがまるで死刑宣告に聞こえた。



 どうやって移動したのかもよくおぼえなかった。はっと気がつくと眩しすぎるほど明かりの灯された広房ひろま、壇上にはすでに王。醍亜が隣に並ぶ。側近と虎賁と宗正府そうせいふ少府しょうふの幾人かに、大長秋だいちょうしゅう永巷令えいこうれいに。それと、数人の白い髪の男たち。

 刺すような視線に怯えながら拝揖はいゆうし簡潔に口上を述べるあいだも震えが止まらない。

 御前にはすでに四人、ひざまずいていた。一人は乙琳。そちらは毅然としつつも疲弊した様子。いまひとりは思晟で信じられないことに欠伸あくびを噛み殺している。そして横の姉は咲歌をみとめ軽く手を挙げた。眼鏡の奥の目が細まる。父王が重々しく許すとすぐ立ち上がった。

「そもそもぼくが本宮へ来たのは今年二回目だ。璧嶺君へきれいくんにはまだ贈るものを決めかねているところだった。疑うのは筋違いでは?」

 小柄な体躯とは裏腹に尊大に腕を組んだ。

「ぼくは仮にも第六公主だぞ?生まれ来る継嗣けいしを殺す動機もない」

「なれば我が主こそとんだ災難でございます。こちらとてまだ進物を納めておりません」

 連ねて言ったのは斜め後ろに座した男で使者だ。色の悪い顔で周囲を見回した。「第五公主は遅ればせながらついこのあいだ姉君のご懐妊を了解されたばかり。取り急ぎ祝文をお送りしたのみで、まだ何を献上するかも決まっておりませんでした」

 思晟が気怠けだるげに髪を指に絡ませる。

「呆れた。ほんとに今さら知ったの?」

「ここ何月かお具合優れず療養しておられたのです」

「それはいつもじゃなくって?あたくしはとびきり上等なようを差し上げたわ。けれどさばいたのは案珠姉上お抱えの庖師りょうりにんよぉ?調理にはいっさい関わっておりませんわ。乙琳は何を贈ったのだった?」

「私は何度も申し上げたように、荀草じゅんそうを奉りました。最近お肌がよく荒れるとおおせだったので蒸し物やあつものなどにして食せば改善するとお勧めしました」

「えぇ、あたくしも欲しいわぁ」

 場違いな声を上げ、それで、と思晟は唇を押した。

「――咲歌。阿膠を下女に頼んで調達したと聞いたけど?」

 場にいる者たちが注視するなか、泉主のまなざしも痛いほど感じた。咲歌はただ頷く。

「何がお体に良いかと思って……」

「まあ、妥当だな。州は驢馬ろばの産地だし」

 六姉が頷いた。阿膠は驢馬の皮を採るからだ。

「ただ、あれほどの量、とてつもなく高価だったはずだ瑞嶺君。君は対価をどうまかなったんだい?」

家令かれいに相談して決めました」

「相談したのはきみ?それとも侍女?」

「…………侍女です…………」

 わななきながら答える。そうだ。自分は何一つ決めていない。全部香円にやってもらったのだ。

鞠訊しらべによれば家令が支出したと記録している額と君の財蓄の数にズレがあるようだけれど、気づいていた?」

「な……え……」

「知らなかったみたいだね。帳簿よりも多く金が減っている。余分はどこに行ったんだろう」

 知らない。分からない。胸を絞られるような圧迫感に次第に息が乱れてくる。

 苛立いらだった声が上がった。

璋嶺君しょうれいくん。殿下は我が一族の者が瑞嶺君の資産を着服し、あまつさえ王太女に毒を盛ったとおっしゃられているのか」

 白い男たちのうちひとりが怒りを込めた眼差しで睨み居丈高に問う。予想するに典客府てんかくふ下の青雲士。

「骨蓉は阿膠の粒に混じっていた。用意したのは香円という鱗族の侍女。状況としてはそうなっているけれど?」

「何故そんなことをしなければならない。継嗣がおらず国が傾くことは我々とて忌避すべき由々しき事態なのですぞ」

 別の声が上がる。

「動機を探そうと思えばいくらでも出てくるぞ眉蘼びび。思晟とてそうだ」

「えぇ、なぁによ、醍亜姉上」

 いきなり振られて三女は驚く。

「お前は案珠姉上に男を取られたとずいぶん荒れていたではないか」

「それは」

「御子の父はお前が入れ込んでいた奴だったらしいな?それで恨んだとしても驚かんぞ」

「はあぁ⁉そう言う醍亜姉上だって案珠姉上が上奏したせいで無理やり婚儀を持ち込まれたってめそめそしてたじゃないの!知ってるわよ、姉上がきん州軍の平民出の軍吏ぐんりに懸想してるってこと!立派に動機があるじゃないの。案珠姉上より先に自分が太子を産めば少しは胸がすくわよね」

 醍亜の顔がみるみる赤くなり憤怒の形相に変わった。こぶしを震わせる。

「馬鹿じゃないのか。私がくだらない憂さ晴らしでこんなことするわけなかろうが!」

「すぐ頭に血が昇る姉上ならやりかねないでしょう!」

「姉上方。どうか落ち着いてください。御前でございます」

 乙琳が制し、ぴたりと静かになる。泉主は杖頭を撫でたまま発言しない。

「その香円とやらはなんと言っている?」

「それが……なにも。ずっと黙ったままだ」

 余計に不利になるぞ、と眉蘼が眼鏡を押し上げた。

「僕射は?」

「一貫して進物についてはまったく関知していないと申しております」

「でも咲歌と一緒に案珠姉上に会ったのはあの宦官よぉ?咲歌、あなただってれっきとした動機があるわ。香円を鳴州に連れて行けるよう口添えを頼んだのにすげなくとがめられたのでしょ」

「そんな……!それはお会いした朝の話で、毒を入れる隙なんてありません!」

「どうかしら。十年も毎日顔を合わせてたら少なからず鱗人の考えや言葉に影響されるはずよ。もしかしてなにか、けしかけられたのではなくて?」

 思晟の言に乙琳も眉をひそめる。にわかに嫌疑を受け勢いよく首を振った。

「わたしはなにも知りません!」

「このあいだのあたくしとの会食で請雨せいうの儀を知らないと言ったけど、本当は香円に教えられてたのではないのぉ?」

 それには白い男らが怪訝に顔を見合わせる。

「請雨を知らない……?」

「本当に知りませんでした。本当です。香円は鱗族について詳しいことは話してくれませんでした」

「でも歴史は習ったはずだね瑞嶺君。それできみは彼女らをどう思った?身近で接してどう考えた?我々から見れば奇妙な出で立ち、日に二度の沐浴。居住区での生活は聞かなかった?耳の後ろのえらのことは?――どう感じた?哀れに思ったかい?」

 六姉の目が爛々らんらんと光る。

「眉蘼姉上、わたし……」

「近くに置いていたのは香円が好きだったからだろう?その香円を信じて進物選びを任せた。だがいま君は彼女に裏切られようとしているよ」

「どういう」

「香円は主に言われた通りにしただけだと言えば罪が軽くなるのだもの。まあ軽くと言っても死刑は確定だがね。しかし鱗族だという身分は伏せて彼女らの名誉を守ることは出来る。ところがどうだい、きみのほうはこの国の希望を潰した大罪人として後世まで語り継がれる。死してなおはずかしめを受けるんだよ」

 すらすらと並べ立てうすら笑いを浮かべている。

「さ、本当のことを言うんだ。泉主の前で真実を」

 咲歌はあえぐ。つまり、ここで今はっきりと香円を切れ、と――侍女が勝手にやったことで、むしろ自分は宮の私財をかすめ取られた被害者であると明快に反駁はんばくせよと言われているのだ。


 動悸に胸を押さえた。儚げな笑顔を思い出す。香円がそんなことをするはずがない。

 口を小さく開いた。恐怖に飲み込まれる。このままやっていないとだけ言っていてもどのみち香円が全ての泥をかぶるのではなかろうか。でも、香円が命令されただけだと訴えたら?そもそも香円に継嗣を殺す理由などない。従順に一途に十年も仕えてきた女官が何も詮索せず主に言われた通りに行動するのは自然でむしろ求められるべき美徳だ。説得力がある。


(だからわたしは今ここで、香円を捨てなければならない……)


 嫌だ、と苦いものが広がった。それは裏切りだ。香円の信頼を破ることになる。

 しかし周囲は待ってくれない。

「……咲歌、どうした。もしか、やはり打ち明けたいことがある?」

 乙琳が静かに問う。

「いいえ……いいえ、乙琳姉さま」

「あなたは元はといえば泉主に不満があるだろう。私たちはそのこともなにか関わりがあるのではと疑っているのだよ」

 思わず父を見上げた。ばちりと視線がかち合って震え上がる。

「…………不満?」

 ぞっ、と粟肌あわはだが立った。これ以上ない腹立たしげな声に鳩尾みぞおちがきりきりと痛み警鐘を鳴らす。

「瑞嶺君はわしに不満があるのか」

「いいえ、いいえ!わたし、わたくしは」

 喉が苦しい。呼吸が乱れてやり方が分からなくなる。

「何も存じません、……何も分かりません」

「ではやっぱり香円が独断でやったことだと言うのね?」

 思晟が背を押してくる。鱗族の代表たちが目をいからせている。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。迷いと葛藤が渦巻いて固く目を閉じた。――もう、耐えられない。首肯しゅこうしようとした、その時。

 開いた大扉から男がひとり、小走りでやってきた。

「申し上げます」

 泉主と醍亜に耳打ちする。

「咲歌。もうよい」

 醍亜が向き直った。

「香円が自白した。全て自分が勝手にやったことだと言っているそうだ」





「香円は泉民には自分たち鱗族の苦しみが分からず、不当な扱いを受けており鬱憤があると申しておりました。私は常日頃、瑞嶺君のお側にお付きしており、外出中に宮を管理していたのはもっぱら香円でございました。我が君は近くにあまり人を置きたがらないご性分なので、必然あの者がほぼ全てを取り仕切っておりました」


 嘘は言っていない。


「請雨の儀で自分が今夏に暇乞いすることもぎりぎりまで隠していました。口止めを求められました。報酬?多少はもらいましたが、まさか宮の財物とは知りもしませんでした。よほど殿下に知られたくなかったのでしょう。それは王太女殿下もご存知です。お伺いして下さい」


 少し嘘を言った。報酬など一切もらっていない。

 これは一応、牽制のためだ。なぜ香円が申告より多く金品を持ち出していたか。最悪な予想は予想のままで終わってほしいから。逆にへの後押しになるだろうか?いいや、いずれにせよ事が露見した時点で何がしかの『計画』は実行しにくくなっているはずだ。


(最大の失敗は香円自身にちゃんと知らせなかったことだな)


 あれほど思慮深い女なら、阿膠に骨蓉が混ざっていると知ったら一気に全て混ぜるなんてせずに食べきれる分だけを献上しただろう。

 まあ間抜けだった。毒は別の方法で運ばれて来ると思い込んだのか、はたまた全く想定外のことだったのか。

 鱗族で公主付きの侍女という使える駒を無駄遣いしたことで企みは一度頓挫とんざするはず。これで馬鹿な真似を諦めてくれたらいいが……楽観的すぎるか。


 それよりも、とかせめられていた手首をさする。

(目下いちばん気がかりなのは俺の姫さまのほうだ)



 案の定、戻ってきた宜漣ぎれん宮には明かりが無かった。門衛を全て退げるなど無防備すぎる、と顔をしかめ、急いで回廊を渡り正殿へ駆けつけた。殿内も灯はない。

 臥房ねまの前に小さな鳥まがいの獣がうろうろしている。こちらをみとめてかすようにクワッ、と鳴いた。抱え上げ、閉じた扉の向こうへ声をかける。

「……姫さま。ただいま戻りました」

 返事はない。そっ、と押してゆっくりと開く。広い室内、人影はなく、続く耳房こべやに面した露地かだんへ下りる。

 主は、夜目には白い紫薇花さるすべりの樹の下にうずくまっていた。

「姫さま」

 散り落ちる細かな花弁にまみれる隣にしゃがみ覗き込むと、泣き腫らした目でなおも泣いていた。

「大変遅くなりました」

「……連れて行って、淳佐。命令だよ」

 咲歌は震える手で下僕の衣を鷲掴みにする。

「香円のところに連れて行って……!」

「それは」

「出来ないならわたしも死ぬ!」

「ばかなことを言わないでください」

「本気だもの」

 突き放し、首に当てた短刀を両手で握った。

「言い方を間違えた。香円と会わせてくれないならわたしはおまえを捨てる」

 黙った淳佐に咲歌はわらう。

「気絶でもさせてみる?いいよ、してみて。でも次に目が覚めたらもうわたしはおまえを見ないから。それでもいいなら止めてみてよ」

 刃が薄い皮膚にすっと当たる。小さく赤い線が走った。

「姫さま」

「わたしを裏切れば淳佐なんてすぐに捨てるんだから」

 さらに裂け目が拡がり淳佐はついに咲歌の手首を押さえた。

「……そのために衛兵まで退げたんですか。危険すぎる」

「二時辰じかん経ったら帰ってくる。それまでに香円のところへ行きたいの」

 淳佐は溜息を吐き頭を掻きむしった。

「分かってます?姫さまだって無罪放免ではない状況ですよ?」

「わたしはもう香円と連座してもかまわない」

「ご冗談。この上さらに勝手な真似をすればどうなるか分からない」

「バレなきゃいいんでしょ。おまえがわたしの知らない間に香円がやったって裏づけるもっともらしい動機を証言したみたいに」

 う、とたじろいだ。

「……言っておきますが、でっち上げではないですよ」

 九割は、と内心付け足す。咲歌は、ばか、と力なくその胸を叩く。

「わたしを庇うためでしょ、分かってる。でも、香円だって全部自分のせい、って嘘ばっかり。ちゃんと叱るのは主の務めだよ。そうじゃない?」

「…………まあ、そうですね」

 淳佐は取り上げた短刀をゆっくりと腰に仕舞った。

「立てます?――行きましょうか」

 よろよろと立った咲歌を淳佐は、ひょい、と抱え上げた。

「とっても目立たない?」

「俺を誰だと思ってるんです?裏道なんていくらでもあるし、無ければ作ればいいんですよ」

「……わたし、重いでしょ」

「意外に」

 容赦ない張り手が飛んできて、痛って、と素で叫んだ。

「悪かったね、骨太で」

「ポキポキ折れるよりゃ、よっぽどいいです」

 二人はすみやかに殿を抜け出した。





 ひたひたと暗がりから歩いてきた主に香円は檻の中で目をみはった。急に看守がいなくなってどうしたことかと思っていたのだ。

「姫……さま、どうしてここに……」

「淳佐のおかげ」

 香円は壁にもたれながら沿い、苦労して近づく。

「なりません……お早く、お戻りに」

 咲歌は柵にかじりついた。見るも無惨に乱れた髪、頬は痩けていた。それになにより、――――肌が。

 香円は薄く微笑んだ。

「一日でも、水を浴びねば、こうなるのです……」

 かさかさと逆剥けていて、深い裂け目は血が滲んでいる。鼻の奥がつんと痛くなった。

「少しだけど、水を持ってきたの」

 しかし彼女は首を振った。

「それよりも、姫さま。まさかわたくしを逃がすおつもりではありませんね?」

「…………いいえ」

 深く安堵した。「よかった…………」

「香円、本当に香円が毒を持ってきたの?嘘でしょう?わたしを助けるために嘘をついたのでしょう?なぜそんなことを?」

「たしかにわたくしは、あれに骨蓉が混ぜられているなど、微塵も思っておりませんでした……。けれど、いずれは、何がしかの大事を起こしていたことでしょう」

「どういう……?」

「姫さま。請雨のこと、今まで黙っていて恥をかかせ、まことに申し開きもありません。愚かな香円はもう、許されませんね……」

「そんなことはいいの」

「姫さま、『そんなこと』ではないゆえに、黙っていたのでございます」

 香円はひとつ息をついた。「わたくしの……鱗族の話を、聞いていただけますか?」

 もう話せる時は今しかない。

「うん」

「泉宮へ出仕するという取り決めは、鱗族がここ七泉国へ初めてやってきた、六百二十年前の同盟まで遡ります」


 鱗族はかつて霧界むかいの中で水と共に生きていた。しかし永きに亘り暮らしを支えた命水が涸れた。あてどなく彷徨い、はじめはすぐ近くの六泉国に助けを求めたものの拒絶され追い払われた。

 七泉国は土地は大きくないが水が豊富な恵まれた国だ。水と寄り添い生きる鱗族にとってこの上ない新天地だった。

 七泉と鱗族は同盟を結んだ。鱗族は水を、七泉は見合った労役を。より共存を果たすために鱗人の出仕も定められた。はじめ、これは双方の友和を象徴する盟約だったのだ。


「けれど、今では見る影もなく形骸化し、ただ請雨という伝統を守る為だけのにえを集める手法と成り果てています。宮へ入るには条件があります。作法や教養はもちろん、なにより大事なのはなみだの数なのです」

「泪…………?」

「そして宮への出仕者……青雲士はいずれ請雨の巫覡ふげきに選出されます。請雨は三日間。断食し陽に晒されたまま黙祷し続けます」


 三日三晩、水を口にせず浴びない。これで命を落とす者もいる。


「運良くそのあいだに雨が降れば良し。夏の炎天の下、干からびる寸前で請雨の儀は終了致します。一度死ぬ寸前までいくと、我々はより水に接していなければ生きてゆけないのです。……我々の居住区は、泉の中にもあります。請雨を生き残った者はそれから一生を水と、家族と共に過ごす特権に与れますが、その後も見合う働きをしなくてはなりません。鱗人による国への上納は真珠。真珠なんて珍しくもなんともありませんでしょう?」


 七泉の泉は様々な宝玉がく。こと七泉宮の直下、国中の全ての泉の源たる広大な主泉しゅせんをはじめ国中の泉には、翡翠に琅玕ろうかんに水晶、瓀琈ちょふ青雘せいわくに、不思議なことに琥珀や瑪瑙まで採れる。珊瑚以外ならほぼ全てを産出する。なかでも真珠は排水にさえ流れている。七泉では硝子玉とほぼ同じ扱いだが、他国では価値の高い宝玉であるためにこの国は昔から真珠貿易で富を築いてきた。


 何の因果か、そんな国に鱗族は流れついた。

「一日五十粒。それを毎日出せる者でしか、宮では働けないのです」

 香円は変わらず儚く笑う。

「わたくし共の泪は、流れると真珠とほぼ見分けのつかない粒になるのです」


 それを月明珠げつめいしゅといった。七泉は鱗族に供出させるこのもうひとつの真珠によっても莫大な利益を得ている。


「そんな……毎日泣かなくちゃいけないじゃない」

 咲歌が言えば、ふふ、と香円は笑い、鎖の巻かれた手で綃紗しょうさを億劫そうに捲った。

 白く細い腕を月光に照らす。痛々しい無数の傷痕は上腕まで続いていた。

「私たちにとって、朝廷のお勤めからひととき離れた沐浴の合間は泣かなければならない時間です。どうしても泣けないときは、痛みを。朝に二十五粒、夕に二十五粒。必ず納めます。でないと、お役目を取り上げられて居住区に強制送還されてしまう。みんななるたけあそこには帰りたくないのです」

 思わず呻き声を出しそうになり、咲歌は両手で口を押さえた。

「そんな、ひどい……」

「これが、わたくしたち、鱗族の今現在の生き方となっております。嘆いても仕方のないこと。けれど、姫さま。姫さまが八つの時に、わたくしを見初めてくださった瞬間から、わたくしの人生はとても素晴らしいものになりました。姫さまはわたくしが綺麗だからと、それだけで愛してくださった。その澄んだお心が嬉しかった…………」

 香円はゆっくりと瞬きし、咲歌をじっと見つめた。

「わたくしは、姫さまにそのままお育ちあそばされて欲しいと願いました。豊かな国のなんの不自由もない公主殿下で、無垢で、純粋に、美しいものを美しいとはっきりと言っていける自由な心のままで……けれどそう思うと同時にいつも、汚い香円も知って頂きたいと、相反して足掻く自分もおりました」

 ひび割れた指を伸ばした。「わたくしたち、鱗族の苦しみと憎しみを、もっと分かって欲しい、と……」

 汚れて欲しいと。

「……姫さま……」

「聞いてる。聞いてるよ、香円」

「わたくしたちは、人として生きてきました。泉人とは少し……見ためや、体のつくりや、生き方が違うかもしれません。けれど、同じ人として存在しているつもりです………姫さま、いつか暮州へ、行ってみてください、ね。そして、わたくしの仲間を見つけてください………」

 ぽつり、と両の眼から粒がひとつずつ落ちた。香円は悴む手でそれを拾い、檻の外へ差し出す。

「これは、わたくしの血でございます。どうか、香円のことを忘れないでくださいましね」

 真珠と同じく真円球の、光に透かせば虹の光沢を放つ二粒は彼女の生きた証。

 主の頬に触れる。

「…………咲歌さま。愛しています。ずっと。けれど、これでお別れです。わたくしはおそらく朝までちません。どうか、もうお戻りくださいませ」

「いや……香円。香円!」

 咲歌の背後から影が近づく。無言で抱え上げ、一瞥を投げた淳佐に香円は力なく頷いた。

「わたし、香円のこと大好き。嫌いなんて大嘘なの。ずっと大好きで、これからもそうだよ!」

 愛しい主の声が遠ざかっていく。



「…………最期に、ふつうに泣けて、よかった…………」



 呟き、白い満月を見上げ、瞼を閉じた。




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