三章



 泉主が治朝ちちょうに戻り姿が見えなくなった途端、姉は妹を抱き締めた。

「平気か?」

「乙琳、姉さま……!」

 ついに泣き出す。乙琳は先ほどの剣幕はどこへやら咲歌の背を優しく叩いた。

「すまなかったね。あの場で誰かがあなたを怒らねばもっとまずい罰が下ったやもしれず、致し方なかった」

 何度も首を振る咲歌に「そうお泣きでないよ」と手帕てぬぐいを当てた。醍亜も近づく。

「父上はそれほどおかんむりではない。お前のための褒美も残された。あとで届けさせよう」

「醍亜姉さま。わたし……」

「それほど気に入りの侍女か。しかしやはり鱗族ならば無理だな。宮へ出仕する者はなべて名家の子女で能力も高い」

 長姉が厳しい顔でやってきた。怯えて乙琳に隠れてしまう。

「咲歌。だめだと言ったのに、肝が冷えたわよ。我儘も大概になさい。ふつうの下女ならいくらでも連れて行って良いわ。私の宮からも出す。だからもうあきらめなさい」

「う……う……」

 封公主になって泉畿みやこからは遠く離れて暮らす。ならばもう香円とは二度と会えないだろう。まざまざと思うとやはり分かりましたとは言えず悲しみが襲った。泉主の前で失態をさらしいたたまれず泣きじゃくる末妹に姉たちは困って顔を見合わせる。

「殿下」

 そこへ、後ろでひざまずいたのは彼女の僕射ぼくや

「この後第三公主殿下のお招きにあずかっております。早く行かねば」

「そうなのか」「さあ、咲歌。気を取り直して思晟しせい姉上のところで美味しいものを頂いておいで」

 姉公主たちに慰められ、咲歌はようやく礼をして歩き出す。従い淳佐は後を追った。



 後宮に戻ってすぐ咲歌は座り込んでしまった。

「姫さま?こんなところで丸まったら通行の邪魔ですよ」

 主は手を振る。淳佐以外の付き人を全て先に行かせた。

「怖かった」

 淳佐はと言えば袖を掴まれている。溜息を吐き、頼ってくる腕を支えた。

「無謀なことをするからです」

「だって……」

 ぐずぐずとはなを啜りつつなんとか立ち上がる。

「わたし、」

 ぼろ、と一粒零れた。

「やっぱり……宮から……出たくない」

 これでは三年前に逆戻りだ。支える手に力を込め、口を開こうとすると涙に濡れた顔で首を振った。

「淳佐まで怒らないでよね」

 胸にうずまられ、行き場のない両手が宙を彷徨さまよう。

「姫さま」

「みんな、わたしになにか隠してるでしょ」

 虚を突かれ固まった。

「姉さまたちも、お前も香円も。鱗族については勉強した、でもまだなにかあるのでしょ。でないとこんなに反対される理由が分からない」

 見上げてきた視線を外せず、やむなく合わせる。

「ねえ、どうして?」

 淳佐はやんわりと引きがした。

「……じゃあ、宴から帰ったらきちんと香円に訊きましょう」

「いいの?」

「姫さまももう子どもじゃないですから」

 ほのかに投げやりに言い、行きましょう、と促した。



 到着するとすでに食欲をそそる良い匂いが漂っていた。下官の数も多く、咲歌が現れるとにこやかに迎えてぬかづく。客の到来を告げ知らせる声が響いた。

 案内を受けて進むと先んじてけたたましい笑いが聞こえてくる。

 吹き抜けの花殿ひろま、上は木香茨もっこうばら園亭つるだな、下は満開の黄萓きすげで埋めつくされ、大卓の上には所狭しに湯気立つ器が並ぶ。豊満な女が伴侶たちと盃を酌み交わしていた。


「あらぁ、咲歌!いらっしゃい!」


 肌が透けるほど薄い袗衣ひとえを身にまとい、黄色い声を上げて踊るように駆けてきたのは三姉。真星しんせい璜嶺こうれいくん冀翔きしょう思晟その人だ。

 すでに酒が回っている。上機嫌で妹の手を取り導いた。

「昨日もつい羽目を外して寝過ごしちゃって。さっきやっと起きたのよう。あたくしの組は何位だったかしら?最下位?あはは!いいのいいの、玉ころがしなんてどうでもいいわぁ。それより咲歌、元気がないわね。お化粧が落ちているわ、汗をかいたの?暑いとへばってしまうわよねぇ、分かるわ。これをお食べなさい仙草凍かんてんよ。ああ、酪桜桃さくらんぼも。お酒は飲む?冷酒でいいわね?」

 次々にまくし立てて料理を運ばせる。咲歌はともかくも駙侯ふこうたちと挨拶を交わし、隣に座った。

「姉さま、わたし、お酒は」

「あらぁ?だめだった?じゃあ桂花けいか茶にしましょう。この盃はどうしようかしら。ああ、咲歌の僕射。あなた、代わりに受けなさい」

 淳佐はうやうやしく進み出て受け取ると一気に呷った。思晟はにっこり笑い自分の両頬を包む。

「やぁん。かっこいいわね。宦官じゃなかったらあたくしの男妾めかけにしたげたのに」

「もったいないお言葉です」

「あら、お世辞でなくてよ。咲歌さえ許してくれるなら今晩どうかしら、ねぇ?」

「…………?」

 悟らない妹に、まぁ、と絶句してまなじりをつり上げる。淳佐に責め立てた。

「あなた、仮にも腹心の麾下ぶかなら主の教育を怠ってはだめよ!もう駙侯の候補も挙がってるというのにいつまでもお人形のようにちやほやするだけでは恥をかくのは咲歌なのだからね!」

「ご忠言、痛み入ります。先ほど主からも叱られました」

「どういうこと?」

「あのね、姉さま。わたし鱗人の侍女を鳴州に連れて行きたくて、父上にお願いしてしまったの」

「鱗人の侍女?」

 思晟は肉を頬張りつつ目を丸くした。咀嚼そしゃくして飲み込み、垂汁たれを妖しく赤い舌で舐めとる。そうして「無理ね」とばっさり切り捨て酒を飲み干した。

「だって、あの者たちは雨乞いのにえでしょう?」

「なんですか、それ……」

「夏至の方丘祭ほうきゅうさいの前にやる儀式よ。といっても鱗人は宮を下りて決められた場所で行うけれど。あらら?なぜ咲歌は知らないのかしら」

「え……わたし、聞いたことないです……」

 困惑しながら淳佐を見た。隠していたのはそのことだったのか。彼は憮然としてあらぬほうを向いている。

 思晟はぱちぱちと瞬き、何かを思い出したのか、ああ、とひとり得心して頷いた。

「それでね、宮に登殿を許された鱗人というのは彼らの中でも特別なの。請雨せいうでは女丑じょちゅうという巫覡かんなぎが選ばれるのだけど、それは宮中に仕える鱗人官……青雲せいうんの中から朝議で指名する。毎年よ。だから泉畿みやこからは離れられないの」

「そうだったのですか……。どうして教えてくれなかったのですか」

 肩を竦めた。

「あたくしはてっきりもう知ってると思ってたわ。けどいま初めて聞いたのなら、口止めしてたのはきっと大母上か案珠姉上ね。咲歌がその侍女を気に入ったものだから心配なさったのよ」

 思晟も妹の侍官を流し見たが、なおも黙ったまま目を伏せていた。

「わたし、何も知りませんでした」

「知らなくてもまったく問題ないことよ」

 この話は終わったと言わんばかりに箸を動かし続けた。

「あたくしたち王族と関わることなんて、本当なら人生のうちでただの一度もないわ」



 持って帰りなさい、と大量の料理を提盒じゅうばこに詰められて抱えながら戻る。

「……淳佐。なんで教えてくれなかったの。知ってたらわたしだって父上の前であんなこと言わなかった」

「香円本人から口止めされていたからです」

 足が止まる。

「なんで……」

「実は香円は三年前の請雨で女丑を務めるはずだったんです。それが、姫さまが冊封さくほうされて下城するとなったから、せめてそれまではお側を離れたくないとあちらの長たちに掛け合ったみたいですよ。それで引き延ばして…今年の夏至は香円が出なくてはならないんです」

 衝撃に狼狽うろたえた。「今年の夏至?そんなのあとひと月もないよ⁉選ばれたらどうなるの?もう宮には戻ってこないの⁉」

 淳佐は眉根を寄せる。

「そうやって姫さまが騒ぐから言い出せなかったんじゃないですか」


 急いで自宮へ戻った。美しい侍女は満開の紫丁香はしどいの下、門前に佇み咲歌の飼う寵物どうぶつを散歩させていた。しかし、絵になる情景も今の咲歌には愛でる余裕はない。

「香円!」

 主の姿に気がつき、花の香をまといつかせふんわりと笑う。

「お帰りなさいませ。……どうかなさったのですか?」

 柳腰に抱きつくと驚いた顔で受け止められた。主の勢いに小さな獣は飛べない翼をばたつかせる。

「香円、女丑になるの?終わったらまた戻ってくるよね?来年わたしが宮を出るまでいてくれるよね?」

 香円は不思議な光彩の混じった黒眼を見開き、ちらりと淳佐を見る。白い顔が一気に悲しみに染まった。

「お聞きになったのですね」

「なんで言ってくれなかったの!」

 主を抱き締め、そのまま膝をついた。

「申し訳ございません、姫さま。姫さまをこのようにわずらわせたくなく、香円はだんまりを決め込んでおりました。お許しを」

「ねえ、だから、夏至が終わってもいてくれるよね?答えて!」

 辛そうに口を歪めた。

「……女丑に選出された者は、二度と宮中には上がらないのです、姫さま」

 どうして、と瞠目どうもくすれば、観念したのか石畳に座り込んだ。


「……姫さま。わたくしたちが日に二度、必ず沐浴もくよくをしなければならないのはご存知ですね?」


 もちろん知っている。咲歌は香円の着ている内衣を見つめた。顎の下から手先足先までを覆う黒いぴったりとした着衣は鱗人特有のもので、一度借りたことがあるが驚くほど伸びるわりに着ると体に張りついて息苦しいほどだったのをよく覚えている。

 その衣は綃紗しょうさといい、鱗人しか作れない特別な糸であつらえたものでとても高価なのだと教わった。咲歌が身につけると水を弾くのに、香円ら鱗人だと一日中微かに湿っているのだった。


「一度請雨の儀に参加すれば、わたくしたちはもっと水がなければ生きられないのです。ですのでいとまを頂き州の居住区へ戻るのです」

 帰らねばならないのです、と白く長い睫毛を震わせた。

「そんな……」

「三年間、責任を先延ばしにし我儘を言って姫さまにお仕えさせて頂きました。湶后せんごう陛下や王太女殿下にお願いして伏せていたのもわたくしです。お伝えするのがこんな時分になってしまい、本当に申し訳ございません」

 謝られても。唇を噛み俯いた。今は彼女と離れたくないという思いよりか、打ち明けてくれなかった怒りのほうが強い。この十年来の関係を裏切られたようでひどく傷ついていた。

「……きょう、わたしがたまたま思晟姉さまから聞かなかったら、そのままいきなりいなくなってしまうつもりだったの?」

「…………姫さまにわたくしごときのことで、こうして悲しんでほしくなかったのでございます」

 肩を突き飛ばした。

「なんでっ……!ばか!みんなっ……わたしを子ども扱いして、可哀想だから何も知らなくていいと言うんだ!」

 そうして鳴州へ飛んで行った自分のことなんて、すぐに忘れ去られてしまうのだ。

「嫌い!香円も、淳佐も!」

「姫さま」

「来ないで!放っておいて!」

 涙の粒を散らし、もどかしげに早足で去る背に声をかけられないまま、へたりこんで見送っているとぶっきらぼうに手が差し出される。

「……平気ですわ」

「ようには見えないけどな。怪我してる」

 香円は擦りむいた腕をみとめ、自嘲してわらった。

「主を傷つけた罰ね……淳佐どの。今まで姫さまに黙っていてくれてありがとう」

「べつにあんたの為じゃない。姫は知らなくていいと俺が思ったから言わなかっただけだ」

 返しに香円はあえてその手に掴まった。一瞬たじろいだのを見逃さない。笑んだまま囁いた。

「わたくしが怖いですか、淳佐どの」

「……ばかな」

「分かっています。あなたがずっとわたくしをうとましく思っていたことは気づいていましたから。姫さまのご寵愛が薄れればすぐに遠ざけるおつもりでしたものね」

 手を離し、ゆったりと立ち上がって夕暮れの空を見上げた。鳥が群れをなして飛んでいく。

「……泉人には分かるはずもない。わたくしたちの苦しみが……」

「俺は姫にあんたの苦しみとやらを教えるつもりもない」

 言えば、諦めたような、吹っ切れたような笑みを浮かべた。

「…………これからも姫さまをよろしくお願いいたします。この十年、あの方だけがわたくしの生き甲斐でしたわ」

 無垢で、純粋で素直で我儘で。できればこの先もずっとそうであって欲しいという思いとは裏腹にき上がるこの気持ちは、心の奥底に秘めなくてはならないもの。

 主の前では、最後までこのままで。

 そう決めてきびすを返した。





 抜歩床しんだいに身を投げ出し、ふて寝したままれぼったい目を擦っていると、ぺたぺたと飛び跳ねる音がして小さな獣が乗ってきた。追ってきたのだ。

狸狸りり……」

 クワッ、と鳴き、まろい形のくちばしでつついてくる。咲歌は小さな塊を抱き寄せた。

 飛べない鳥に羽毛はない。短いすべすべとした毛並みを撫でながら憂鬱に息を吐いた。

 癇癪かんしゃくを起こしてしまった。子ども扱いするなと言ったくせに怒り方はそれそのものだ、と自己嫌悪で胸がじんじんと痛い。獣に顔を埋める。

 もういくらもしないうちに夕餉ゆうげだ。香円が呼びに来る。そのときにきちんと仲直りしよう。


 そう心構えし気を落ち着けていたが、一向に何者の影もない。短くなってきた燭台しょくだいに不安になり、そっと出て走廊ろうかを覗いた。大勢に取り囲まれて身繕いするのが好きではないので自宮に人は多くないが、それにしたって静まり返りすぎてはいないか。

 香円はどこに行ったのだろう。そういえば、いつも鬱陶しいくらいついてくる淳佐は?もしかして、呆れはてて呼びに来ないのだろうか。

 狸狸を抱き締めたままそろそろと足を踏み出した。なんだか、声を上げるのがはばかられるほど不気味に静まっている。

「香円……?淳佐……?」


 おずおずと暗闇に呼びかけたとき、微かに怒号のようなものを聞いた。

 怖くなって身をちぢこませる。夏はじめ特有のじんわりと蒸した空気が余計に悪寒を誘った。

 しばらく歩くと今度ははっきりと悲鳴を聞いた。足を速める。回廊に出、内院なかにわに複数の松明たいまつを見つけ立ち竦んだ。

「姫さま!」

 淳佐だ。しかし安堵は出来なかった。取り押さえられていたからだ。

 それは宮の他の者も同様だった。涼永が後ろ手に拘束されたまま何事かを兵卒たちに訴えている。相手の徽章むねかざりを見て息を飲んだ。

虎賁こほん……」

 泉主直参の近衛兵がなぜここに。

 狸狸が苦しげに鳴き、咲歌の腕から身をよじらせ落下し尻餅をつくと、さらに甲高く喚きながら逃げていった。

「姫さま!ご安心ください、何も心配は要りません」

 別の声に口を押さえる。膝立ちで縄を打たれた香円は乱れ髪の奥の瞳を細め主を落ち着かせようと微笑んだ。

 立ち尽くす宮主のもとへ二、三の虎賁郎がやってくる。いちおう、といった風に拝礼した。

「瑞嶺君。突然不躾にお騒がせし申し訳ございません。殿下はどうかこのままおとどまり下さいませ。ただし下官たちは鞠訊とりしらべの必要がございますゆえ一度引き取らせて頂きます」

 半分も理解できず呆然とした。

「……いったい……なんなの……」

「つい先刻、王太女殿下の御子がお流れになりました」

 頭を殴られたのかと思った。

「な………」

「公主殿下方の御進物の品々を召し上がられた後、腹痛を訴えられ、宮医の見立てでは毒を含まれたようであるとのことでした。只今、物が残っていないか捜索している最中でございます」

 それで、と篝火かがりびに剣呑な眼を光らせた。

「姫宮様方には自宮から一歩たりともおでになりませぬようお願い申しております」

「公主……全員?」

「五君、六君のおわします嶺宮れいぐうへの『橋』も今はごさいますゆえお渡りはできません」

「毒って…………」

 混乱しすぎてそもそも毒とは何だったか、となり、膝の力が抜けた。

「姫さま!気をしっかり!心配ありません、ここに毒なんかあるわけがない」

 淳佐が虎賁たちを睨みながら叫んだ。引き立てられる姿がにじむ。

「わ、わたし」

「代わりの下官を揃えますゆえ、何卒そのままお待ちください」

 冷たい声が咲歌を押しとどめる。波が引いていくように下僕たちが連れて行かれる。口々に主の身を案じながら。

「姫さま!大丈夫ですよ!」

 何度も振り返りながら香円が懸命になだめた。

「すぐ戻って参りますから!」

 やがて喧騒は宵闇に消えていった。




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