一章



「いいなあ」

 羨ましげな嘆きに女官は華やかな笑みを見せた。

「何をおっしゃいます」

 そうして寝そべったあるじ抱腹むねあての紐を解く。

「また増えてないかな?」

 心配そうに首をよじって見上げてくる顔に頷き、てのひらに香油を取る。背に撫でるように塗りながら黒い星を数えた。

「ねえ、どう?」

「……小さきものがひとつ。これで七つになりました」

「ええ、やっぱり増えた」

 主は枕に顔を埋めた。「嫌になる」

「誰も気にしませんわ。黒子ほくろなんて」

香円こうえんには縁のない悩みだよね。黒子どころか、シミひとつないんだから」

 なじれば彼女は困って眉を下げた。白磁の肌に乳白色の睫毛まつげと髪、同じく白い珠を笑窪えくぼに貼り付けた姿はまるで天女さながら。唇だけを薄紅に染めて。

「それはわたくしが泉民せんみんではないからですわ」

「分かってる。それでもいいなあ」

 髪をかれつつぼやいた。「それに姉さまたちはみんな綺麗だもの。わたしはくせっ毛で肌もすぐ陽にけるし爪だって割れちゃうから長く伸ばせない」

 わたしだけ、とねた声音を聞きながら香円は油を塗り終える。扇でゆったりと風を送った。

「けれど姫さまは大きな病ひとつせず健やかにお育ちあそばされました」

「そうだね。背は低いのに骨太で肉付きがいいってからかわれる」

 どこまでも卑屈な言に内心溜息をついたところで隔扇とびらが勢いよく開いた。

「姫さま、着替え終わりました?」

「ちょっと、淳佐じゅんさ!声をかけてよ、服を着てないの‼」

 ずかずかと入ってきた下官は腰に手を当てた。「着てるじゃないですか」

「これは下衣したぎ!」

 投げつけられた枕を平然と受け止め、くるりと後ろを向いた。

「それは失礼。でも早くしないと涼永りょうえいが待ちくたびれて同じようにかしてきますよ」

「分かってる!」

「もうすぐ巳初刻みのこくです。王太女おうたいじょ殿下に挨拶しに行くんでしょう?早くしないとあちらも準備を終えて出御しゅつぎょします」

「分かってるってば!いいから出てって!」

 淳佐は肩越しにちらりと香円へ視線を寄越すと枕を渡して出て行った。

「淳佐のばか!」

 腹立たしく掛布を蹴りやって立ち上がる。香円が広げた衣に腕を通しながら頬を膨らませた。

「わたしだっていつまでも子どもじゃない!」

「ようく言っておきます。……とはいえ、あの手この手で宮を脱走する姫さまに昔からいちばん手を焼いてこられた御方です。あまりにお姿が見えないと心配なさるのですわ」

 それに、と寂しげに笑う。

「第一の侍女がわたくしのような者ではさらに気が休まらないのでしょう」

「香円は何も悪くないよ。わたしが寝坊したから……後ろの髪は結い上げないでね」

 それで上と横のみを纏め、花簪かんざしを挿し、唇には少しだけ紅をいた。

 あまり派手な装いは好きでない。それに、明るい色は顔だけが浮いて衣に着られている道化のようになる。

 言われるまま帯を締め終わった香円は小首を傾げた。

「……地味すぎませんか?」

 鵲灰かささぎばい襦衣うわぎは豪奢な銀糸でぬいとりがしてあったが、余計に渋味が増して見えた。しかし主は頓着せず紗領巾かたかけを羽織る。

「大丈夫。ほら、裳裙もすそは白だし、帯は赤。充分でしょ。それに今日はねえさまたちが主役なんだから大げさにおめかしする必要ないし」

「それはそうですが……」

「行ってくるね」

 侍女の心配をよそに隔扇を開ける。そうそう、と振り向いた。

「お昼は呼ばれてるから帰るのは夕方になる。狸狸りりに餌をあげておいて」

「かしこまりました」

 佩玉はいぎょくと紫の綬帯いろおびを揺らしながら揚々と出て行く後姿を、香円はなおも心配げに見つめていた。





 宮城きゅうじょう泉帝せんていの座処であり国と政の中心ではあるが、それは大抵国有地の最北にあった。ここ七泉しちせんでも泉畿みやこ逢阜ほうふを擁すきん州は北部一帯を占め九州のうち最も大きく人口も多い。水はすべて宮から東南西へ広がり、国の隅々まで行き渡っている。

 しかしその七泉宮の形状は初めて見る者には珍奇だった。王宮は箸を立てたような山の頂上にあり、麓の市街とは一線を画す。巨大な御殿を戴く山の周囲にはさらに六つの小峰が連立し、それぞれに宮が構えられていた。七泉宮一山六れい、雅称青要山せいようざんは晴れた日ならば国中のどこからでも空に浮いた針のごとく見て取れる。ゆえに国内において方角を見誤る者などいなかった。


 泉帝とはつまりは泉主せんしゅである。七泉においては七泉人を治める守護者であり恵みの供給者、民は王を神と等しい存在と崇め奉る。何故ならば、王がおらねば水は腐りはてるからだ。源泉は王宮から湧き出て山を下り、麓で泉を湛え、そして国内全てに葉脈のごとくそそがれる。

 七泉人は祠廟しびょうの表を南に建てる。そして屋根の向こう、空にうっすらと霞む七本の槍にひざまずき頭を下げるのだ。


 生きとし生けるすべての月に、豊饒ほうじょうの命水を与えたもう唯一絶対君主、羨天せんてん泉帝七泉国王七泉主の宝祚ほうそ恒久にして、天壌きわまらず宸極しんきょくつつがなく幸あれかし。


 …………と、幼い頃からそらんじるよう毎日り込まれた。

 泉主が生きる為に欠かせない水を与えてくれるのは間違いない。七泉四百三十万民の全てを支えるたった一人の尊い王は決して失われてはならず、しかし神仙ではなく業ある人ゆえにその一人を得るのに多大な労力が支払われることもしばしばだ。


 現七泉主は齢六十八、即位二十一にしてまつりごとくし民の声を聴き、善政をいた賢王として名高い。……いや、名高かった。


 天は二物を与えず、とよく言うが、そんな彼に対して天はとんでもないものを差し引いた。無辜むこの民が言葉も喋れない幼いうちから聞く祈りの文句の裏の意味、国にとって最も重要で重大な泉主の御業みわざ――次代王の挙子きょしが、治世四十七年現在もいまだ為されないままなのだった。


 六女一男とう。もともと、七泉には女が多い。すこぶる多い。朝廷においても体を使わない文官に限らず武官でも過半は女が占める。市井でもそうだ。泉賤どれいとして売られる幼子で男は滅多にいない。男が婿入りするなど普通のことだし、女は男を産めばめかけといえど正妻にのし上がれた。


 それはこと王宮――泉宮せんぐうでも同様だった。


 七泉主にはかつて弟が二人いたが一人は夭折し残る一人はつい一昨年、病をこじらせ薨去こうきょした。王家に継承権を持つ男子がいなくなるという前代未聞の凶事が起こり朝廷は今も落ち着いていない。現王の子は七人共全員、公主。よわい六十八ならまだまだ望みはあるという周囲の声はあるが、泉主はここ数年で重圧に押し潰されたのか心身を弱らせていた。


 それでかくなる上の希望は公主たちが産み参らす王孫に託された。泉国の王とは王統系譜に連なる男子にしか継承できないものであるがために、すでに上三人の公主たちにはりすぐりの伴侶が与えられている。


 そして一縷いちるの希望は見えた。昨秋、王太女がついに懐妊したのである。先日安静のため自宮から本宮へ移り、いよいよ出産に向けての準備が始まり国中はかつてないほど湧き立っていた。もし太子ならばとてつもなくめでたいことだ。国の命運を繋ぐ糸はなんとか切れずに保っている。妊娠の噂が全国に伝播してからというもの、青要山山麓の社稷しゃしょくや後宮北にある霊廟には貴賤問わず礼物を携えて人々が祈りに来ている。どうか我が国に男子を、安寧をもたらす王太子を、と熱願の声は止まない。



「……さて、どうなるか」


 小さな呟きをらしたところ、輿こしに乗って前を行く主が振り返った。

「何か言った?淳佐」

「いいえ。ところで、それが王太女さまへのご進物?」

「うん、そう。手に入れるのが大変だったそうなの」

 包みを撫でる主をしげしげと見る。

「……なんだか、いやにババくさい格好してませんか?」

「うるさい。いいの、今日は父上もいらっしゃるのに、わたしが目立ってどうするの?」

「さいですか。後ろ髪も上げたらよかったのに」

 鬱陶しい、と思って言えば頬が膨らんだ。

うなじの黒子が見えるから嫌なの!」

 あどけないさまにくすりと笑う。十八になったはずが中身はいつまでも変わらない。ひょいと荷を取り上げた。

「持ってあげます」

「落とさないでね?」

「箸より重いものを持ったことがない姫さまのほうが落としそうですよ」

 それにまた反発しつつ、大殿を構える長姉の居宮へ向かった。





「姉さまはまだいる?」

 拝礼した衛兵はこのまま入るようにと促す。それで二人は広大な宮の奥へと進んだ。


 明渠すいろに輝きながら流れる清水の涼やかな音と咲き乱れる大輪の朱槿しゅきん。鮮やかに彩られ華やぐ走廊ろうかを進み、奥の院へ辿り着いた。

 大扉はすでに客人の為に開け放たれている。呆れるほど広い椒房しんしつ、声をかける。

「姉さま?」

「…………あら、咲歌しょうか?来たのね?」

 眠たげな声がした。「入ってきて頂戴」

 綵絹あやぎぬを掻き分けて抜ければ駙侯おっとたちに囲まれた王太女が鳳床しんだいに座しており、いまだ睡衣ねまきのままで按摩あんまされていた。

「ごめんなさいね、こんな格好で。最近起き抜けは脚が立たなくって」

「いいえ。ちっとも気にすることないです、案珠あんじゅ姉さま」

 七泉国第一公主・太星たいせい璧嶺へきれいくん冀翟きてき案珠はしどけなく衿を整え、大きな腹を撫でて笑む。

「おはよう」

「おはようございます。赤ちゃんはどうですか?」

「順調よ。何か持ってきてくれたの?」

 咲歌はにっこり笑って淳佐を促す。駙侯ふこうに渡され、開けられた箱を見て案珠は、まあ、と瞳を輝かせた。

阿膠あきょうね。こんなにたくさん」

「とっても体に良いと聞いて。本当はもっと早くお贈りしたかったのですけど取り寄せるのに時間がかかってしまって。それに……封領ほうりょうのことで忙しくて」

 聞いて案珠は一転、切なげな顔になり、男たちを退さがらせて両手で招いた。

くだるのは来年だったわね?」

「うん、そう」

 体重をかけないよう遠慮がちに隣へ座り、姉も妹の頭飾りに気を遣いつつ肩を抱く。

「可哀想に、咲歌。なぜお前だけ」

「……しょうがないです。六嶺宮ろくれいきゅうは全部埋まってるし、後宮は太主たいしゅさまや母上さま方がお住みだもの。わたしは末っ子で、まだ駙侯も決まらないのだし……」


 七嶺ある泉宮のうち中心は本宮、残り六つは全て姉公主それぞれに下賜されており、各城下のいくつかの郷を采邑さいゆうつまり化粧領として持っているからして、七女の咲歌にはすでに与えられるべき宮がなかった。それで西州・めい州に封領を賜り、封公主として下城が決まったのだ。


「いくら封公主とて、身はこのまま後宮に置いてもなんら問題はないのに」

「……父上の勅命ちょくめいです。それに、封地は広いらしいです。案珠姉さまのものよりも」


 気丈に振る舞う姿に案珠もそれを見ていた淳佐も何も言わなかったが、咲歌の冊封はていのいい厄介払いであることはおそらく本人も了解しているだろう。それに咲歌には泉主の風あたりが強い。

 当時すでに房事に疲弊を訴えていた王が寵妃の必死の求めにやっと身籠みごもらせ、出産の前からおそらく男子であろうという宮医たちの見解に大いに期待した結果、ふたを開けてみれば女児だったのだから。最後の望みと賭けた極めつけ、七人めも女か、という落胆はそのまま施政への意気込みをさらに失わせる結果となった。

 咲歌は親の愛なく育った。無論、泉主とはたとえ同じ宮に住んでいる実子だとしても頻繁に顔を合わせられはしないが、ことさら疎遠になっている父からいきなりそんな下命を受ければ誰だって自身が不要とされていることなどありありと分かろうというものだ。


 案珠は嘆息した。

「咲歌。どうしても耐えられなくなったらいつでも帰ってくるのよ?私から父上に進言申すわ」

「だめ、姉さままでご不興を買ってしまう」

「大丈夫よ。父上はああみえて道理の分かる方。今はただ、とてもお疲れになっているだけなのよ」

 咲歌はしばらく黙り、それから体を離しておずおずと姉を見上げた。

「あの…あのね、姉さま。父上にお話ししてくださるのなら、その、引越し自体のことじゃなくて、別のお願いがあるのだけど」

「お言いなさい」

「香円を連れて行きたいの」

 淳佐はわずかに眉をひそめた。案珠も目をまたたかせ、やがて「それはだめよ」と首を振る。

「宮に仕える鱗人りんじんを好き勝手に動かしてはだめ」

「でも香円はもう十年もわたしの侍女だよ?」

 すると姉は不快げにした。

「あの者たちは特別に選ばれて後宮で仕えているのよ。宮を出るのも入るのも厳しく取り決めがある。泉主はお許しにはならないわ」

「それでも、一度言ってみてくださったら」

「咲歌。私たち泉民とあの者たちではまるで違うの。分かるわね?」

「…………」

「殿下、そろそろ行きませんと遅れます」

 沈黙が満ちた間に淳佐が割り込むと案珠も頷いた。

「今日は打毬だきゅうの試合なのだから早く準備なさい」

「……姉さまもいらっしゃるのですか?」

「胎教にはよろしくないと言われたけれど遠目に観戦するだけだし、久しぶりに父上に拝謁はいえつ申し上げたいわ」

 そうですか、と咲歌は呟き、ようやく切り替えて笑った。

「たぶん今年は面白くなります。わたしの軍に涼永が入ってくれましたから」

「あら。楽しみね」

「陽射しが強いから、ご無理なさいませんよう」

 それで姉のもとを辞し、足早に宮を出た。




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