序章



 白い真円の月が皓々こうこうと冷たい幽光を放ち、夜の闇に包まれた園林なかにわを青く照らしていた。

 少しは涼しい、と鈍く曇った頭で感じる。裸足に触れる石畳も昼の熱を失い心地よく、緩く裾をはためかせる風も暑気を和らげ幾分ましだった。


 ――――ずっとこのままだったら良いのに。


 そう思わない日は……夜はない。


 赤や橙や黄に輝ききらめく陽は強すぎた。眩しくて痛くて目を開けていられない。すべてを暴きすべてがさらけ出されて耐えられず、焦がされ溶かされてゆく。

 鮮烈に艶めく木々の緑、澄みきった泉の藍、遠く遠く国の外、霞む紫の霧。明るければ明るいほど、さまざまな色が、かたちが、音が、においが、洪水のように体へ流れ込んできて息が出来なくなる。

 光と影に明滅する自分の『外』はあまりにも暴力的で、少しでも気を抜けばすぐさまむしばまれて取り込まれそうだった。とはいえ、己は夜光虫でもなければ水底にまう魚でもない。光がなくては動けないのは確かだったが、かといって強すぎても生きられない。もしどちらかの世界を選べと言われたのなら迷いなく影と闇の暗黒を指差しただろう。

 この色の中でしか呼吸できない。この、すべてが同じ色の濃淡で統一された、月影の下の青く白い世界でしか。この時だけがおだやぎをくれる。何もかもを忘れて清々しく心を落ち着かせ、憂いをなだめてくれる。


 あろうことか、孤独をたのしむべきその庭でなにかが動いて思わず立ち竦んだ。


「……そこに……いるのは……誰」


 普段であれば問いかける声など出さなかったろう。ただ、風に運ばれてかぐわしい花の香りがして、わりといい匂いだと感じて浮き足立っていた矢先だったから、思わず口をついてしまったのだ。


「――申し訳ありません。殿下」


 いらえはすぐにあった。若々しい男の声に及び腰になる。

「こんな……夜に、なにを……」

 人を呼んだほうがいいのか。無意識に大褂うわぎを掻き合わせ、言葉は尻すぼみに霧散する。

 影は動かない。警戒しながらうかがえば、うずくまり額を地面に擦りつけて許しを請うていた。

「だ、れ……」

園丁にわしの、……見習いにございます」


 すべてが白く、毛先だけをゆるく括った髪も投げ出され土で汚れている。月光のせいでその色なのではない、とすぐに理解した。


 なぜこんな夜更けに、許可は、もしや盗みを働こうとしたのか。問いたださねば。それより人を呼ばなければ。顔を隠し離れなければ。次の所作を指示する命令が一度に脳内を駆け巡るものの干上がった喉からは一音も発せられず、ただ脂汗をかいたまま木のごとく突っ立っているしかなかった。


 そちらは微動だにせず再び言葉を発した。

「花がつぼみをつけ、ちょうど今晩咲きそうだと楽しみにしていたのですが、夕さりから雲が出ましたのでもしや雨が降って落ちてしまうのではと心配になり」

「花…………」

「どうかお許しください」

「…………い、い。ゆるす…………」

 唾を飲み込み、噛みそうになりつつ囁くと彼は腰を垂直に戻した。同じくらいの歳。まっすぐ見上げた双眸はこちらと視線がかち合い慌てて逸らされる。なぜか、ほんの少し名残惜しく思った。


 沈黙が降り、声をかけなければ相手はそれ以上話す気がないのだとようやく思い至った。

「…………な、なんの、花…………?」

 青年はほっとしたように顔を緩ませ上向く。

夜香樹やこうじゅでございます」

 また言を切った。一方的に話すのは不敬だとわきまえ、いちいちこちらの返しを待っている。だがそれは苦痛だ。

「…………続けて」

 ぽつりとそれだけ、やっとのことで言うと青年は立ち上がり頭上に手を差し伸べた。

「この樹の花は夜にしか咲かないのでございます。去年は咲きませんでした。けれど、」

 至極嬉しそうに笑った。

「今年は無事に」

 見上げたものを同じように観察し、地味な花だ、と思った。花なんて、夜の庭ではみな同じ色の光に照らされて同じように色を失った姿でしか目に映らない。まるで自分のようだ。目立たず主張せず、いてもいなくても誰も気にしないつまらない矮小な存在だ。

「たしかに小さく目立ちませんが代わりに素晴らしく良い香りを放ちます。この香りは花が咲いている合間だけ、夜にしか楽しめないものなのです」

「…………‼」

 言ったつもりはなかったのに。慌てて口を押さえると青年はくすりと笑う。はさみを差し入れ、花房がすずなりに吹き咲いた一枝をるとゆっくりと近づいてきた。

 危険はないと分かっている。分かっているのに怯えて後退あとじさろうとする臆病な己が恨めしい。

 彼はひざまずき枝を差し出した。

「月が沈むまで、殿下に安らぎを与えてくれます。どうぞ」

 ためらい、ためらい、おずおずとおぼつかない指先で受け取る。彼は優しげに目を細め、それから再び拝礼し、甘い香りをまといつかせながらゆっくりと園林のなかに去っていった。





 あの夜を忘れたことは一度としてない。

 忘れられるわけがない。

 もしあの晩外に出なければ。

 声をかけなければ。

 花を受け取らなければ。

 彼とは一生言葉を交わさないまま、自己憐憫に浸るまま短い生を使い潰して終わっただろう。そのほうが幸せだったのかもしれない。しかし彼と出逢わなかった己など考えてももはや詮ないことだ。


 夜香樹はたったひと夏、あの年の夜にだけ咲いて、それから枯れた。

 月が昇ってからも世話する物好きな園丁など彼だけだったから、居なくなった今それは必然の死だった。花は彼で、彼はそれそのものだった。



 ――――そうして、わたしもまた。



 花と、――彼と同じ道に早く至りたいと望んでいる。

 それなのに体は意思に反しまっとうに機能しようとする。眠ったまま終わりを迎えることを願えども勝手に覚醒し、咀嚼するのも億劫なのに腹は飢餓を訴える。

 もう疲れた、と呟く。


 あれほど忘れがたいことはそれまでも今までもなかったというのに、肝心なことで、決して絶対にならないことだったのに、孤独な夜を慰めてくれたあの花の芳香は記憶から消え去ってしまった。

 時経つうち、彼の面影さえもにじんで曖昧になっている。ただあの稀有な輝きの優しい眼差しだけがいつも胸の内にある。

 この思い出をいだき何も無い虚空に羽ばたいてゆけたなら。そう思わない時はない。


 しかし本当は分かっているのだ。自分には、このつまらない世界にたったひとつの心残り、未練があることを。

 だからいまだに蠟燭ろうそくの火を消せないでいる。万一の希望を夢見て焦がれている。それがひとりでに叶わないものかと、傷つかず苦しまず成就しないものかと手をこまねいている。


 嬾婦ものぐさだ、と自嘲した。唯一の願いさえも己でなんとかしようという気さえ起こせない脆弱で鈍愚どんぐな女だ。ただただ夜の闇に閉じ籠もる呆れた人間。


 諦めるのは簡単だ。怒ったり逆らったりうらやましがったり、粘り強く必死に求めて欲するなべての意思を表すのは非常に疲れる。すべてがなるようになるまま、流れに身を委ねるのが最も安楽な方法だ。

 それなのに、たったひとつだけは割り切れない。諦められないくせに何も出来ず、今この時まで、惨めで無益な生をむさぼっている。


 このまま何も変わらないのなら息づく必要などあるだろうか。

 わたしはもう何も要らない。もう何も愛さない。


 だから。

 ああ、誰か。誰でもいい。



 わたしを殺して。




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