封筒と赤い文字の話 後編
泊まる理由もなくなり、妙な居心地の悪さを感じてしまった僕は、十一時頃に井口の家を
「また飯でも食おうぜ」
僕を見送る際、彼はそう告げた。
だが、その二週間後、届いたのは夕食の誘いなどではなかった。
――ちがった
たった四文字。僕は何が違ったのかを聞くために返信をしたのだが、そのメッセージに既読マークが付くことはなかった。
しばらくしてからの休日、僕は井口の家に直接
チャイムを鳴らす。だが、一向に開く様子はない。
アポイントメントを取っていないから不在ということも十分考えられるが、妙な居心地の悪さを覚える。
そして、
きぃ、ぎぃ……。
ぎぃ、きぃ……。
あの音が聞こえるような。
まだだしてくれていないようだ。
「何か用ですか?」
声のする方を向くと、年配の男性が立っていた。
「あ、いや……ここに住んでいる人の友達みたいなものでして……」
「ああ、そうですか」
「失礼ですが、あなたは?」
「私はここの大家をしています」そう名乗った男性は申し訳なさそうに続けた。「実はここに住んでいた井口さん――でしたか? 少し前に
「え!」僕は
「ええ。正確には今月末までは契約は続いているのですが、もうここに来ることはないし、残っている家具もすべて処分して欲しいと言われてしまって」
いったいどういうことなんだ?
理解がひとつも追い付いていない僕に、男性はさらに、
「それに妙なことを言われましてね」
「……妙なこと?」
「ポストを処分して欲しい、と」
「…………」
「処分も何も、もともとうちに取り付けられているものなんですけどね。しかも、ドアごとなんておかしなことを言ってくる」
男性は困った様子で口にし、鍵を取り出した。
「ちょうどいい。一緒に中を見てもらえませんか? ご友人なら、捨ててはいけないものも少しは判るでしょう」
それはちょっと変な理屈だが、せっかくの機会を無駄にするわけにはいかなかった。中を確認して、だしてあげなければならない。
部屋の中はあの日のままであった。恐ろしいほど何も変わりはしない。まるで井口だけがいなくなってしまったかのように。
「うーん……全部処分すると言われてもなあ……」
男性は溜め息を吐き、部屋を
僕は
ぎぃ、きぃ、ぎぃ……。
きぃ、きぃ、ぎぃ……。
留め金を外して、ボックスを開く。井口が去った後に入れられたであろう手紙には、何かを悟ったのだろうか、なりふり構わず、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、だ、し、て、
こ、こ、か、ら、……
と、赤い血で。
書くものも持っていないそれは自分の血をインクにしたのである。出して欲しいことを伝えるために、封筒の何も書かれていない面を使って書いていたのだ。かわいそうに、だから、ここからだしてあげなければならない。
場所は、そうだ。まだ見ていないところがあった。覆いのように取り付けられた上半分、それはこの中に隠れていたのだ。
僕は
「どうかしましたか?」
「え?」
はっとして後ろを振り返る。
「そのポストがどうかしたんですか?」
「いえ……」
いったい僕は何をしていたのだろうか。そんなところに何かがいるわけない。あははと
「ぼ、僕は帰りますね。それじゃあ……」
家から出た僕の耳に、またあの音が聞こえてきたような気がした。
ひときわ大きく。
きぃ、ぎぃ……。
きぃぃぃ……。
●
さて、あやふやな記憶を参照して小説に仕立て上げたから、かなり嘘くさい表現をしてしまったかもしれない。だが、あの時の僕は確かに何かに呼ばれているような気持ちだったのだ。
あれから不意に音が聞こえるとか、自分の家のポスト――マンションに住んでいるため、ドアポストではないのだが――を開く時にぞわっと背筋に冷たいものが走るとか、そんなことは一切なく、それこそあやふやになってしまうほど過去の出来事に押し込まれてしまった。
では何故、平和な日常――いや、新型コロナウィルスが広まる非日常に戻ったはずの僕が約三年半振りにこのことを思い出してしまったのか。
それは、井口が亡くなったという
その情報によると、井口はアパートを退居して実家に帰っていたというのだ。仕事も急に辞め、外に顔を見せなくなってしまったらしい。だが、ある朝、窓から脱走するかの如く姿を消した井口は、夜に公園で首を
地面には、ごめんなさい――と書かれていた。赤い字で。
井口の指は
もしそれに呼ばれたままにあそこを見ていたら、大家さんが止めてくれなかったら、僕はいったいどうなっていたのだろうか。
想像もしたくない。
――終――
封筒と赤い文字の話 汐二 @so_around
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