僕は、穂真里ちゃんのような、人並みの人間になりたかった、と改めて振り返った。



 今から一年前。音大に通いながら本屋のバイトを始めたのは、社会に馴染めない僕が行きついた自分なりの訓練を行う手段であった。

 そこで、客としてやってきた穂真里ちゃんと話が合い、彼女の誕生日が近いことを知った三月の上旬、カフェに誘った。

 僕が、普通の人間になりたかったからである。時間を取って、彼女から学ぼうとしたのだ。


 カフェは、落ち着いた空間に包まれている。彼女が行きたかったカフェらしい。駅から少し歩いた場所に建てられていた。

 彼女は、テーブルの上に置かれた誕生日プレートとホットショコラを交互に見ては、幸せそうに口角を上げていた。

「幸せそうに笑うね」

 僕も嬉しくなって目を細める。口角を少し上げてみると、彼女は目を見開き、何度も頷いた。

「幸せなので」

 彼女は素直な目をしてクスッと笑う。楽しそうに誕生日の話をしてくれた後、このカフェの特徴を話してくれた。

「このカフェ、店長が音大出身の人らしくて、定期的に音楽関係のイベントを開催しているそうですよ」

 僕は、相槌を打ってみた。彼女は微笑して、別の話題を僕に伝えてきた。

「私、一人でピアノ調律してみたんです。祖母の家にあるグランドピアノを、です。これでもリペア科の専門学生なので」

「うん」

 僕が、相槌を繰り返しているのをチラリと見る。彼女は小さく笑っていた。

「良かったら、ピアノ弾いてみませんか?」

 カフェで別れるつもりが、彼女の調律したグランドピアノがあるという、祖父母の家にお邪魔することになった。

「あ、急がなくていいですか? プレート、味わいながら食べたいので」

「うん、ゆっくり食べて」

 誕生日プレートを味わいながら食べる彼女を見ながら、温かいホットココアを飲む。この空間が心地よく、思わずそっと笑みが溢れた。



 それから、カフェを出て、電車を使って二駅乗り継いだ。

 改札を出て、駅前の大通りを数分歩き、住宅街を抜け、少し丘になっている方の小道を歩いた先に、彼女の祖父母宅があった。

 洋装の造り、そして、大きい庭がある二階建ての家。

 庭には色々な種類の花や植木が植えられていて、色鮮やかである。

 穂真里ちゃんの後に続いて、僕は家に中に入った。

「二人には伝えたんですけど、お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、今の時間は趣味の時間みたいだから、いないっぽいですね」

「連絡、入れたんだよね?」

 僕が怪しい奴だと訴えられたら、訓練をするのが怖くなる。そのため、心配して聞いた。

「はい! 好きにくつろいでいってね、って言ってました」

 僕は安堵し、両手をズボンのポケットに潜り込ませて、部屋に上がった。

「グランドピアノは、一番広い部屋に置いてるんです。祖母が、ピアノの先生をしていたんですよ。祖母も、創史さんと一緒で、音大通ってました」

 春の鳥が小さく鳴いているのが聞こえる。

「素敵、だ」

「はい」

 僕は、春鳥のことで独り言を呟いてしまったが、彼女は祖母を自慢しているようににっこりと笑っていた。

「何か、弾いてもらえませんか?」

 彼女は、待ち望んでいたかのような表情で僕を見てきた。

 その表情に折れ、僕は鍵盤に触れる。

「立ったまま、演奏するんですか?」

 僕は、彼女の質問には答えず、ショパンのスケルツォ第一番を弾いた。

 極めて重く深刻な情緒を内包している音色を奏でる。スケルツォをセレクトして弾いたのには、頭にパッと浮かんだためである。他になんの理由もない。


 いつの間にか第二番も囁くように弾いていた、つもりだった。

「創史さん!」

 名前を呼ばれ、鍵盤から手を下ろす。僕は、彼女と目を合わせて軽く笑う。彼女は、僕の顔を見つめるなり、なぜか顔を逸らしてしまった。

「なんで、泣いてるんですか?」

「え?」

 少しの沈黙が長く感じた。

 僕は今の自分の状況に理解ができず、頭の中の思考が渦のように回っている。

 僕が、何も答えないことを悟ったのか、彼女が心配した口調で、ゆっくり話し始めた。

「スケルツォ第二番まで弾いて、次に弾くのは第三番だと思うんですけど、軽快っていうよりは、重い弾き方をしていらっしゃったので」

 自分の目頭に、指先で触れると、確かに自分は泣いていた。

「でも、情熱的な演奏だったと思います」

 彼女は笑った。その笑みは、どこか悲しそうでもあったが、僕は彼女のことをよく知らないためか、深く追求することができなかった。

「ごめん、ずっと立たせたまま聴かせちゃって」

「いえ、私が頼んだので」

 彼女は自嘲気味に笑う。

「昔、父親だったか、母親だったか……どちらかが弾いていたのを覚えていたらしい。僕は、ピアノは向いてないな。汲み取れる弾き方ができていないし、それに――」

 すると、僕が言いかけた言葉がピアノの音で消されていく。彼女は子犬のワルツのAパートをさらりと弾いていた。

 余韻が残った部屋に彼女の声が響く。

「感じる思いは人それぞれですから。楽しく弾くことを意識した方が、ピアノが喜ぶと思います」

 真の通った声だった。説教臭く聞こえるような台詞も、彼女がいうと嫌な心地はしない。

「ありがとう」

 彼女は、僕の顔を見、満足したように微笑していた。

「僕、そろそろ帰るね」

 玄関まで歩き、靴を履いて、靴紐を結い直す。

 彼女は、祖父母に挨拶をしてから家に帰ると言って、駅までの道を教えてくれた。




 あれから、暴行罪の件もあり、彼女とは疎遠になっていた。

 今、穂真里ちゃんはどこで何をしているのだろうか。僕は、ネットの掲示板を漁ったり、彼女の祖父母に話を聞こうと思い、彼女の居場所を突き止めようとした。

 しかし、彼女の祖父母が住んでいた家を訪ねると、幼稚園児くらいの子どもを育てている夫婦がいるだけであった。

 手がかりはなく、消息も掴めない。

 彼女の連絡先で、謝罪をして、話すきっかけを作ればいい。

 けれど、その一歩すら踏み出せない自分にむしゃくしゃした。

 


 僕の部屋は、足の踏み場はなくなっていた。 


 もう数日は同じ服を着ている。


 彼女と距離が離れ、喪失感と、悲しみが徐々に胸を締め付けていた。


 作曲で、僕は僕のために生きる人生を送るはずが、彼女のために曲を書きたいと、思い始めるようになっていた。


「僕には、その資格はない」


 彼女は、愛させるべき人だ。多少の恨まれや嫉妬が彼女に対して向けられようが、守ってくれる。

 僕よりも素敵な人がいるに違いない。

 僕は、できないことをできないままにした手本にならない大人である。 

 僕に一番見合っていない、チャレンジャーいう言葉が彼女には見合っている。

 初めて彼女に話しかれられた時も、自分から僕に様々なことを聞いていた。

 知りたいと思ったことは、深く追求し、挑戦して次こそはと、自分を奮い立たせている。

 僕はというと、全てを塞ぎ込んだ結果、踏み出す勇気が欠如してしまった。

 


 警察の世話になることもなくなったというのに、数ヶ月を自分の部屋で過ごしている。次第には、食べることもやめた。

 ただ、乱雑に写譜した用紙が床に散らかっている。

 その上に倒れ、涙をひたすら流した。


 一番のヒーローになりたかった人の英雄になれず、僕はただ、ただバトルに負けたような気持ちになる。

 いや、そもそも何にも、誰にも挑んですらいないことに落涙する。

 

 段々と、冬場だからなのか、体が冷たく震えてくる感覚がし始めた。

 反省を示す方法がわからないわけではない。

 だが、きっと彼女は、僕にガッカリしてしまっている。それを思うと、僕は鉛筆を持つことも、鍵盤に触れることすらできないのだ。

 ただ流れる涙は、自分で止める気力をとっくに失くしていた。

「創史さん」

 どこからか声が聞こえる。もちろん幻聴だとわかっている。

「創史さん!」

 僕は、彼女の声だと思い、顔を上げた。そこには、穂真里ちゃんが僕の右頬を叩きながら、激しく泣いていた。

 僕は、お風呂にもトイレにも行けず、排泄物はそのままにしていたため、臭いがする。

「なんで、こんなになるまで……」

 彼女は、僕の体を抱きしめるようにし、泣きじゃくっていた。

「創史さん! なんで、私に何も相談してくれなかったんですか!」

 僕は、彼女の手を振りほどき、彼女から距離を置こうとした。

「私、謝ってほしかったわけじゃない! 私が言えたことじゃないかもしれないけど、でも! もう距離を置かないで……。独りは嫌でしょ?」

 彼女は、再び僕に近づき抱きしめてくる。僕は抵抗したが、力では敵わず、そのまま彼女に抱きしめられる。

 僕は体の力が抜け、意識を失った。



 再び目を覚ました時には、清潔な服に取り替えられ、病室のベッドの上にいた。

「栄養失調で、体も痩せ細っていたので、点滴打ってもらったんです。あ、三日ぐらい眠りこけてたんですよ? 大丈夫ですか?」

 彼女は、僕に微笑みかけた。

 僕は、彼女の顔を見た瞬間に涙が溢れてくる。

 彼女の前では、不思議と素直になれたのだ。

「穂真里ちゃん……」

「はい」

「ずっと側にいてくれるの?」

 彼女は、嬉しそうに返事をし、少し間が空いた後、優しく笑った。

「はい」

 彼女の笑顔は、どこか悲しさと嬉しさが入り混じっていた。

「また今度、スケルツォ、弾いてください。私、創史さんと初めてデートしたカフェに新しく置かれたグランドピアノ、調律したんです」

 僕は、彼女の手に触れた。柔らかく、温かい彼女の手には、未だかつてないような温かさが感じられた。

「ありがとう」

 彼女は、大きく頷いた。

「今度は、四番まで。ちゃんと最後まで弾いてほしいです」

「うん、弾く。曲も、一番に君のもとへ届くのを書く」

 僕は、彼女の温かい手をずっと握り続けた。

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本心にスケルツォ 千桐加蓮 @karan21040829

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