本心にスケルツォ

千桐加蓮

 彼女との関係を言葉で表現しようとする時、息が少しずつ詰まっていく。

 少なくとも、僕の一方的な想いが募っていくだけで、僕と彼女は恋人同士ではない。親友というほど、親しげな会話をすることもない。

 僕が音楽を作る過程と作業を見たい彼女と、誰かの手料理が食べたくなった僕。

 二人の利害が一致したことがきっかけで、僕が住んでいる小さな一軒家に彼女がやってくるようになった。


 だが、彼女が僕の家に来てやっている理由として上位に挙げられるのは、掃除。それから、僕が餓死しないようにご飯を用意していることが多い。

 彼女と無言で数時間を過ごしていても、苦ではない。

 けれども、僕の方から会話のきっかけを作り、親しく接した方がいいのかもしれない。そう思っていても、中々勇気は出せない。


創史そうしさんの方が、私の何億倍と作曲の才能がありますので。側にいれて嬉しいです」


 彼女は僕の部屋を掃除していた。

 僕を褒めている。


 彼女、というのは、一つ年下の専門学校に通い、リペア科に所属している女性である。名を水作穂真里みずさくほまりちゃんといった。

 名前を教えてくれた時、稲穂がたくさん実る国、日本への恩恵が込められているような名前だなと、心底しみじみとしていた。関わりを持つ中で、彼女へのイメージが崩れることは今でもない。


 穂真里ちゃんそのものを観察してみても、日本の別名・瑞穂国を表すようである。特に落ち着きがあり、謙虚な部分を挙げたい。

 彼女は、ピアノの先生をしていた祖母や、ヨーロッパで活躍する叔母の旦那さんの影響で音楽の世界にのめり込んだ少女時代を送っていたらしい。


 音楽を愛する気持ちは、作曲活動をしている僕よりも粘り強く心にある、と感じている。

 

 穂真里ちゃんは、分厚い音楽史関係の本を棚にしまいながら、僕の顔を見て優しく笑った。控えめに笑う声もする。

「作曲したものを動画サイトに載せているだけだ。素晴らしいことは何もしてない。僕がやってること、自己満足に感じないか?」

 僕は意地っ張りな口調で話す。彼女は目を細めて答えた。

「それだけで、その曲が好きだって言ってくれる人から見つけてもらえるんですから。素敵ですよ」

 まるで、僕が憧れの対象そのものじゃないか。微笑してみる。

 けれど、彼女は僕が曲を作ること以外、何もできなことを知っているはずだ。

 ああ、と下唇を噛み、口の中で声出ないため息を吐いた。

 彼女は僕という一人の人間の一部分だけを褒めているのだと我に帰ったのだ。

 



 僕という人間は、コインランドリーの洗濯機は使えるが、家の洗濯機の使い方はわからない。それに、洗濯の干しも上手くできない。母親に教えてもらって、一緒にお手伝いをしている子どもの方が上手いと思っている。料理も壊滅的なものしか作れない。

 つまり、僕は生活を営みに必要な家事などが、普通の人よりも上手にできていないのだ。

 今時の旦那さんは、家事育児をしながら仕事もするという話を聞いた。

 その瞬間、苦笑した。自分はすぐさま相手から別れを告げられそうだ、と。


 それに、僕はできることと、できないことの差が激しい。

 例えを挙げよう。僕は、小学生、中学生、高校生での学校生活を通して、成績が悪かった。大の勉強嫌いだったのだ。

 勉強が嫌いだからやりたくないではなく、できないから嫌い、であった。

 特に嫌いだったのは数学である。

 決まった答えを長ったらしいら証明やら定理で表していくことは、僕には合わなかったらしい。間違った僕の回答を見ては、丸付けをした者が大きくバツをつけていく。

 なんだか、できることだけをやって生きている僕を否定された気分になり、定期テストや模試の結果が帰ってくる度に沸々と心の底で腹を立てていた。


 こんな解釈をされることが多々ある。

 音楽の授業は楽しかったのではないだろうか。

 いいえ、楽しいとは思っていなかった。

 とても気分が晴れない教科の一つに分類していたのである。

 作曲クリエイターの僕に取材に来て、勝手に解釈をされた際には適当に受け流す素振りを見せている。

 


 そういえば、イレギュラーなことが一度だけあった。

 ネットの記事にするインタビューを受けていた時のことである。

 女性のWebメディア記者に、本当のことを話すように言われのだ。

 衝撃を受け、全て話してしまいそうになった。

 その時は後々のことを考え、少し沈黙を置き、楽しくなかったことのみを記者に話した。

 僕は、簡単に人を信じたりしたくない。

 なぜなら、裏切りられた時の代償で突き刺さる絶望感に視界がぼやけていくのを、再び体験したくないからである。


 音楽の授業はまさしく、再び体験したくない経験の一つ。

 僕が受けていた音楽の授業は、独学で勉強したことを赤子扱いされているような教え方で勉強させられて、テストを行うというものである。

 中でも、紙に印刷されたテストを解くことがあまり好きになれなかった。

 音楽というのは、確かに知識を身につけなければ実践力も身に付けることは困難であると思う。

 けれど、僕の場合、小学生でやったことや自分で考察したこととは全く違った考えを学校で押し付けられ、それを踏まえて紙に考えを書いていくのだ。

 やっぱり、僕を否定されているようにしか思えない。

 当時、枯れた笑みを何度も溢し続けていた。



 高校は、作品を完成させるだけで、ある程度評定が取れると噂であった美術を選択した。

 両親にそのことを伝えることはなかった。

 両親は、僕が義務教育を終えてすぐ、日本を旅立っていたのだ。

 今も、僕を日本に置いて海外に出かけ、帰ってきていない。

 きっかけがないのか、向こうでの生活が日本よりも楽しいのか。

 おそらく両親は、僕を切り捨てていたのだろう。

 両親が僕のことをどう思っているのか。そんなことは、成長していく過程の途中で考えることをやめた。

 


 小学校に入学する前の僕は、父親も母親も怖い存在と思っていた。

 僕への愛情がうまく読み取れなかったからである。

 僕とコミュニケーションを取ろうと思っていなかったのか、家にいることは少なかった。


 小学生になってからも、同様に思っていた。

 親子参観などの学校行事に、両親が参加してもらった覚えがない。運動会で行われた親子競技は、担任の教師と参加した。

 周りの同級生が、親と楽しそうにゴールに向かって走って行く姿を見て、羨む気持ちもいつの間にかなくなっていった。それに、同級生も僕の両親が来ないことが当たり前のように思われるようになっていたのである。

 


 中学生になったあたりでは、両親が大御所のように見えた。両親は、オーケストラの業界では有名な人たちである。

 中学に入学して数ヶ月が経った雨の日、母親が僕にさらりと言った。

「創史、秀一郎しゅういちろうさんも私も、ヨーロッパでまた活動を始めようと思うの。今度は、教える側としてね」

 僕は、そのことに対して賛成することも応援することもなかった。

 冷たい風が少し空いた窓の隙間から入っていた。

「そう」

「だから――」

「――わかってるよ」

 僕はいい子ぶった気持ち悪い笑い方で母親を見ると、微笑み返された。

「世界で活躍する演奏者としての活動に、自分の子どもがいると都合が悪いんでしょ?」

「そういう言い方はしてないわ。けど――」

 母親の自分は悪くないと言っているような口調が、僕の耳には受け付けない。

「――好きにしてください。僕はひっそりと生きるので」

 僕の反抗期は、この一瞬で終わったと思う。

 父親も母親を、僕の存在をなかったことにすることを望んでいる。自分たちのちょっと踏み外した過ちで僕を宿してしまったのだ。どうやら僕は、二人の人生のレールにとって、障害物らしい。

 


 ローマ字つづりがわかるようになった十歳になる前の夏。一人でタイプが打てるようになった。

 その日は夏休みで、いつものように夏休みの大半を祖母の家で過ごしていた。

 祖母の家のインターネットを使い、両親の名前を検索してみた。

 両親について知りたいというよりは、怖い存在である両親の弱点を知りたかった、という興味本位からである。

 顔写真も名前も一致している人物がすぐにヒットした。二人とも輝かしい経歴を持っている。

 母親は、小学校に入学したころから、ヨーロッパを中心に金管楽器の奏者として活躍しつつ、日本の名門大学の管楽器専攻に入学した後、パリに留学した。

 父親も幼い頃から様々な楽器に触れ、本番の演奏を幼少の頃から嗜み、いつしかパリで活躍する指揮者への道を歩んでいた。

 だが、二人の入籍は明らかにされていない。

 当然、子どもの僕の存在も隠されている。

 どうやら母親が、僕の父親、秀一郎の子を産んだことは不祥事になりそうだ。

 両親の弱点、それは僕の存在であったということ。

 僕が二人の子どもであると世間に広めた場合、両親が今まで通りに活躍するのは少し難しくなっていくだろう。

 


 このことを知った夏の日、一日中扇風機の前で寝転がり、流れてくる涙を流しっぱなしにした。

 僕は、大事にして、スキャンダルにさせるつもりもない。

 復讐心などこれっぽっちもないのだと、自分に言い聞かせた。

 今までの両親の塩対応の理由が理解できそうな気がした。喪失感と悲しみが同時にやってきた。

 僕は肩の力が抜け、呆然と扇風機が回るのを眺め、今までの生活を振り返ってみる。

 


 幼い頃の記憶を辿っていくと、いつも両親の代わりを、祖母が勤めていた。

 祖母について、少し自分なりにカッコづけた例えをしてみる。

 僕の両親がヴァイオリン奏者で、僕が琵琶奏者であると仮定する。

 同じ音を奏でる道具でも、違った雰囲気や、ヒストリーを持っているため、その仲介者としての繋ぎ留めの役割が必要になる。

 繋ぎ留めの例は、楽器の歴史を伝える文書や通訳者でも構わないのだが、今回は楽譜としてみよう。

 二つの楽器が共演を果たす際、楽譜を見ない、もしくは、楽譜に沿った音階や強弱を無視する、何の曲、どんな曲風にするか等を共有しない、とする。

 どうなるだろうか。両者の楽器奏者がプロであっても、息ぴったりの演奏を完成させる点で考えてみると、難易度は高いだろう。

 あくまでも、僕が勝手に思っていることだが、繋ぎ留めは非常に重要な柱である。

 要するに、言いたいことというのは、両親との関わりが薄かった僕と両親との繋ぎ留めを受け持っていたのが、祖母であるということだ。

 

 とは言いつつも、両親の経歴を検索した夏の日から、祖母が僕と両親を上手いこと繋ぎ留められていたか、というのは深く考えないようにした。

 

 その後、祖母に両親の話を追求することはせず、たくさん甘やかしてもらった。祖母の愛情はたっぷり甘くて大好きだった。

 そのままでいい。それが一番良い選択だ。そう信じて日々を過ごすことを決めた。



 元々、幼少期から祖母の家で過ごすことが多かった。

 祖父は、僕が生まれて一年も経たずしてこの世から去った。

 戦後すぐに有名になった戯曲家でもあり、飲料メーカーの広報で地位のある人でもあった。晩年は戯曲を書くことに専念していたらしい。

 祖父の家は、世界的にも有名なゾーンに入ってくる大手飲料メーカー会社を立ち上げ、成功を収めていた。

 そのため、自分の娘である、僕の母親のやりたいことも好きに挑戦させ、金銭的な問題に直面することなかったのだろう。母親は自分が目指していた道に進み、注目を集める演奏者になった。


 祖母は、礼儀作法には厳しい女性であった。挨拶、話し方、態度。

 それらを素直に受け止め、実践した僕は、いい子だと褒められることが多かった。

 しかし、僕は一人で生活を成すために必要な知識は兼ね備える機会を逃してしまった。

 祖母のこだわりで、キッチンを触らせてくれなかったこともあり、料理の仕方もわからず、家事の手伝いも教えてもらえる機会を得ようとしなかった。

 当然のように、祖母が亡くなってから家事がてきない人になった。

 内気な性格は変わらず、そのまま大学生になった。

 そこそこ富豪層の家柄であるためだからか、お金だけが残っている。

 いや、違う。残ったものがお金だけというわけではない。昔から関心を持っているものが僕の中にあるじゃないか。

 一つは日曜日の午前に放送される戦隊ヒーロー番組。歴代のヒーローの名前やら、武器の能力まで全て熱く人に語ることができる自信がある。

 それから成長するにつれ、祖母が続けさせてくれた作曲にも非常に関心が高かった。


 作曲のためならなんでもすると、思うようになったのは高校生になったあたりから。

 ネットへの投稿を始めたのも高校生の時である。万が一のことがあっても、曲が僕が忘れないようにという理由からであった。僕はというと、脳裏にいつまでも何千曲と作っても流せるのだから、忘れないと自信を持って言える。

 僕は、人に認めてもらうために曲を提供する契約を国と結んだわけではないし、誰のマネジメントも受けていない。所帯も持たない。僕は、僕のために生きる。

 それだけの人生を送るはずだった。


 穂真里ちゃんと過ごした後、深夜に暴力事件を起こした。


 僕が、殴った。

 ひっそりと生きていく、はずだった。


 コンビニの前で、穂真里ちゃんへの毒を吐いていた数名の女をぶん殴ったのだ。恐らく、穂真里ちゃんへの嫉妬からきた軽蔑をしていたのだろう。殴る前の話を盗み聞きてしまったところ、穂真里ちゃんと同じ専門学校である同級生の子たちらしい。


 だが、僕はそれを見逃せる寛大な心を持ち合わせていなかった。


 せいぜいしたまま、女を嘲笑う。


 馬鹿にするな、ってね。




 すると、巡回をしていた警察官に見つかり、連行された。

「なんで、女性の胸ぐらを掴んで、殴ったんですか?」

 僕は、パトカーを運転している警察官を一瞥する。そして、質問に素直に答えた。

「憧れを悪く言う人に、我慢ができませんでした」

 少し間が空く。警察官は、なぜか驚いていた。

「何に、憧れたの?」

「水作穂真里ちゃんです。僕にはその人しかいません」


 朝のニュースから、暴行罪で人気作曲クリエイターの「仮面S」が逮捕されたことを報じられた。

 僕は、最後までハンドルネームのままだった。

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