ツギハギキャンバス

ツギハギキャンバス

作者 狂酔 文架

https://kakuyomu.jp/works/16818093082275333021


 自殺した主人公が白羽恭介という老人の幸せな記憶を通して、自身の人生の過ちや幸せの意味に気づき、やり直す機会を得て、新たな一歩を踏み出す話。


 現代ファンタジー。

 やり直しの話。

 これはかなりいい話。

 ただやり直すだけではなく、どうやり直すのか、考え方や意味を考え直させてくれている。


 主人公は自殺したあとの魂。一人称、僕で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。現在、過去、未来の順に書かれている。


 女性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 屋上から飛び降りるとき、震える脚がとどめている。少し強い風を押しのけて死んだ。

 主人公は自殺後、白羽恭介という老人の記憶を受け継ぎ、彼の人生を体験する。死期が迫る中、孫の顔を見たいといって娘を困らせたくないからと、奥さんには気持ちをいうなといっていたが、無事に生まれ、タブレット越しに孫の顔を見る。

 穏やかな微笑みを浮かべ、優しい目をしている奥さんに看取られ、死を受け入れた白羽恭介の幸せな記憶を通じて、沢山の死に際が、願いが叶う幸せ、好きなものに囲まれる幸せ、誰かの喜びを見る幸せ、無数の幸せたちに上書きされ、主人公は自分の人生の過ちや幸せの意味に気づく。

 主人公は自分の人生をやり直す機会を得て、友人の優しさに触れながら新たな一歩を踏み出す。


 四つの構造で書かれている。

 導入は主人公が自殺し、白羽恭介の記憶を受け継ぐ。

 展開は白羽恭介の人生を通じて、主人公が幸せの意味に気づく。

 クライマックスは主人公が自分の人生をやり直す決意をする。

 結末は友人の優しさに触れ、新たな一歩を踏み出す。


 自殺したあとの謎と、主人公に起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どのような結末に至るのか気になる。

 かなり衝撃的な書き出しだが、書き方がいい。

 遠景で、自殺後に、看取られている壮年の男が見えていると示し、近景では、白羽恭介という老人の記憶が流れ込むと説明し、心情で、誰かの記憶が押し寄せるとある。

 主人公は自殺したのだ。

 これだけで、可愛そうに思える。

 そもそも話が重すぎる。でも、重いからこそ、読点を四つもいれて、勢いがあって読みやすくしている。

 しかもカメラワークのイメージとしては、はるか高い頭上から一気にベッドの上で横になる壮年の男へ、一気にズームアップされていく感覚で書かれているところがいい。

 客観的状況から本編へと入っていく。


 長い文ではなく、数行で改行。句読点を用いて、一文も長くない。短文と長文を組み合わせ、テンポよく感情を揺さぶってくる。

 ところどころに口語的。内省的で感情豊かな文体。主人公の心の葛藤や成長が丁寧に描かれている。主人公に共感しやすく、成長がしっかりと描かれているところがいい。

 五感を使った描写が多く、読者に臨場感を与える。

 病室の白い天井、無機質な部屋、タブレットに映る赤ちゃんなど、視覚的な描写が豊富。

 聴覚は凍傷のような痛み、赤ちゃんの鳴き声、階段を駆け上がる音など、音の描写も効果的。針の刺さった腕の違和感、風の強さなど、触覚的な描写もある。

 嗅覚と味覚はない。物語の大半を死んでいる状態で、他人の記憶を見ているからであり、内省が多分に書かれているから。本作の場合は必要ないのではと考える。


 主人公の弱みは、他人を信用できないこと。自分の感情や思いを他人に伝えることができないこと。幸せを感じることができないこと。だから自殺したのだ。


 白羽恭介の記憶が流れ込んできて、彼として目覚める。

「時折胸を掠める凍傷のような痛み」「体は思うように動かない」病室のベッドで寝たきりで、ますます可愛そう。

 そんな中、幸せについて考える。人の笑顔のうらに見え隠れする闇。「もし僕も誰かを頼ってしまえば、僕もなにか変な事を言ってしまえば、彼らの裏で何を思われているか分からない」以来、「当たり障りない事を言って、話して、笑って、疲れてしまった」主人公。自分を見る視線と嘲笑に『なんで、生きているの?』ときかれているようで、耐えられなくなっていったとある。

 読者層である十代の若者は、共感する部分かもしれない。


 白羽恭介の記憶には、頼れる誰かがいる幸せがあった。

 彼には妻がいて毎日来てくれて、娘がいて、孫が生まれる。

「孫の顔が見たい白羽さんは、けれどもその思いをひた隠しにしているのだ。もし言ってしまえば、娘に気をつかわせるから。もし自分が孫を見る前に死ねば、優しい彼女はきっと、そのことを一生後悔してしまうから」

 実に人間味を感じ、共感を抱く。


「……大丈夫ですよ。言う必要もなくなりましたから」

 タブレットに映ったのは元気に泣く赤ちゃんを抱きかかえる白羽さんの娘、沙紀さんの姿だった。

「だから、お父さん。もう大丈夫ですよ」


 タブレットを使うのが現代的でいい。

 気を使わせなくて住んだことはもちろん、母と子ともに無事で生まれたこと、孫の顔が見れたこと。

 そこで書かれている目について。

「憐れんで、かわいそうなものを見ていた目は、いつしか優しさを孕んだ目に変わっていた。同じ目のはずなのに、奥さんの言葉が、あの目に違う意味があると思わせる。もし僕の幼馴染たちが浮かべていたあの目も、彼女と同じ、優しい目だとしたのなら」

 主人公にとっての小さな殻を破る瞬間が描かれている。

 そして、主人公がはじめに見た光景。

「ベットの上で奥さんに看取られ、ゆっくりと閉じる自らの目に抗 うことをせず、死を受け入れて眠りにつく白羽恭介という人間の、 幸せな最後の記憶だった」

 昨日死んだ老人の記憶を見ていたことに気付かされる。

「それだけではない。これでやっと死ぬのかと思った時には、再び、別の誰かの死に際に、その誰かとして立ち会う事となった。何度も、僕はたくさんの死に際を見せられた」と、他の人達の死に際の記憶を見ていくことになる。


 主人公が過去、どのような行動を取ったか、見せられた幸せの記憶や葛藤を描写されてきたことで、主人公が幸せについて考え直し、

「もし逃げなかったら、僕は幸せな人生だったのだろうかと。みんなと一緒に愚痴を吐いて、それなりに悩みを打ち明け合っていたら、僕は幸せを、彼らのように当たり前に、僕のキャンバスに描けていたのかもしれないと」思うことは想像できるし、うなずけることだろう。

 でも、主人公は死んだのだ。

「流れ込んでくる記憶はなくて、ただ朝の陽光に目覚めるみたいに、あたりまえに僕は目を開けた」とあるので、自分の記憶ではなく、実体験として現れる展開は予想外で、驚きを隠せなかっただろう。

 このとき、屋上に「勢いよく扉を開けて顔を出したのは、一人のクラスメイトだった。瞼に涙を浮かべて、心配そうな顔で僕を見つめる彼の姿が、僕の目に映った」とあるのだけれども、彼女の間違いかもしれない。そのあとで、「限界を迎え、生き急ぐ僕の思いに、彼女は気が付いてくれた」とでてくるので。

 おそらく幼馴染なのだろうけれども、今ひとつわかりにくい。

「彼女はずっと、僕の友達だった。僕がみんなを遠ざけていた。だから思う。僕だけじゃない。僕がこれから頼る人。僕をこれから頼る人。その全員の手で、僕というキャンバスにたくさんの色が乗るのだと。生き果てた皆の幸せが教えてくれた。そして今、彼女がそれを証明してくれたのだ」とあり、主人公が心を閉ざし、他人を信用してこなかったからこそ、見えていなかったものがあるのはわかるし、とってもいい話なのだけれども、登場人物の背景や関係性がもう少し詳しく描かれると物語に深みが増してくるのではと想像する。


 ラストの一文が、実に良かったとおもう。

「幸せとは、多くの人で紡ぎ合う、ツギハギであるということを」

 一人ではあじわうことができない、沢山の人との関わりがあってこそみえてくる。パッチワークみたいなものだと、主人公の気付きは読者の気づきにもなる。


 読後。ツギハギキャンパスというタイトルがいい。生きていると、いろいろな傷ができる。傷は戦った証。苦労であり喜びの証でもある。だから誇っていい。

 自分だけのキャンパスに、誰も描けないツギハギを描いてくことが生きることであり、その絵が幸せになることを教えてくれる。そんな作品だ。だから、簡単に手放してはいけない。物語と違って、人生はやり直すことはできないのだから。

 

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