【完結】呉越同舟(作品240218)

菊池昭仁

呉越同舟

第1話

 10月も終わりに近づいた日曜日の午後、1LDKの賃貸マンションの5階から見下ろすサンデーパークには、小さな子供を連れた、数組の若夫婦が楽しそうに戯れていた。

 

 サッカーボールを蹴り合う夫と子供の姿を目を細め、うれしそうにスマホに収めている若い母親。

 30年前、私たち夫婦も、こんな晴れやかな表情をしていた。


 私と妻の弥生は8年前に離婚し、弥生は子供たちと東京で暮らしていた。

 そして私はこの地方都市で独り暮らしをしていた。


 缶ビールを片手にベランダに出て、私はタバコを吸っていた。

 穏やかで何もない、いつもの休日だった。



 私たち夫婦が別れた理由は私の浮気が原因だった。

 だが浮気が発覚しなかったとしても、私たちの離婚は時間の問題だった。

 私たちはお互いを「パパ」「お母さん」と呼び、名前で呼び合うことはなくなっていたからだ。

 夫婦とは、お互いを名前で呼ばなくなった時点で恋愛関係は消失する。


 25才で結婚し、私が30歳の時、長男の雅彦が生まれた。

 私は雅彦に一刻も早く会いたいと、どこへも寄らずに毎日家に直帰した。

 それから4年後、娘の雅子も生まれた。

 しあわせだった。離婚など考えた事もなかった。

 自分たち夫婦に、離婚は無縁のものだと思っていた。


 だが、それは呆気なく現実のものとなってしまった。

 子供たちが就職して、私たちは熟年離婚をした。


 離婚届を市役所に取りに行った時のことは今でも鮮明に覚えている。

 テレビドラマでしか見た事がなかったグリーンの離婚届の用紙、それは軽い一枚の紙切れでしかなかったが、とてもずっしりと重い紙に感じた。


 緑色とはよく考えたもので、悲惨な最後の別れを多少は和らげてくれる物なのかもしれない。

 もしそれが、死亡届のような黒色だったとしたら、悲しみはより現実味を帯び、増長されることだろう。

 私はそれを喫茶店で、ブレンドコーヒーを飲みながら記入した。



 「一体いつになったら私の苗字を変えてくれるの!」


 いつものように、不倫相手の聡子は私をなじった。



 子供たちが仕事に出掛けた日中、私は妻の弥生に離婚届を差し出した。


 「俺と、離婚して欲しい・・・」


 私は絞り出すように言った。

 女房の弥生は何も言わず、それを仕舞った。


 すると弥生は床にアルバムを広げると、一枚一枚、無表情で私の写り込んだ写真を破り始めた。

 弥生はその浮気相手の女の名前を、呪いを込めるかのように呟きながら、その作業を続けた。


 「さとこ さとこ さとこ・・・」


 私は気がふれたような弥生の表情を、今も忘れることが出来ない。



 それを内縁関係にあった聡子に話すと、


 「それだけ奥さんはあなたのことを愛していたのね?」


 そう言った切り、聡子は私から離れていった。

 今では聡子がどんな声で話し、どんな顔をしていたのかさえ思い出すことは出来ない。




 半年が過ぎた頃、私は女房の弥生に尋ねた。


 「離婚届、どうした?」


 すると弥生はまるで他人事のように言った。


 「もうとっくに出したわよ」

 「ひとりでか?」

 「そうよ」

 「本当にか?」

 「ヘンな人ね? あなたが言ったのよ、別れてくれって」



 私は離婚届は弥生と一緒に提出するつもりでいた。

 なぜならそれは、弥生ひとりにその行為をさせるには、あまりにも残酷だと思っていたからだ。


 私たちは一緒に暮らしながら、既に「夫婦」ではなくなっていたのだった。


 


第2話

 今、私たちはこうして何も変わることなく生活をしている。

 たとえ戸籍上は他人同士でも、夫婦であった頃と、さほど変わりはなかった。


 休日には一緒にスーパーに出掛け、料理を作り、一緒にメシを食べた。


 弥生はいつものように私の靴を磨き、洗濯もしてくれて、シャツにアイロンもかけてくれた。

 もちろん寝室は別々にはなったが、夫婦の性交渉など、子供が出来てからは殆ど無くなっていた。

 

 私は性欲を持て余し、女を口説き、また口説かれた。

 それはまるでゲームのようなものだった。疑似恋愛ゲーム。

 女房だった弥生に対して罪悪感は無かった。

 なぜならそれは本気の恋愛ではなく、あくまで心のない体だけの関係だったからだ。

 相手の女もそう割り切っていた。

 互いの寂しさをカラダで埋めていたのだ。

 そしてセックスの後、虚しさに襲われた。その連続だった。



 「ねえ、島津部長。

 私以外の女と、何人とお付き合いをしているの?」


 ベッドの中で、会社の販売管理課の佳子が私に訊ねた。

 面倒な女だと思った。

 私はその具体的な人数に言及するのを避け、たとえ話を始めた。


 「人を一人殺せばそれは殺人罪として断罪される。

 だが、戦争で100人、1,000人、1万人と殺せば英雄だ」

 「じゃあ部長は1万人の女とヤッたんだ。

 夜の帝王だもんね? 島津部長は」


 佳子はそう言って笑うと、さっきの続きを私にせがんだ。


 「ねえ? さっきみたいにして」


 再び行為を再開した。

 私は女と恋をする気持ちはすでに失せていた。

 失せていたというよりも、避けていたというべきなのかもしれない。

 私の下で眉間を顰めて喘ぐ佳子を見ながら、私は律動を続けた。

 それはまるで、犯人を知りながら読み進める、陳腐な推理小説のように退屈な行為だった。


 恋の始まりはドキドキもするし、緊張感もあり、刺激的だ。

 だがそれが過ぎて安定飛行になってくると、お互いに考え方の相違や、趣味嗜好が分かってくるようになる。

 結婚を前提として付き合うようになればなおさらのことだ。

 嫌な部分は無意識のうちに認識していくがそれには触れず、良い部分だけが増長されていく。

 そして「マリッジ・ブルー」が訪れ、自分の潜在意識の沼に疑念の石が落ちて波紋が広がる。



    「本当にこの人と結婚しても大丈夫なのかしら?」



 女は迷う。そして男も。

 そこで思い停まることが出来れば、「被害」は少なくて済むかもしれない。

 だがそこで自分の周囲のことを考え、妥協してしまうことになる。



    「一緒に暮らしてみれば、何とかなるはず」



 友だちの結婚、出産適齢期、親兄妹や親戚のことを考えてしまう自分がいる。

 寿退社を公言してしまい、もう後には引けない。


 確かに結婚はしたい、したいが「この人で本当にいいのだろうか?」という疑問を持ったまま結婚してしまうのだ。


 そして残酷なようだが結婚した途端、相手の嫌な部分が鮮明に露呈する。

 迷いが改善されることはない。


 あんなにやさしかった夫は暴君ネロのように振る舞い、いつも綺麗に着飾っていた女はジーンズにトレーナーというスタイルになる。

 釣った魚に緊張感がなくなるからだ。



      コイツは俺の女

      この人は私の物



 「最近、スカートを履かなくなったね?」

 「だってこの方がラクなんだもん」


 人間の魅了とはなんであろうか?

 それは「恥じらい」であると私は思う。

 たとえばレジのパートを相手に些細なことで怒鳴り散らす老人、それは人間として「恥ずべき行為」だ。

 尊敬に値しない。

 老醜を晒すとはそういうことだ。

 自分の正当性だけを主張し、周りを顧みない。

 服装にしてもそうではないだろうか? 

 女性がいつも裸で歩いていたら、男は欲情することはないだろう。

 見えそうで見えないスカートの奥に男は興奮を覚えるからだ。



 ある時弥生が言った。


 「テレビで言っていたんだけどね? 結婚式で泣くような男とは結婚しない方がいいんだって」

 「どうしてだ?」


 私は弥生との結婚式では終始、泣きとおしていた。


 「やさしすぎるからなんですって。

 あなた、どんな女にもやさしいもんね? 私以外の女には」


 どうやら彼女の怒りに、再びスイッチが入ったようだった。

 私はそれを避けるために書斎に籠り、レコードをかけた。


 ベルリオーズ、『幻想交響曲』


 私はキャビネットからオールド・パーを取出し、グラスに注いだ。

 私たち夫婦の関係は、いつから『幻想交響曲』になってしまったのだろう?


 ストレートウイスキーが喉を焼き、鼻からウイスキーの香りが抜けて行った。


 レコードジャケットの指揮棒を持つカラヤンの厳格で知性に満ちた横顔。

 今の私は段ボールに捨てられた、惨めな子犬のようだった。


 


第3話

 弥生と私が正反対の性格と好みであることを知ったのは、結婚してからだった。

 弥生は私に合わせてくれていたのである。私はそれに気付かなかった。


 私は部屋に物を置くのが好きではないが、弥生は物が捨てられない女だった。

 それはだらしがないのではなく、整理整頓、清潔、掃除はきちんとしている。

 ただ思い出を大切にする女だったのである。


 私がプレゼントした包装紙やリボンまで捨てることが出来ない女だった。


 私は冷蔵庫にメモを貼るのがイヤだった。

 だが弥生は効率よく作業をするために、それを止めようとはしなかった。


 私は熱い風呂が好きだが、弥生は温い風呂でないと入れないという。


 私は辛い物が好きだが弥生はダメ。


 私は洋菓子が好きだが、弥生は和菓子。


 私はインドア派で弥生はアウトドアが好き。


 私は海が好きで、弥生は山がいいという。


 私は映画やドラマを観るが、弥生はあまり観ない。

 これが一番悲しかった。

 休日に弥生と映画を観るのが一番の楽しみだったからだ。

 弥生もそれを楽しんでくれていると、私は勝手に思い込んでいたのである。



 「ジャン・レノがゲーリー・オールドマンに手りゅう弾のピンを渡すシーン、アレは良かったなあ。

 『レオン』はゲーリーオールドマンの演技と、スティングの「shape of my heart」が最高に泣かせるよ」

 「良かったね? 楽しみにしていたもんね。『レオン』を観るの」

 「DVDが出たら買おうかなあ。

 酒を飲みながら一緒に観ようよ」

 「うん」


 弥生はそう言って、私に対して気遣っていてくれただけだった。



 弥生は酒が飲めなかった。

 私はそれが不満だったのではない、私は一人で飲む酒が寂しかったのだ。

 私は家で酒を飲むのを辞めた。 


 妻の弥生は私を愛していてくれたからこそ、私に自分を合わせてくれていた。

 無理をしていたのだ。



 一緒に暮らし始めることで、色んなことが見えてくる。

 24時間一緒にいれば、素の自分を晒すことになるし、女は結婚することで安心するのも否めない。

 つまり婚姻届を提出し、社会的にそれが認知されると「自分の物」としての所有欲が満たされ、女は気を抜き始める。意識的に、あるいは無意識にだ。

 それは徒競走を一着でゴールした解放感にも似ている。


 「これから私たちは家族として、人生を共に仲良くしあわせに生きていくの」


 するとお互いに「釣った魚に餌を与えない」ということを無意識のうちにしてしまう。

 ふたりともそれに気付かなくなって行く。 


 やがて子供が生まれ、その傾向はさらに強くなる。

 女性は気付かないことが多いが、妻から母になると女はより強くなる。


 「そんなの当然でしょう? 子供を育てていかなくちゃいけないんだから」


 と、女性は反論する。言葉で表現するのは難しいが、男性が思う強さとはそれとは異なるものなのだ。

 簡単に言えば「恥じらい」がなくなるということだ。


 母親になった妻は思う。


 「私がこんなに子育てをがんばっているのに、あの人は全然わかってくれない」


 一方、夫の方からすれば、


 「アイツも子育てで大変だなあ。出来るだけ俺も協力しないとなあ」


 オムツを替えたり風呂に入れたり、だがそれはあまり印象には残らず、職場で飲み会があり、遅くなって午前様になったりすると、


 「今、何時だと思ってんの!」


 となってしまうこともある。

 お互いにボタンの掛け違いが日常的に起きるようになるのだ。

 そして女は覚醒していく。


 「どうしてこの人はこうなんだろう? 昔のようなやさしい夫に戻って欲しいのに」



 夫婦生活を長持ちさせるために大切なことがある。

 私は独りになってようやくそれに気付いた。

 それは、


 

         相手を変えようとしない




 相手を変えようとせず、自分が変わらなければならないということを知った。


 スマホをいじりながら食事をするのを止めさせる。

 タバコを止めさせる、ゲームをさせない、服を脱ぎ散らかすことを注意する。

 ビールは一日350mlを一本だけ。

 そうして自分の気に入らないことを相手に止めさせようとするのだ。


 家事を手伝わせる、好みの洋服を着せ、髪型も自分の好みにさせる。

 クルマもクーペからワンボックス・カーに替えさせる。

 収入を上げるために出世させようとする。

 休日は家族のために使うべきだと主張する。


 相手を自分の思うとおりにさせようとする。

 意図的に、あるいは無意識にだ。


 そしてそれが徒労に終わると、そのターゲットは子供に変わる。

 特に母親は息子に対して、自分の理想の男性に仕立て上げようとするものだ。

 その偏愛が息子をマザコンにしてしまう。

 パートナーに要求しても駄目だったことを、自分の子供で完成させようとするのだ。

 これしちゃダメ、あれしちゃダメと常に「ダメ出し」をする。

 子供にはあまり強要をしてはいけない。褒めてあげることだ。

 

 「よく出来たね? えらいえらい」と。


 「あなたはこうするべきなの、こうなることがあなたのためなの。

 ママはあなたのことを想って言っているのよ」


 それを悪いと言っているのではない。

 私は反省しているのだ。

 いつの間にか妻を、自分の家政婦に、そしてベビーシッターにしていたことを。

 私は忘れていたのだ。


 弥生のすべてを受け入れ、愛し、そして結婚したことを。

 

 


第4話

 「今夜は飲み会だから、食事はいらない」

 「そう」


 朝食に、夫婦の会話はなかった。

 朝の情報番組がそれを補ってくれていた。

 


 食事を終え、歯を磨いて玄関に行くと、いつも通りにピカピカに磨かれた革靴が、きちんと揃えて置いてあった。

 だが、私たち夫婦には生活に於ける最低限の会話しかなかった。


 離婚しても同じ屋根の下で暮らしているという矛盾。

 そんな奇妙な関係ではあるが、決してそれは苦痛ではなかった。

 私の毎日のルーティンに、妻の存在がなくなっただけのことだ。


 朝起きて、ジョギングをしてシャワーを浴びる。

 朝食を食べ、仕事へ出掛けてゆく毎日。

 夜はスポーツジムかゴルフ練習場、仕事仲間との飲食。

 そして愛人たちとの逢瀬。

 つまり、殆ど家に寝に帰るだけの生活に変わりは無かったのである。


 子供たちも成人した今、私たちは既に夫婦と呼べる関係ではなかったのだ。

 それは夫婦ではなく、「同居人」という関係性になっていた。

 弥生は家事をしてくれて私は彼女の生活を保証し、カネを渡した。家政婦のように。


 婚姻関係が必要なのは、弥生に対する老後の年金と、私の生命保険を受け取る権利があるということだけだった。

 その他の遺産相続については遺言状があればいいことであり、法定相続などによるものは不要だった。


 子供たちと弥生の関係は良好であり、仮に離婚したとしても私の死亡保険は子供たちが相続し、それを子供たちと分ければいいことだし、今の年金制度では、離婚したとしても手続きさえすれば年金受給も可能である。


 つまり、結婚していようが離婚しようが何も変わりはないということであり、夫婦である理由は既になかった。


 では婚姻関係に意味はあるのだろうか?

 私はあると思う。

 それは女性には理解出来ないかもしれないが男にはある。

 


       妻は愛人ではない



 身体の関係がなくなっても、男は妻を愛し続けるものだからだ。

 テレビドラマでは不倫している男は最低だと演じられ、罵られる。だが、決して妻に対して罪悪感がないわけではない。

 寧ろ、普通の男であれば「不倫しなければならない不安定な関係」を引き摺っている自責の念に、苛まれ続けていることが多い。


 男が不倫を隠蔽しようとするのは、妻や家族への配慮でもある。

 私は愛人たちとの行為に及ぶ時、いつも結婚指輪を外す。

 それは性行為に没頭するために、妻を一時的に忘れるためだった。

 身勝手な話ではあるが、私はどちらも失いたくはなかった。


 弥生は愛しているが、愛人たちとの疑似恋愛を辞めることは出来なかった。

 それはお互いの寂しさや不安、ストレスの解消としての「スポーツ」のようなものだったからである。

 そんな「恋愛ゲーム」だった。



 「そんなの男のエゴよ!」


 それを否定はしないし否定出来ることではない。

 その通りだからである。

 男はなぜ外に女を求めるのだろうか?


 それは女房が女を捨てたからだ。

 そして往々にして妻はそれに気付いてはいない。


 私と弥生は上の子供が産まれてからは寝室が別になっていた。

 新婚時代にはダブルベッドも購入せずに布団で寝ていたこともあり、それは自然の流れだった。

 女は男の生理を理解出来ない。

 男は自分が進化すればするほど、精神的にも肉体的にも女が欲しくなる。



           英雄色を好む



 それは自分のDNAを存続させたいという本能から来るものだ。

 より良いメスを求め、自分の遺伝子を残そうとするのである。

 もちろんそれは女性にもある筈だ。この世に男と女がいる以上は。

 人間は優秀な子孫を残し、進化するために、より美しいメスやイケメンのオスを求めて交尾をする。

 それが証拠に、最近の子供たちは顔立ちも整い、均整のとれた子供が多くなっているからだ。

 私が子供の頃のような、鼻垂れ小僧はあまり見かけることがなくなった。

 結果的に男が浮気をするのは、



     女房とのセックスに満足していない



 ことが原因なのだ。


 もちろん弥生がそうなってしまった責任は私にある。

 私に男としての魅力がなくなり、弥生も母となり、いつの間にか私自身が彼女にとって「抱かれたくない男」になっていたからである。

 そしていつの間にか「仕事」と「セックス」は家に持ち込まないようになっていた。


 事実上の「一夫多妻」の始まりだったのである。


 


第5話

 熟年離婚の場合、子供との関係がデリケートになる。

 特に私のように、離婚の原因が女性問題の場合は悲惨だ。

 今までは一目置かれていた父親としての自分が、単なる不潔なエロオヤジに転落するわけである。

 子供たちは私と目を合わせようともしなかった。


 成人した彼らは、浮気がどういうものなのかは十分に理解しているわけである。

 私を見る目も当然冷ややかなものになる。

 特に娘の雅子の私への評価は、もはやランク外だった。



 夕食を食べている時、私は言った。


 「今度の週末、みんなで焼肉でも食いにいかないか?」


 家族の誰からも返事はなかった。

 私はようやく、自分が弥生と離婚していることを自覚した。

 何も変わらないと思っていた生活も、子供たちから既に見限られていたことを私は忘れていたのである。


 私は結婚する前から「子供は作る気はない」と告げ、弥生もそれに同意し、私たちは結婚した。

 それは私が子供を嫌いだったのではなく、子供に苦労させるのが嫌だったからだ。

 自分の家が貧しく、大学進学を諦めた私にとって、それは自然な考えだった。

 私は弥生と一生を終えることが出来れば、それでいいと思っていたのである。

 だが弥生は、そんな私の考えに納得してはいなかった。

 彼女の言い分はこうだった。


 「やっぱり母親になりたい。産んでくれた親に孫を抱かせてあげたいという娘の気持ち、そして愛するあなたの子供を産みたいという想いはある」と告げられた。


 そして無事、長男が生まれた。

 私は早く子供に会いたいと、帰宅するのが待ち遠しかった。


 そして長男の雅彦が3才になった時、弥生が言った。


 「今度は女の子が欲しい」と。


 ようやく雅彦は大学までやれる目処がついた時、もう一人、今度は女の子が欲しいと言われ、私は戸惑った。


 私は「子供は母親の愛情で育てるもの」だという古い考えがあり、男はひたすら金を稼ぎ、家族を養うものだと思っていたので、生活は楽ではなかったが、弥生を働かせることはしなかった。

 彼女に子育てを楽しませてあげたいと思った。


 都内とは違い、地方都市で二人分を稼ぐのは容易なことではない。

 私はより懸命に働いた。



 その甲斐もあり、私は28才で役員に昇進した。

 そして娘を授かることが出来た。

 私は毎日が夢のようだった。

 子供がこんなにかわいいものであり、その成長の速さにも驚いていた。


 自分が両親からしてもらえなかったことを、すべて子供たちにしてあげたつもりだ。

 私は運動会ですら親は来てくれず、校庭の隅の木陰でひとりで弁当を食べる子供だった。


 大好きな子供たちが成長するにつれ、皮肉なことに私と弥生の関係は薄らいで行った。


 子供たちが小さい頃は、どんなにいい女から誘惑されても、私はそれに応じることはなかった。

 だが子供たちが高校、中学となった頃、私の役目が終わったように感じた。


 そんなある日の朝、私は出勤前に弥生と些細なことで喧嘩をした。


 会社に着くと、自分に想いを寄せてくれていた恵美を食事に誘った。



 「今夜、彼氏とデートの約束は?」

 「そんなのいませんよー」

 「それじゃあ今夜、俺とメシでもどうだ?」

 「部長はいつも冗談ばっかりなんだからあ」


 その夜、私は初めて浮気をした。

 それからの私は、女遊びに歯止めが効かなくなってしまった。

 私は坂道を転がるようにセックスに溺れた。




第6話

 ジムでトレーニングをするかのように、ほぼ毎日、女を抱いた。


 私はバリバリ仕事をこなし、そして女とヤリまくった。

 特定の女には固執せず、まるで自分の能力を試すかのようにセックスにふけった。


 会社の女子社員や取引先、スナックのホステスなど、同時に8人の女と付き合っていた。

 至極普通の女が私とセックスを重ね、変貌し、美しくなっていくのが面白かった。


 昼間は真面目で清楚な女が、私との性交渉の中で淫らになっていった。

 だがそれは、彼女たちが変わっていくのではなく、実はそれは彼女たちの内在していた本性であり、内面に閉じ込め、封印されていたものだった。



 女と深夜の国道をドライブしていた時、私は自分の女が自分にどれだけ忠実であるのかを試してみたくなった。


 「脱げよ」

 「ここで?」

 「そう、ここで」


 すると、驚いたことに女は服を脱ぎ始め、下着を取り、全裸になった。

 時折すれ違う対向車にも女は平気だった。


 私は運転をしながら、片方の手で女の胸を揉み、敏感な部分にも触れた。

 皮張りのクルマのシートが彼女の愛液で濡れるほど、そこは蜜で溢れていた。



 私は人気のない道にクルマを停め、激しく女を抱いた。

 クルマが軋み、リズミカルに車体が揺れた。



 女たちはどんどん大胆になっていった。


 「あなたには何でも言えるの、何でもお願い出来るから不思議」



 私たちはパートナーとは出来ないようなセックスを楽しんだ。

 セックス・ドラッグの殆どを試し、ややアブノーマルなこともした。


 「私ね? 縛られたり虐められるのが好きかも・・・」


 私はその女の望みを叶えてやった。

 本格的な麻縄などでは痕が残るので、なるべくやわらかい、化学繊維の縄で女を縛り上げると、彼女は従順になり、目をトロンとさせて快楽の中で絶叫し、落ちて行った。


 「お願い、恥ずかしい私を写メで撮って! 私の携帯で! 待ち受け画面にしたいから!」


 それは高校の、美しい美術教師の要望だった。



 最初は自分が彼女たちを自分の好みに調教しているつもりだったが、それは誤りだった。

 次第に私の好みになっていく女たちに私は魅了され、いつの間にか私が彼女たちの魅力の中に溺れていった。



 仕事もプライベートも充実していったが、弥生との距離はどんどん広がっていった。

 女たちのおかげで、私は弥生に対して性的興味を失うことが出来たのである。

 セックスレスは確実なものとなっていた。



 女は何度もエクスタシーを迎え、まるで別人のように歓喜し、喘いだ。

 何度も絶頂に達し、ぐったりとなった女は軽い失神状態となり、数十秒間痙攣し、そして覚醒した。


 「こんなの初めて・・・。

 奥さんはしあわせね? 私、夫にこんなに大切にされたことがないわ」


 そう言って女は私に甘えた。


 「こんないい女を放っておくなんて、君の旦那は君の本当の価値が分かっていない」

 「奥さんが羨ましい・・・」


 女の細くしなやかな指が、私の胸で宛もなく戯れている。


 「俺と一緒に暮らすとすぐに飽きるよ」


 私は彼女の乳首を舐めながら、耳、首筋へと指を這わせて行った。


 あれほどイッた後だというのに、彼女はより敏感になり、それに反応した。


 私は女との性行為を続けながら、女房の弥生のことを考えていた。

 出口のない女たちとの関係に、私は自分を見失い、女房の弥生との暮らしを続けた。


 セックスを毛嫌いする人間もいるが、それは親からそういうものだと刷り込まれている場合が多い。

 セックスはそんなに特別視するものではない。

 愛し合う者同士が「もっと相手を感じたい」、その延長線上にあるのがセックスなのだ。

 ひとつになりたいというその想い、それがSEXなのである。

 決して不浄なものではない。


 私は弥生を愛したまま肉体を合わせることもなく、女たちとの肉欲に沈んで行った。

 

 


第7話

 どうしてこの世には男と女がいるのだろうか?

 男だけ、あるいは女だけ、もしくは両性具有でも良かったのではないだろうか?

 子孫を残すためだけの性交なら、それでよかったのではないのか?

 私はそんなことを考えながら、ただ男性器を女のそこに入れ、リズミカルに律動を繰り返していた。

 そしてシーツを軽く掴み、私を楽しませようと演技をする女。

 どうして婚姻などというシステムが生まれたのだろう?


 哺乳類であるチンパンジーもライオンも、ゾウも結婚の誓いを神の御前ですることはない。

 事前にプログラムされた本能でのみ交尾をし、子孫を残す。

 そこに愛は存在しない。


 カマキリのように、交尾の最中に雌カマキリに頭から食われてしまう雄カマキリや、日本ミツバチのように女王蜂が飛んで来るまで「死のラストフライト」を続け、射精を終えるとそのまま地表に落ちて死んでしまう儚さ。

 それは命がけの交尾なのだ。

 人間のオスもそうだと面白いかもしれない。

 種を残して、カラダを突き抜けるほどの凄まじい快感に包まれて、女の腹の上で死んでゆく。

 

 400万年前にアウストラロピテクスから進化していったとされる人類。

 子孫を残すために女を求め、奪い合い、男同士が戦ったり、無秩序なセックスにより、雑多な子孫が生まれないための所有宣言、「我々は夫婦である」と告知することで、その所有を法律的にも明らかにすることが結婚の目的であるならば、秩序のある現代の文明社会の制度の中では、婚姻の必要性はあるのだろうか?


 人間社会の性行為は他の哺乳生物には類を見ない。

 一般的な哺乳類は発情する時期にしか交尾をしないが、人間はいつでも欲情することがある。

 そして哺乳動物は群れの見ている前で交尾をするが、人間は隠れてそれを行う。

 多くの哺乳動物の子育ては雌が行うが、雄は雌を妊娠させると、また他の雌を求めて彷徨うが、人間社会では一部の宗教を除き「一夫一妻制」であり、王侯貴族を除いては許されるものではない。

 特にキリスト教社会ではフランスやスカンジナビアを除いては厳格に戒められている。 

 

 女の生殖能力は限られる。だが男の場合、それは射精に応じて何度でも生殖行為を繰り返すことが可能だ。

 男は本能的に自分のDNAを拡散しようとし、女はその中からより優秀なDNAを求め、身籠る。

 イギリス国王のチャールズは、あんなに美しいダイアナ妃がいながら、オバサンのカミラという愛人がいた。

 そしてダイアナなき後、妃となった。

 チャールズは言った。



     「愛人も作れない王室など耐えられない」



 日本の徳川時代の「大奥」などは美化されてよく映画にもなるが、殿様の寵愛を得るために、かなりの熾烈な女同士の戦いと、殿様を篭絡するための手練手管があったに違いない。

 毎晩、自分が好きな女を孕ませることが許される支配者でさえ、それなりの苦悩はあった筈だ。


 私は思うのだ。「愛があれば結婚はしなくてもいい」のではないかと。

 福祉制度については国会で法制化すればいい話だ。

 そうなれば「不倫」というあの穢らわしい下品な言葉も消える。




 「いいのいいのよ、凄く感じるの。お願い、お願いだから、今日は、今日は中に、中に頂戴・・・。

 今日は大丈夫な日だから、そのまま出して」


 私のカラダの下で、そうクライマックスに喘ぐ女。

 今、私がしていることは「スポーツ」であり、ただの「ゲーム」なのだ。

 少なくとも今の私の行為に愛はない。



     では一体、愛とは何だろうか?



 それは相手に対して自分を無に出来る想いだ。

 そして自分が誰を愛していたのかを証明出来るのは、臨終の時に薄れゆく意識の中で、呼ぶ名こそが自分の本当に愛した相手の名前だろう。

 



 遂に女は絶頂を迎え、私もそれを追いかけるように女の中に射精した。

 愛のないセックスの後は、激しい虚しさと罪悪感に襲われる。

 私は女のそこから流れ伝う、愛液と混ざった精子をティッシュで拭き取った。


 ホテルの外の雨音が、一層強くなっていた。




第8話

 息子が東京に転職することになった。


 「私たち、みんなで東京へ引っ越すことにしたから」


 予想はしていたとはいえ、それが現実となると私は狼狽うろたえた。


 「この家を出てか?」

 「そうよ、費用の方はよろしくね? 私たち、お金ないから」

 「何もお前たちまで雅彦について行くことはないじゃないか?」

 「もう私たち限界なの。

 あなたと同じ空気を吸うのもイヤ。

 私たち、ずっと待ってたの。この家から出てあなたと別れて暮らすことを」


 私には返す言葉がなかった。

 何も変わらないと思っていたのは自分だけだったのである。

 私はすでに家族を失っていたのだ。


 「それじゃあ、アパートだけは俺が手配するよ」

 「遠慮しておくわ。自分たちで暮らす家は自分たちで探すから大丈夫」

 「住所は?」

 「必要があればこちらから連絡します」




 弥生たちが家を出る日、私は弥生に通帳と印鑑、そしてキャッシュカードとクレジットカードを渡した。


 「ありがとう、助かるわ」

 「その他に、毎月20万円を振り込むよ」

 「無理しなくていいわよ、私たちも働くから」

 「ほんの慰謝料だ」

 「そうね? あなたは私たちを裏切ったんだから当然かもね?」

 「困ったらいつでも電話しろよ」

 「うん、ありがとう。じゃあ、行くね?」



 子供たちは無言で出て行った。

 息子の運転するクルマで、元家族たちは私の元を去って行った。


 家族のいなくなったガランとした家。

 私は屋敷の広さを改めて実感した。

 そして自分が独りぼっちになったことを初めて知った。

 私は温かい家族との生活と引き換えに、「孤独な自由」を手に入れた。



 女たちとは縁を切った。

 それが自分への罰だった。

 弥生たちの悲しみや憎しみに、私は鞭打たれる必要があったからだ。

 その喪中に肉欲は邪魔だった。


 これが私の思い描いた夢だったのだろうか?

 恋愛の理論など、もうどうでも良かった。

 私はかけがえのないものを失った。

 私は家族を不幸にするために弥生と結婚し、子供たちをもうけたことになるのだ。

 自分の夢を犠牲にして。



 私は屋敷を処分し、眺望の良い賃貸マンションへと移り住んだ。

 誰も知り合いのいない街で、私は新しい人生を始めることにした。


 「人生をやり直す」なんて都合のいいことは出来ない。

 人生とはまっさらな白い紙に、青いインクで物語を記していくものだからだ。

 消しゴムで消せるような鉛筆書きの人生ではない。


 だが、やり直しは出来ないが、新しいページをめくることは可能だ。

 それだけが人間に許された希望だからだ。



 その後、弥生たちから連絡はなかった。

 思い出されるのは弥生や子供たちとの楽しかった思い出ばかり。


 子供が生まれた日、歩いた日、幼稚園、小学校、中学、高校、大学・・・。

 そして別れた日。

 弥生との楽しかった日々。


 私は一体どこで道を間違えたのだろう。




第9話

 冷たい秋雨あきさめが降っていた。

 こんな日はショパンの『雨だれ』がいい。

 私はコンポにホロビッツのCDをセットした。


 ショパンはピアノの詩人だ。この鼠色した空から鍵盤に雨雫が落ちて来るようだった。

 時に哀しみは人を詩人にするものである。

 私の絶望など、ショパンほどではない。

 それが証拠に、私には一片の詩も浮かんでは来なかった。

 私は珈琲を飲み終えると、雨の中を散歩に出ることにした。


 

 駅まで歩き、電車に乗った。

 別に宛があるわけではなかった。ただ電車に乗り、私は流れてゆく雨の街を眺めていた。

 左から右へと流れていく車窓からの眺め。

 建物もクルマも人も、そして空も、それらは皆、時が過ぎてゆくように見えた。

 その時、私には時間が見えていたのである。

 私は時の川を下る舟の旅人だった。



 30分ほど電車に揺られ、終着駅に着いた。


 ホームの階段を登りかけた時、突然左目に墨汁が数本、流れたように見えた。

 どうやら眼底出血をしたようだった。

 私は再び電車に乗り、家路を辿った。



 午後になると曇ガラスのような世界になってしまった。 

 私は手探りで近所の眼科クリニックへ歩いて行った。


 医大の元助教授が開業したクリニックで、とても混雑していた。

 受付で両目が急に見えなくなったことを伝えたが、順番が早まることはなかった。


 ようやく私の番になり、その恰幅のいい老眼科医は私の目をルーペで見るなり笑いながら言った。


 「あはははは こりゃあダメだなあ。とりあえず大学病院に紹介状を書いてあげるから行ってみなさい」

 「今すぐにですか?」

 「どうせ手遅れだからいつでもいいよ」



 翌日、私は大学病院を受診した。


 診察を終え、40代くらいの医師が言った。


 「うーん、手術しましょうか? 今から入院になります」

 「今日からですか?」

 「なるべく早い方がいいです。

 ただし、既にかなり進行していますので、成功するかどうかはわかりません。

 これから明日の手術に備えて左目に注射をします。

 左目を手術した後、様子をみてから右目を手術することにします。

 ご家族に病状を説明したいのですがご家族は?」

 「家族は、いません・・・」

 「そうですか」


 私は麻酔液を目に塗られ、眼球に器具をはめられて注射をされた。

 せめてもの救いは注射針も見えなくなっていたことだった。

 もしも見えていたら恐怖は更に増していたはずだ。

 病室へ行き、入院の手続きをした。


 糖尿病であることは自覚していたが放置していた。

 片目を失うことは止むを得ないと覚悟してはいたが、まさか両目だとは思いもしなかった。

 失明の恐怖が私を襲った。

 私は病室を出て、誰もいないフロアの端で弥生に電話を掛けた。


 「どうかしたの?」

 「今日、入院したんだ」

 「そう、病気で?」

 「目が失明しそうなんだ」

 「無理をしたからよ」

 「子供たちは元気か?」

 「ええ、こっちは大丈夫。みんな元気だから」

 「そうか、それなら良かった。弥生は?」

 「私は大丈夫、いつもお金をありがとう」

 「いや、それは当然の事だから・・・。

 それじゃあ、そういうことだから」

 「お見舞いには行かないわよ。

 あなたの面倒を看てくれる女のひとはたくさんいるでしょうから」

 「電話して悪かったな?」

 「どこの病院なの?」


 私はそれには答えず、携帯電話を切った。

 私は弥生や子供たちに見舞いに来て欲しかった。

 それを伝えたくて電話をしたのだが、それは都合の良い話だった。

 私は自分の甘さと弱さを痛感した。

 弥生の心の傷はまだ癒えてはいなかったのだ。

 いくら私が不貞をはたらいたとはいえ、失明となればすぐに駆け付けてくれると思った自分が哀れだった。


 その後も子供たちからの電話はなかった。

 あれだけかわいがったのに、あれだけ金も掛けたのに、あれだけ・・・。

 そして私はハッとした。



    「あんなにしてやったのに」



 私はようやく目が醒めた。

 私は家族から捨てられたと思っていた。

 でも家族は私から「捨てられた」と思っていたのだと。

 私が家族を失ったのは、「してやった」とか「こんなにしてやっているのに」という尊大な想い上がった態度にあったのだと。

 だから「これくらいしてもいいはずだ」と勝手に思っていたのだ。

 そして私は決して家族に頼ろうとはしなかった。

 頼ってはいけないと思っていた。父親であり夫だからだと。

 経営者とはピッチャーマウンドの投手のようなもので、脚光は浴びるが孤独だった。

 勝って当たり前、負けは許されない。

 毎日がストレスとの闘いだった。

 社長になってからは食事も酒も美味いと思ったことは無い。

 それは女を抱いても同じだった。

 私は今まで何をしていたんだろう?



 4時間の手術を終えた。

 左目の網膜を剥離しないようにレーザーで点描画を描くように慎重に焼付け、硝子体を抜いて生理食塩水を入れ、一週間うつ伏せに寝かされた。

 頭が割れそうに痛み、吐き気もした。

 それはまるで拷問のようだった。


 再手術となり、今度は生理食塩水ではなくシリコン・オイルを注入した。

 痛みは治まったが、左目から光が消えた。

 



最終話

 左目を失ったことで右目はLAST・EYEとなってしまい、手術はせずにレーザー治療で右目は温存することになった。

 入院中、毎日、右目をレーザーで焼いた。


 佐藤医師は多忙な中、根気よく治療を続けてくれた。

 それはまるでジョルジュ・スーラの点描画を描くような作業だった。

 網膜に針の先端のようなレーザー照射を繰り返す。

 網膜の剥離を防ぐため、7割近くの網膜を焼いた。

 気の遠くなるような処置を、佐藤医師は丹念にしてくれた。


 普通の患者であれば、出血した部分だけを焼けばいいので数回のレーザー照射ですむから痛みは感じない。

 だが、私の場合は1回で100回以上もレーザーを打つので、脂汗が出るほどの痛みを伴う。

 1度、私は固定されていた頭を動かしてしまい、その日の治療は中止になったほどだ。

 レーザーを当てると、ピンクのサングラスをかけたように見える。

 「バラ色の人生」とはこれを言うのかと私は自嘲した。

 そんな入院生活を送る中で、私はある気付きを得た。

 それは、


           

       初めからこうだった



 と考えることだった。

 良かったことも辛かったことも、すべての過去の記憶を消すことだった。


 女房も子供も、健康もすべてなかったのだと。

 今の状態のままで自分はこの世に生まれたのだと私は考えることにした。

 女房もいない、子供もいない、そして目は最初から片目だけだったのだと。


 女房も子供もいても誰も見舞いには来ない。

 両目が失明するかもしれない。会に来るのが家族として当然だと、私は勝手に思い込んで落ち込んでいた。

 いっそ死んでラクになりたいとも思った。


 だがそんなものは初めからなかったと、今の自分を受け入れることで人生が軽くなる気がした。

 無いものを数えて哀しむのではなく、今あるものに感謝して生きることが大切なんだと。

 私は過去のページを封印し、人生の新しいページを開くことにした。


 そんな時、弥生からショート・メールが届いた。


 「下着とか持って行ってあげるから、病院を教えて」




 翌日、弥生から電話があった。


 「ナースステーションに着替えとかを渡しておいたから、お大事に」

 「会わないで帰るのか?」

 「他の女と会うと嫌だから」

 「カネだけ渡したいから談話室で待っていてくれ」



 入院着にボサボサの頭、中途半端に伸びた髭。

 そして厳重に眼帯をされた左目に弥生は顔を顰めた。

 弥生は少し痩せたようだった。



 「これ、着替えとか色々入れておいたから」

 「ありがとう、わざわざすまなかったな?」


 私は大きな紙袋を受け取り、病院のATMで下ろした30万円の現金を入れた封筒を弥生に渡した。



 「どうもありがとう。助かるわ」

 「子供たちは元気なのか?」

 「パパは大丈夫なのかって心配してたわ」

 「そうか・・・」

 「目の方はどうなの? 痛む?」

 「左目はダメになったが、右は今、治療してもらっている」

 「退院は?」

 「あと1週間くらいかな?」

 「無理しない方がいいわよ」

 「ああ」

 「じゃあ行くね? 夜までには帰りたいから」

 「ありがとう、気をつけてな?」

 「ありがとうなんて言葉、あなたにも残っていたのね?」

 「女たちとは別れたよ」

 「そう」

 「今まですまなかった」

 「ううん、私も反省したわ、そんな気持ちにさせた私も悪かったって。

 ゴメンなさい」

 「お前は悪くないよ、俺が子供だっただけだ。俺は大人になれなかった」

 「いいのよ、再婚しても。

 あなたは女にモテるから」

 「片目の老いぼれなど、もう誰も相手にしてはくれないよ」

 「夫婦って何なのかしらね?」

 「それは同じ舟に乗って嵐の航海に耐え、美しい夕暮れを見て、一緒に「きれいだね?」って頷くことじゃないかな?

 俺は色んなものを失ったが、それ以上に今はしあわせだ」

 「私ね、あなたを殺して私も死のうと思ったの。

 私はそれほどあなたが好きだった。

 でも本当は私があなたに甘えていただけなんだと思った。

 働いてくれるのが当たり前、クリスマスにプレゼントをくれるのもそう。

 私は子供を望み、あなたはそれを望まなかった。

 でもあなたは私たちに精一杯の愛情を注いでくれたわ。

 ありがとう、あなた。

 これで本当のお別れが出来るわ。

 しあわせになってね?」

 「弥生もな?」



 私は弥生とエレベーターで1階に降りた。

 久しぶりに会った弥生は、とても小さく見えた。



 弥生は一度も振り帰らずにタクシーに乗った。

 それは溢れる涙を見せまいとする、女の意地がそこにあった。

 私はタクシーが見えなくなるまで弥生を見送り、自分の愚かさに泣いた。


 すっかり葉の落ちた病院のイチョウ並木。もうすぐ寒い冬がやって来る。

 そしてまた桜が咲く。

 人生には厳しい冬が必要だ。温かい春のやさしさを知るために。



                         『呉越同舟』完

 




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【完結】呉越同舟(作品240218) 菊池昭仁 @landfall0810

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