思索

赤目ゴリラ

政治参加は権利が義務か

 我々は、義務や権利といったものを考える時、ついつい法律によって定義あるいは保証されているものを想定してしまう。しかし本当のところはどうだろう。例えば、我々が誰かと契約を結んだ時、ある程度民法が保証していものではあるが、そこには法律によって定義されていない、新たな権利を得たりや義務を負ったりするだろう。すなわち、法律によって定義されない権利や義務も我々は有する場合があって、それには様々な階層があるという事だ。極論を言えば、我々には盗みや殺しをする自然上の権利すらあるけれどそれをした者は我々の住んでいる国の法律によって罰せられる義務を負うのであり、また、常識を共有する人々という意味での社会によってそれを禁止されているのである。その証拠に、我々とほとんど同じ遺伝子を持った古い時代の人々の間では、殺しや盗みは日常茶飯事であるという認識が共有されていた事もあった。

 さて、本題はここからである。政治参加について、我が国では、憲法第十五条において、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とされており、政治参加は権利であるとされている。しかし私は、民主主義国家において、政治に参加するのは国民の義務であると考える。例えば君主主義国家であれば、政治は限られた統治者の権利であるが、同時に彼らにとって政治をする事は国民に対する義務であるとして扱われる。同様に、民主主義国家の統治者である我々国民の自分たちに対する義務であるのではないか。社会学者の宮台真司氏は、今の日本の社会を「任せて文句をたれる」社会として批判し、「引き受けて考える」社会を奨励したが、この行動は、「憲法における」働いて自分や家族を養ったり、税金を納めたり、子供に教育を受けさせたりする義務よりもよっぽど重要で幾らか根源的な「民主主義における」義務なのだ。しかし我が国のあらゆる選挙の投票率はずっと低い状態である。来たる令和6年7月7日の東京都知事選では、投票率が今までより高くなることをここに願いたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

思索 赤目ゴリラ @ka_kuten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る