隣人

海湖水

隣人

 私の家の隣に住む男は、行商人をしているらしい。

 それもあってか、あまり顔を合わせることはなかった。

 まず、現代に行商人なんてものが存在しているということが信じられなかったが、隣の男は海外を飛び回り、ほとんど家を留守にしているようだ。自然と、自分の中でも、隣の男が行商人だという噂は、事実だと馴染んでいった。

 しかし、隣の男が行商人だからと言って、自分には関係のないことだ。

 そう、先ほどまでは思っていた。


 「いや~、申し訳ございません。在庫処分が大変なものが多くてですね。ちょうど困っていたところなんですよ」

 「なぜ私の家に来たんですか?もっと金持ちそうな家に向かっては?」

 「ええ、私の持っている商品の中には、金持ちの方々に向けたものもたくさんございますよ。しかし、そういう方々は私を門前払いすることが多いのですよ」


 なるほど、このような男なのか。

 薄汚れた服に、クタクタになった帽子。帽子からはみ出たボサボサの髪は、切っていないのか無造作に伸びていた。顎には、中途半端に剃られた髭が伸びていた。

 手には片方だけ手袋を付けており、一つの大きな黒いトランクケースを持っていた。

 正直、清潔感の欠片もない。こんな男なら、金持ちも家の中に入れたいとも思わないだろう。

 

 「それでは、一つ目に……」


 男は、トランクケースを開くと、中に入っている商品を取り出した。

 取り出したのは、食器だった。平皿と、茶碗よりも少し大きくどんぶりよりは小さいような器が一つ。

 年季が入っているものなのか、少し薄汚れているが、それがまた価値があるように見えた。


 「こちらは東南アジアのある集落で頂いたものです。伝統的な製法で作ったものとのことです」

 「へー、なるほど。確かに価値がありそうだ。いくら払ったんです?」

 

 男はそれを聞かれた時、顔を横に振った。

 

 「向こうでは、金が使われてはいるのですが、物々交換のほうが良いと言われたので、私の持っていたいくつかの商品と交換いたしました」


 私は少し驚いた。

 金が普及していないような集落ならば、自分が思っているよりも一般人ならば行きにくい場所ではないだろうか。

 自分が値段を質問すると、男は指を五本立てた。

 五万円か。手数料を考えると、安いのだろうが、自分にはこの食器に五万円もかける気にはならなかった。

 確かに、そういうコレクターだったり、専門家ならば欲しがるのだろうが、自分には興味があまりわかない。そういうことを男に伝えると、男は唸るような声を出した。


 「これには興味がございませんか……。かなり貴重なものだと思われるのですが……。仕方ありませんね。それでは次の商品です」


 男が次に取り出したのは、一冊の本だった。

 厚い。見ただけでわかる、圧倒的な、ずっしりとした、重量感。

 革の上に金が縫い付けられた装丁は、異国の地で作られた魔導書のような、そんな雰囲気を創り出している。


 「これは……」


 男は自分の反応を見て、満足げな笑みを浮かべた。これには興味があるようだ、という笑み。

 興味がないと言えば嘘になる。

 昔から本は好きだった。まず一軒家を作るときに書斎用の部屋を用意したほどには、今も本を読んでいる。


 「これはアフリカのある地方に保管されていた書物です。まあ、製造元は中世のヨーロッパなようですが。それがひょんなことから、アフリカへと渡ったわけだ」

 

 改めて見返すと、重量に圧倒されていたが、かなり古い書物のように見えた。しかし、中世ヨーロッパから今まで、よくぞ形を保っていたものだ。

 私は、その本の一ページ目をめくる。全く知らない言語が目の中に飛び込んでくる。英語とも、フランス語とも、ドイツ語とも、ロシア語とも違う。これは……。


 「ええ、あなたもお気づきになられましたか。この本は、未知の言語で書かれているのです。私も何人かの専門家に話を聞きましたが、このような言語は見たことがないとのことでした。私も独自に調べてみましたが、このような言語と同じものを見つけることはできなかったのです」

 「……これをもともと持っていた人間に聞けばわかるんじゃないですか?」

 「試そうとしたのですが、なんとこれをもともと持っていた人物は、私が次に音連れた時には行方不明になっていまして……。何より、その男も知人から遠い昔に受け取った、なんてことを言っておりましたから、聞いても無駄だったとは思います」

 「なるほど……」


 私はむかし、少しは言語学もかじったことはある。しかし、その時にはまるで見たことのないような、全く系統の違う文字。


 「これは……一般的に使われていた言語なのか?」

 「と、いいますと?」

 「いえ、もしかすると、これを作った人物が生み出した、暗号のようなものなのではないか、と思いまして」

 「なるほど……それは確かにあり得る話かもしれません。……その反応は、興味があるということでよろしいでしょうか?」

 「何円ですか?」

 「20万円ほど」

 「高いですね。本一冊にしては破格の値段だ」

 「当然です。これは歴史的な価値のあるものかもしれませんし、私個人としても、時間と金を多分にかけましたから」

 「確かにその通りです。20万円ですね。すぐに用意しましょう」


 私はそうして、一冊の本を受け取った。

 本の中に法則性を見つけ、海外の文献を調べて、少しづつだが読み進めようとはしてみている。

 幼いころ、英語の本を読んだときに、感じた感触を思い出した。

 あの時も同じように読めない本を、面白いと眺めていた。

 今でも、自分の本を読むための基準は、「読むことが楽しい本」なのだと、心の底から思える。

 まあ、少し「読むことが楽しい」の意味が世間一般とはずれている気もするが。

 隣の男は、気づけば引っ越していた。

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隣人 海湖水 @Kaikosui

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