【完結】樹氷(作品240107)

菊池昭仁

樹氷

第1話

 銀座の夜が好きだった。

 煌びやかな光の街。高級ブランドに高級外車、電車の音。

 すれ違う華やかに着飾った大人たち。

 

 私は会社では女性管理職として、家では良き妻、賢き母親としての理想の自分を演じていた。

 女優のように。


 本当の自分は20年前のパリに捨てた。

 そしてそんな自分を知っているのは、あの男しかいない。

 時はどうして私たちを置き去りのまま、過ぎ去って行くのだろう?

 私は時間の流れの中で、立ち竦んだままだった。

 

 本当の自分に戻りたい。

 

 すべてを投げ捨て、ただ夢中で彼を愛したあの頃の私に。



 

 月末の怒涛のような業務も終わり、私は気分を変えようと、春物の服を買いに銀座のデパートへやって来た。

 女にとって買物は、一番のストレス解消でもある。

 春になると様々なイベントが始まる。

 歓送迎会や学校の行事、夫や子供たちの友人を招いてのパーティなど、確かに私はその場では脇役ではあるが、そこでも私はバイプレイヤーを演じなければならない。

 服は女にとっても妥協の出来ない甲冑でもあるのだ。

 私は慎重に服を選んでいた。


 アラフォー女は中途半端な位置にある。

 若くはないが、かと言って年寄りでもない。

 人生の酸いも甘いも味わった、ある意味、「女ざかり」であるとも言える。

 出産も経験し、女としての「図々しさ」もある。

 若作りをしていると思われたくはないが、それでも若くは見られたい。


 「部長はいつも綺麗ですけど、 何か特別なエステとかしているんですか? お化粧品はどんな物を?」

 

 そんな時、私はいつも同じセリフを台本通りに話す。


 「会社では仕事、家ではママで奥さんもしているのよ?

 そんな私に美容に使う時間的余裕なんてどこにもないわ。

 ただよく食べてよく飲んで、よく眠ることくらいかしら?

 お化粧品はニベアだけよ」


 私はそう言って微笑んで見せる。より美しい笑顔を意識して。


 そしてそれが快感でもあった。

 私は自分への投資は怠らなかった。


 以前、夫の博行ひろゆきからこんなことを言われたことがある。


 「ママの服のセンスは同性には憧れだろうけど、あまり男受けはしないかもしれないな?」

 「別に男受けなんかしてもしょうがないでしょ? もうオバサンなんだから」

 

 だが内心は大きく傷ついた。

 やはりいつまでも男から女として見られていたい。

 婉曲的な言い方ではあるが、


 

    「お前はダサい女」



 夫からそう指摘されたのだから。



 

 数点の自分の服と、娘たちの服を買った。

 丁度、地方の物産展が開催されているようなので、夫や子供たちの為に、何かおみやげを買って帰ろうと、エスカレーターを昇って行った。



 催事場のあるフロアに辿り着くとかなり混雑していて、その人波に押されるように歩いていると、絵の展示販売会が催されているのが目に留まった。

 鑑賞している人は疎らだった。


 高額な絵画を購入する人などは、限られたお金持ちの道楽だと視線を戻そうとした時、何気なく見たその個展の作者の名前に、私は息が止まりそうだった。



      『西山伊作 作品展示会』



 その名前は忘れもしない、20年前に愛し合い、別れたパリの恋人、西山伊作の個展だったからだ。


 運命の扉が今、静かに開かれようとしていた。




第2話

 私は足を止め、ガラス越しに展示会場を見渡した。

 高鳴る心臓の鼓動。


 老夫婦と話しをしているその後ろ姿には確かに見覚えがあった。

 

 絵を説明しながら振り向いたその男性は、まぎれもなく20年前にパリで愛し合った、西山伊作だった。


 ボサボサの頭に銀縁の丸眼鏡、その奥には優しく澄んだ瞳があった。


 すぐに彼を抱きしめたい衝動に駆られたが、女心がそれを阻んだ。

 

 (少しでも綺麗な自分で会いたい)


 小走りに女子トイレへ向かい、私はお化粧を直し、髪と服装を整え、軽くコロンを纏った。


 その時、今日は仕事帰りなので地味なベージュの下着だったことを思い出し、そんな慌てた鏡に映る自分が可笑しかった。



 勇気を出して個展会場の中に入って行くと、そこに彼の姿は無かった。


 受付の女性に来展名簿の署名を促された。


 「ご芳名をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 「あっ、はい」


 私は広谷奈緒とは書かず、旧姓だった前園奈緒と署名をした。

 彼を驚かせたいという思いと、そして私がここを訪れた痕跡を残すために。


 だがその一方で不安もあった。

 想い続けていたのは私の方だけだったのかもしれないと。

 そしておそらく、彼も結婚をして子供もいるかもしれない。

 自分は何を期待しているのだろうと私は思った。



 「西山先生はどちらに?」

 「ただいま席を外しておりますが、すぐにお戻りになると思います。

 ごゆっくりとご覧になってお待ち下さい」

 「ありがとうございます」


 私は彼の絵を丹念に見て回った。

 当時、パリで見た彼の作品とは作風がかなり変化していた。

 ここに展示されている彼の作品は、パリの下町や公園の風景を油絵で描いた物が多く、ブラマンクに影響を受けた佐伯祐三のそれとは違い、彼独自の見事な構図、色使い、そして絵筆のタッチに私は魅了された。

 蘇る彼のアトリエの油絵の具とニスの匂い。


 じっくりとひと作品ずつを鑑賞して行くと、そこに一枚だけ女性のポートレートが掛けてあった。

 それを見た時、私は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。


 それはパリのカフェで微笑む私だった。


 両手でコーヒーカップを包み、美しく輝く巻き毛と鳶色の瞳。

 その絵は今にも動き出しそうだった。

 突然、背後から懐かしい声がした。


 「どうだい? いい絵だろう? モデルは奈緒、君だ」


 私は振り向き思わず叫んだ。


 「伊作!」

 「覚えていてくれたんだね? 僕の名前を」

 「当たり前じゃない! 忘れるもんですか!」


 すると彼は私を強く抱きしめて言った。


 「奈緒に会いたかった。

 僕はこの20年、この日をずっと待ち望んでいたんだ」


 涙が止まらなかった。

 せっかく直したお化粧も無駄になってしまった。


 「絶対に会えると信じていた」

 「私も、いつもあなたのことを想っていたわ。

 本当に偶然なの、偶然にここを通り掛かったのよ。

 そしたら、そしたら伊作の絵が・・・。

 私、神様を信じるわ」

 「個展は日曜日までだけど、日本にはしばらくいるつもりなんだ。

 これから少し時間ある?」

 「もちろん!」

 「じゃあ食事でもしよう。

 悪いが木下さん、僕はこれで失礼するから後はよろしくお願いします。

 さあ行こう、奈緒」


 伊作は私の手を取り、デパートの個展会場を後にした。

 その時、私はダスティン・フォフマンが主演の映画『卒業』を思い出していた。

 結婚式の最中に、教会からエレーンがベンジャミンと逃げるあのシーンを。


 私はすべてを忘れ、キャサリン・ロスが演じるエレーンになった。

 頭の中でサイモン&ガーファンクルの『Sound of Silence』が鳴っていた。




第3話

 銀座の街を歩いていると、さりげなく伊作が手をつないで来た。

 温かい手のぬくもりが伝わる。

 パリでもこうして恋人つなぎをして歩いたものだ。

 あれから20年もの歳月が流れたことを、私はすっかり忘れてしまっていた。

 眼の前の景色がすべて輝いて見えた。 



 「鮨でもいいかな? パリにも鮨屋はあるけど、それなりだから」

 「うん、お寿司大好き!」


 私は伊作と恋人つなぎをした手にそっとチカラを込めた。


 その時私は自分の手に結婚指輪をしていることに気付き、繋いだ左手を右手に変えるため、伊作の左側へと回わり込んだ。


 「どうしたの?」

 「なんとなくこっちの方が落ち着くから」


 伊作は横顔で笑っていた。


 彼の左手に指輪はなかった。

 身勝手ではあるが、それに安堵している自分がいた。




 その鮨屋にはキリリとした程良い緊張感があり、ほのかに木の香りのする銀座らしい高級店だった。

 青森ヒバの一枚板のカウンターが、銀座の鮨屋としての威厳を主張していた。

 

 「いらっしゃいませ、お飲み物はいかがなさいますか?」

 「僕は吟醸酒を。君は?」

 「私も同じ物で」

 「かしこまりました」

 「好き嫌いはありませんので最初はお造りを下さい。後はお任せでお願いします」

 「では氷見の寒ブリでよろしいでしょうか?」

 「氷見の寒ブリかあ? いいですね? それでお願いします。

 奈緒、ブリは大丈夫?」

 「魚卵系以外なら大丈夫よ」

 「かしこまりました」

 

 板前はブリのサクに刺身包丁を引いた。

 まるで日本刀の業物わざもののような切れ味に、鰤の細胞が切られていくような音がした。



 お酒が運ばれて来た。

 私たちはお互いの冷えたグラスに冷酒を注いだ。

 夢を見ているようだった。

 ドキドキして手が少し震えた。


 「奈緒との再会に」

 「私たちの奇跡の再会に」


 グラスを合わせて乾杯をした時、小さな天使がベルを鳴らしたようだった。


 

 「いつ日本に帰って来たの?」

 「5日前だよ、来日したのは3年ぶりかなあ。

 いいよね? やっぱり日本は」


 伊作は帰国とは言わずに「来日」と言った。

 パリでの永住権を取得した伊作にとって、日本は「ふる里」ではなく、異国だった。

 その言葉を聞いた時、少し私は伊作との距離を感じ、寂しくなった。



 伊作は寒ブリを食べると感激して言った。


 「あー、旨いなあ。

 しあわせだなー。やっぱり僕は日本人なんだなあ」


 それを見て満足そうに微笑む鮨職人。



 「その気持ち分かるなー。

 成田でお寿司を食べて、現地に到着してすぐにまた日本食が恋しくなるもん。

 パンも美味しいけど毎日となるとねー?」

 「毎日がカレーよりはいいけどね?

 カレーは好きだけど、朝、昼、晩がカレーというのもね?

 インドやサウジ、パキスタンとかはいつもカレーだけど、彼らにとってカレーは、日本人のご飯と味噌汁みたいなものなんだろうな?

 僕は日本人に生まれて本当に良かったよ」


 私たちはそう言って、恋人同士のように見つめ合い、笑った。

 それはまるで、20年前のパリにタイムスリップしたかのように。


 後から後からパリでの思い出が蘇って来た。

 幸せだったあの日々。



 「急に誘っちゃったけど、ご主人に電話しなくても大丈夫かい?」

 「えっ、ああそうね、ってLINEだけしておくわね?」

 

 私はその時、わざと「遅くなる」を強調した。


 伊作のその言葉で私は現実に引き戻された。

 彼は私の左手の薬指のリングを見逃してはいなかったのだ。


 私は夫にLINEをした。



       幹部会議が長引いています

       子供たちのことヨロシクね



 するとすぐに返事が来た。


                    了解 ご苦労様



 結婚して初めて夫に嘘を吐いた。

 だが罪悪感は無かった。

 それは夫への復讐でもあったからだ。

 

 実際に証拠を掴んでいるわけではないが、女の勘として、夫には女がいる。

 最近では義務的セックスもめっきり減って、残業やゴルフ、休日出勤も頻繁になっていた。



 「子供さんは?」

 「娘がふたり」

 「奈緒の子供ならかわいいだろうね?」

 「旦那に似ているけどね?」

 

 そう、私は妻であり母親でもあった。

 私はグラスの吟醸酒を空けると、再びグラスにお酒を注いだ。

 今日は酔いたい気分だった。


 今だけ、今だけでいい。

 私は自分を忘れたかった。


 

 「伊作も結婚しているの?」

 

 私は気になっていることを彼に訊ねた。

 結婚指輪のないことは既に確認していたが、指輪をしない男性も多いからだ。

 すると彼はニッコリ笑って私に左手を見せた。


 「この通りだよ、変わり者の絵描きに寄って来る女はいない」


 嘘だと思った。

 この羽毛のように優しい、銀座の老舗百貨店で個展を開くほどの画家に、惹かれない女などいないはずだ。

 事実、私がその一人だったからだ。


 だが私はその伊作の言葉を信じたかった。

 それは今でも伊作のことを愛していたからだ。

 彼は年齢を重ねたことで、より落ち着いた、深みのある素敵な男性になっていた。


 今まで偽りの自分を演じて来た自分にとって、今日は本当の自分を曝け出す絶好の機会だった。




 お鮨を食べ終え、私たちはお店を出た。


 「もう少し伊作と飲みたい気分だなー?

 折角再会出来たんだし・・・」


 私は酔ったふりをして、彼の腕に抱き着いて甘えて見せた。


 「いいの? まだ帰らなくても?

 ご家族が待っているんじゃないの?」

 「いいのいいの、つぎ行こう次!」


 そうして今夜の私の「企み」が幕を開けた。




第4話

 「汐留に素敵なバーがあるんだけど、そこで飲まない?」

 「汐留なら僕の泊っているホテルのあるところだから助かるよ。歩いて帰れるから」



 タクシーに乗り、私は運転手に「ロイヤルパークホテルへ」と告げた。


 「ロイヤルパークなら僕の滞在しているホテルだよ。

 いいよね、あの大きな吹き抜けのあるバーラウンジ。

 でも座り心地のいいソファだから、寝てしまうかもしれないな?」

 「あらそうだったの? それなら伊作のお部屋で飲んだ方がいいかしら?」


 伊作は黙ってしまった。躊躇っているようだった。 

 それは私が人妻だったからだろう。


 「部屋で飲むのもいいけど、あのBARは好きだなあ。

 僕もナイトキャップはあのBARなんだ」


 私は彼の肩に頬を寄せ、彼のカシミアのコートにわざとファンデーションを付けた。

 それはまるで、犬のマーキングのように。

 他の雌犬が彼に近づかないようにと、私は呪言まじないをかけた。


 彼から香る、微かな油絵の具の香り。

 私はそっと目を閉じた。

 

 伊作はタクシーの中でもずっと私の手を握ってくれていた。




 高層ビルに囲まれた24階のBARラウンジで、私はマルガリータを、そして伊作はジンライムを飲んでいた。

 隣の高層ビルの灯りが都会の不夜城のように煌めいて見えた。

 私たちはソファに並んで座り、彼は私の肩を抱いた。


 「芳名帳に君の名前を見つけた時、心臓が止まりそうだった。

 そしてあの絵の前に立つ君の後ろ姿を僕は見ていた。

 すぐに奈緒だと気付いたよ」

 「あの絵、いつ描いたの?」

 「奈緒が帰国してすぐに。君を忘れないようにと描いた物だ。

 7日間だけの恋と約束したから、奈緒は僕に君の写真を撮らせてくれなかった。

 でも、別れた後にやっぱり後悔したんだ、君の顔が見たいとね?

 それでまだ奈緒の記憶が鮮明なうちにと君を描いた。

 いつも日本の個展にあの絵を飾ったのには理由があるんだ。

 いつか奈緒があの絵の前に立ってくれると信じていたから。

 そしてそれが現実のものとなった。

 奇跡は起きたんだ」

 「あの絵も売ってしまうの?」

 「まさか。誰にも売りはしないよ、でもあの絵はとても人気があるんだよ、中にはいくらでも出すから売って欲しいという人もいるほどだ。

 だが君は売り物ではないからね?

 風景や静物画ばかりしか描かない西山伊作が描いた唯一の肖像画。

 もしも僕が死んだら奈緒にもらって欲しい」

 「死んじゃイヤよ、いつまでもあなたの傍に私を飾っておいて。

 私があの絵に、そして伊作に会いに行くから」

 「パリまで?」

 「そう、パリまであなたに会いに行くわ。

 あなたと、あの描いてくれた私の絵に会うために。

 今はどこに住んでいるの?」

 「同じだよ、今も20年前と同じ、あのメゾンにひとりで暮らしている」

 「20年前と同じあの家に?」

 「そうだよ、あれからもう20年も過ぎたんだね?

 なんだか奈緒とこうしていると、ずっと一緒にいたような気がするよ」

 「どうして引っ越さなかったの?」


 彼はジンライムを口にすると、照れ臭そうに言った。


 「あのアパルトメントには、君との思い出が沢山染み込んでいるからね?」

 「馬鹿なひと・・・」


 うれしかった。

 そうして自分を20年もの間、ずっと想い続けていてくれたことに。

 そのセリフを聞いた瞬間、私は無意識に彼を抱きしめキスをした。

 それはとても長く自然なキスだった。



 「伊作のお部屋で飲みたい・・・」


 私は彼の耳元でそう囁いた。



 

 彼の部屋に入るとすぐに、私は伊作に強く抱き締められた。


 「ずっと愛していた! 僕の時間はあの日で止まったままだった!」

 「お願い、灯りを消して・・・」


 私も今年で42歳になっていた。

 生理はまだあるが、二度の出産を経験し、体の線はかなり崩れている。

 そんな自分を見て、気落ちする彼を見たくはなかった。



 私たちは失われた20年を埋めるかのように、無我夢中で求めあった。

 それは夫の博行との惰性のような行為とはまるで異次元のものだった。


 愛のあるセックス。


 めくるめく快楽の中で、私は次第に女になって行った。

 硬くて重い鎧を脱ぎ捨てた私は、本当の自分を解き放ったのだった。


 

 「好きよ伊作! 今でもあなたが大好き!」

 「僕もずっと奈緒を愛し続けていた!

 愛していたんだ! ずっと君を!」



 やがて彼もクライマックスに到達し、私の中から自分を引き抜くと下腹部へと射精し、そのまま果てた。


 波打つ彼の硬直したペニスが愛おしかった。

 許されることならそのまま私の中に放出して欲しいとさえ思った。

 私は今までに経験したことがないオルガスムスを感じていた。



 エクスタシーの余波も収まり、私は彼に身を寄せ、甘えた。

 

 「胸もお腹もオバサンになっちゃった。

 がっかりしたでしょ?」


 彼の想いを先回りするかのように私は自嘲した。


 すると彼は私にやさしいキスをしてくれた。


 「僕はどうだい? もう若くはない。奈緒の方こそ期待はずれだったんじゃないか?」

 「ううん、とってもいい香りがする。

 あなたのこの香り、あの頃よりもっと醸成されたような気がする・・・」

 「何もつけてはいないけど?

 でも奈緒はあの時の鮮烈なレモンから、円熟した甘いバレンシアオレンジになった気がする。 

 今、奈緒は女ざかりなんだね?

 僕はどうしたらいいんだろう?

 より一層、君を好きになってしまいそうだ」

 「私がバレンシアオレンジ?」

 「ああ、君はとても素敵だ、あの時よりもさらに」


 伊作は私を強く抱いた。


 「でも奈緒にはしあわせな家庭があるんだよね?」

 「しあわせかどうかは別だけどね?

 ねえ、淫らな人妻は嫌い?」


 私はそっと結婚指輪を外し、コンソールの上に置いたカルティエの時計の横にそれを置いた。


 「ほら、今はあなただけの物よ」


 私は左手の薬指を伊作に見せた。


 「奈緒・・・」


 中断されていた夜の物語が再開された。


 私は幾度も彼の名前を叫び続けた。




 終電を逃してしまった私は、彼との余韻を残したまま、タクシーで家路を辿った。



 家に着くと夫はすでに眠っていたが、寧ろそれは都合が良かった。



 私は浴槽に熱い湯を張り、カラダを沈めた。


 背徳感は無かった。

 まるでランニングを終えた後の爽快な気分だった。


 (伊作にまた会いたい・・・)


 さっき別れたばかりなのに、女子高生のように燥いでいる自分が可笑しかった。


 私は長い間、女を忘れていた。




第5話

 娘が生まれて、私たち夫婦の寝室は別々になった。

 夫の博行はダブルベッドを独占し、私は和室で寝ていた。


 人生の分岐点にやって来た今、私は自分の人生に自信を無くしていたところだった。


 (果たしてこのままでいいのかしら? 私の人生)


 この生活を手にするために払った私の代償はあまりにも重い。

 伊作に再会したことで私はそれを痛感していた。


 娘たちもやがてこの家を出て行くだろう。

 深夜まで帰らぬ共働きの妻を心配して起きて待つこともなく、いびきをかいて寝ている夫と暮らしてこのまま死んで行くことへの絶望感。

 人の幸福とは一体何だろうか?

 お金? 家族? 何事もなく安定した人生を送ること?


 大学を卒業し、メガバンクのシンクタンクで管理職として働いている私には、いつもパリでの想いが燻ったままだった。



 就職して三年が過ぎ、仕事にも慣れて生活も安定してきた頃、大学の親友、みやびに誘われて私は合コンに参加した。



 「奈緒、今日ヒマ? 合コンに来てくれないかなあ? 今日、ひとりドタキャンされちゃってさあ。イケメン揃いの有望株だから奈緒もおいでよ」

 「人数合わせじゃあんまり気乗りしないなあ~」

 「いいじゃないの、奈緒は彼氏もいないんだし、どうせヒマしてるんだからさー」

 「まあ、それはそうだけど・・・」


 そこで出会ったのが今の夫、博行だった。


 中々のイケメンで、大手広告代理店に勤めるエリート君だった。

 話題も豊富で気が効いて、一緒にいると楽しかった。

 付き合うには申し分のない男性だった。


 そして三度目のデートで私たちは男女の関係になり、それから1年後、私たちはゴールインをした。



 博行は家事も育児も率先して協力してくれたが、パートナーとしてはどこか物足りなさを感じていた。



     不味くはないが、美味しくもない



 そんな夫だった。

 長く一緒にいると、美人もイケメンも慣れてくるというが、それは確かだった。


 例えば食事の楽しさとは美味しい料理を食べることではなく、「誰と食べるか?」が重要なように、「誰と人生を歩むのか?」という選択が人生には大事だ。

 私の心は風に吹かれるコスモスのように頼りなく揺れ始めていた。 



 娘たちと朝食を食べていると、夫の博行が起きて来た。


 「今日は接待だから夕食はいらないから」


 (今日もまた女と会うのね?)


 私はすぐにそう直観した。

 夫は嘘を吐く時、罪悪感からなのか、語尾が僅かに下がる癖があった。

 私はそれを聞き逃さなかった。


 「そう? じゃあ今日は子供たちとファミレスにするわね?」

 「私はファミレスよりも回転寿司の方がいい」

 「私もその方がいい! お姉ちゃんに賛成!」

 「あらそう? じゃあ今日はお寿司にしましょうか?」

 「うん」


 私は内心、苦笑いをした。


 (今日もまたお寿司かあ)


 それは昨夜ゆうべも伊作とお寿司だったからだ。


 夫は残業のことなどには何も触れずに、ゴミ袋を携えて長女の凛と先に家を出て行った。


 「華、ママたちもお出掛けするから早く食べちゃいなさい」

 「うん、わかったー」


 こうしてまた、いつもの日常が始まった。




第6話

 「遅い! 遅ーい! ヒロちゃん、15分の遅刻だよ!」

 「ごめんごめん、撮影が長引いちゃってね? 今日はゆっくり出来るんだ、サキは何が食べたい?」

 「うーん、お肉かなあ?」

 「焼肉でいいか?」

 「うん、焼肉食べていっぱいしようね!」

 「高校生じゃないんだから」

 「大丈夫だよ、ヒロちゃんはまだ若いよ。ビンビンだもん」

 「じゃあ今日もサキが元気にしてくれよ」

 「いいよ、任せておいて。私、テクニシャンだから」

 

 咲子は駆け出しのモデルで23歳、CMプロデューサーの博行に目を付け、枕営業を仕掛けて来た娘だった。

 


 「広谷チーフ、ご飯に連れて行っていただけませんか?」

 「いいけど、食事だけじゃすまないかもよ?」


 半分冗談のつもりで言ったのだが、その日、誘って来たのは咲子の方からだった。


 「私、生理が近くなるとオオカミちゃんになっちゃうんですよ」


 咲子は中々の野心家で、自分の欲望をストレートにぶつけて来る女だった。

 だがそこが咲子の魅力でもあった。

 欲しい物は必ず奪い獲る、咲子はバンビを装う野獣なのだ。


 博行は自分との関係の見返りとして、積極的に咲子を起用し、業界関係者たちへも彼女を紹介した。



 「ちょっといいを見つけました。どうです? 今度、ぜひ会ってやってくれませんか?」


 その結果、咲子の知名度は上がり、仕事も増え、彼女の人気はどんどん上がって行った。 


 「女は見られてナンボ」と言われるように、人気が上がり、多くの人の目に晒されることで、咲子はより美しく輝き始めた。

 博行はそんな咲子を溺愛した。



 

 博行は中ジョッキの生ビールを同時に2杯注文した。

 

 「ヒロちゃん、あんまりお酒飲まないでよねー、オチンチンがごめんなさいしちゃうからー」

 「焼肉にはビールだろう? 俺は一度に飲む量が多いから、中ジョッキじゃすぐに無くなってしまう。

 その度に注文するのって面倒臭いし、そのタイムラグが嫌なんだよ。

 最近はめっきり大ジョッキを出す店が少なくなってしまって残念だよ」

 「私はこのナイスなバディとお顔が商品だから、ビールはちょっとねー。 

 だから私はこっちの方」


 咲子は汗をかいたジンライムのグラスを博行に見せた。


 20歳以上も歳の離れた咲子との会話に広谷は癒され、安らぎを感じていた。


 生き馬の目を抜くような広告業界では、毎日がストレスとの戦いだった。

 博行は横顔で笑いながらハラミを食べ、そしてそれをビールで流し込んだ。


 

 博行たちは近くのラブホテルに入った。


 「ほらー、だから言ったじゃないのー」

 「サキだって、5杯も飲んでたくせに。あはははは」

 「私はいいのー、その方が燃えるんだもん。

 しょうがないなあ、じゃあ、こうしてあげちゃうぞー」


 咲子は博行のそれを口に含むと、うまく舌を絡めて上目遣いに博行の反応を確かめた。

 その眼差しがあまりにも真剣だったので、博行はそれが可笑しかった。


 若くてしなやかで、張りのある水を弾くような肌。

 形のいい乳房を博行は強く揉んだ。


 「んっ、あんっ」


 咲子はそれを嫌がるどころか、その胸をより一層博行に押し付けて来た。


 「ねえ、乳首を噛んで」


 酔っているせいもあり、勃起するまでの時間を稼ぐ為、博行はいつもより長く前戯に時間を掛けた。


 彼女の喘ぐその表情に触発され、博行のそれは挿入出来る準備が整い、潤んだ咲子の中にインサートを開始した。


 「あん、あん、うっ、あん、あん・・・」


 そのリズミカルな動きに合わせ、次第に咲子の声も大きくなって行った。



 「イクっ」


 短い声を発し、咲子はエクスタシーを迎えたようだった。

 博行も少し遅れてその絶頂をコンドームの中に放出し、咲子から体を離して仰向けに大の字になった。


 咲子は精液の溜まったコンドームを外し、手慣れた手付きでそれを結ぶと、ティッシュに包んでベッドサイドのゴミ箱へ捨てた。


 

 「ヒロちゃん、奥さんとはしてないの?」

 「どうしてそんなことを訊く?」

 「何となく。ほら、男の人って嘘吐きだから。

 「愛しているのはサキだけだよ」、とか言ってしっかり子供作ってたりしてさ。

 前の彼もそうだったから」


 咲子は自分の顔とカラダでのし上がって来た女だがバカではない。

 微かな博行の心の動きを敏感に察知する。

 

 「40を過ぎて女房を抱いているほど、俺は野暮じゃない」

 「ヒロちゃん大好き! サキのこと、捨てちゃイヤだよ」


 そのセリフを聞いた時、博行はこの女とはもう少し付き合おうと決めた。



  

 娘の華はベッドで寝てしまい、凛は自分の部屋でテスト前の勉強をしているようだった。

 私はリビングで伊作にラインをした。



    こんばんは 旦那は

    接待でまだ帰って来ま

    せん

    あなたに会いたい

    今すぐに



 するとすぐに伊作から返事が来た。

 

              Bonsoir 僕も今

              奈緒のことを考え

              ていたところだよ


   うれしい! 

    今何しているの?


              ちょっと飲んでた

              バーボン


    ワイルド・ターキ

    ーでしょ?


              何でわかった?


    だって好きだった

    でしょ? 

    ワイルドターキー


             よく覚えていたね?


    何でも覚えている

    わよ   

    あなたのことは今

    でも全部

    ちょっと待ってて 

    私もグラスとワイン

    持って来るから

 

 

 私は冷えたワイングラスにドイツ産の白ワインを注いだ。



    お待たせ

    これで一緒だね?


             そうだね 一緒だ

         


    ねえ 今度いつ会

    える?


             奈緒さえ良ければ

             いつでも


    じゃあ明後日の

    土曜日は?


             いいけど大丈夫? 

             土曜日なんて?


    旦那は泊まりで  

    ゴルフだから

    子供は両親にみ

    てもらうわ

    子供たちにご飯

    を食べさせてだ

    から15時に

    迎えに行くね?


             じゃあ、ホテルの

             ロビーで待ってるよ

 



 その後も私たちはどうでもいいような会話をLINEで続け、気がつけばもう深夜の1時を回っていた。


 玄関のドアが開く音がしたので、私は慌ててスマホをマナーモードに切り替えた。



 「ただいまー」

 「お帰りなさい、何か食べる?」

 「いや、食べてきたから何もいらない。

 風呂に入って来る」


 私は見てもいなかったテレビを消した。


 「じゃあ寝るね?」

 「起きていてくれたのか? 悪いな?」

 「眠れなかったからワインを飲んでいたの。おやすみなさい」

 「おやすみ」


 夫の博行がバスルームに入ったのを確認し、私は伊作におやすみのLINEを送った。



    旦那が帰って来

    たからまたね? 

    おやすみなさい



 伊作からも返事が届いた。

          

             おやすみ奈緒

             愛しているよ



 土曜日が待ち遠しかった。

 私は伊作と過ごしたパリを思い出しながら、深い眠りに落ちて行った。




 嫌な夢で目が覚めた。

 夫と見知らぬ女から罵られ、子供たちは泣きじゃくりながら私を残して去って行く夢だった。


 再び眠りに就こうと試みたが中々寝付けなかった。


 朝になってしまい、私は珈琲を淹れ、朝食の準備に取り掛かった。




第7話

 「鈴木君、FRBの金融政策に関するレポートをまとめておいて頂戴」

 「ネットに出てますよ、それに広谷部長の方が僕より語学が堪能なのに翻訳する必要なんてないじゃないですか?」

 「ただの翻訳じゃなく、私はレポートをと言ったのよ。

 それに対するあなたの意見をまとめなさいと。

 これはアナリストとしての訓練だと思いなさい。

 私たちの仕事はいかに人に難しいことをやさしく簡単に、そしてわかり易く伝えることなの。

 夕方までに仕上げておきなさい」

 「わかりました・・・」


 鈴木君は渋々それを承諾した。

 彼は去年、新卒で入社したばかりの新人だった。

 彼はまだ世の中の仕組みがよくわかっていない、「ひよこ」だった。

 いい大学を出ているのでプライドが高く、自己主張が強い。

 おまけに私のような女性管理職を軽く見ているようだった。

 社員の中には忘年会も「残業扱いになりますか?」と真顔で訊いて来る女子社員もいた。


 早稲田出の頭でっかちのお坊ちゃんには、実務を多く経験させるのが一番だ。

 やり方は古いがOJTは今でも有効なのだ。


 大切なのは考える習慣をつけさせること。

 あらゆる角度から1つの現象を分析し、シュミレーションを展開していく。

 偏差値重視の日本の教育制度の限界がそこにある。


 ペーパーテストの成績など、人が相手のビジネスには何の役にも立たない。

 ただ知ってる、理解しているだけでは駄目なのだ。

 それを使ってこそ「知恵」になる。

 実戦を多く経験させ、失敗を力に変えることが彼らには必要だった。


 「じゃあよろしくね?」


 私はそのまま社食へ向かった。

 今日の気分はカツカレーだった。

 


 この38階の社食から見える東京は統一感もなく、勝手気ままなたけのこのように飽くなき成長を続けている、欲望のメガロポリスだ。


 老舗団子屋の隣にそびえ立つ高層ビル。

 パリにはこのような光景はない。

 芸術都市、パリ自体がアートなのだ。

 私はカレーを掬うスプーンの手を止め、いにしえの中を彷徨い始めた。




 それは大学生になった私が、映画同好会に入ったことに端を発する。

 そこで知り合ったのが文学部の塚本伸一だった。

 

 「俺、映画監督になるのが夢なんだ」


 キラキラとした瞳で夢を語る彼の姿に、私はすぐに魅了された。


 初恋だった。

 女子校で過ごした私にとって、男子との出会いは新鮮だった。



 いくつかのショート・ムービーを制作しているうちに、私と伸一は同棲を始めるようになった。


 脚本を書いたり、構成やキャスティング、映画フィルムの編集など、一緒にいると何かと都合が良かった。

 親友の香織もよくアパートに遊びに来て、お酒を飲んでそのまま泊まって行くこともあった。



 「でもさー、奈緒と伸一って本当にお似合いよねー? 卒業したら結婚するんでしょ?」

 「そんなのまだわかんないわよー、でも今はしあわせかな? それだけで十分」

 「ハイハイ、お熱いことでご馳走様」


 私は香織のその言葉を完全に信じていた。

 だがそれは、香織の本心ではなかった。



 家庭教師のバイトに出掛けた日、教え子の体調がすぐれないと言うことで、バイト代だけを受け取って、私はそのまま帰宅することにした。


 私は伸一を驚かせてやろうと思い、コンビニでおでんと焼鳥、そしてビールを買って家路を急いだ。

 

 そして私は勢い良く玄関ドアを開けた。



 「ただいまー、今日はバイトが早く終わったから・・・」



 そこには反射式のストーブに赤く照らし出された、全裸で折り重なる伸一と香織の姿があった。


 レジ袋が私の手から滑り落ち、愛と友情が同時に壊れた音がした。


 私はその場から全力で走り去った。

 それからのことは何も覚えていない。

 結局その日は家に帰らず、ネットカフェで夜を明かした。

 せめてもの救いはその当時、まだ携帯がなかったことだった。

 言い訳なんて、どちらからも聞きたくはなかった。



 翌朝、家に戻るとふたりの姿はなかった。

 テーブルの上には切り取られたノートのページが置かれてあった。



    俺たちは奈緒を裏切ってしまいました。

    どんな罰も受けるつもりです。

    人を愛するということは理屈じゃない、

    本能なんだ。

    誘ったのは俺の方です、俺は最低の男です。

    必要な私物は持っていきますので、あとは

    処分して下さい。


    今までありがとう。ごめんなさい。

    

    さようなら。

  

                     伸一




 「愛は理屈じゃない? 本能ですって? あんたたちは人間じゃないわ、ただの犬や猫と同じよ!」


 私はそのメモをビリビリに破り捨て、号泣した。


 その涙は伸一と香織に対する憎しみの涙ではなく、そんなふたりのことに気付かずにいた、そんな情けない自分に対する涙だった。

 私はその日から1週間、1Kのアパートに引き籠って泣き続けた。




 やっと大学に出ると、香織に呼び止められた。


 「奈緒ごめん、私を殴って・・・」

 

 私は何も言わず、香織を思い切り平手打ちした。

 香織の自慢の長い髪が大きく揺れた。



 「あー、スッキリした。二度と私の前に来ないで!」



 それは親友だった香織への、せめてものケジメだった。

 彼女は私からの罰を望んでいたからだ。

 そして香織は忘れるだろう、私から伸一を奪ったことも。


 浮気する方もおかしいが、浮気された方はもっと惨めだ。

 それは自分に魅力がなく、香織を伸一が選んだという歴然とした事実があるからだ。


 私はそのために香織をビンタし、「あー、スッキリした」と付け加えることで全てが終わったことを宣言したのだ。

 香織にも、そして自分にも。



 そしてふたりはあんなに好きだった映画同行会を辞め、私の元から去って行った。


 伸一を大学で見かけることはあったが、お互いに何も話しはしなかった。

 私の初恋は、急速に冷めていった。




 就職はメガバンクのシンクタンクに内定していた。

 私は中学の頃から憧れていた、池田理代子の漫画、『ベルサイユの薔薇』の舞台であるパリに卒業旅行に出掛けることにした。


 本当はベルサイユ宮殿で、伸一と私が主役のベル薔薇のパロディ映画を制作する約束だったが、それもなくなってしまった。


 そしてそこで出会ったのが伊作だった。



 少しずつ蘇る、パリの燃えるような7日間の恋の記憶。

 私は再びカツカレーを食べ始めた。




第8話

 土曜日、私は父と母に娘たちの面倒を見てもらうことにした。

 凛は中学生で、華も自分のことは自分で出来るが、一晩家を空けるのはやはり心配だったからだ。


 「じゃあママは今日は出張だから、ジイジとバアバの言うことをよく聞くのよ。

 おみやげ買って来るから」

 「大丈夫だよママ。私たちもう子供じゃないよ、大人でもないけど」

 

 父も母も、久しぶりに孫たちに会えて嬉しそうだった。

 

 「大変ね? お休みまでお仕事だなんて」

 「ごめんなさいね、孫のお守りなんかさせて」

 「何を言っているのよ、かわいい凛と華と一緒なら毎日でもいいくらいよ。

 ねえ凛ちゃん、華ちゃん?」

 「うん、ジイジとバアバ大好き!」

 「出張はビジネスマンには付き物だ。

 俺なんか1年の三分の一は海外出張だったからな?」

 「あの頃は大変だったわよねー。お父さん、たまに帰って来たかと思えば着替えを持ってまた海外だもんね?」

 「今なら労基署から業務改善命令だろうな?

 お前たちには苦労をかけた。

 ロスから帰って社長にそれを報告して、またすぐに今度はモスクワだったからな?

 パスポートが出入国のスタンプとビザでいっぱいだった」

 「気をつけて行くのよ」

 「うん、じゃあお願いね? 行ってきまーす」

 「ママ、行ってらっしゃーい!」



 私はまた嘘を吐いてしまった。

 人は一度嘘を吐くと、その嘘を隠すためにまた嘘を吐かねばならない。

 ごめんね凛、華。そしてお父さんとお母さん。


 タクシーに乗り、私は汐留で待つ彼の元へと向かった。




 「お待たせー!」


 私は人目も憚らず、ロビーで彼に抱き付いた。

 まるでパリの恋人たちのように。


 「奈緒、君に会いたかった」

 「私もよ、伊作。お部屋に荷物、置いて来てもいいかしら?」

 「もちろん」



 私たちは部屋に入りキャリーバッグを置くと、熱く長いキスをした。

 そのまま次のプロセスに進みたかったがそれは我慢した。

 今日は伊作と外でデートがしたかったからだ。


 「ねえ、今日は横浜に行かない?」

 「横浜? 実は僕もそう考えていたんだ、以心伝心だね?」

 「東京にも港はあるけど、私は横浜の港が好き」

 「横浜の港の風には色があるからね?」

 「何色の風?」

 「薄いモスグリーン。

 そして干草の香りがする」

 「それを見に行こうよ、横浜の風の色とその香りを知るために」




 私たちは電車に並んで座り、左から右へと流れて行く都会の景色を眺めていた。

 恋人繋ぎをした手が汗ばんでいた。



 「変わらないなあ、東京は?」

 「高層ビルは増えたけどね? でも私はこの混沌とした東京が好きよ。

 このカオスの街が」

 「カオスか? 不思議なチカラがあるよね? 東京には。

 でもここにはパワーはあっても美は少ない」

 「確かに美は乏しいかもしれないわね? そして最近ではそのパワーさえも衰えた気がする」

 「パリは変わらないよ、あの頃のままだ」

 「行きたいなあ、パリに」

 「おいでよパリに。

 僕はいつでも大歓迎だよ」


 私は何も言わず、彼と繋いだ手にギュッと力を込めた。

 それはいつか必ず、再びパリを訪れる決意だった。




 私たちは横浜駅からシーバスに乗り、山下公園を目指した。

 大桟橋に停泊しているホテルのような大型客船や、埠頭に係留され、荷役を続ける沢山の大きな船舶。

 舷側を叩くさざなみの音と夕陽に煌めく海。

 頬を撫でる潮風が心地いい。



 「本当ね? 横浜の風には色があるわ」

 「奈緒にはどんな色に見える?」

 「私には桃色に見えるわ。

 でも今日は干草の香りじゃなく、牡蠣の殻の匂いがする」

 「あははは 牡蠣か?

 思い出すよ、奈緒とモンパルナスのレストランで食べたあの牡蠣を」

 「また食べたい、フランスの牡蠣」


 私はそれに同意するかのように、彼とそっと腕を組んだ。




 山下公園の桟橋でシーバスを降りた私たちは、夕暮れのパープルに染まりつつある山下公園を散策した。



 「この山下公園は関東大震災の時の瓦礫で埋め立てられた、人工公園なんだ。

 ここに来ると物悲しく感じるのはそのせいかもしれない」

 「あの『赤い靴』の銅像もあるしね?」

 

 私は何気なく、『赤い靴』の童謡を口ずさんだ。



    赤い靴ー はーいてたー 

    女の子ー 偉人さんにー つーれられーてー

    いー ちゃー たー♪

 


 伊作もそれに続いた。


    

    横浜のー 波止場からー 

    ふーねにのーおってー・・・♪



 「悲しい唄ね?」

 「悲しみには時として、その儚さゆえに美しさが伴うものだ。

 外人と見知らぬ国へ旅立つ女の子の不安と悲しみ。

 それを赤い小さな靴が印象付けている」

 「ねえ、中華街でお食事しない?」

 「そうだね? やはり横浜に来たら中華だよね?」


 山下公園の花壇から、甘くエロチックな薔薇の香りが漂っていた。




第9話

 その店は中華街の人気店だけあって、かなり混雑していた。

 あちらこちらのテーブルで起こる、歓喜と驚きの声。

 食器とグラスの触れ合う音。

 20年の時を超えて、伊作と私がこうして横浜中華街で一緒に食事をしていることが不思議だった。



 「なんだか夢を見ているみたいね?

 本当の中国に来ているみたい」

 「パリにもチャイニーズ・レストランはあるけど、日本の中華はホッとするよ。

 日本人の好みにちゃんと合わせてあるから」

 「娘がまだ保育園の頃に中華街に連れて来たんだけど、「ママー、ここは中国なの?」って目を丸くしていたわ」

 「よく保育園の娘さんから「中国」なんて言葉が出たね?」

 「おそらくパンダの影響かも?

 パンダは中国から来たってことは知っていたし、よくテレビ番組でもやっていたから」

 「なるほどパンダか? 子供って面白いね? どんどん知識を吸収していくスポンジみたいに」

 

 エビチリ、鶏肉とピーマンのカシューナッツ炒め、そして春巻を食べながら私たちはビールを飲んだ。


 「そろそろ紹興酒に変えようかな? 奈緒はどうする?」

 「じゃあ私も紹興酒で」


 温かい紹興酒と氷砂糖が運ばれて来た。

 伊作は小さなワイングラスに氷砂糖を1つ入れると、そこに人肌に温められた紹興酒を注ぎ、それをターンテーブルに乗せ、私の前に回して寄越した。


 

 「お砂糖を入れて飲む紹興酒なんて初めて」

 「いい店は氷砂糖で出してくれるが、普通の店はザラメ砂糖が多いんだ。

 ここはいい店だね? はいどうぞ」

 「ありがとう、作ってくれて。

 男の人にこんな風にしてもらうのって、何だか照れちゃうな?」

 「そうかい? 僕はしてもらうよりもしてあげる方が好きだけど」


 そう言って笑う伊作はとてもセクシーに見えた。


 仕事上の付き合いで飲みに行くことはあるが、いつも女はホステス代わりに酌をさせられた。

 たまに家で博行と飲む時も同じだった。

 こうして伊作に給仕されると新鮮で、嬉しかった。

 私は女性として大切にされていると感じた。



 「ほら見てご覧、まるで本当の氷のように紹興酒の中で溶けていくのが見えるだろう?

 僕はね、こうして氷砂糖が琥珀の酒の中で溶けていくのを見るのが好きなんだ。

 それじゃあ二度目の乾杯をしようか?」

 「今度は何に乾杯する?」

 「さっきの乾杯は僕たちの再会を祝したから、今度は僕たちの未来に乾杯しよう」

 「私たちの未来に?」

 「そう、僕たちの素晴らしい未来に。

 乾杯」

 「私たちの素敵な未来に・・・、乾杯」



 (未来? その未来とは一体どんな未来なのだろう?)


 止めよう、今、そんなことを考えるのは。

 誰にも先のことなど分かりはしないのだから。


 甘く温かい、とろりとした紹興酒が、今の私たちの満たされた時間を象徴していた。

 ただそれだけでしあわせだった。



 「あの日のパリからずっとこうしているような気がするよ。

 本当に20年も経っているのかな?」

 「初めてパリで出会ったこと、今でも覚えてる?」

 「もちろん忘れはしないよ。忘れることなんて出来なかった。

 君は咲くのを躊躇う薔薇の蕾のような女性だった。

 僕はそんな君を咲かせたいと思った。

 そして今、君は大輪の薄いピンクの綻ぶような、気高い薔薇として咲いている」

 「伊作は詩人でもあるのね? いつもそうやって女を口説いているんでしょ?」

 「酷いなあ、本心だよ」

 「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」




 20年前、フランスのドゴール空港に私たちを迎えに来てくれた現地ガイドが伊作だった。

 黒のカシミアのロングコートを着た彼は、愛想を振り撒く訳でもなく、私たちに淡々とパリを案内してくれた。



 ホテルに荷物を置いて、小さなビストロで昼食を摂った。



 「みなさん、エスカルゴは初めてですか?

 エスカルゴを食べた後のスープは、この様にパンに付けて食べると美味しいですよ」


 彼はバゲットをひと口大にちぎると、それを私たちに実践して見せた。



 「あらホント、すごく美味しいわね。

 ニンニクがとてもよく効いているわ」

 「エスカルゴなんて、日本では格式の高いフレンチレストランじゃないと食べられないからなあ」


 ツアー客たちはそれに頷きながら食事を楽しんでいた。


 

 「これからパリ市内観光と自由行動に分かれます。

 パリの人は交通ルールをあまりよく守りませんし、スリや詐欺も多いのでくれぐれも注意して下さい。

 バッグは体の前に来るようにして下さいね。

 買い物に夢中になっていると狙われ易いです。

 日本の女性は特に」


 するとコーヒーもそのままに、半数以上のツアー客が急ぐように店を出て行った。

 私は現地ガイドの伊作に尋ねた。


 「みなさん、パリ観光もせずに慌ててどちらへ?」

 「今、パリはソルドの真っ最中なんですよ、殆どの商品が半額になりますからお買い物に出掛けたようですね?

 それに今日は金曜日で、土日はお店もデパートもお休みになります。だからみなさん、そちらへ急いだのでしょうね?

 あなたはいいんですか? ショッピングをしなくても?」

 「私はパリにお買物に来たわけではありませんから」

 「それは良いことです。折角のパリですからね?

 なるべく多く、パリを楽しんで下さい。

 一番のおみやげは、このパリでの思い出ですから。

 それにパリで買える物は殆ど日本でも買えますからね?

 パリにも日本にも『高島屋』はありますから」


 伊作は澄んだ美しい瞳で、私を見て微笑んだ。

 そして私たち観光組はベルサイユ宮殿へと向かった。




 子供の頃からの憧れだったベルサイユ宮殿。

 私の夢が遂に叶った。


 美しいシンメトリーの巨大宮殿と広大な庭園に私は息を呑んだ。

 宮殿内にある王の礼拝堂の天井画は圧巻だった。



 「この天井画を描いた画家は、ずっと上を向いて描いていたためなのか? 天井画を完成させた後には気が狂って死んでしまったそうです。

 この天井画は彼の命で描かれた物なのです」


 伊作はそれをさらりと説明した。

 神々しいほどの天空の物語。

 画家は死んでしまったが、後世にこの凄まじい美を彼は残した。

 私は死んで、一体何を残すことが出来るのだろう?


 

 そして私たちはあの有名なベルサイユ宮殿の『鏡の間』へと進み出た。

 巨大なシャンデリアと壁を覆い尽くす大きな鏡たち。

 今でも楽団の演奏に合わせて踊る、貴族たちの姿が見えるようだった。


 「ベルサイユにはトイレがありません。

 女性のあの傘のように特徴的なスカートが役に立っていたようです。

 何しろ廊下で用を足し、それを使用人たちに片付けさせていたそうですから」

 「えっー、やだわ、廊下でなんて」


 年配の二人組の女性ツアー客が笑った。




 外に出て、私が噴水のところから庭を眺めていると、後ろから声を掛けられた。

 伊作だった。


 「この噴水は重力式の物で、上の貯水池からここへ水が噴出するように設計されているのです。

 昔はポンプがありませんでしたからね?」

 「私、あの『ベルサイユの薔薇』にずっと憧れていたんです。

 それで思い切って大学の卒業旅行にパリにやって来ました。

 予想以上でした、すごく素敵。

 パリまで来た甲斐がありました」

 「あのオスカルとアンドレですね? それは良かった。

 ではマリー・アントワネットにもお詳しいのですね?」

 「ベルバラの知識程度しかありません。

 パリに来るのが決まってから、慌てて遠藤周作の『王妃マリー・アントワネット』を読みました。

 もっとよく勉強して来れば良かったと後悔しています」

 「そうでしたか?

 ではプチ・トリアノンの話はご存知ですか?」

 「その話、ありましたっけ? 記憶にありませんけど」

 「マリー・アントワネットはこの堅苦しい形式ばったベルサイユ宮殿が嫌いだったそうです。

 そんな王妃のために夫であるルイ16世は、その離宮である、プチ・トリアノン宮殿を与えたのです。

 そこで彼女は英国式の田園集落を作りました。

 野菜を育てたり、機織りをして過したのです。

 そこが『王妃の里村』と呼ばれる所以でもあります。

 プチ・トリアノンは王妃の聖域でした。

 オーストリアのハプスブルグ家から僅か14歳で政略結婚をさせられた悲劇の王妃、アントワネット。

 そこにはマリー・アントワネットの幽霊が出ると言われています」

 「王妃の幽霊が?」

 「余程、プチ・トリアノンでの暮らしが楽しかったのでしょう。

 アントワネットの許可なく立ち入ることは許されませんでした。

 それが例え王のルイ16世であってもです」

 「見てみたい、プチ・トリアノンを」

 「今日は時間がないのでご案内できませんが、是非、滞在中にご覧になってみて下さい。

 きっと感銘を受けると思いますよ、美しくも悲しいプチ・トリアノンに」

 「ひとりではちょっと。

 私、フランス語もわからないし」


 私はチラリと伊作を見て、遠回しに伊作を誘った。



 「月曜日ならご案内出来ますけど?」

 「ガイド料はおいくらですか?」


 すると彼は面白そうに笑った。


 「そうですねー? ではお昼をご馳走して下さい、それで結構です」

 「それでいいんですか?」

 「はい。喜んで」



 それが伊作と私の運命の出会いだった。




第10話

 月曜日、伊作は私の滞在しているホテルまでクルマで迎えに来てくれた。

 

 「それではマリー・アントワネットに会いに行きましょうか?」

 「本当にアントワネットの幽霊がいるんですか?」

 「さあどうでしょう? でも、私は好きですよ、プチ・トリアノンもマリー・アントワネットの幽霊もね?」

 

 ホテルの前にはクリーム色のシトロエンが停めてあった。


 伊作は助手席のドアを開けてくれた。

 その身のこなしはとてもスマートなものだった。

 彼は私をレディとして扱ってくれた。

 まだ学生の私にとって、それは初めての経験だった。

 うれしかった。



 伊作は静かにクルマを発進させ、滑らかに車道の流れにクルマを合流させた。



 「自己紹介がまだでしたね?

 僕は西山伊作、25歳。

 パリには絵の勉強に来ているんです。

 パリに来て今年で3年になります」

 「私は前園奈緒、青学の4年生です。

 伊作さんて素敵なお名前ですね?」

 「母が名付けてくれたんです。

 母はクリスチャンでね? キリスト教のサラとアブラハムの子供のイサクが由来らしい。

 母はピアニストだったんですけど、今は日本の音大で講師をしています。

 奈緒ちゃんはクリスチャンなの?」


 ここでようやく伊作は私を「ちゃん」付けで呼び、友だち口調になった。


 「私は宗教とは無縁だから、キリスト教にも知識がないの」

 「パリへは卒業旅行で来たんだよね?」


 私は少し返答に躊躇したが、正直に答えた。


 「それもあるけど本当は傷心旅行なの。

 親友に彼を盗られちゃった」

 「杏里の『悲しみが止まらない』の唄みたいだね? それは辛かったね?」

 

 私は黙って頷いた。


 「こんなに素敵な奈緒ちゃんを振るなんて、その彼、どうかしてるよ。

 でもね、恋愛なんてどんなにお互いが好きでも、そうはいかない時もある。

 それが奈緒ちゃんたちの定めだったのかもしれない」

 「定め?」


 私は運転に集中する彼の横顔にハッとした。

 

 (なんて美しく、知的な横顔なの?)


 人間の履歴書は横顔にあるという。

 今、私はそれを納得していた。



 「僕たちは生まれた時から、いや、生まれる前から宿命を背負って生まれて来るんだ。

 いつどこに、どんな親の元に生まれ、誰と恋をし、結ばれたり別れたりするのかは、既に決められているんだよ。

 そしてやがて運命の人に出会う。僕はそう思うんだ」

 「じゃあ彼と別れることも、親友に裏切られることも運命だったというの?」

 「でもそう考えれば諦めが付くだろう? 嫌なことや悪いことはみんな運命のせいだと思えば気がラクじゃない?」

 「なーんだ、そういうこと? 伊作さんて面白い人ね?」


 私は思わずハンドルを握る彼の血管の浮き出た手に触れそうになった。

 伊作といると、とても穏やかで素直な自分でいることが不思議だった。

 私はパリに来て、本当に良かったと思った。


 私たちは一緒にドライブを楽しんでいる、恋人同士のようだった。


 ドライブ中、私は日本の話を、そして伊作はパリのことを話した。

 楽しいドライブデートだった。




 プチ・トリアノンに到着した。


 「もっと大きい宮殿を予想していたけど、意外と小さいのね?」

 「この建物はね、各々のファサード外観から見える景色を、計算して造られているんだ。

 確かにベルサイユ宮殿やトリアノン宮殿と比べると小さいが、僕はこの離宮がとても気に入っている。

 ここでアントワネットは自然に囲まれ、農作業をし、ファルセン伯爵と恋をした」

 「不倫してたってこと?」

 「嫌な言い方をすればそうなるね? でも僕はファルセンとの恋は「純愛」だと思うんだ。 

 だってルイ16世との結婚は国同士が決めた政略結婚だったんだから」

 「そういえばそうかもしれないけど、ちょっと抵抗あるなあ? 旦那さんがいるのに浮気だなんて」


 私は香織のことを想い出していた。

 つまり私がルイ16世でファルセンが香織? それが許せなかった。



 「ふたりの出会いはパリのオペラ座での仮面舞踏会、マスカレードだったそうだ。

 仮面をしているふたりが、まさかフランス王妃とスウェーデンの貴族だったなんて、運命を感じないかい?」

 「そこからお付き合いが始まったの?」

 「いや、ふたりが親密になったのは、その数日後に開かれたベルサイユ宮殿での舞踏会だったらしい」


 だが私はそれを容認する気にはなれなかった。

 それはファルセンの略奪愛であり、アントワネットのルイ16世への背徳だったからだ。

 人はその行為を不倫と呼ぶ。「倫理に非ず」と。



 「そのまま二人の密会は続いたの?」

 「ファルセンは王妃に迷惑が掛かるのを怖れ、アメリカへの従軍を志願し、アントワネットの下を去ってしまう。

 でもやっぱりアントワネットのことが忘れられず、パリへ舞い戻って来てしまうんだ。

 すると彼女はファルセンにそっくりなルイ17世を出産していたんだ。

 夫のルイ16世はどうやらそれを知っていたらしい」

 「子供まで産んじゃったの!」

 「そういう時代だったんだろうな?

 世継は王家の宿命だからね?

 そしてフランス革命を迎える。

 ファルセンは何度も王家を亡命させようと試みたがすべて失敗に終わり、ファルセンは最愛のアントワネットと自分の子供までも失ってしまう。

 民衆の自由の名の基にギロチンの露と消えたんだ。

 ルイ17世はまだ10歳だったんよ、ファルセンの民衆への怒りは尋常じゃなかったはずだ」

 「残されたファルセンはその後、どうなったの?」

 「スウェーデン軍の元帥にまで出世して、最後は暴徒化した群衆に撲殺されたらしい。

 その場にいた彼の部下たちは、何もせずにただそれを傍観していたそうだ。

 彼は軍服をはぎ取られ、裸で側溝に捨てられるという屈辱的な死を遂げる」

 「バチが当たったのよ、不倫なんかするから」

 「そうかもしれない。

 ほら、そこにアントワネットの幽霊が」

 「キャーッ!」


 私は思わず伊作に抱き付いた。

 伊作は私を優しく抱きしめてくれた。

 

 「ごめんごめん、ちょっと悪戯したくなっちゃったんだ。

 あまりに奈緒がかわいくてね?」


 奈緒ちゃんから「ちゃん」が取れ、私は伊作に「奈緒」と呼び捨てにされた。


 「驚かせないでよ、伊作のバカ・・・」


 私も彼を呼び捨てにした。

 私たちは抱き合ったまま、じっとしていた。


 「もう少しだけ、こうしていて・・・」


 伊作はそれに答える代わりに、私を抱きしめる腕に力を込めた。


 私の失恋の痛みは、ゆっくりと溶けてゆくグラスの氷のように消えていった。




第11話

 パリに戻り、街角の小さなビストロで遅めのランチをした。


 「嫌いな物や食べられない物はある?」

 「ないよ、何でも大丈夫。

 ご馳走するから何でも頼んでね? 約束だから」

 「いいよ、マドモアゼルにご馳走になるわけにはいかない。

 じゃあ、適当に注文するね?」


 彼はギャルソンを呼び、流暢なフランス語でオーダーをした。



 「フランス語、上手ね?」

 「パリに住んでもう3年になるからね?」



 料理が運ばれて来た。

 メインは伊作が牛頬肉のワイン煮込み、私はヒラメのムニエルだった。



 「とっても上品な甘さと酸味。

 これってクランベリー・ソースなのかな?

 ムニエルに凄く合うわ。

 私、本当にパリにいるのね?」

 「食事で自分の場所を確認することって、あるよな?」

 「だって私がよく行くお食事なんて、ラーメンにハンバーグ、カレーにパスタ、マックぐらいだもの。

 確かに東京には世界中のお料理があるけど、学生には縁遠いしね?」

 「イタリア人は食べて、歌って、そして愛することが人生だという。

 そして僕は絵が描ければそれでいい、それが僕の理想の人生だ」

 「どんな絵を描いているの?」

 「油絵の風景画」

 「見てみたい! 伊作の絵」

 「いいよ、アトリエにおいでよ」

 「行ってもいいの?」

 「もちろん」

 「ああ、ずっとパリにいたいなあ、何もかも忘れて」

 「いればいいよ、ずっとパリに」

 「どうやって?」

 「僕とパリで暮らせばいい」

 「私がどんな人間なのかも知らないくせに。日本から逃げて来た犯罪者かもよ?」

 「ツアーで逃亡? 君の過去なんてどうでもいいよ。

 これからの奈緒のことしか興味はない。

 そして僕のことも君は知らない。

 それで十分じゃないか?」

 「私を口説いているつもり?」

 「口説いているんじゃない、「好きだ」と言っているんだ」

 「それ、同じじゃない?」

 「いや違う、君の同意はいらないからね?

 僕は自分の想いを言ったまでさ。

 君が僕をどう思おうと、僕は君が好きだ」


 伊作は微笑み、料理にナイフを入れた。


 

 すでに私も彼に夢中だった。

 プチ・トリアノンで伊作に抱き締められた時、私は全てを忘れた。

 大好きだった伸一も、その伸一を奪った香織のことも。



 「ねえ、帰国までの7日間、私の恋人になってくれない?」

 「7日間だけ?」

 「そう、7日間だけ」

 「7日間だけで終わる恋?」

 「そうよ、期間限定の恋」

 「どうして?」

 「だって映画みたいじゃない? いいところで THE END。

 それに・・・」

 「それに?」

 「それに、それが忘れられない、色褪せない「終わりのない永遠の恋」になるからよ。

 私ね、もう恋愛で傷付きたくないの」

 「だったら終わらない恋にすればいいじゃないか? 

 僕は奈緒を一目見た時から本気だよ。

 恋はハッピーエンドになるためにするものじゃない。

 結末なんてどうでもいい。今、この瞬間が大切なんだ。

 こうして僕たちが出会ったのは運命ではなく、宿命だから」

 「宿命・・・」


 パリに来れば自分をリセット出来ると思っていた。

 そしてその目的は達成され、新たな恋が生まれた。

 7日間だけと期限を切ったのは、今回の事で自分を俯瞰出来る様になったからだ。


 あんなに好きだった伸一に裏切られ、私は恋が絶対ではないことを悟った。


 私は怖かった。

 底の見えない恋の深淵に立ち、もうひとりの私は躊躇していた。

 

 (本気で人を好きになっては駄目よ。

 恋愛は絶対じゃないわ)


 この美味しい食事のように、食事を終え、お店を出ると「ああ、美味しかった」という素敵な記憶だけが残る。

 それが理想の恋だと思う。

 ただ美しいだけの恋。滅びることのない恋。

 それは現実の恋愛から離れ、最良の関係のまま、思い出として記憶の中で抱き締めて生きることなのだ。

 私は恋愛に対して臆病になっていた。

 そうすれば曖昧な恋に翻弄されることもなく、私が傷付く事もない。

 それに私は東京で、伊作はパリ。

 だから今だけ、今だけ伊作と夢のような恋がしたかった。

 終わらない恋が。


 この美しいパリで一生に一度でいい、映画のような恋をしてみたかった。

 

 伊作はそれに相応しい相手だった。

 私と伊作の7日間の恋が始まろうとしていた。




第12話

 食事を終え、彼のアトリエに向かう途中、セーヌ河畔に沿って伊作はクルマを走らせていた。

 

 7日間だけの恋。

 私たちには時間がない。

 私は一秒でも長く、伊作に触れていたかった。

 私は伊作の太腿に手を置き、彼の横顔を見詰めていた。


 早く彼のぬくもりが欲しいと思うと、体が熱くなった。


 だがその一方で、久しぶりの恋に戸惑う自分もいた。

 時折、低いグラスボートがセーヌ川を滑って行く。


 

 「ランボーって詩人、知ってる?」


 伊作は前を向いたまま、私に訊ねた。


 「アルチュール・ランボーのこと? 名前だけは知っているけど作品は読んだことがないわ」

 「僕は彼の詩が好きなんだ。

 いいんだよ、ランボーの詩はとても。

 僕もランボーのような、自由奔放な放浪詩人になりたい」

 「どんな詩?」


 彼はその一節をそらんじてみせた。



   私は歩いた 破れたポケットに両手を突っ込んで

   外套もポケットに劣らずおあつらえ向きだった


   大空の下を私は歩いた ミューズを道案内にして

   何たる愛の奇跡を私は夢見たことか


        

 「いい詩だろう? 『我が放浪』の一節なんだ」

 「うん、じゃあ私はあなたを道案内する女神ね?」

 「そうだね? そうかもしれない。

 君は僕を惑わす危険なミューズだよ」

 

 伊作はそう言うと、ハンドルを握りながら、私に軽く唇を重ねた。

 私もそれに応えた。

 運転しているので、それはとても短いキスだった。

 私は伊作に寄り添った。




 彼のパリのアトリエは、まるで絵画の神様がいるかのようだった。

 油絵具と木に塗られたニスの匂い。

 北向きのその部屋は天井が高く、縦長の格子窓がはめられていた。

 淡いセルリアンブルーに塗られた壁と暖炉。

 たくさんの絵具と絵筆、そして白いカンヴァス。

 しかし、作品は意外にも少なかった。

 イーゼルには完成間近の夜の遊園地の絵が置かれていた。


 「悲しそうな夜の遊園地ね? 誰もいないわ」

 「遊園地は決して楽しいだけじゃないからね? 少なくとも僕にはそう見えた。

 喧噪の中の静寂な孤独を表現したかった」

 「ここはどこの遊園地なの?」

 「チュイルリー公園の移動遊園地だよ」

 「今もあるの?」

 「冬だからね? 今は何もやっていないと思うよ。

 でも、明かりは点いているかもしれない」

 「見てみたい、その夜の遊園地」

 「じゃあ、これから見に行こうか?」

 「うん、その悲しい遊園地を。

 このアトリエには伊作の作品は少ないのね?」

 「別にダヴィンチを気取るわけじゃないけど、気に入らない作品は破り捨てて暖炉にくべてしまうんだ。

 僕はピカソじゃないから」


 すると伊作は書棚からフランス語の本を一冊手に取り、私に差し出した。


 「奈緒にあげるよ、このランボーの詩集」

 「いいの? あなたの大切なご本でしょう?」

 「だから奈緒に持っていて欲しいんだ。

 これを僕だと思って思い出して欲しいから」

 「ありがとう、でも折角だけどいただくわけには行かないわ。

 これから始まる伊作との素敵な恋は、音楽のように奏でられた瞬間から美しく消えてしまう定めだから。

 ただの思い出にはしたくはないの」


 「そしてあなたのことが好き」、と言いかけて止めた。

 安っぽい恋愛小説のように、好きとか愛してるを口にはしたくはなかったからだ。

 私はこの恋が、どこにでもあるような陳腐なものになることを避けたいと思った。


 「そうだったね? この恋はパリで終わるんだった・・・」


 伊作は寂しそうにそれを本棚に戻した。

 彼の後ろ姿が切なかった。


 私たちは白布が掛けられたソファに座り、熱く長いキスをした。

 私は彼の厚い胸に触れ、伊作は初めて私の乳房にそっと触れた。


 「伊作・・・」

 「奈緒。君が好きだ」


 ふたりは強く抱擁し、服を脱ぎ捨て体を合わせた。

 それはまるでアダムとエヴァの原始の行為のように自然なものだった。


 私はその時、初めて女としてのエクスタシーを感じ、本気で伊作と愛し合った。

 伊作のコンスタントな動きに合わせ、声が漏れてしまうのが恥ずかしかった。


 「あん、あん、あん・・・」


 私は目を閉じ、すべてを伊作に委ねた。

 赤く燃える暖炉の前で、夢中になって私たちはお互いを強く求め合った。

 



 長いセックスの後、放心状態でいる私に伊作が言った。


 「もうすぐ日が暮れる。

 遊園地に出掛けてみようか?」

 「うん・・・」


 私たちはラグに脱ぎ散らかした服を拾い集め、何事もなかったかのようにアトリエを後にした。




第13話

 心細い雪が降っていた。


 アンバリッド廃兵院の前にはお洒落な街灯が真珠のネックレスのように続き、私たちは新雪を踏み締めながら手を繋いで歩いた。



 「寒くない?」

 「少し寒い。伊作は?」

 「僕は温かいよ、とても」

 「もっと温めて。雪も溶けてしまいそうなほど」


 伊作は立ち止まり、私を抱き締め口づけをした。

 それは炎のように熱いキスだった。



 「このアンバリッドはね? ルイ14世が創った戦争で負傷した兵士たちの病院施設だったんだ。

 あのナポレオンの墓もここにあるんだよ」

 「パリは歴史の教科書みたいね?

 そんな歴史の中に今、私たちはいるのね?」

 「僕と奈緒の歴史も、今ここにあるんだよ」


 私は伊作の肩に頬を寄せた。

 恋人がいる、愛する人が傍にいる幸福。

 これ以上何を望むというのだ。

 今までの恋愛はまるで子供のおままごとの様に思えた。


 (こんなやさしい気持ちになれるのは、ここが美しいパリだから?)


 失恋した寂しさからではない、これは奇跡のめぐり逢いなのだ。

 伊作という運命の恋人、偶然から始まった必然。

 私は伊作の神秘的な魅力に引き込まれて行った。



 移動遊園地のぼんやりとした明かりが見えて来た。

 

 「ここの風景を描いたんだよ、誰もいない夜の遊園地って切ないよね?」

 「でも、とても綺麗。そして叙情的。

 実際に伊作の描いたあの絵の場所に来ると、絵の素晴らしさが良くわかるわ」



 動かないメリー・ゴーランド。

 夏の強烈な日差しの中で、少し不安そうに回転木馬に乗る子供たち。

 そんな光景が目に浮かんだ。


 

 「この回転木馬って、人の一生みたいだと思うんだ。

 木馬が上下して同じところをぐるぐると回り続ける。

 嬉しかったり悲しかったり、楽しかったり苦しかったりの繰り返し」

 「そうね? 上がったり下がったりが人生なのかも・・・」


 今、私は伊作とこの木馬に乗り、あと6日でその木馬を自ら降りようとしている。

 期限付きの恋。


 「ねえ、キスして」

 

 伊作は私の肩を抱き、顔を傾けキスをした。


 私たちは降り注ぐ雪の中で樹氷となった。


 私はこの7日間、本気で伊作を愛することを誓った。




第14話

 セーヌの中洲、シテ島にあるノートルダム大聖堂へやって来た。


 このゴシック建築を代表するローマ・カトリック教会は、絶対的威厳に満ちてそびえ建っていた。



 「このノートルダムの中央口のあのレリーフはね、『最期の審判』を表現しているんだ。

 人類が滅んだ後、人間はキリストから裁きを受ける。

 中央に鎮座しているのがキリストで、広げた両手には磔にされた時の傷が残されている。

 それを民衆に見せることで「人々の罪穢れは私が受け止めたゆえ、安心して私を信じるがよい」という意味があるそうだ。

 キリストの左手にいるのが磔の槍と釘を持った天使。そして聖母マリア。

 そして右手にいるのが十字架を持った天使と、洗礼者ヨハネがいる。

 ほら、あそこの天秤で魂の重さが測られるんだ。

 魂の軽い人間は地獄へ、そして重い人間は天国へと召される」

 「私は魂が軽いだろうから地獄かも?」

 「そんなことはないよ。大丈夫、奈緒は絶対に天国行きだから。

 本当に悪い奴は自分を悪くは言わないものさ」



 伊作との2日目のパリ。

 大聖堂の中には無数の赤い蝋燭の炎が灯っていた。


 そしてあの教科書で見た薔薇窓のステンドグラスの美しさに私は息を呑んだ。

 蝋燭のゆらめく光炎の中を進んで行くと、小さな郵便局の受付のような場所があった。


 「ここは何?」

 「懺悔室だよ」

 「こんな小さなところで罪を告白するの?」

 「罪を告白するにはひっそりとしている方がいいからじゃないのかな?

 大きな舞台のような場所で、自分の犯した罪をみんなに告白する人はいないからね?」

 「それはそうだけど」

 「奈緒は告白したい罪はあるの?」

 「たくさんあるわよ、数えきれないくらい」

 「それは嘘だね? 君に罪は似合わない。

 もしあるとすれば、僕に奈緒のことを好きにさせた罪だね? あはははは」

 「じゃあお互い様ね? 伊作も罪を犯しているわ、私が伊作のことを大好きにさせた罪」

 「そしてそれもあと6日で終わる・・・」


 伊作は溜息混じりにそう言った。


 パリでのあと6日、すべてを忘れて私は伊作を全力で愛するのだ。

 それが私に出来る、唯一の伊作への罪滅ぼしだった。

 私は伊作の黒のカシミアのコートの背中に額をつけた。


 

 「知っているよね?『ノートルダムのせむし男』の話は?」

 「うん、子供の頃に母に読んで貰ったわ。

 でも背中の曲がったカジモドがすごく怖かった」

 「外見は醜い姿をしていたカジモドだが、心がとても美しい人間だった。

 エスメラルダを純粋に愛し、彼女を処刑した司祭のフロスをこの鐘楼から突き落としてエスメラルダの仇を討つ」

 「悲しいお話よね? 結局みんな死んじゃうんですもの」

 「死には時間を停止させる力がある。

 エスメラルダは永遠に美しいまま、人々の記憶に残っている」

 「じゃあカジモドは?」

 「エスメラルダを愛したという想いが彼の魂に刻まれたに違いない。

 おそらく彼はその醜さゆえに捨てられた赤子ではなく、今度はハンサムな貴公子として生まれ変わったのかもしれない」

 「伊作は前世でカジモドだったの? 今はイケメンさんだけど?」

 「ありがとう、奈緒。

 じゃあ奈緒は蘇った美しいエスメラルダだね?

 そして僕たちは恋に落ちた、この美しいパリの街で」


 

 思い出は美しいままでいい、私はそう思った。

 ラブ・ロマンスはハッピーエンドで終わるべきなのだ。

 恋を永遠のものとして大理石彫刻をするためには、愛を停止させなければならない。

 しかも幸福の絶頂で。

 この恋愛を風化させないために。


 私の判断は正しいはずだ。

 私はそう自分に言い聞かせた。

 幸せはいつかは終わる。

 恋愛もいつかは終わるのだ。

 私は伸一からそれを学んだ。


 パリと東京、そんな超遠距離恋愛なんて、絶対に上手くいくはずがない。

 



 大聖堂を出ると、外は雪が降っていた。

 ゆっくりと落ちてゆく、スノードームのような雪。


 黒い法衣を纏った神父さんから英語で声を掛けられた。


 「パリにはハネムーンですか?」

 「はい、新婚旅行の続きをしています」

 「では良い旅を。アーメン」


 私も英語でそう返事をした。

 夫婦であるということについては否定しなかった。

 他人から見ても私たちはお似合いだと思われていることが嬉しかったからだ。


 ノートルダムのパイプオルガンの音が聞こえて来た。

 

   BWV578 小フーガ ト短調。


 私たちは雪の中でその音色を愛でるように聴いていた。

 しっかりと強く抱き合ったままで。




第15話

 物音で目が覚めた。

 伊作がカフェオレを淹れてくれているようだった。


 心地よい珈琲とミルクの香り。

 パリでの私たちの朝が始まろうとしていた。


 コポコポとカップに注がれるミルクと珈琲が混ざり合う音。

 私はベッドの中から伊作に声を掛けた。


 「おはよう、伊作」

 「おはよう、奈緒」


 私はベッドの上に座り、羽毛布団にくるまり素肌を隠した。


 「おまちどうさま、お目覚めのカフェオーレですよ、王女様?」



 私は彼からカップを受け取り、ベッドに零さぬように慎重にそれを口に運んだ。



 「美味しい。王子様に淹れてもらうと一段と美味しいわ」


 伊作は私に軽くキスをした。

 私たちは生まれたままの姿で、同じ布団に包まり肌を寄せた。

 暖炉がパチパチと音を立てて燃えていた。

 彼の肌の温もりが心地良い。



 「王子様、今日は私をどこに連れて行ってくれるの?」

 「今日は美術館を巡ってみようと思うんだ」

 「素敵。ルーブルとか?」

 「もちろんルーブルにも行くよ。でもその前にオルセーに行こうと思っているんだ」

 「オルセー美術館って、あの大きな時計のある美術館?」

 「そうだよ、そのオルセー」

 

 私はベッドサイドにカップを置き、布団を取り去ると伊作に熱いキスをした。

 伊作も同じようにカップを置き、私の胸にやさしく触れた。


 「フレンチ・キスして・・・」

 「フレンチ・キスの意味、知ってて言ってるの?」

 「本で読んだ」


 私たちは昨夜の続きを始めた。





 その美術館はセーヌを挟んでルーブルの対岸にあった。


 「オルセー美術館は駅舎を改装した美術館でね? ルーブルに比べたら収蔵品は少ないけど、ここには僕の好きなブラマンクとゴーガンがあるんだ。

 だから最初にここを奈緒に見せたかった」

 「ブラマンクとゴーガン?」

 「そうだよ、僕の絵とは作風は違うけどね?」



 私たちは腕を組み、館内を歩き始めた。


 光の美術館。

 オルセーのメインホールはとても明るく綺麗だった。

 日本の美術館とはまるでスケールが異なる。

 欧州人の美への憧憬には感服せざるを得ない。

 巨匠たちの作品に私は圧倒された。

 そして私たちはある作品の前で立ち止まった。


 そこにはあの有名なゴーガンの『タヒチの女』が佇んでいた。


 タヒチの波打ち際の女たち。

 ひとりは俯き、もうひとりはこちらをじっと見ている。

 その絵には灼熱の原色のタヒチ、強烈な剥き出しの本能が描かれていた。



 「残酷な太陽みたいな絵だと思わないかい?

 ゴーガンがタヒチに渡った年に描かれた物らしい。

 この女と、そして性病に侵されたゴーガンの生への執念が押し寄せて来るようだ」

 「現物の前に来ると、言葉が出ないわ」

 「ゴーガンはパリにいる時はセザンヌに影響を受けて静物画を中心に描いていた。

 株の仲買人をして財をなした彼だが、パリでの株の大暴落で財産を失ってしまう。

 彼は自分の芸術への想いを封じることが出来ず、家族とフランスの植民地、タヒチへの移住を決意する。

 だが妻に反対され、子供も奪われ失意の中ですべてを失い、彼は単身、タヒチへと渡った。

 そして貧困の中、梅毒で死んだ。

 彼のすべてがこの絵なんだよ」

 「そうなんだ? 女には理解できないなあ、家族よりも大切なものがあるのね? 男には」

 「本当の芸術は満たされた生活からは生まれやしない。

 芸術は自分の大切な物と引き換えに神から与えられる物なんだ。

 ゴーガンは世俗的な幸福と引き換えにこの絵を描くことが出来た」

 「私には無理かも? 芸術家の奥さんにはなれない気がする」

 「ゴーガンのふる里を描いた『冬の風景』の絵があるんだが、ゴーガンの郷愁に切なくなるよ。

 家族との冬の極寒の地でのささやかな暮らしと、絵と性への欲望が色彩華やかなタヒチでの暮らしの中で消し去ろうともがき苦しむゴーガン。

 彼は芸術と幸福への憧れの中で葛藤していたんだ。

 友人のゴッホは耳を削ぎ落とし、絶望の中、ひまわり畑で自らの命を絶ち、そしてゴーガンは心も身体もズタボロになって孤独の中で死んでいった。

 でも僕はそこまで自分にストイックにはなれない。

 奈緒のためなら絵筆を折ってもいいとさえ思う。

 君のためなら僕は絵を捨てる覚悟があるんだ」


 そして伊作は強く私を抱きしめた。

 でもその時の私は嬉しくはなかった。

 

 彼の人生を変える勇気が私にはなかったからだ。




第16話

 オルセー美術館の中を巡り、私たちはブラマンクの絵の前にやって来た。


 「ブラマンクは音楽家の両親の元を飛び出して、18歳で結婚した。

 自転車選手やオーケストラでバイオリンを弾いたりして生活していたらしい。

 伝統的な作風やアカデミックな絵を嫌い、独学で絵を描いていた。

 一時、ゴッホに影響を受けたこともあったそうだ。

 セザンヌや佐伯祐三はブラマンクの絵に衝撃を受けた。   

 絵の具のチューブからそのまま絞り出したような、色彩の洪水のような絵。

 ブラマンクはフォービズムの代表的な画家だった。

 フォーブとは野獣という意味がある。

 彼は何物にも囚われることのない、自由な孤高の野獣画家なんだ」

 「野獣かあ。絵は荒々しいけど、どことなくやさしさがある絵よね?」

 「僕はね、ブラマンクの描く道のある風景画が好きなんだ。

 厳しくて暖かい道。

 人生という道が彼の描く絵にはあると思うんだ」


 ゴーガンやブラマンクを熱く語る伊作は、まるで母親に話しかける子供のようだった。



 「ルーブルは広いから、ランチをしてからにしよう。 

 何が食べたい?」

 「そろそろ日本食が恋しいかなあ?」

 「この近くには日本食はないなあ。中華でもいいかい?」

 「賛成! ラーメン、ラーメン! ラーメンが食べたい!」

 「麺類はあるけど、日本のラーメンはないかもしれないなあ」

 「だって中華でしょ? 日本の中華レストランならあるのにー」

 「ここはパリだからね? フレンチに対する思いは強いんだ。

 だからあの即席麺『サッポロ一番』もフォンの醤油味みたいなやつなんだよ」

 「えー、そうなの?」

 「でも、中華は中華だからね? 味は懐かしいと思うよ」




 大きなチャイニーズレストランにやって来た。


 「餃子とかある?」

 「メニューには無いみたいだね? 炒め物が多いかな?」

 「お腹空いたから、もうなんでもいい!」

 「じゃあ適当に頼むね?」

 「うん、お願い」



 15分位して運ばれて来たのは丼に入った「春雨」だった。


 「これ、春雨じゃないの?」

 「ホントだ、春雨だね?」


 伊作は一口啜ってみせた。


 「どう?」

 「美味しい、美味しいよこれ!」

 「ホント?」


 恐る恐る私もそれを口にしてみた。


 「うん美味しい! なんだかホッとする味!」

 「良かった、不味いって言われたらどうしようかと思ったよ」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 何気ない小さな幸せ、私たちはずっと付き合っている恋人同士のようだった。


 Petit bonheur (小さなしあわせ)




第17話

 「ここがあの有名なルーブル美術館なのね?」

 「美術館でありながら博物館でもあるんだ。

 あそこのガラスのピラミッドから中に入るんだよ」

 「写真で見たことがあるわ、あのガラスのピラミッド」



 ここでは全てが芸術だった。

 作品を収蔵するこの建物も、そしてこの石畳もすべてがひとつの美術だった。



 ガラスのピラミッドのエスカレーターを降りて行くと、そこは巨匠たちの美の至宝で溢れていた。



 「ルーブルは元々、フランス歴代の王の宮殿だったんだ」

 「だからこんなに美しくて荘厳で華麗なのね?」

 「この夥しい数の宝を収めるにはここしかないだろうね?

 素晴らしい絵画に見合う額縁が必要なように、ここルーブルにはそれを抱きかかえるだけの包容力がある。

 ルーブルといえばモナリザが有名だが、エジプト、ギリシャ、ローマ、イスラムなどの文化遺産を始め、工芸品なども数多く展示されている。

 とても一日では回り切れないよ」


 私はルーブルの圧倒的な尊厳に言葉を失った。

 先ほどのオルセーとは比較にならないプライドが漲っている。

 建物と装飾との空間構成が、見事に作品を引き立てていた。

 東洋人には絶対に表現出来ない、キリスト教に基づく発想がここにある。



 アポロンの間にやって来ると、見たこともない大きなダイヤモンドが展示されていた。


 「このダイヤモンド、妖しい美しさがあるだろう?  ダイヤモンドの語源はギリシャ語のadamasから来ているんだ。

 打ち勝ち難い、征服し難いという意味がある。

 つまり、ダイヤの硬さがこの世で唯一だということを表していることになる。

 類稀なる宝石には様々な逸話がある。

 ダイヤで有名なのはアメリカのスミソニアン博物館にある「ホープ・ダイヤ」だが、このダイヤにも『レ・ジャン』という名が付いている」

 「レ・ジャン?」

 「紀元前800年頃にインドで発見され、615カラットもあるダイヤだ。

 このブリリアンカットにするために2年の歳月を要したらしい。

 歴代のフランス王やナポレオンがこれを身に着けたが、あまりいい死に方をしてはいない。

 「呪われたダイヤ」だと言われる所以だ。

 ルイ15世は天然痘で死に、ルイ16世はギロチンで処刑され、ナポレオンは皇帝の座を追われた」

 「そういわれるとこのダイヤの妖艶さが理解できるわ。吸い込まれてしまいそう」

 「美しい物には人を惑わす魅力があるものだよ、奈緒のようにね?」

 「それって褒めているの?」

 「もちろん」


 私は伊作と手を繋ぎ、館内を歩いて回った。



 「これが僕のルーブルの一番のお気に入りなんだ。

 ラ・トゥールの『ダイヤのエースを持つ「いかさま師」』がこれだ。

 この絵はね、17世紀のフランスの世俗を表していて、酒、邪淫、博打を風刺している。

 ワインを持つ女、胸元の開いた服を着た娼婦、そして後ろ手にダイヤのエースを隠し持つ「いかさま師」というわけさ。

 この構図、光と影、そしてこの欲にまみれた人間たちの心を亡くした表情。

 僕にはこんな凄い絵は描けないよ」


 その絵は私の心の中にゆっくりと沈殿して行った。

 ルーブルの作品を熱く語る伊作に、私は強く惹かれた。

 私たちに残された時間は、もう後4日になってしまっていた。




第18話

 伊作とパリの街を散策していると、アパルトメントのテラスに「三色すみれ」があるのを見つけた。



 「あのパンジー、雪が載ってかわいそう」

 「パンジーってなんでパンジーって言うか知ってるかい?」

 「なんでパンジーっていうの?」

 「ヴィオラとも言うんだけど、ヨーロッパではハーツウィーズと呼ばれることもある。

 膨大な交配を繰り返し、生まれたのがこの三色すみれなんだ。

 ちょっとサルの顔みたいにも見えるだろう?

 だからモンキー・フラワーとも呼ばれることもある。

 パンジーは不思議な花でね? 毒性があるんだよ。

 低木の下にパンジーを植えると雑草が生え難くくなる」

 「あんなにかわいい花なのに?」

 「そんな花はたくさんあるよ。

 スズランもあんなにいい香りなのに毒性がある。

 スズラン畑で眠ると死んでしまうそうだよ」

 「スズラン畑で? ホントに?」

 「確かめたわけではないけど、そんな噂があるらしい。

 シェークスピアは『真夏の世の夢』の中で、パンジーを絞った汁を媚薬として表現しているけどね?

 パンジーはね、フランス語のパンセに由来しているという説もある。

 パンセとは考える、思考するという意味があるんだ。

 だから自由思想のシンボルにもなっている。

 あの俯いて咲くところが、いかにも考えているようにも見えるだろう?

 パスカルも『パンセ』でこう言っている。



    人間はひと茎の葦にすぎず、自然の中で最も弱いものである。

    しかし、考える葦である。



 人間は偉大だよ、それは思考するからだ。

 人間は小さくて弱い。だが人間の思考は自由で無限だ。それは宇宙さえも超越してしまう」

 「素敵な名前なのね? パンジーって」

 「英語の pansy とは女々しいとか、男らしくないという意味がある。

 ゲイという意味もあるし、pance には「ヒモ男」という俗語の意味もあるが、このチャーミングな花を見ていると、それは似つかわしくない話だよね?」  



 労わるように伊作はパンジーを見つめていた。


 この人の絵が優しさに満ち溢れているのは、こんな風に物事を考えているからなのかもしれない。

 

 私は彼の腕につかまり、頬を寄せた。

 深く純粋に。

 彼から微かに油絵具の匂いがした。

 遠くで聞こえる教会の鐘の音。


 私はこの美しい芸術の街と、伊作を生涯忘れることはないだろう。

 そして雪に耐えて咲く、このパンジーのことも。


 パンジーの花言葉は「節度」だそうだ。

 私はパンジーに降り積もった雪を、手を伸ばして払い除けてあげた。 




第19話

 今日が約束のパリの最後の日。

 明日は日本への帰途に就く私。

 あっという間の夢のような7日間だった。

 私たちはベッドでお互いを激しく求め合い、私たちはテニスの試合を終えた後のような心地よい達成感に包まれていた。


 ダビデ像のような裸体で、暖炉に薪を焚べている伊作。

 暖炉の火が彼の肉体を照らし、彼の瞳には暖炉の炎が映っていた。



 「ねえ、寒いから早くこっちに来て・・・」

 「今、新しい薪を焚べたから少し待って」

 「早くこっちへ戻って来てよ! そして私をもっと温めてって言ってるの!

 明日はもうさよならなんだから」


 私は苛立っていた。明日はこのパリを離れ、伊作と別れなければならないことに。

 伊作は私を見詰め、真顔でこう言った。


 「それなら帰らなければいい。

 ずっとこのままここで一緒に暮らせばいいじゃないか」

 

 私はそれを受け流した。

 泣くにはまだ早いからだ。


 「いいから早くここに来て、寒いよ」


 感傷的な話はしたくなかった。

 折角の伊作との最後のパリだから。

 私はずっと伊作に甘えていたかった。


 伊作がベッドに戻って来ると、私の体を抱きしめ、優しく髪を撫でてくれた。

 

 「伊作のカラダ、凄くあったかい・・・」

 「奈緒も」


 私と伊作は熱い口づけを交わした。


 「遂に今日が約束の最後の日になったね?

 どこか行きたいところはあるかい?」

 「ベルサイユにルーブル。オルセーにノートルダム大聖堂、モンマルトルにカルチェラタン。

 ムーラン・ルージュにエッフェル塔・・・。

 色んなパリをたくさん見せてもらった。

 とても7日間では回れないほど。この芸術の都はとても素敵だった。そして伊作も」

 「それじゃあ最後のパリは僕に任せてもらってもいいかな?」

 「もちろんよ。でもお願い、もう「最後」って言葉は言わないで。

 決心が鈍りそうだから」


 そして私たちは中断していたベッドでの最後のテニス・ラリーを再び始めた。


 


 伊作はセーヌ川にかかるこの橋に私を誘ってくれた。


 「知っているかい? アポリネールの『ミラボー橋』の詩を?」

 「知らないわ、ここがそのミラボー橋なの?」

 「そうなんだ、ここがミラボー橋さ」


 伊作は欄干からセーヌを見下ろし、アポリネールの詩を誦じてみせた。




    ミラボー橋の下 セーヌは流れる

    僕の恋もまた 忘れてしまってはいけないのか

    喜びはいつだって 苦しみの後にやって来た


    夜よ来い 鐘よ鳴れ

    日々は去り 僕は残る


    手と手を繋ぎ 頬と頬を合わせていよう

    僕らの腕が 橋を作るその下で

    波が過ぎる 絶え間ない視線にくたびれて

    

    夜よ来い 鐘よ鳴れ

    日々は去り 僕は残る


    恋は去る この流れる水のように

    恋は去る


    人生はあまりに 鈍い

    そして希望は あまりに激しい


    夜よ来い 鐘よ鳴れ

    日々は去り 僕は残る

    

    毎日が過ぎ 一週間が過ぎる

    過ぎた時も 恋も戻っては来ない


    ミラボー橋の下 セーヌは流れる


    夜よ来い 鐘よ鳴れ

    日々は去り 僕は残る




 伊作は私を力強く抱きしめ、そして泣いた。


 「僕は忘れないよ、奈緒のことは絶対に」

 「この7日間、私を愛してくれて本当にありがとう。

 伊作のことも、この美に溢れたパリも、私の人生の永遠の宝物になったわ。

 素晴らしいハッピーエンドの恋になったの。永遠に終わらない恋に。

 そしてこのミラボー橋のことも忘れない・・・」


 伊作は更に、私を抱く腕に力を込めた。


 「行くな奈緒! 行かないでくれ!

 僕は君のいないパリで生きていく勇気がない!」

 「伊作・・・。

 言ったでしょ? 私とあなたの恋はここで終わるの、美しいままで、愛し合ったままで。

 伊作が教えてくれた、アポリネールの詩のように。

 これで私たちの愛は永遠に美しいまま、私たちの心に刻まれたのよ。 

 絶対に忘れない! 私はこのパリで伊作と愛し合ったこの7日間の記憶を! 

 好きよ伊作! ずっと大好き!」




 それが私と伊作のパリでの思い出だった。

 そしてその彼が今、この横浜中華街で長い箸を使い、酢豚のピーマンを口へ運んでいる。

 私は夢を見ているようだった。


 このまま時間が止まればいいとさえ私は思った。

 私にはこの先のシナリオが思い浮かばずにいた。



 「どうかしたの?」

 「不思議だなあと思って。

 パリでの7日間もあっという間だったけど、20年経った今も同じなのね? あなたへの想いはあの頃のまま」

 「そうだね? 瞬く間に時間が過ぎて行った。

 でもここが、まるで君と過ごしたパリにいるみたいだよ」


 私はグラスに残った紹興酒を一息に飲み干した。

 窓際のテーブル席、夜のガラス窓にもうひとりの自分が映っている。

 ひとりの女としての自分が。


 私は恋の海に漂う難破船のようだった。




第20話

 

 オレンジ色の夜景の横浜を伊作と歩いた。

 

 「海の匂いがする」

 「オレンジの匂いみたいだな?」

 「私はね、グレープフルーツの匂いを感じるわ」

 「オレンジとグレープフルーツか? 微妙だね?」

 

 私は伊作の「微妙だね?」という言葉が、伊作と自分の関係を象徴しているかのように感じた。


 (微妙? 曖昧な恋?)


 でもこれはそんな単純な浮気ではないのは確かだった。

 オレンジとグレープフルーツなんて、そう変わりはしないのに、それは全く違う物なのだ。

 果たして人生に恋愛は必要なんだろうか?

 私はいつの間にか恋を忘れていたのかもしれない。

 夫の博行と結婚して凛と華が生まれ、それなりに生活は充実していたはずだった。

 その「はずだった」が伊作の出現によって覆されようとしている。

 仕事をしながらの家庭との両立は大変だった。

 夫は子煩悩ではあるが、私を愛していたかどうかは疑問だ。

 事実、私は結婚に対して憧れはなかった。

 夫の博行は値打ちの下がらない不動産物件のような男で、結婚するには間違いはない相手だと思う。

 駅に近く、南向きで日当たりも良く、小さいが庭も付いている一戸建のような夫。

 人並み以上のしあわせはある。

 生活に困らないお金と将来性のある夫、そして賢くて可愛い娘たち。

 だがそこに大切な物が欠落していた。

 そう恋愛・・・。

 それは相手に対する尊敬なのかもしれない。

 伊作と再会して、私は夫を愛していないことに気付かされてしまった。

 私は伊作を愛したまま、平然と夫と暮らしていたのだ。

 パリから帰国したばかりの私は抜け殻のようだった。

 私の7日間の恋には誤算があった。

 私は美しい恋愛映画のようなパリの恋を、忘れることが出来なくなっていたのだ。


 (伊作に会いたい)


 私はそれを忘れるために仕事に没頭していた。

 そんな時、博行と出会った。

 私は疲れていたんだと思う。

 そして寂しかったのだ。

 無くした恋を懐かしむ自分に。

 結婚までの流れは極めてスムーズだった。

 忙しい日常の中で考える暇もなく、次第にパリの伊作との恋は思い出さなくなっていった。




 私たちはジャズの流れるバーに落ち着いた。

 男性カルテットがスタンダード・ナンバーを演奏していた。


 「久しぶりだなー、こんなお店に来るのって」

 「僕もだよ、ジャズのライブっていいよね?」

 「ジャズって普段はあまり聴かないなあ」

 「酒と音楽には相性がある。ジャズはどんな酒にも合う万能音楽かもしれない」

 「伊作はどんな音楽が好きなの?」

 「エリック・カルメンとショパン」

 「病的な暗い曲が好きなのね?」

 「病的で暗い曲か? そうかもしれない。

 深い悲しみのある音楽だからね、エリックもショパンも」

 「『子犬のワルツ』も暗いわよね?

 私には子犬が浮かばないわ。

 ショパンもエリック・カルメンも三日月が似合うような気がする」

 「うん、そんな感じがするね? 少なくとも満月ではないし、太陽の下で聴く音楽でもない。

 奈緒はショパンの何が好き?」

 「私は『幻想即興曲』が好き。

 あの曲を聴いていると空から色んな花びらが降ってくるみたいだから」

 「僕はアシュケナージのノクターンが好きだ」

 「どうしてノクターンなの?」

 「20年前のあの日から、僕がずっと君を想っていた夜想曲だから。

 君の寂しい笑顔が忘れられなかった」

 

 私はバカラの氷を弄ぶ伊作の手に触れ、彼に寄り添った。


 「もう眠くなって来ちゃった」

 「行こうか?」


 私はゆっくり深く頷いた。




 山下公園の前にある老舗ホテルで、私たちのショパンはシーツの上で鳴り止まなかった。

 頭の中で鳴り響く、ショパンの『幻想即興曲』。

 それはパリでの幼かった覚えたてのセックスではなく、相手の気持ちに寄り添うような営みだった。


 スロー・セックス。


 インドの性典『カーマ・スートラ』に書かれている性愛とはこのようなものを言うのだろうか?

 深い快感に恥ずかしいほど体が反応してしまう。

 酔って鈍った身体ですら、的確に攻めてくる彼のSEXに対する戦略戦術に私は翻弄されていた。



 いつの間にか私は心地よいエクスタシーに包まれて眠ってしまった。

 眼を醒ますと、伊作はソファに座り、夜明け前の窓を見つめていた。

 船の霧笛が聞こえる。



 「ここは横浜なのね?」

 「霧笛が鳴っているね?」

 「あの時は教会の鐘が鳴っていたわ。

 ミラボー橋で・・・」

 「僕はね、夜明け前のこのブルーグレーの時間が好きなんだ。

 朝日が昇る前の静寂は、映画が上映される前の一瞬の静けさのようだ」

 「寒いわ」

 「パリでも奈緒はそう言っていたね?」

 

 伊作は私の隣に来ると、優しく私の背中を抱いた。


 「これであったかくなったかい?」

 「ううん、もっと強く温めて」

 「これでどう?」

 「もっと強く、私が逃げていけないように」


 私と伊作はやっと20年の空白を埋めることが出来たような気がした。

 この夜明け前のヨコハマで。


 私たちの本当の夜明けは来るのかしらと私は思った。




第21話

 「ただいまー、ハイ、おみやげー」


 私は東京駅の大丸で買ったショートケーキをダイニングテーブルに置いた。

 下手にご当地のおみやげを買うのは危険だったからだ。

 私は後で辻褄が合うように、無難な東京土産にしたのだった。


 (ごめんね、ママ、本当はお仕事じゃなかったの)


 不思議と罪悪感は無かった。


 

 「大変だったわね? お仕事。

 ご苦労様、ご飯は?」

 「お客さんと食べて来たから大丈夫。

 ありがとうお母さん、子供たちをみてくれて」

 「どういたしまして。

 早く着替えてらっしゃい」


 華がケーキの箱を開けていた。


 「ケーキ食べてもいい?」

 「お皿を出して頂戴」

 「うん、わかった」


 私が着替えに行こうとすると、耳元で母が小声で囁いた。


 「頸についてるわよ、キスマーク」


 私はハッとして頸を隠した。

 母はとっくに気付いていたのだ。外泊が仕事ではないことを。

 おそらく父も気付いていたはずだ。

 迂闊だった。私は子供の頃から嘘を吐くのが下手だった。

 だが母は私を咎めなかった。

 私を信じているのか? それとも同情してくれているのか?

 母も父も夫の博行が苦手だった。

 そしてそれは博行も同じだった。

 どちらも賢く上辺だけの付き合いをしていた。

 嫁の親と娘の旦那としての役割を演じていた。

 さっきの母の囁きは、「いつでも私たちはあなたの味方よ」と言ってくれているようで、申し訳ない気持ちになった。

 あと十年もすれば凛は25で華は21、親の手を離れ、娘たちは結婚して家族を持っているかもしれない。

 若い時の過ちは、自分が老いることで厳然たる未来に目を背けていることにある。

 恋愛の延長線上に結婚があるのではない。

 空気みたいな存在? 結婚生活は妥協? それとも打算?

 それは違うと思う。

 確かに空気がないと生きられない。

 でもそれ以上に大切なことは、お互いを人生という戦場で生き抜く「戦友」として認め合うことが出来るかどうかなのだ。

 外見や条件で結婚しても、上手くいかずに幸福感が持てないのは、そこに「愛」がないからだ。


 (どうしてこの人と結婚したのかしら?)


 それが現実なのだ。

 そして今、私はその現実を突きつけられている。

 歳を取って大人になった伊作と私。

 20年後に再会した今でも私たちの愛は微塵も風化してはいなかった。

 そして私たちの恋は再燃した。


 私は思う。私は恋愛に背を向けて生きて来たのかもしれないと。

 美しい映画のような恋。それをガラスケースに入れたまま、押し入れの奥に仕舞い込んでいたのだと。

 本当の自分と向き合うのが怖かった。

 女の気持ちは猫の目のように絶えず変化している。

 好きだったりそうじゃなかったり、そしてそのどちらでもなかったり・・・。


 (伊作が好き。伊作に会いたい)


 私は布団に入り、伊作に電話を掛けた。


 「もしもし、起きてた?」

 「うん、奈緒のこと、考えてた」

 「どんなこと?」

 「色んなこと」

 「例えば?」

 「奈緒に会いたいなあって」

 「私も同じ。だから電話しちゃった」

 「今度、いつ会える?」

 「来週は無理だけど、次の週なら都合つけるわ」

 「そう。じゃあ都合のいい日を後でメールしておいてくれ」

 「わかったわ。ねえ、これから寝るからアポリネールの『アルコール』の詩を朗読して」

 「ミラボー橋かい?」

 「そう、あの詩」

 「いいよ、でもタダじゃ嫌だな」

 「いくら払えばいい?」

 「お金はいらないよ」

 「じゃあ何が欲しいの?」

 「奈緒」


 私はその言葉を期待していた。

 そしてそれは嬉しくもあり、切なくもあった。


 伊作は私の返事を催促することもなく、ゆっくりとアポリネールの詩の朗読を始めた。


 会えない今でも、私たちの愛は確実に成長を続けていた。 

 そしてそんな自分を、まるで他人のように俯瞰して見ている私がいた。


 私はいつの間にか、携帯を握ったまま眠りに就いていた。

 伊作のアポリネールを聴きながら。




第22話

 「どうしたのヒロちゃん? ボーっとしちゃって?」

 「ごめん、何の話だっけ?」

 「だからー、今度のキャンペーンの話だよ。

 里中プロデューサーに会わせてちょうだいっていうは・な・し」

 「いいよ、話しておくよ」

 「ありがとー、ヒロちゃん大好きー!

 ねえ、もう一回して」

 「悪い、今日はもう帰らないといけないんだ。

 女房の代わりに子供たちの面倒を見ないといけないから」

 

 俺はウソを吐いた。

 今日はそんな気分ではなかった。


 「奥さんのこと、怖いんだー?」

 「困らせるなよ、そういう約束だろ? 俺たち。

 家庭は壊さないって」

 「壊しちゃおうかなー」


 俺は咲子の体を抱き締めて言った。


 「じゃあ、もうサヨナラだな?」

 「イヤだよそんなの。

 ごめんなさい、つい、意地悪したくなっちゃったの。

 私が2番で、やっぱり奥さんが1番なんだなーって思ったら、つい・・・」


 俺は咲子も女だということを忘れていた。

 性欲を満たすだけの関係に、俺はいつの間にか男としての配慮に欠けていた。

 最近、女房の奈緒が変わった気がする。

 化粧の仕方や髪型、そしてオーソドックスなコロンからDior の香水を使うようになり、子供が生まれてからはベージュの下着が多かった奈緒が、白や淡いパステルカラー、時には黒のTバックという下着も干されているのを見かけるようにもなった。


 そして何より変わったのは、俺にやさしくなったことだ。


 (奈緒が浮気?)


 奈緒はどちらかと言えば真面目で堅い女だった。

 良妻賢母のお手本のような女が不倫をするとは思えない。

 男性が多い職場とはいえ、こんなことは今までにはなかったことだ。

 すると社外の男か?

 殆どなかった夫婦の夜の時間も、いつになく積極的になっていた。

 いつもは受け身の奈緒だったが、自ら進んでオーラル・セックスにも臨んで来た。


 「出そうだよ、奈緒」


 すると奈緒は俺自身を口から外し、


 「いいよ、そのままお口に出しても。

 受け止めてあげるから」


 そう言うと、再びその行為を加速させていった。

 上下に揺れる奈緒の髪が、俺の下腹部にサワサワと触れる。

 俺は耐えきれず、そのまま奈緒の口にそれを放出した。

 だがその行為は俺の為の物ではなく、誰かを喜ばせるためののようにも感じた。


 「じゃあ今度はあなたが私にして。

 あっ、ちゃんとつけてね? コンドーム。

 流石にもう大丈夫だとは思うけど、まだ生理はあるから。

 この歳で子育てはしたくないから」


 そして奈緒は眼を閉じた。

 昔はフェイクが多かった奈緒だが、最近では本気で感じている。

 でもそれは俺のセックスに感じているのではなく、他の誰かに抱かれている自分を想像しているようだった。

 女にはそれが出来る。



 事が終わり、奈緒は冷静さを取り戻していた。

 

 「明日は会議で少し遅くなるから食事は外で済ませて来てね。

 じゃあ、おやすみなさい」


 そう言って彼女はベッドから降りると、和室の自分の布団に戻って行った。


 間違いない、妻は浮気をしている。

 俺の疑念は確信へと変わっていった。




第23話

 伊作と私は頻繁に逢瀬を重ねていった。



 「今日も残業で遅くなるからお願いね?」

 「最近、残業が多いけど大丈夫なのか?」

 「しょうがないわよ、今、新しいプロジェクトが始まったばかりだから」


 私は夫の博行に弁明した。




 軽く食事を済ませると、伊作の宿泊しているホテルで愛し合うのが通例となっていた。

 男女の絆とはカラダの相性にある。

 私と伊作は相性が良かった。


 離婚の理由に、「性格の不一致」というのがあるが、それは性格ではなく「カラダの相性の不一致」が原因だ。

 抱かれたくなくなったらそれは夫婦ではない。

 ただの同居人だ。

 日本人の場合、SEXに対する考えが卑猥なイメージが強い。お互いの肌の温もりが不安を和らげ、安らぎと安心感を与えてくれるという意識が低いのだ。

 抱かれたくない妻と抱きたくない夫。そこに愛は存在しない。

 尊敬の念や感謝の想いがないからだ。

 私たち夫婦がそれだった。


 私は伊作との再会によって女を覚醒させた。

 セックスが単なる交わりではなく、本当のセックスとは愛の交換なんだと知った。

 それは性交を終えた時にわかる。

 このまま愛を感じていたいと思えるかどうかなのだ。

 特に男性の場合、自分の欲望が達せられるとすぐに体を離してしまうなら、それは女性の体を使って行うマスターベーションにすぎない。

 それは愛のあるセックスではないからだ。

 自然の愛の形。

 「もっとこの人を知りたい」、「この人に近づきたい」、「この人に触れていたい」

 それが愛のあるセックスの尊厳だ。


 SEXとは夫婦の義務としてのそれではなく、よりお互いを「融合」させたいという究極の愛の行為なのだ。

 チョコレートのように溶け合う愛、それが人としてのセックスなのだ。

 愛のないセックスは虚しい自慰行為だ。

 そこに愛は存在しないし、育まれもしない。



     釣った魚に餌を与えない



 結婚するとその達成感から恋愛に手を抜く。

 自分の物になったという安堵感。

 だが愛は物ではない。

 太陽の光を当て、水をやり、栄養を与えなければ枯れてしまう花のように、夫婦は愛を注ぎ続けなければ枯れる。

 こうして欲しい、ああして欲しい。「夫婦なんだから当然」という甘え。

 感謝の心が消えた時、夫婦生活は風化してゆくのだ。



    うちの旦那は空気みたいな存在なの



 そう言う妻もどうかしているが、そう言わせている夫にも罪はある。

 それは「その存在が無いと困る」という、不遜な意味が込められているからだ。

 それは誰も見ない、点けっぱなしのテレビのような存在でもある。

 夫婦は空気でもなければ点けっぱなしのテレビでもない。

 愛とは奪うのではなく、与えるもの、「無償の愛」なのだ。

 私は伊作と愛し合うことで、自らの結婚生活に疑念を持ち始めていた。


 (これでいいのだろうか? このままの状態で?)


 何不自由のない普通の生活。

 浮気はしているがやさしい夫と可愛いい子供たち。

 持ち家もあり、仕事もそれなりに充実している。

 だが、何かが足りない。

 私は自分の人生に迷い始めていた。



 行為を終えて微睡まどろんでいると、伊作が言った。



 「来月、パリに戻ろうと思うんだ」

 「そう、もう日本に帰って来て3か月だもんね?」

 「絵が描きたくなったんだ」

 「あのアトリエに戻るのね?」

 「アトリエは20年経った今でもあの時のままにしてあるんだ。

 作品は増えたけどね?」

 「引っ越せばいいのに」

 「あのアトリエには奈緒との思い出が沁み込んでいる。

 あの家から離れることは出来ない。そしてこれからもずっと」

 

 私は彼と過ごしたモンマルトルのアトリエを思い出していた。

 燃える暖炉、絵具とニスの匂い。

 しあわせだった遠いあの日。

 

 「いいなあ、パリかあー」


 私は伊作の胸に頬を寄せ、甘えた。


 「奈緒」

 「なあに?」

 「パリに来て欲しい、僕と一緒に」

 

 私の静かな時間が突然切り裂かれた。


 (意外だった)


 私は伊作がこの再会を思い出にするとばかり思っていた。

 これで伊作との愛も終わる、そう思っていた。

 私の心は大きく揺らぎ始めた。

 「それを考えてはいけない、言葉にしてはいけない」と、自ら封印していた言葉だった。



    パリで伊作と暮らしたい

 


 私の自問自答が始まった。


 (会社はどうするの? 子供たちは? 離婚するつもりなの? 両親は?・・・。

 そんなこと許されるわけがないでしょう! 

 あなたは部長で、お母さんで、奥さんなのよ! 

 年老いていく両親はどうするの? 誰が親の面倒を見るの?

 そんな自分勝手な我儘、許されるわけがないじゃない!

 あなたはそれでも人間なの!

 だったら人間を捨てなさいよ! あなたは動物になりなさい! 心のない本能で生きる獣に!)


 だがそこに、もう一人の自分もいた。

 

 (あなたは何を迷っているの? 

 伊作とパリに行くべきよ、あの美しい芸術と花の都で伊作に愛されて生きるべきよ。

 人生は何度でもやり直すことが出来るのよ。

 一度切りの人生じゃない? 後悔しちゃダメ。

 仕事がそんなに大切なの? 子供たちは一緒にパリで暮らせばいいじゃない。

 それに旦那は浮気しているのよ?

 あなたはとっくに夫から愛されていないわ。

 両親だって、そうなった時に考えればいいことじゃない?

 それよりも大切なのは、あなたのこれからの人生をどう生きるかということでしょう?

 人生を妥協で過ごすつもりなの?

 一度きりの大切な人生なのよ、あの時の後悔を忘れたの?

 子供たちもいずれは自分の元を離れて行くわ、愛のない夫と暮らす意味がある?

 これからの半世紀をあなたはどう過ごしたいの?」


 その相反する想いが私の中で葛藤していた。



 「行きたいな、伊作とパリに・・・」



 伊作は私を抱きしめてくれた。

 そして私も伊作を抱き締める腕に力を込めた。


 「おいでよパリに。君のお嬢さんたちも一緒に。

 僕は君たちを奪い去ることに何の躊躇いもない。

 僕は自分の感情に忠実に従うまでだ。

 世界中を敵に回してもいい、僕はどんな罰も受ける覚悟だ。

 この20年間、僕は一度も奈緒を忘れたことはなかった。

 僕の奈緒への想いは今も変わらない、いや、前よりももっと奈緒が好きだ。

 僕は覚悟を決めたよ。

 愛とは惜しみなく奪うものだとね?

 僕は最近まで絵が描けなかった。絵筆が持てなかったんだ。

 日本に来たのもそのためなんだ。

 自分が再び絵筆を握るきっかけが欲しかった。

 そして僕はそのきっかけに出会うことが出来た。

 そのきっかけが奈緒、君なんだよ!」

 「伊作・・・」


 嬉しかった。歳を取った私を今なお求めてくれる伊作に。


 何もかも忘れて、人生をやり直す勇気が欲しい。

 私と伊作は時間の経過とともに融けてゆく、淫らなクリームソーダのアイスのように、熱い口づけを交わした。




第24話

 坂本九の唄が好きだった。


     見上げてごらん 夜の星を

     小さな星の 小さな光が

     ささやかなしあわせを 唄ってる

 


 私は自分の人生を取り戻す決心をした。

 たとえそれが茨の道を進む人生でも、人間として間違った道でも。

 


 凛と華が買物に出掛けた日曜日、私は夫の博行と話をした。


 「テレビを消して頂戴、ちょっと話があるの?」

 「何だい? 改まって急に」


 夫はテレビを消した。


 「離婚して下さい」

 「どうして?」


 夫の博行は意外にもすこぶる冷静だった。

 まるでそれを予期していた、心理カウンセラーのような口ぶりだった。


 「別な男と暮らすつもりなのか?」

 「あなたは浮気しているでしょう?」

 「お互い様だろ?」


 博行は悪びれることもなく平然と笑っていた。

 私は質問をすり替えた。


 「私にはあなたとの未来が描けないの」

 「俺は君に訊いているんだ。

 まずは俺の質問に答えろ」

 「私は間違っていた。あなたと結婚したことが。

 だからそれを変えたいの。

 自分の過ちを。そしてもう一度、自分の人生をやり直したい」

 「子供たちはどうする? 凛と華は」

 「もちろん私が引き取るわ、あなたに子育ては無理だから。

 その方が相手の女にも好都合でしょ?」

 「子供たちには話したのか?」

 「まだよ、帰って来たら話すつもり」


 博行は天井を仰いだ。


 「俺たちはどこで間違ったのかな?」

 「最初からよ。

 私が悪かったの、安定した普通の生活を望んだ私が」

 「最初から? 俺が君に惚れたのが誤りだったというわけだ」

 「そうじゃないわ、私が人間として未熟だっただけ」


 泣くまいと思ったが涙が止まらなかった。

 でもそれは悲しい涙ではなく、今までの自分への惜別の涙だった。


 「ごめんな、しあわせにしてやれなくて」

 「ううん、しあわせはしてもらうものじゃなくて、自分でなるものよ。

 あなたに不満はないの、浮気する方より「浮気される私が悪い」のはわかっているから。

 ごめんなさい、いたらない妻で」

 「そうじゃない、そうじゃないんだ。

 俺はどうかしていたんだ。

 女とは遊びだった。別れるよ。

 だから奈緒、もう一度考え直してくれ」

 「ごめんなさい、もう決めた事なの。

 自分でもバカだと思う。でも私の我儘を許して欲しい」


 夫は捨てられた子犬のような目で私を見ていた。

 いつも自信に満ち溢れた夫が初めて見せた顔だった。


 「少し考えさせてくれないか?」


 簡単に離婚出来るとは思ってはいない。

 私はじっくりと夫に向き合い、彼を説得する自信があった。

 今の安定した暮らしを捨ててまで、私は苦しい道を選択した。

 自分でも愚かだと思う、でも人生は理屈や常識ではない。

 辛くても納得のいく自分の人生を生きようと思った。

 後悔しない自分の人生を。


 日曜日の気怠い日差しが、情けなく白いリビングに差し込んでいた。




第25話

 離婚することを母に話した。

 父親には話し難かった。

 母に話せば父にもうまく伝えて貰えると思った。



 「お母さん、私ね・・・」

 「私はそれでいいと思うわよ、あなたが決めた人生だもの」

 「どうしてわかるの? 離婚するって」

 「私はあなたのお母さんよ、私のお腹から出て来たんだから何も言わなくてもちゃんと奈緒の顔に書いてあるわ。

 それくらいわかるわよ。あなたの考えていることなんか」

 「お母さん・・・」


 私が母に抱き付いて泣いたのは、大学入試の合格発表以来のことだった。


 「好きなんでしょう? その人のことが」


 私は黙って頷いた。


 「私も3回、お父さんと離婚しようと思ったことがあってね?

 でもダメだった。あの人は一流の国際的商社マンだもの、交渉は上手だからまんまといつも丸め込まれちゃった。

 男ってね、浮気するものなのよ。

 それは狩猟民族だった昔からの習性なのかもしれないわね?

 浮気しないとしても、そんな妄想をいくつになっても抱いているのが男よ。

 それを実行に移すか、しないかだけ」


 意外だった。

 良妻賢母のお手本のような母にもそんな苦悩があったなんて。


 「お母さんね、お父さんとお付き合いする前に好きな人がいたの。 

 その人は地元の進学校の美術部の人でね、そのまま藝大に入ったわ。

 その人に描いてもらった絵があるの、見てみる?」

 「うん」


 母は自分の衣裳部屋から箱を持って来た。

 不思議と汚れてはいない。

 おそらくそれは、度々見ている証拠でもあった。


 「これよ、お母さん、美人でしょ?」


 私は両手で口を押え、息を飲んだ。

 その若い頃の母の絵は、自分にそっくりだったからだ。

 アンティークな椅子に足を組んで座っている母。

 膝に肘を乗せ、顎に手をやり少し憂いのある表情には、恋愛に対する迷いが見えるようでもあった。

 


 「奈緒に似ているでしょう?」 

 「若い時の私みたい」

 「奈緒は今でも若くて綺麗よ、私の娘ですもの」


 母はそう言って笑っていたが、その微笑みは後悔があるようにも感じた。


 「お母さんはお父さんと結婚してしあわせだった?」

 「今はね。あなたも凛と華の立派なお母さんになったしね?

 奈緒、人生は一度だけよ、やらないで後悔するならやって後悔しなさい。

 夫婦なんて所詮、他人なんだから」

 「ごめんね、心配ばかりかけて」

 「心配? どうして心配なんかするのよ?

 私は奈緒を信じているわ。

 私の大切な娘ですもの。

 奈緒たちがしあわせになることを祈るだけよ。 

 博行君はあなたに似合わなかっただけ。「縁」がなかったのね?」


 私は母にすべてを話した。



 「そうだったの、20年前のパリで出会った絵描きさんと偶然再会したのね?

 親子って不思議なものね? あなたの愛した人も画家だったなんて」

 「そうなの、お母さんと同じ」

 「しあわせになるのよ、奈緒」

 「ありがとう、お母さん」

 


 そして母は後日、それを父に話した。


 「あなた、奈緒たち別れるそうですよ」


 父はリビングの熱帯魚に餌をやりながら、さして驚きもせずに言ったらしい。


 「しょうがないだろう? 奈緒は俺たちの子供だから」

 「そうね、奈緒は私たちの娘ですもの」

 「鮨でも食いに行くか?」

 「今日は私も飲もうかしら?」


 両親はそう言って笑ったそうである。




第26話

 それは子供たちにとって青天の霹靂だった。

 凛と華はマックでダブルチーズバーガーを食べながら、今後どうするかを話し合っていた。

 


 「ママもパパも別に好きな人がいたなんて、ショック」

 「急にあんなこと言われてもねー」

 「まさかウチのパパとママが離婚するなんて考えもしなかったよ。

 クラスの咲ちゃんの名前が変わった時もびっくりしたけど、私には関係ないことだと思ってたもん。

 お姉ちゃんはどうするつもりなの?

 パパと暮らすの? それともママと?」

 「それはママだけどさあ、でもパリだよパリ?

 簡単には決められないよ」

 「私、隼人君と離れるのイヤだよ。でもパパの不倫相手と暮らすのはあり得ないしー」

 「私だって塾の長瀬君と周明館高校に行く約束して頑張ってんのにさあ、いきなりパリに行こうって言われてもねー?」

 「じゃあさ、パリに行くのはちょっと待ってもらおうよ。そしてママと一緒に東京で暮らすっていうのはどうかな?」

 「でもママも好きな人がパリにいるからパパと離婚するんでしょう? そんなの無理だよ」

 「パパもママも勝手だよね? 私たちのことなんか何も考えてないんだもん」


 そしてふたりはオレンジジュースを飲んだ。


 「たとえママについて行くとしても、問題はパリね?」

 「ねえお姉ちゃん、ママの好きな人ってどんな人なのかなあ?」

 「私も気になってた。

 ウチのパパを越える人なんてどんな人なんだろうね?」

 「一度会ってみたいね?」

 「うん、ママに話してみようか? その人に会わせてって」

 「そうだね? それから考えようか?

 そしてどうしてもママがパリでその人と暮らすというなら、お爺ちゃんお婆ちゃんと一緒に暮らせばいいもんね?」


 

 凛と華は家に帰ると母親の奈緒に言った。


 「ねえママ、そのママの彼氏さんに会わせてくれない?」

 「もちろんよ。じゃあ明日の夜、一緒にお食事しましょう。何が食べたい?」

 「うーん、じゃあお肉がいい」

 「わかったわ、明日、夜はステーキを食べに行きましょう」




 その夜、新宿のステーキハウスで凛と華、そして奈緒と伊作が会食をした。


 「はじめまして、西山伊作といいます。

 あなたが凛さんで、あなたが華さんですね?

 お会い出来て良かったです」

 「・・・」

 「・・・」


 ふたりともコクリと頷いただけで、何も言えなかった。

 凛も華も出鼻をくじかれたからだ。

 ふたりはエネルギッシュなイケメン・オジサンを想像していたからだ。

 だがそこに現れたのは羽毛のようにやさしい、モジャモジャ頭の澄んだ目をした小児科医のような男だった。

 そしてこの西山という人は自分たちを子供扱いすることもなく、ひとりの大人として接してくれた。



 ステーキが運ばれて来た時も、


 「熱いから火傷しないようにして下さいね?」


 と、さりげない気遣いをしてくれる。

 それは恋人の子供たちを手なづけようという魂胆ではなく、極めて自然な振る舞いだった。

 次第にテーブルは和み、リブステーキを食べながら凛が伊作に訊ねた。


 「西山さんはママのどこが好きなんですか?」


 すると伊作はナイフとフォークの手を止めてこう言った。


 「あなたたちのお母さんだからです」

 「・・・西山さんって面白い人ですね?」

 「凛さん、華さん。一度パリに来てみませんか?

 それでもパリがイヤだったら仕方がありません。

 その時はお母さんのことは諦めます。

 素敵なパリをあなたたちに見せてあげたい。必ず気に入ってもらえると信じています。

 あなたたちのママが、20年前に愛したパリを見せてあげたい。いかがですか?」

 「・・・、パリってそんなに素敵な街なんですか?」

 「凛さんも華さんも、きっと気に入ってくれると思います」


 奈緒は嬉しかった。


 「西山さんもそう言ってくれるんだから、一度、一緒にパリに行ってみましょうよ。

 それでイヤならジイジとバアバと暮らしてもいいから」

 「・・・うん」


 凛と華はパリについて行くことを承諾した。




第27話

 パリに来てから半年が過ぎた。


 「凛、華、先生を呼んで来て頂戴。

 もう朝ごはんだよって」

 「はーい!」 

 

 凛と華はバタバタとアトリエに走って行った。


 「せんせー、ご飯ですよー!」


 娘たちは伊作を「先生」と呼んでいた。

 伊作を「パパ」と呼んで欲しい気持ちはあるが、焦らず娘たちに任せることにした。

 一度、パリを下見に来た子供たちはすっかりパリがお気に入りとなり、パリに馴染んでいた。

 フランス人の友だちも出来たようで、フランス語の発音は娘たちの方が上手だった。


 夫の博行とは離婚の話が進まず、私たちは既にパリでの生活を始めていた。

 今は裁判で離婚調停中だった。



 常務に退職したいと話すと、


 「何も辞めることはないだろう? パリのウチの支店で働けばいいじゃないか? 君ほどのスキルを断つのは勿体無いからな?」

 「恐れ入ります常務、気に掛けていただきありがとうございます。

 では、お言葉に甘えさせていただきます」

 「しかし君の行動力には脱帽だよ、よく決断したな?」

 「一度きりの人生ですので」

 「羨ましいよ、僕もそう言いたいものだ。アハハハハ」


 いい上司に恵まれたと思った。

 私は親会社の銀行のパリ支店に転勤扱いにしてもらった。


 


 「凛ちゃんと華ちゃん。

 先に食べていていいよ、これをもう少し描いたら行くからママに言っておいてくれるかな?」

 「この赤ってとってもキレイ。ママの口紅の色みたい」

 「この赤はね? 輪島塗のお椀の赤なんだよ」

 「お味噌汁のお椀のこと?」

 「そうだよ、あの内側の色なんだ」


 

 アトリエに入ると、絵筆を握る伊作と天使たち。

 自分に絵心があれば、この風景を絵に残したいと思った。



 「あなた、ご飯出来たわよ。

 昨日から寝ていないんじゃない? 大丈夫?」

 「ああ、あと少しなんだ」

 「無理しないでね? でも無理か? 伊作は芸術家だもんね?

 さあ、早く食べましょう、学校に遅れちゃうわよ」

 「はーい。先生、がんばってねー」

 「行ってらっしゃい、気をつけてね?」


 この何気ない暮らし、これこそが私の求めていた生活だった。

 自然に愛せる人たちとの生活。私は満たされていた。

 

 この時までは。




第28話

 俺は裁判に負け、離婚して奈緒と娘たちを失った。

 そして咲子とも別れた。


 「奥さんと離婚したんだって? 山ちゃんから聞いたよ。

 チャンス到来! これで私たち、やっと夫婦になれるね?」

 「サキ、そろそろいいだろう?

 金持ちのイケメンでも探せ、お前ならどんなやつも寄って来る」

 「イヤだよ、私はヒロちゃんが好きなんだもん!

 ねえ、ヒロちゃんのお嫁さんにしてよ!」

 「こんな飲んだくれと結婚しても、先は見えている。

 もう遊びは終わりだ」

 「酷い! 遊びだなんて!

 私はいつも真剣だったのに!」

 「お前は俺のタダのセフレだ。

 そして俺はサキの単なるプロデューサー。

 もういいだろう? 俺に頼らなくてもお前は立派にやっていける」

 「なんだかサキがヒロちゃんを利用していたみたいじゃないの?」

 「だってその通りだろう?

 でも俺はそれを責めているんじゃない。

 自分の夢を掴むためには利用出来る物はすべて利用する。

 マドンナだってあの地位を築くために、どれほど多くの男たちに抱かれたか知れない。

 それは悪ではない」

 「最初はそうだった。ヒロちゃんを利用したのは事実よ。

 でも今は好きなの、あなたのことを愛してしまったの。

 お願いだからそんなことは言わないで。

 何でもするから、ね、お願い」

 「俺は大切な物を失った。

 出て行ってくれ、もう終わりにしよう」

 

 俺はジャックダニエルをラッパ飲みした。



 「私と別れて絶対に後悔するわよ」

 「もうしてるよ」


 それが咲子との別れだった。



 (俺が浮気したのは誰のせいだ? 俺のせいか?)


 俺はやれることはすべてやった。

 娘だけでも取り戻す、必ず。

 凛と華に会いたい。


 俺は決心した。

 パリに娘たちを取り戻しに行くことを。




最終話

 玄関のブザーが鳴った。


 ドアスコープを覗くと、私は血の気がみるみると引いた。

 そこには元夫、博行が立っていたからだ。



 「俺だ! ドアを開けろ奈緒!」


 私はドアを開けることを躊躇った。


 「ここまで一体何をしに来たの! 帰って! もう何も話すことはないわ!」

 「凛と華に会いに来ただけだ! ここを開けてくれ!」


 私は止むを得ず、玄関を開けてしまった。



 「元気そうだね? 日本にいた時よりも、ずっと綺麗になったじゃないか? ふふふ」

 

 そこには敏腕CMプロデューサーと呼ばれた面影はなく、無精ひげを生やし、痩せこけ、泥酔した博行がいた。



 「凛と華は学校よ」

 「じゃあ帰ってくるまでここで待たせてもらうよ」

 「悪いけどそれは出来ない。学校から帰って来たらホテルに連れて行くからホテルの場所を教えて」

 「旦那は?」

 「いないわ」

 「嘘を吐け! その部屋か?」

 「止めて! 彼には関係ないわ!」

 「俺には関係があるんだよ!」


 するとアトリエのドアが開き、伊作が出て来た。



 「はじめまして、西山です」

 「これはこれは、西山さん。元! 旦那の広谷でーす。あはははは」


 博行は嫌味たらしく「元旦那」を強調した。



 「こいつのアソコ、よく濡れて締まるだろ?

 左耳が性感帯なんだ、今夜、試してみるといい。

 どうせ知っているだろうけどな! わっはっはっはっつ!」

 「飲んでるのね? 帰って! あなたには何も話すことはないわ!」

 「お前にはなくても俺にはあるんだよ!

 さあ帰ろう、日本へ。

 もういいだろう、奈緒。

 お前は疲れていたんだ。

 もう女とは別れた。もう一度やり直したい。もう一度。

 俺が悪かった」

 「悪いのはあなたじゃない、私の方よ・・・。

 私が人並みの生活を望んだからあなたを傷付けた。 

 私はずっと自分の気持ちと向き合うことを避けて来たの。

 自分に嘘を吐いて生きて来たのよ。

 常識や世間体ばかりを気にして生きるのはもうイヤ。

 妥協したのよ、私は一度しかない大切な人生に妥協して生きていたの。

 だからお願い、私たちをそっとしておいて」


 博行は呂律の回らない声で言った。


 「それじゃあ俺の人生はどうなる?

 お前を愛したこの俺の人生は?

 俺だって同じだ!

 人生は打算的に妥協し、賢く生きるものだ!

 俺はお前たちの為、奈緒の為に自分を殺して生きて来たんだ!

 どうなるんだ? お前を愛した俺の人生は!」

 「ごめんなさい。でももう引き返せないの。

 私は偽りの自分を捨ててパリに来たの! だからお願いです、もう私のことは忘れて下さい・・・」


 伊作が静かに言った。


 「広谷さん、申し訳ありませんが彼女もお嬢さんたちも渡すわけには参りません。

 その代わりと言っては何ですが・・・」


 すると伊作はキッチンに置いてあったペティナイフを握ると、博行に近づいて行った。

 私は伊作がそのナイフで博行を刺すと思い叫んだ。


 「止めて!」


 だがそれは私の勘違いだった。

 伊作はそのナイフで自分の左耳を一気に切り落とした。



 「いやあああーーーーっ!」



 私は全身を震わせ絶叫し、すぐに伊作へ駆け寄り、左耳から溢れ出る血を必死に塞さごうとした。

 左耳からドクドクと流れ出すドス黒い血。

 塞いでも塞いでも、指の間から流れ落ちて行く。


 「きゅ、救急車を呼ぶわね!」



 博行の顔がみるみる青白くなって行った。

 体が小刻みに震えている。

 伊作は痛みに耐えながら言った。


 「ひ、広谷さん、ヤクザなら指で、落し前を、つける、のでしょうが、私は、絵描き、です。

 描きたい物、が、まだ、たくさん、あります。

 眼と手は私の、命なの、です。どうか、この耳で、勘弁して下さい。

 私は音楽家で、はない、ので、耳は、必要ありま、せん。

 由紀さん、たちのことは、悪いこと、を、しました。

 これでお許し、いただけ、ません、か?」


 伊作は博行に切り落とした左耳を差し出した。


 博行は怯え、狼狽え、玄関へと向かった。

 そして振り向きざまに伊作に言った。


 「アンタは狂っている。たかが女ひとりじゃねえか? そのために耳を削ぐなんて馬鹿気ている。ゴッホでもあるまいに」

 「女、ひとり? 奈緒さんは、私の、すべて、なんです。

 20年、前、から、ずっと。

 彼女のためなら、耳も、命さえも、惜しくは、ない」


 

 救急車のサイレンが近づいて来た。

 伊作は耳を持ったまま、博行へ頭を下げ続けた。


 「あなたの、大切な人、を奪って、しまい、すみま、ハアハア せん、でした」


 博行は何も言わず、そのまま玄関を出て行った。

 そして彼は再び私たちの前に現れることはなかった。




 あれから15年が過ぎた。

 凛はフランス人医師、アランと結婚し、華はオーケストラのフルート奏者として世界中を回っていた。



 週末、凛がアランと家にやって来た。


 「ママー、パパは?」

 「アトリエよ。

 今、集中して描いているから邪魔しちゃダメよ」

 「ねえママ、家族でお食事しない?」

 「そうね? 日本料理がいいかしら?」

 「あのねママ、赤ちゃんが出来たみたいなの」

 「そう? 良かったわね! おめでとう。

 いよいよ私もお婆ちゃんかあ」

 「そして私もママになるのよ」


 暖炉の上には伊作の描いた、私たち家族の肖像画が掛けてあった。


 今も私は自分の人生に後悔はしていない。

 あの時の辛い選択は、決して間違ってはいなかった。

 なぜなら幸福とは、いかに生きるかではなく、誰と生きるかが大切だから。



 凛が言った。

 

 「ママ、パリに来て本当に良かった」

 「ごめんね、凛。

 ママの我儘に付き合わせてしまって」

 「ママは私たちに凄く大切なことを教えてくれたわ」

 「そう?」

 「自分に我儘に生きてもいいということを。

 だって自分の人生ですもの。

 それが少しわかるようになった気がする」


 凛はやさしく自分のお腹に手を置いた。


 「ママの子供で本当に良かった」

 「私も凛の母親になれて、本当に良かったわ」



 伊作はいつの間にか、娘たちから「パパ」と呼ばれるようになっていた。

 そしてもうすぐ伊作もお爺ちゃんになる。


                    『樹氷』完





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【完結】樹氷(作品240107) 菊池昭仁 @landfall0810

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