UFOと私

ユウグレムシ


“UFOの日”

6月24日。

1947年、アメリカ人実業家ケネス・アーノルドが未確認飛行物体に遭遇したとされる記念日。



 このエッセイを書いている今日は、“UFOの日”ではない。

 ただ最近、“UFOの日”にちなんで書かれたものらしいエッセイを何本か見かけ、たまたま拝読した作品がみんなUFOの話題から別の話題へ逸れてしまっているのが歯がゆかったので、自分のエッセイではUFOの話をしようと思った。


 ここに述べるのは、自分がUFOのどういうところに惹かれたか?である。


 UFOというオカルトネタに自分が興味を持った頃、主な情報源はオカルト本の写真とテレビ番組の映像だった。コンピュータ・グラフィックスは現在ほどには巧妙ではなく、「CGにしては出来がよすぎる」と思える余地がまだあった。

 国際社会では東西冷戦と宇宙開発競争が繰り広げられ、超音速偵察機やステルス攻撃機が暗躍し、本物の宇宙船が人間を宇宙ステーションへ運び、惑星探査機が火星や木星や天王星の写真を地球へ送ってよこし、ジュール・ヴェルヌの頃ともH.G.ウェルズの頃とも違う、謎に満ちた宇宙への畏怖と、発射ボタンの押し間違いで明日にも起こりかねない核戦争への恐怖とが、世の中を、ある種のお祭り騒ぎとでもいうべき不穏な雰囲気にしていた。あの頃、ノストラダムスの予言は本当に世界の終わりを予感させたのだ。

 そんな時代だったから、不鮮明なUFO写真も、目撃者の証言をもとに描かれた宇宙人の絵も、それらにまつわる怪事件のエピソードも、情報があいまいであればあるほど怖かった。

 もちろん当時から(宇宙人の乗り物としての)UFOの実在性は疑われていたし、有名な事件についても今ではいろいろ不審点が指摘されている。鳥、虫、流れ星、ほうき星、月、明るい惑星や恒星、蜃気楼、オーロラ、球電、幻日、レンズ雲、飛行機雲、飛行機、飛行船、気球、風船、人工衛星、ロケット、サーチライト、曳光弾、屋内照明の反射、UFOを撮影したカメラの汚れ、レンズゴーストなどなどの見間違い。そして勘違いや幻覚や飛蚊症や法螺話……。UFO事件は厳しい検証の目に射貫かれすぎて穴ボコだらけだ。宇宙人の乗り物なんて地球に来てるわけない!!


 でも、もしもニセモノのほかに、ホンモノがあったら……?


 自分は何かを好きになったとき、その事柄のどんなところを好きになったのか、なぜ好きなのか、要点を把握しておくよう心がけている(あとで創作のイメージソースに使うためだ)のだが、UFOについてひとことで言うなら、“正体が分かっていてもなお不思議”だから好きだ、と説明できる。珍しい自然現象とか、変わった特徴をもつ生き物とか、錯視を引き起こす絵や写真とか、手品とか、オチのついている都市伝説も、同じ理由で好きだ。

 ぶっちゃけUFO話は嘘である。“あからさまな嘘”と、“まだ嘘だという証拠が揃っていない嘘”である。それはさておき自分は、写真や映像や目撃談に現れる不気味なものの不気味さを愛し、「嘘でした」というネタばらしを愛し、その嘘が生まれた経緯を愛し、おそらく地球には来ていないけれど広大な宇宙のどこかを飛び回っているに違いない想像上のUFOに思いを馳せる。



 ところで、“空飛ぶ円盤”の代表格であるアダムスキー型UFOを世に出したジョージ・アダムスキーが、売れないSF作家だったことをご存じだろうか?アダムスキーは自作小説があまりにも売れないため、宣伝目的の法螺話のネタとしてインチキUFO写真を作ったのではないか……と疑われているそうだ。

 (“空飛ぶ円盤”のアイデアはアダムスキーによる発明ではなく、ケネス・アーノルドの目撃談まで遡る。アーノルドは飛行物体を見たのだが、新聞記事が「三日月型の物体」と紹介したところ、三日月型飛行物体の挿絵があったのにもかかわらず、アメリカじゅうで「“空飛ぶ”」の目撃情報が続出した)

 その後、アダムスキー自身はUFOカルトの教祖様になってしまったらしいが、アダムスキー型UFOのほうはというと、オカルト本やテレビ番組の影響で世に広まり、生みの親の知名度を超え、現在に至っても“いわゆるUFO”のステレオタイプであり続けている。三日月型や三角形や菱形や葉巻型や銀色の球体や謎の光や複雑奇っ怪な宇宙船型など、UFOの形態にさまざまなバリエーションがあっても、アダムスキー型の地位は揺るぎそうにない。

 オカルトネタに馴染みの薄い人達でも、未就学児でも、「UFOを描いてください」とお願いされたら、だいたいアダムスキー型みたいな形態の、表裏がふっくらした“空飛ぶ円盤”を描くであろう。なぜならオカルトを知らなくても、児童書にもテレビCMにもメッセージアプリの絵文字にも“空飛ぶ円盤”があふれているから。そして世にあふれる記号化されたUFOがだいたい同じ形なのは、その形さえ見ればUFOだと伝わるはず、と送り手が期待してのことだろう。これはスゴいことだ。


 オバケはたぶん実在しない。けれども人間はオバケの出てくる怪談が大好きだ。ドラゴンや妖精はたぶん実在しない。けれども人間はドラゴンや妖精にまつわる伝説・民話をファンタジー作品の元ネタによく使う。つまり人間には、実在しないと分かっているものでも文化に組み込んで愛する習性がある。そしてUFOもまた、そういう存在として人間社会に受け容れられている。オバケやドラゴンと違って二十世紀になってから登場したオカルトネタなのに!!

 いま「二十世紀になってから登場した」と述べたが、過去を振り返ってみると、神の奇跡と信じられている出来事や古文書に残る摩訶不思議な言い伝えや意味不明な古代遺物のうちいくつかにも、UFOを連想させるものがある。……まあ、どれも実際にはUFOとは何の関係もないだろう。しかし肝心なのは、“UFOネタと似通った要素をもつ神話伝説が、昔から人間のお気に入りだった”というところだ。それで、未確認飛行物体がオカルトの世界に登場したとき、人々の先祖代々の好みに刺さったからこそ、我も我もとネタに便乗する者が現れ、ペテン師に利用されても、誤認とインチキまみれの実態を暴かれても、一過性のブームに終わることなく、漠然としたイメージが文化として世界中で愛され続けているのではなかろうか。

 逆に考えるなら、人間の発想する超常現象なんてたかが知れたもので、先史時代からずっと変わらない繰り返しだよ、ってことでもありそうだ。


 UFOネタが廃れるのは、この広い宇宙のどこにも地球外生命などいないと明らかになったときだろう。でもオバケやドラゴンと違って、地球外生命はきっとどこかにいるけど、まだ見つかっていないだけだという希望がある。オバケの証拠はない。ドラゴンの証拠もない。だが、この宇宙に知的生命が存在し、母星から飛び出すほど高度な文明を築き得るということは、地球が証明している。信仰の袋小路に逃げ込まなくても、科学の進歩によって、いつか人類は宇宙人の乗り物を見つけるかもしれない。うさんくさいオカルトとしての不気味さも、知的好奇心を刺激してくれるところもひっくるめて、自分はUFOが好きだ。

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