寝待月

 寒蝉寺から竹取翁旅館に戻って来た頃、太陽は海に飲まれる寸前で、辺りは薄暗くなっていた。

 流石に旅館のエントランスは煌々とライトで照らされているが、人の気配はない。誰か彼か、従業員はいるのだろうが、こちらに来る気配は感じられなかった。

 ひっそりとした廊下を歩いていると、ようやく向こうから和服姿の小柄な女性が歩いて来るのが見え、よく見ると、歩いて来たのは久恵だとわかった。

「大丈夫ですか?」

 ゆっくりとだが、危なっかしい足取りで、角を曲がろうとした時に、ふらついたのを九曜が走って、支えた。

「ああ……、すみません」

 久恵は一瞬、九曜の顔を睨みつける様に見たが、すぐにその勢いは失われる。

「いえ、お怪我などは? 大丈夫ですか?」

「大丈夫です。お客様に助けていただくなんて、私、失礼なことを」

 久恵は自虐めいた笑みを浮かべる。

「後、これ落ちましたよ」

 九曜は一枚のメモ紙を拾い上げて、一瞬目を大きくした。その後、我に戻り久恵に渡した。

「ああ、主人からのものです。ありがとうございます。なんだか頭がこんがらかっていて、私も何が何だか……」

「わかりました。大丈夫です。この状況ですし……お気にならないように」

 九曜のフォローに、

「ありがとう」

 久恵は自然な笑みを浮かべる。

 昨夜の夕食時に見せた、高飛車な態度とは一転して、落ち着いて洗練された佇まいの久恵を見た時に、麻生が、客の中には久恵ではないと。と、そういう客もいるのだと言っていたのが、なんとなくわかる気がした。

「悪いことが重なるとはよく言ったもので、まさか丹波まであんな、無惨にも……」

 久恵の覇気がごっそりと抜け落ちた表情は、早送りに十歳程、老け込んでしまったかのようだ。

「丹波さんは特に……私も、昨日こちらに来たばかりの身なので大きなことは言えませんが、とても旅館のことに尽力されて来たかたなのだなと、そう印象を受けましたので。この旅館にとっては、大変な痛手でしょう」

 九曜な何気なしに言った言葉だったのだろうが、思いのほか久恵には刺さるものがあったらしいく表情が、悲痛なものになる。

「丹波はねえ、この辺りでは札付きの悪ガキだったんだ」

「本当ですか?」

「想像できないですね」

 丹波にそんな一面があったとは、思いもよらず、九曜と雪上は口々にそう言った。

「最近の丹波しか知らない人から見るとそうだろうね。昔から見ると、変わったものだ。あの子も不憫な子で、小さい頃に母親が男を作って家を出て行って、父親が一人で育てていた。丹波の父親は、ここの従業員で、口数の少ない人だったけど、黙々と裏方作業をする人で、とても真面目で」

「その丹波さんのお父様は、現在は?」

 九曜の問いに、久恵はゆるゆると首を振った。

 彼の年齢から考えると、まだ十分元気な年齢だと雪上もそう思ったのだが。

「真面目すぎるのか、女運がないのか、女の趣味が悪いのか。ちょうどこの旅館の温泉目当てに、湯治に来ていたちょっと見目の良い女にいいように捕まって。その女が支払いを済ませて、旅館を出て行くと、丹波の父親も同時に姿を消してしまった。当時丹波はまだ、高校生だった。うちの主人は一人残された丹波を不憫に思ってね、住み込みで仕事をさせながら面倒を見ることを決断した」

「だから丹波さんはあんなにも、従順というか、真面目でいらっしゃったんですね」

「丹波自身も色々と感じるものがあるんだろう。人の道から外れそうになった時もあったが、ちゃんとあるべき道に戻って、それからはずっと真面目に旅館で働いてくれている。本当に、よく頑張ってくれて、感謝してもしきれない」

「そんなご事情があったんですね」

 その話を聞くと、ほぼ家族同然である丹波が命を落とし、久恵がここまで憔悴してしまう理由にも納得がいく。

「あの、失礼な言い方でしたら申し訳ないのですが、丹波さんは盛道さんに対して、ほとんど頭の上がらない状態だったのでしょうか?」

「まあ、そうとも言えるかもしれない」

「久恵さんに対してもですか?」

 久恵は悲しそうに笑った。

「どうだろうねぇ。私が仕事上で言ったことについては、もちろん、丹波は口答えなど一切せず、淡々と仕事をしていたね。ただ、私的な事については……距離を置かれているような感じがいつもあった。どちらかというと、私の息子。姫子の両親の方が、よく面倒を見ていたからそっちには非常に心を開いている様に見えたよ。二人はもう恐らく知っていると思うけど、息子には子供がなかったからね」

 雪上が、なんで僕らが知っているように見えたのか聞くと、九曜と雪上の二人が、色々と聞きまわって言ることが、旅館の中で一種の噂話のネタになっているというのだから、笑えなかった。

「それは、すみません」

「いや、こんな状況になってしまったからね」

「すみません、話を戻させてもらいますが、丹波さんと久恵さんは、あまり仲がよろしくなかったのですか?」

「表立って、仲が悪い訳ではなかったと思う。少なくとも私はそう思っている。ただ、……私は、丹波の父親が蒸発した時に、彼をうちで引き取るのは反対だったんだ。然るべき、親戚筋とか家族を探してあげるべきじゃないかと、私はそう言ったけれど、結果的にそうならず、ここで暮らすことになった。私だって大人だから、自分の意見とは異なる結果になかったからと言って、別にあからさまに態度に示すことなかった。だけど、子供って、変な所で敏感だろう? なんとなく避けられてた節があったのは、私も感じていた」

 親に見捨てられてしまった、盛道を引き取る。そう、決断できるのはすごいことだ。でも久恵の考えが間違っているかと言われると、そうでもない。

「その話を伺うと……すみません。丹波さんが次の大旦那様の椅子に自分が座れるのではないかと、勘繰ったとしても、おかしなことではないですよね?」

 九曜の言葉に久恵は苦く笑う。

「もちろんそうだろうね。今回、私が姫子の婚約者候補を集めて来たんだけど、それについても表向きには丹波も同意してくれていたが、あまり気に入らないような表情も時折みせていたからね」

「姫子さんの婚約者候補を呼び寄せたのは、盛道さんではなく久恵さんなんですか?」

 久恵はゆっくりと頷く。

「主人はああ見て、家族思いでね。息子夫婦が亡くなったときも、ひどい落ち込みようで……そんな姫子の境遇を思ってか、妙に肩入れして、何も言わない……なかなか、踏ん切りがつかずにいて、それで私の独断ですけど、今回の事を計画したんだ。幸い加具家には、二十歳までに婚約者を見つけるなんてしきたりがあるからそれを口実にね。形骸化していることは否定しないけれど、私はただ、姫子に幸せになってほしいとただそう思っただけなんだ」

 その声と表情から、それが久恵の本心なのだと感じる。

「でも盛道さんにも、ご相談はされたんですよね?」

「そりゃあ、耳には入れた。あまり納得のいかない表情をしていたね。ただ、主人だって私だって、いつどうなってもおかしくない状況だから、もしそうなってしまった時に、姫子を支えてくれるそんな人がいてほしいと思っていたんだ」

 久恵はそう言ってため息とも言える、大きな息を吐いた。

「聞いた話ですが、姫子さんには前に、阿部さんと言う婚約者の方がいらっしゃったと」

「ああ、そう。阿部さんが来た時、私は本当に嬉しかった。なのに、不幸な死を遂げてしまって……あの時の姫子の落ち込み方はひどいものだった。もう、絶対に結婚しないとそうまで言い張って。私としては、とにかく心配がつきなかった。ただ、今回のことも例え婚約に至らなかったとしても、なにか姫子の心を変えるきっかけになればと思ったんだ。でも、逆に心は離れていくばかりで、こんな事件まで引き起こしてしまって……一体、どう責任を取ったらいいのか」

「亡くなった若松さんが阿部さんの知り合いだったことはご存知でしたか?」

「え? そうなのかい?」

 九曜の問いかけに、久恵は目を真ん丸くする。

「私も聞いた話なので、詳しくは存知あげないのですが」

「そう」

 久恵は自分を納得させるように何度か頷いた。

「亡くなった若松さんと、何か話しはされたことはありました? 気にかかることは何かありませんでした?」

 雪上の言葉に久恵は首をかしげる。

「もちろん挨拶をしたり、当たり障りない話は何度かした。けど、それ以上のことは……」

「若松さんはこの旅館では、どのように過ごされていたのですか?」

「どのようにって……聞いた話もあるけれど、旅館の中を色々と散策されたり、ある従業員に白鹿寺の場所を聞いて、赴いたりしていたようね。あと、主人に挨拶には行ったみたいだけど」

 久恵はそう言って、首を傾げていた。

 阿部の死に疑問を持って色々と若松なりに、調べていたのだろうと、雪上はふっと感じる。

「そうなんですね」

「お昼ごろ、若松さんのご両親もいらして頭を下げて……どんなに謝ってもお詫びの言葉を述べても、人の命は戻らない。私も息子を失った身で、わかっていた苦しみなのにね」

 見たこともないほど苦しそうな表情で、雪上は何も言えなくなってしまうのだが、九曜はそうではないらしく、

「話を戻しますけれど、差支えなければ、教えて欲しいのですが盛道さんは姫子さんの結婚についてはあまり賛成されていいなかったのでしょうか?」

「賛成か反対の二択なら、反対だろうね」

「なぜ、姫子さんの結婚にそれほど乗り気ではなかったのか、なにか理由をご存知でいらっしゃいますか?」

 九曜の止まない質問に対してか、その質問の内容が納得できないものだったのか、その理由は雪上には読み取れなかったが、ともかく久恵は急に気分を害してしまい、

「ふん。私にはそこまでの理由はわからないよ。私が提案したり、話すことについて主人はいつも賛成する気はさらさらないみたいだからね」

 強い口調でそう言い切ると、九曜の手を振り払って、じたばたとする。

「お引止めしてしまって、申し訳ございません。もし、よろしければお部屋までご一緒しますが?」

「私はちゃんと一人で歩ける。誰もかれも私がもう何も出来ないみたいにみんな寄ってたかって言うけれど、私はちゃんとできる。……姫子だって、あの子、優しい顔をして、心配そうなフリをして、心の中ではきっと私のことを嘲笑っているんだ。主人だって、まともに私の話を来てくれない。もう誰も、私のことなんて……」

 何の前触れもなく、久恵はいきなり声を荒げたと思うと、しくしくと泣き出してしまった。

 雪上は面食らったが、九曜はあくまでも冷静で、

「やっぱり、着いていきます」

 と、やんわり言うのだが、

「いい。私、一人で帰る」

 今度はそう言って、力いっぱい九曜の手を振り切ると、本人は力強く歩いているつもりなのだろうが、傍から見るとふらふらと舟をこぎながら、雲の上でも歩いている様に見える。それでもなんとか、廊下を歩き、角を曲がって行くとそのまま行ってしまった。

 どちらともなく顔を見合わせ、お互いにため息をついた。

「大丈夫ですかね?」

 雪上の言葉に首を傾げながら、

「さあ、どうだろう。話を聞く限り、思っている以上に家族間や従業員の間に見えない溝が横たわっているのだと感じた。我々も部屋に戻ろうか」

 踵を返すため、一歩踏み出そうとした所で、玄関の方が騒がしくなる。

 中庭のガラスを通して、玄関の方に目をやると、扉が開いておりその向こう側に赤色灯が光っているのが見えたので、住職の件で刑事たちが来たのかもしれないと思った。

「悪い、先に部屋に戻っていてくれるか?」

「ああ、はい」

 疲れていたので、そう言ってもらえるのは非常にありがたかった。

 九曜の後ろ姿を目で追って視線をガラス越しに空を見上げる。

 月が、輝いている。

 部屋に戻る時に、ふと振り返ると、九曜と和田刑事がなにやら話し込んでいる姿がガラスを通して、遠目から見えた。


 時刻は夜の十一時。

 眠気は全く襲ってこないため、学生の本分である勉学に立ち戻ろうと、竹取翁旅館の客室で、今まで見聞きしたフィールドワークのまとめ作業をしていると、九曜が大きな音を立て扉を開けた。手にラウンジで淹れて来たらしい、コーヒーカップを持ったまま、

「姫子さんは丹波さんの死については自分は何も知らないと、一貫し証言しているのだと。それから、住職さんの死因は急性心臓死の可能性が高いそうだ。もともと心臓の持病があって薬を飲んでいたらしい」

 開口一番そう言った。さっき玄関にいた刑事から聞いてきたのだろうと察しはついた。

「薬を飲んでいたのなら、どうして?」

「もしかしたら、誤った量の薬を飲んでしまったのではないかって。司法解剖をしてみないとわからないが、うっかりの可能性は否定できないし、それに俺たちみたいな全く持病のない健康な人が、急になることだってあり得るものだから、もしかしたら”何か”の原因はつかめないかもしれない」

 九曜はそう言って、机の上にコーヒーカップを置くと、雪上の正面に置かれた座布団の上のどかりと座り込んだ。

「そうなると住職さんは事故、もしくは自殺された可能性があるのでしょうか……九曜さんはどう思われますか?」

 雪上の問いかけに唸り声を上げた後に、軽く頭を振った。

「いや、まあ……まだはっきりと死因の特定に至った訳ではない。司法解剖がなされれば、警察の方でキチンと結論を下すだろう。だからその事について別に文句も意見も言うつもりは毛頭ないが、俺自身の意見として言わせてもらうと。残念だが、自殺もしくは事故とは言い難いだろうと思う」

「それは……」

 雪上はゴクリと唾を飲み込む。この状況下で、雪上もわざわざ表立って反論するつもりはないが、なにか小さくささった棘があるようですっきりとはしなかった。

「まあ、証拠が揃っている訳ではないから、なんとも言い難いが、我々は実際に住職さんに会っている。あの住職さんの様子から自殺を考えている様に見えたか?」

「いいえ」

 それは雪上の本心からの言葉だった。

「俺もそうだ。自殺する人の心理的を読み解くと、明るく振舞って居ても、突然、身辺整理し出したり、そういった行動がみられる場合があるそうだ。一番わかりやすいのは、遺書の有無が大きな判断基準となるようだが、部屋の中が妙な程キレイになっていた訳でもなく、遺書もなかったと聞いている」

「大分、刑事さんと話し込まれたんですね」

 雪上は苦笑いを浮かべながら、探るような視線を九曜に向ける。

「そうなんだ。和田刑事は意外にもおしゃべり好きで、打てば響くように回答が返ってくるものだから」

 しれっとした様子でそう答える。

「そうですか。話を戻しますが……遺書がなかったとすると、今度はやっぱり事故と考えるのが筋なのかと思うんですけどね。二度しか会ってませんけど、住職さんの話される様子だとか、身なりから見て、量を誤飲するタイプの方には見えませんでしたけど、まあ、もしかしたらうっかり薬の飲んでしまった可能性はあるかと」

 その事故が起こりそうな人物で言うと、加具盛道の方が当てはまりそうだ。ただ、住職もそれなりの年齢だと思うので、物忘れで、うっかりなんてことはあるかもしれないと思った。

「一番最初にお寺に言った時、住職さんから聞いた話を覚えているか?」

「だいたいですけど」

「姫子さんにスマホの操作方法を教えてもらって薬の飲み忘れがほとんどなくなり助かっていると、話していただろう?」

「あ……」

 得意な顔でスマホを見せる住職の表情が思い出された。 

「だから、もし警察が住職さんが『薬の量を誤飲したのが原因』と、結論づけたとしたら、かなり疑問だな。でももし、本当にそうだったとしたなら」

「誰かに無理矢理に飲まされた可能性もあるでしょうか……」

 雪上はそう意見をしてみたが、あの最後に会った住職の様子からその可能性は低いだろうと思う。しかし、九曜にはその意見が響いたようで、腕を組んで考え込んだ。 

 差し出されたコーヒーカップに口をつける。

 九曜からの返事はなかなか来ないため、目の前の書き物に戻り、手詰まりになった話を切り替えるべく、ふと思いついた疑問を口にした。

「そもそも、どうして寒寺和尚はなぜ、それほどまでに殿様の怒りを買ってしまったのでしょうか?」

 九曜は顔を上げた。

「なぜ怒りを買ったか?」

「はい。話の中ではやんわりとしか書かれていませんから。実際、何が原因だったのかなと。姫子さんに聞く機会があればよかったんですが、もうずっとあんな状況ですし、なかなか話を切り出す機会もないので。九曜さんはその辺りについてはどう思われますか?」

 雪上はそう聞いた時点で、これはなにかもうすでに結論とまではいかなくとも、彼の中で組み立てた理論があるのだろうということはその九曜の表情からわかった。

「――まあ、これは、一つの仮説として聞いて欲しい。かくまった女性が出家する前の妻や娘……寒蝉和尚と関係する女性であるとするならば?」

「え」

 思ってもみなかったことで、雪上は思わず声を上げる。

「もちろん、現代の令和の世の中に当時を知る人なんていない訳だから、あくまで仮設で直接確認することは出来ない訳だけど。あのお寺の境内に並んだお地蔵様気になってね。特にその中でも、一番古そうなものが、水子供養とあったから」

「水子? ですか?」

「生まれて間もない、もしくは流産してしまった赤子を供養するものだ。寒蝉和尚を祀る寺だと思って最初は行ったのだから、水子供養の文字を見た時は、ぎょっとした。でも今は、そんな可能性もあるのではないかとふと、思ったんだ」

 雪上は手をとめて、頷き、九曜の話に耳を傾けた。

「ここからは本当に例えばの話になるけれど――その女性は実は身ごもっていた。しかし、周囲から堕胎するように圧力をかけられ、和尚を頼って寒蝉寺まで逃げ込んで来た。和尚は女をかくまったため、死罪を通告され、女も結局の所、子供の命を失った」

 九曜はそこまで言い切ると、自ら持って来たコーヒーカップに口をつける。雪上はその内容を咀嚼するようにこくりと頷いた。

 確かにただ、女をかくまっただけで、死罪にされるのはどこかあまりにも理不尽である。

「なるほど、そこで流れた寒蝉和尚の血が川に流れ着き、ちょうどその川は上流付近にあった間欠泉から噴出した湯が何等かの理由で川に流れ、川の水自体が赤く染まった様に見えた訳ですか」

「まあ、すべて憶測での話だが」

 ちょうどその時、トントンとノック音が響き、

「はい」

 立ち上がった雪上が扉を開ける。

「明かりがついておりましたので、失礼いたします」

 沙織がお盆をもって立っていた。

 そこには湯気の立つ湯飲み椀と、小皿に茶菓子が添えられていた。お茶の爽やかな香りがたちこめて、雪上は幾分ほっとした心地になる。

「わざわざすみません、お気遣いいただいて」

「いえ、今日は厨房が一日稼働できず、お食事のご用意も出来なかったので、せめてものとのことで」

「ありがとうございます」

 丹波が亡くなり、警察の出入があったので、昨日は丸一日、厨房に誰も立ち入ることのできない規制線が張られたと聞いていたが、こうやって、温かい飲みもを運んでくるということは、それは多少なりとも解除されたのだろうか。

「机まで運びますね」

 沙織は、慣れた様子で机の上にお盆をのせ、

「遅くまで大変ですね。レポートですか?」

 広げられていた、資料や雪上のノートに目をひょいっとのぞきこんだ。

「まあ、そうでうすね。これが本分でここに来たのですから」

 雪上はやんわりと笑顔を作り、礼を言って、出されたお茶をすすった。コーヒーはもちろん好きだ。ただ、コーヒーが異常に好きな九曜の影響で、最近コーヒーばかりの飲みすぎて、別の味のものが飲みたいとちょうど思っていたところだった。

「つかぬことを伺いますが?」

「はい?」

 九曜の改まった物言い、沙織は首を傾げる。

「この旅館でお仕事をされて、何か気になる事ですとか妙に思ったことは何かありませんか? 些細なことでもなんでも構いませんので」

 沙織は頭をひねって唸っていたが、ふと視線を下げると、意味あり気な表情で顔を持ち上げ九曜と雪上を見据える。

「本当はあまりこんなことは言うべきではないのかもしれませんが……私、あの人が怖いと思っていました」

 沙織がぽつりと言葉をこぼす。

「あの人って、誰のことです?」

「その、姫子さんです」

「姫子さん?」

「はい」

「何か姫子さんのと間にあったのですか?」

「そういう訳じゃないんです。ただ直感的なもので、もちろん、仕事の出来る普段は良い方なんですけれど、時折なにを考えているのか、わからないほど怖い表情をされて……すみません、忘れてください」

 沙織はそこまで言って、口をつぐみ、無言のまま、お茶と共に運んで来た団子を机に並べた。 

「これは?」

 九曜が食いついたのは、一緒に出されたお茶菓子の方だった。

「あまりお好きではありませんでしたか?」

 沙織は、しょんぼりとした声で言った。

「いや、そうではなく……実は、立ち寄った、お寺でみたお菓子と全く同じものだったので、ちょっと驚いただけです」

「ああ」

 九曜の言葉に、雪上もはっとする。

 ピンク色と緑色の二色の団子。

「このお菓子は、懇意にしているお客様や取引先の方に季節のご挨拶などでお渡ししているんです。旅館で手作りしているもので、まだ余っていたので、よかったらと思って持ってきました」

 九曜はこくりこくりと頷きながら話を聞き、ずっと二色の団子を凝視している。

 雪上はよっぽど九曜はお腹が空いているのかと思って、自分の分も食べていいよと勧めてみたが、返事がなかったのでどうも違うらしいと気がつく。

 ただ、無言で二色の団子を見てるままで、いたたまれない空気が流れるので、雪上は沙織に礼を言って、沙織は、「作業中にお邪魔しました」と言って、そそくさと部屋を出て行くのを見送った。

 二色団子自体は、何の変哲もない、和菓子である。

 見る限り、特に物珍しくもないが、九曜にとってはそうでもないのかもしれない。

 それほど興味をそそられる要素は何もないと思うのだが。

 九曜の視線を横目に、雪上は二色団子を一口。

 素朴な味で、これはこれで美味。お茶にもよくあった。

「九曜さん?」

 控え目に名前を呼んでみるが反応はない。

 こういう時の九曜はいくらよびかけても応答してくれないのを知っているので、雪上はこれ見よがしに自分にと出された、二色団子を頬張ってみるのだが、食べ終わっても九曜は微動だにしないので、お茶をもう一口のんで気持ちを切り替えると、作業に戻る。

 しばらくして、九曜が思い出したように顔を上げると、

「沙織さんは?」

 と、きょろきょろとするので、

「もう、戻りましたよ」

 しれっと、雪上は答える。

「まだ厨房の方にいるだろうか」

 立ち上がるので、流石に九曜の腕をつかんだ。

「九曜さん、もうすぐ午前零時ですよ? 流石にもうどなたもいらっしゃらないと思います」

「先ほどの雪上くんの問いの答えだが。知らずのうちに、住職が自分から飲んでいた可能性もあると言うことだ」

 雪上の言葉には全く取り合わず、よくわからない言葉を並べると、そのまま雪上の掴んだ手をするりと抜けて、扉の方へ向かう。

 九曜は雪上よりもずいぶん年上で、頼りになる人であることは間違いないのだが、なんだか妙に心配になり、部屋の鍵とスマホをポケットに仕舞いこんで、九曜の後を追って、廊下に出た。

 案の定、時間が時間なのでしんと静まり返っている。

 九曜はこの二日程の滞在の間に、旅館の間取りを十分に覚えたらしく、薄暗い中でも迷う事なく厨房に向かった。

「すみません」

 九曜は大きな声で厨房を覗き込んだが、真っ暗で誰の姿も見当たらない。

「九曜さん……」

 もう諦めて、部屋に戻りましょうと心をこめてそう呼びかけて見たのだが、九曜には全く響かないようで、そのまま厨房の中を進んで裏の勝手口に突き進む。外履き用のスリッパに履き替え、そのまま更に進むと、旅館の建物の一画に辿りつくのだが、

「ここって……」

 盛道の部屋だと、旅館の見取り図を瞬時に頭の中で作成した雪上は思わず大きな声を出しそうになったので、途中で言葉を飲み込んだ。

「……あいっ……」

 どこからか、人の声が聞こえ、はっとした。

 そもそも普通に考えて、ここは一般客の立ち入りは禁止である。そんな場所に足を踏み入れていると言うこと自体、後ろめたい気持ちがある訳で、そんな小さな声が聞こえただけで、逆に自分たちが、誰かに叱責されているような気分になる。

 九曜はもちろん、その声に引き寄せられる様に声のする方へ向かう。つまり、盛道の部屋に。窓がうっすらと開いているようだった。

「どうして、あれはまさか……」

 姫子の声だ。

 どきっとして、息を潜め、足音を殺すように九曜の後ろをついていった。

「お前には関係のないことだ」

 その声は、聞き覚えがある。恐らく姫子の祖父である、盛道だ。

「でも、あ……死ぬ必要はないと思うの。どうして……」

「もう、心臓がもたないのだ」

「薬は?」

「…ぃ…。……」

 盛道の声は小さいく何を言っているのかが聞こえなかった。

 ただ、”心臓”と”薬”。この二つのの言葉を聞いた時に背中に冷たいものが流れた。

 盛道を部屋で見かけた時には、心臓の病気よりも、体が上手く動かせない、思考力が落ちてしまっている状態のように思われた。この旅館のスタッフの一人である沙織の話からもそのように思われた。しかし、本当は盛道も心臓にも病気を患っていたのだと。そう思った時に、二人はぼそぼそと何かを言い合って、少しして一人の足音が遠のいていく。

 九曜は足音が聞こえなくなっても身を潜めていたので、雪上も声を押し殺して、その場にいた。


 

 翌朝。

 一昨日に夕食を取った同じ大広間に朝食をとりに来たが、まるで葬式にでも来ているかのように空気はしんと静まり返っていた。

「おはよう」

 席に着いた九曜と雪上に声をかけて来たのは麻生である。

 昨日はハンバーガショップで、行き違っただけで、面と向かって顔を合わせることはなく、一昨日ぶりである。ずいぶん疲れた表情をした麻生に向かって、無理やり笑顔で挨拶を返す。

「おはようございます」

 九曜も丁重に挨拶をしたところで、朝食の膳が席に運ばれて来た。

 白米とみそ汁。近海で獲れた焼き魚に漬物と、果物。

 昨日は外食が続いたので、提供してもらえただけでもありがたい。

 雪上は手を合わせて、茶碗を持った。

「昨日も大変だったみたいだね」

 ぽそりと呟く、麻生の言葉に雪上は顔を上げたが、寒蝉寺のことを思い出すと、すっと視線を逸らす。

「もうこちらまで話が伝わっているんですね」

 九曜は口に運んだ白米を咀嚼して飲み込んだ後に、そう言葉にした。

「姫子さんがね、あんな様子だから」

「姫子さん、どうかしたのですか?」

 九曜は箸を止める。

「あまりお加減がよろしくないようですよ。寒蝉寺の一件の後、お部屋に入られたまま食事も召し上がることのできない状況のようでして、本当にこの数日で様々なことがありましたので、本当になにが何やら」

 麻生はそう言って、みそ汁の椀に手を取った。

 確かに寒蝉寺で会った時の姫子の様子も、普通ではない状況だった。寒蝉寺から帰る時は別々であったので、彼女が旅館に戻ってからの様子は知らない。ただ、部屋に戻ってひきこもり一歩も出られない状況だとしたなら、昨日聞いた話し声は一体誰のものだったのだろうか。

「そう言われてみると、この大広間に姫子さんの姿は見当たりませんね」

「まあ、それを言うと大奥様もですけれど」

 麻生は九曜の言葉に更に付け足す。

「麻生さんは何か気になることや、それ以上になにかご存知のことがあるのですか?」

 首を横に振った麻生は、

「いや、特になにも。ただ、もしこのまま殺人が続くのであれば、いつか僕の番が巡ってくるのではないかと思ってね」

 麻生はひっそりした声でそう話すのだが、その言葉には妙な重みがあり、雪上はずっしりとした重圧感がのしかかる気がする。

「まさかそんな」

 そんな空気を払拭したくて、あえて軽口でそう返してみたけれど、麻生の表情が晴れることはなかった。

「そういえば、麻生さんって、ここに来てから姫子さんと懇意に話されたりしました?」

 九曜はふと、そんな質問を投げかけた。

 麻生は「いや」と、苦笑いを見せる。

「挨拶も?」

「いや、流石に挨拶くらいはしたよ。でもそれ以上のことは特に。もしかしたら、婚約者候補ではなく、ただのお客だと思われているかもね。まあ、そんなことで……本当は、そろそろ今日ぐらいには帰路につきたいと思っているんだけど、どうだろうね。まだ、許可が出なければここにいなければならないのかな。――お二人は確か、S大の学生さんでしょう? 大学の方大丈夫? そろそろ冬休みも終わるころなんじゃないの?」

 痛い所をつかれ、雪上は苦笑いを浮かべる。

 本当は今日から大学は始まっていて、雪上が取っている授業もいくつかあったのだが、この状況を放りだして帰る気持ちにはどうしてもなれなかった。

「そうなんですよ、今日から授業が始まっているんです。僕は大丈夫ですけど、明日は取っている授業があるので、なんとか今日中に帰りたいとは思っているんですけど」

 九曜がからりとそう言った。

「まあでもこういった事情であれば、何かあったとしても大学側に掛け合ってみればどうにかなると思うね。だけど……俺の場合はどうだがかわからないけれど」

 麻生はそう言って肩をすくめた。

「でも麻生さんだって、お仕事だとか様々予定があるでしょうに」

 九曜の言葉に皮肉めいた笑みを浮かべる。

「俺は……言ってしまえば、実家に居てもいなくてもあまり変わらない存在であるから、あんまり関係なんだ。だからこそ、この旅館に嫁いでこいと言われたわけなんだけれど、この様子だと正直希望は薄いだろう。まあ、無理ならそれで仕方がない。これだけの事件になった訳だから。でもまあ、また別の役割をあてがわれるだけだのだろうから。俺の意志とは関係なく」

 その憂いを帯びた表情には、諦めの色が漂っていた。

「じゃあ」

 麻生は軽くそう言って、食事を終えたようで立ち上がった。

 残された、九曜と雪上は食事を再開する。

「いつになったら帰れますかね」

 ため息まじりに雪上は隣の九曜に声をかける。

「もう早ければ、今日には帰れるのではないかと思っているよ」

「え? それって?」

 雪上は聞き直してみたが、九曜は食事に集中しているようで、それ以上なにも言わなかった。

 

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