立待月

 フィールドワークに出かけることを告げるため、旅館の正面玄関をのぞくとちょうど、和田刑事と目が合った。まさかそこにいると思わなかったので、雪上はあっと口を少し開いたところ、どうしたと言わんばかりにこちらへずかずかと歩み寄ってくる。

「お二人さんまた、死体を見つけて来たなんて言わないね?」

 和田刑事は訝し気な表情で、雪上と九曜を交互に見る。

「まさか……ですが、事件が解決には至ってないのは事実なので、また事件に遭遇しないとは言えないですけど」

「ああ、そのことなら、大体八割方、解決しそうだ。犯人の目星がついたんだよ」

「え?」

 九曜と雪上はほぼ同時に、言い放った。

「死んだ丹波だ」

「丹波さん?」

「ああ。丹波の自室を捜査していた所、遺書が見つかった。『私は姫子さんのことを小さいころからずっと見守ってきました。しかし、いつからか、その気持ちが恋心なのだと気が付いてしまった時、彼女に集まって来る婚約者候補の奴らを見ていたら、いても立ってもいられなくなってしまった――しかし、今となっては本当に申し訳なく思っている』と、書かれていてね」

 得意げにいう和田に、雪上は「はあ」と、おざなりに返事をした。

 犯人が特定されたのは喜ばしい事だと言うのにどうしてか、心のもやは消えない。

「本当にそうなんですか?」

 九曜は真顔で、和田刑事を見る。

「本当も何も、本人の自室から発見されたものだ。筆跡鑑定はこれからになるが、事前に丹波自身が記載している業務日報などと照らし合わせてほぼ同一人物で間違いないと話が進んでいる」

 和田刑事は淡々とそう言った。

「じゃあ、姫子さんは?」

「ショックがあまりにも大きすぎて、彼女の車が見当たらないので、一人になりたくて外に出た可能性もある。まあ、何か事件の一端を担っていた可能性がないとは言えないが……それは今後の捜査の方向性次第だろう」

 話を聞く九曜の表情はだんだんと、曇り空になる。

「九曜さん、何か気になることでも?」

 雪上は、ひょいっと九曜の顔を覗き込む様にして見た。

「丹波さんは、ナイフで一突きされていた」

 九曜の言葉に同意するように和田刑事は頷く。

「つまり、迷いが全く無いと思ったんです。私も詳しい訳ではありませんが、自殺をする人は、やはりためらい傷の様なものがいくつかつく場合があると、聞いたことがあったので。そう考えると……」

「まあ、確かに言わんとしていることがわからないでもないが、ためらい傷はある場合があるということで、全てのケースに当てはまると言う訳でもないし」

「そうですよね」

 九曜はまるで自分に言い聞かせる様に何度も頷いた。

「じゃあ、私は捜査があるので」

 和田刑事がそう言って、立ち去ろうとする間際に、

「フィールドワークに行くので外出します。犯人が特定されたのなら、もう問題ないですよね?」

「ああ」

 和田刑事は、若干苦い表情を見せながらも、九曜の言葉を否定できず、頷く。

「もし何かありましたら連絡してください……じゃあ、よろしくお願いいたします」

 九曜が軽く頭を下げて、玄関を後にするので、雪上も軽く頭を下げ、扉を閉め九曜の後に続いた。

「和田刑事はああ言うが、俺の考えではまだ事件は終焉には至っていないと思う。だから、雪上くんも十分に気を付けるように」

 前を向いたまま九曜はぽつりとつぶやく。

「わかりました」

 雪上は静かに頷いた。

 

 車を走らせ町から遠ざかると、気持ちがふっと和らぐ。

 雪上は知らず知らずのうちに、気が張っていたのだと気が付いた。そりゃあそうだ。まさかこれほどの事件に遭遇するだなんて、誰が予想できただろう。

 昨日はほとんど九曜に運転をしてもらっていたので、今日は雪上がハンドルを握っていた。

 夜明け前から色々とあったが、昨夜、気を失った様に深い眠りにつくことが出来たので、それほど眠気はなかった。

「どこまで走ればいいんですか?」

 行先はまだ聞いていなかった。

 とりあえず、国道を真っすぐ。と、言われただけで。

 このままどこまで行くのか。

 助手席の九曜はスマホの地図アプリを熱心に見ているので、妙に不安になって思わずそう聞いた。

「ともかく国道をまっすぐに――なんだが、途中で一か所。ちょっと寄りたい所があって。ともかく今そこを調べている。とりあえず今は真直ぐに」

「わかりました。その寄りたい所というのは、今回の事件と関係が?」

「いや、全くない」

 安定の九曜の物言いにほっとしたやらなにやら。

 ふうと息を吐いて、雪上はともかく落ちついて、運転のことだけを今は考えようと思った。

 アクセルをゆっくりと踏む。

 車のナビで表される地図を確認しながら、道を走らせていると、突然目の前に通行止めの看板が現れる。

「え」

 雪上はどうしたものかと一瞬気持ちが焦ったが、前を走っていた車が、皆一様に右折していくので、とりあえず雪上もそれに倣って、ハンドルを右に切った。

 よくよく見ると、そちらに【迂回路】の看板と矢印があり、その看板の上には【この先がけ崩れのため】とも書かれていた。

「この先の道はすぐ海の横にある国道だから。去年の夏にひどい台風があっただろう? あれで岩盤が崩落した箇所があるらしい」

 九曜が今更だったが、そう説明してくれた。

「なるほど」

 雪上は相槌とともに、右折した先の道を走らせる

 国道が通じていた時は、ほとんど車通りがなかったのではないかと思われるほどの細い道で、道路の両脇に畑や民家などもなく、ほとんと人の手が入ったことのない雑木林が道の両側を覆う。

【迂回路はこちら】

 親切丁寧に左折を促す看板が目に入るのだが、

「ここは真直ぐに進んでほしい」

「え? 真直ぐですか?」

 ハンドルを握る手に力がこもる。

「うん。まっすぐ、まっすぐ」

「本当に真直ぐですか?」

 九曜は一人スマホを見ながら頷くが、雪上の心の中は荒波が押し寄せていた。

 前の車は皆、一様に左折していくのをしていくのだが、雪上はウィンカーを出さずに、真直ぐ前に続く道を見据えた。向かう先の道は、車が一台通れるくらいの道幅で、もし対向車が来たならば、行き交うのが少々難がありそうほどだ。アスファルトで舗装されているが、ぼこぼことして、所々傾斜も見られる。

「本当にこの道ですか?」

 確かめる様にもう一度聞いた。

 九曜の返答は変わらない。

 雪上は、そのままアクセルを踏み込んだ。

 ガタガタとする道路を進むと、人工的で立派な看板が見えたので驚いた。


《間欠泉公園》


 その文字をみて、ようやく今朝の沙織の話を思い出す。

 隣の九曜はほくほくとした表情を浮かべていた。

 公園とあるが、博物館が隣接され、建物の前に大きく駐車スペースが設けられており、雪上はなるべく建物に近い方に車を駐車する。

 車を降りて周囲を見回し、やはりここまで来る人は少ないようで他に車はない。

 一台だけ、建物の影になり、ちょうど雪上たちが車を停めた場所から死角になる部分に停車している車があった。

 恐らくこの建物に勤務するスタッフのものだろうと理解しする。

 九曜ともに入り口の階段を上がる時、水のせせらぎの音がして、そちらを見ると小さな川が建物の脇にあるのを見た。

 建物はそれほど広くはない。中には間欠泉の仕組みなどの図解を示した展示室と、トイレと受付があり、奥の事務室でパソコンとにらめっこする中年男性が、雪上達の足音に気が付いて顔を上げ、会釈をした。

 受付の上には、入場料の金額が【大人 三百円】と書かれている。

「間欠泉はこの建物の向こうなんですか?」

 九曜が金額を支払ってそう聞いた。

「いえ、あの廊下を真直ぐと行った先に間欠泉がございます。昔は、公園から、誰でも無料で見られる様にしていたんですけど、間欠泉と言うのは要するに、熱湯が噴き出てくるとの同じなので、安全面ですとか自然保護の観点から、現在はこのように建物を設置して管理を行っています」

 受付の中年男性は入場料は、管理維持費として使っているとも言葉を付け足す。

「ありがとうございます」

「ごゆっくりどうぞ」

 まずは展示室へと向う。

 こんな風に言うのもなんだが、展示室といっても大層なものではなく、少々大きめの会議室でも言わんばかりの部屋の壁に、歴史や当時の写真などを交えながら、間欠泉の仕組みなどを簡単に紹介がなされているくらい。

 受付でももらったパンフレットを照らし合わせ、

「間欠泉はこっちですかね?」

 展示室を出て、薄暗い廊下を突き進むと、塀に囲われた外に出た。

 そもそもの場所が雑木林の中なので、人工的な建造物があっても、自然の中だと言っても遜色はない。

 雪上達以外の観光客の姿もやはりない。

 そうこうしていると、噴出口から透明の温泉が湯気を上げて噴き出し、急いで、スマホを取り出して構える。

「今朝入った温泉は茶褐色だったと思うのですが、ここは透明なんですね。温泉の成分が別なんでしょうか?」

 雪上はなんとなくそんなことを聞いてみると、九曜はしたり顔の笑顔を向けて来た。

「いいところに気がついてくれた。しかし、雪上くんの推測は外れている。こっちに」

 噴出した間欠泉を使った足湯のスペースがあり、そこには温泉分析書が壁に張られている。

「これが、竹取翁旅館の」

 九曜はいつ撮影したのか、スマホから旅館の休憩所の壁に掲示されていた、温泉分析書の画像を雪上に見せた。

「専門的なことはよくわかりませんが、ほぼ一緒ですよね?」

「そう。ここで、特筆すべきことは簡単に言うと、鉄分が含まれていること」

「鉄分?」

「そう。鉄分は空気に触れると、色が変わる。そして鉄分の分量が多ければ赤褐色になる。含鉄泉と言って、有名なものだと別府の血の池地獄とか」

 九曜はそう言って、血の池地獄の公式WEBサイトを見せてくれた。

「確かに赤いですね」

 湯気まで赤く見えるような気がした。

「この間欠泉と成分が全く一緒かといわれるとそうではないだろうが、大きく分類するとこの間欠泉と別府の血の池地獄とは近いものがあるのだと思うよ」

「なるほど。じゃあ、この間欠泉も次第に褐色になるんですかね?」

「足湯の方はわりと褐色に見えるけれど」

「確かに、そうですね」

 足湯にある温泉の色は、竹取翁旅館で入った温泉に近いものがあった。源泉に近いからなのか、むしろもっと色が濃いような気がした。

 雪上は、スマホを取り出して、足湯の様子を撮影した。

 

「それで、わざわざ間欠泉公園に寄って、何か気が付いたことがあったのですか?」

 車に戻ってから雪上は九曜にそう聞いてみる。

 当初は九曜の温泉好きが高じて来たのかと思ったが、どうもそうではないと感じた。

「あの伝承の件だ」

 雪上は意味がわからずにぽかんと口を開けた。

 九曜はそう言って、今度は運転席に乗り込むので、雪上は必然的に助手席に座る。車を発進させると九曜は話を再開する。

「地図で見ると、あの博物館の近くを流れる川が、寒蝉寺の隣を流れる川につながっているようだ」

「……九曜さんが言わんとしているのは、もしかして」

 博物館の近くで聞いた川のせせらぎの音を思い出す。

「言い伝えにある川が赤く染まったと言うのは、あの噴出した間欠泉が何等かの影響で川に水に紛れ込み、赤く見えたのではないと思う」

「なるほど。確かにそう考えると辻褄が合いそうです」

 雪上はこくりと頷き、スマホを取り出すと地図アプリを開いて、川の行方を地図上で追っていく。

 九曜の言う通り、確かに、スマホの地図アプリで確認すると、博物館の隣を流れていた小さな川は寒蝉寺の近くを流れ、海に流れ着くようだった。

「海の近くだから、もしかしたら赤潮の影響で、たまたま海水が川に逆流したのではないかとも思ったが、それなら現代でも起こる可能性があるし、逆にその言い伝えの内容も、『海が一面真っ赤に染まった』というような内容になったと思うんだ。しかし、そうではない。と、すると他の理由があったと考えた。 そこで他に何か手掛かりはないかと考え、旅館の温泉と間欠泉の存在を知ってその仮説を思いついた」

 現在は、間欠泉も管理されているため、川に流れ込むなんてことは無いのだろうが、間欠泉を囲む建物も寒蝉和尚が実在しているころにはなかった訳で。

「でもあの間欠泉の噴出だけで川が赤くなるなんてことはあるのでしょうか? 川の水だって、常に流れている訳だし」

「まあ、その疑問も最もだ。実際にそれを再現した訳ではない。入り口のところで、間欠泉が噴出する仕組みが紹介されていただろう?」

「ああ」

 さらり見た、パネルなどを思い出す。

「様々な要因がからみあって噴出する。つまり小さな地震によって岩盤が微妙にずれるだけでも影響があるらしい。だから、もしかしたら、過去はもっと噴出までの時間の感覚が長く、かつ多くの噴出量を誇っていたのかもしれない」

「なるほど」

 その事実を確認する術は、現時点ではなにもない。

 九曜はそう言いながら、上機嫌の様子だった。雪上としては、竹取翁旅館を取り巻いている謎の方が気になっていたので、うんとも何も言わなかった。

 先ほどの迂回路の看板のある道まで戻って来ると、旅館の方には戻らずに、そのまま矢印の方角に向かう。

「今度はどこに向かうのです?」

「恐らく姫子さんがいると思われるところに」

 雪上は当初の目的は、姫子の行方を追って来たことを思い出す。九曜も先ほどまで漂わせていた和やかな雰囲気を消して、すっと冷めた空気を漂わせる。雪上はただ真直ぐ前を向いて、行先を見つめていた。

 車を走らせるその道は、見覚えがあり、

「この道って……?」

 雪上の言葉に答える間もなく、九曜は無言で車を走らせ、到着したのは、昨日も訪れた寒蝉寺だった。

 閑散としている駐車スペースに、姫子のものと思われる車が停まっていたため、九曜の思惑は当たったことになる。

 なぜ、姫子はここに来たのだろう。

 本堂に入ると住職が振り返る。

「こんにちは」

「ああ、昨日ぶりですね。こんにちは。今日も研究の一環で? ご苦労なことです」

 九曜の声に住職は明るい笑顔を向ける。ここにはあんな事件など、まるでなかったかの様に清々しい空気すら漂っていた。

「すみません。単刀直入に伺いますが、姫子さんはこちらに来られていますか?」

「ええ、今朝早くに。朝のお勤めに一緒に参加されていらっしゃいました」

 状況が飲み込めていないのだろう住職は、ぽかんとした表情を浮かべている。

「今はどちらに?」

「近くを散策されると言って……多分のこの寺の境内の近くにいるとは思うのですが」

 住職は本堂の引き戸から外に顔を覗かせてきょろきょろと辺りを見回していた。

 寺の裏手はもう山だ。

 まさかとは思うが……。

「ちょっと、姫子さんに聞いてみたいことがあったので。探すついでに僕らも少し境内の周辺を見せてもらってもいいですか?」

「はい。もちろん。ただ、あまり山の奥深いとろこまで入ると、遭難とか今は野生動物の危険性もありますから、気を付けてくださいね」

 住職は、ハハッと笑って言うので毒気を抜かれた気分になる。

「あと、若松さんという方が、最近このお寺に来られたと思うのですが」

 住職の顔が急に神妙なものになる。

「そうだな。先週の週末ごろに来たよ。彼がどうした?」

「若松さんは姫子さんの婚約者候補であったことはご存知ですか?」

「え?」

 住職は大きく目をまるくした。

「じゃあ、彼が亡くなったことは?」

 九曜の言葉に、住職は言葉が見つからない様子だった。

「とりあえず、姫子さんのことも心配なので探してみます。後でお話伺いたいと思いますので……お願いします」

「……飲み物でも用意して待っているよ」

 九曜は会釈をして、本堂の入り口からぐるりと回って、裏手の方に向かう。

 伝承では赤く染まったと言われる、細い川沿いを進むのだが、この辺りもうっすっらと雪が降ったらしい。まだ新雪うっすらと、その上に足跡が残っている。姫子のものだろうと思った。雪上がそう思ったのだから、九曜も同じように思ったはずだ。

 その足跡をたどる様に、歩みを進めていくのだが、足元はしばらく川沿いを歩いた跡があって、あるところ途切れる。

 途切れた際、足が向いていたのは川の方だ。

「え」

 思わず声が漏れた。

 まさか、川に向かって飛び込んだのだろうかとひやり、背筋がそっとする

 しかし、冷静になって目視で川を見ると、川の幅は狭いし、水位もそれほど高くない。だから、川に落ちて、流されたなんてことは無いだろうと思ったが。

「よっ」

 九曜は掛け声とともに、柵をまたいで、川におりた。

 正確に言うと、流れている川にではなく、川の横に堤防の様に積み重ねられた石の上に。

 九曜は雪上を振り返る。

 その表情から案外大丈夫だとでも、言いたげな彼の言葉が読み取れた。

 覚悟を決めて、雪上も柵を乗り越え、ジャンプして下に降りる。それほど高低差がある訳ではないので、小さい子供なら止められるだろうが、雪上にとってはそう難しいものではなかった。

 九曜は雪上が両足をついたのを確認すると、あたかも知っている道かの様に迷いなく山の方に向かって歩く。

 少し向こう側に、天然の岩盤がくりぬかれた、洞窟のような山門のような場所が見え、あそこを歩いて行くのかと思うと気が引き締まる。なんとなくそこは異世界への入り口の様にも見えたから。もちろん、くぐり抜けても同じ現実世界であることには変わりない訳で。

 天然の山門をくぐり抜けると、より一層冷え込みがきつくなった気がした。

「姫子さん」

 アーチを描いた石柱のふもとに姫子がぼんやりとうずくまっている姿が見え、九曜の声にびくりと反応して、こちらを向く。 

 生きる全てをなくしてしまったかのような力のない瞳のその表情は、帰る家をなくして途方に暮れてしまった子供のようだった。

「大丈夫ですか?」

 九曜の再度の問いかけに姫子は今度は自分の意志ではっきりと顔を背け、追及するでもなく少しだけ間を置いて、彼女の言葉を待った。姫子がようやく重苦しい口を開く。

「大丈夫です」

「なぜ、ここに?」

「私がいると、もっと悪い事が続くような気がして、それでこちらに」

 今までの堂々としていた姫子の物言いから考えると、ずいぶんと子供じみて見える。

「悪いことが続くとは?」

 九曜は子供をあやすような優しい言い方で、対岸にいる姫子に視線を合わせる様に、しゃがみ込んだ。

「お二人もご存知でしょう? 人がどんどん亡くなっていくのです。石平さんに若松さん、そして丹波まで……」

 再び、こちらに向けた瞳には憐憫の色がにじむ。

 その瞳があまりにも憐れに思われ、雪上は言葉をつまらせた。

「その中には阿部さんのことも含まれていらっしゃるのですか?」

 姫子の瞳が大きく見開かれる。

「どうしてそれを?」

「自分たちから積極的に調べるつもりはなかったんですけれど、事件に遭遇して、やはり色々な噂を嫌でも耳にしますので」

 姫子は大きな息を吐いた。

「そうですよね、そうです……あの小さな町ではそうです。本当にすみません。お二人は、私がここでお誘いしなければこんな事件には関わらなくて良かったのです」

 九曜と雪上は顔を見合わせた。

「そんなことはありません。竹取翁旅館に宿泊させていただいたから、この寒蝉和尚の謎を解くヒントをもらえたのですから」

 雪上は声高らかに、川の音に負けない様にそう言った。

 姫子はようやく少しだけ笑った。

「そう言っていただけると、本当に少しだけ救われた気持ちになります。阿部さんのことは……今まで一度たりとも忘れたことはありませんでした。きっと彼も私のせいで……早く婚約者を作るようにと言われて……努力はしてみましたが結局この様です」

「一つだけ聞かせて下さい。とある人から阿部さんは、自殺するような人ではなかったと聞きました。姫子さんは阿部さんの死についてどう思われていますか? 自殺されたのだと思われますか?」

 姫子は逡巡し、少しの間をあけてから口を開いた。

「あの方は自殺なんて考える様なことがないくらいとても素敵な人でした。ただ、警察が自殺だと判断したで、そうなのだと思っています。でも私個人的には…………やはり祟りに殺されたのだと思います。もしくは、私があの人を追い詰めてしまったのかもしれません」

 少しの間があって、九曜は口を開く。

「阿部さんとの事。差支えなければ伺ってもいいでしょうか?」

「阿部さんと出会ったのは大学生の時です。出会って、そこから自然な形でお付き合いが始まりました。私の家の様々な事情にも理解を示してくれて、その上で一緒にいようと言ってくれました。大学を卒業した後は、二人で旅館の仕事をしていました」

「阿部さんの仕事ぶりは、姫子さんから見てどうでしたか?」

「どうもこうも全く問題ありません。むしろ私よりも旅館の仕事に向いているとさえ思いました。とても人当たりの良い方なので」

「阿部さんと亡くなった丹波さん、あと大奥様や旦那様とのご関係はどうでした?」

「……良いとは言えなかったかもしれません」

「それは具体的にどんな? 阿部さんと折り合いがあまり宜しくなかったと言う事ですかね?」

 姫子は唇をかみしめる。

「……」

 彼女の方からそれ以上のことは何も言わない、意思表示なのだと雪上は見て思った。

「阿部さんとの関係の中で諍いがあった訳ではないのですよね?」

「はい。そう言ったことではなかったんですけれど」

「そうですか――逆に阿部さんのご両親にはお会いになったことはありますか?」

 姫子は神妙な表情で首を横に振った。

「いいえ」

「一度も?」

 驚きを交えた九曜の言葉に姫子はこくりと頷いた。

「私と一緒なんです。小さい頃にご両親を事故で亡くされて。多分そんなところが共感しあえたと言うか、阿部さんといてもどこか心落ち着く。そんな風に感じたのかもしれません」

「じゃあ、阿部さんの身内の方は、誰もいらっしゃらない?」

「私が知る限りでは。ですから、阿部さんのお葬式をやったときでも、親族と呼べる人はなくて、大学の友人とか先輩後輩関係の方々が集まってくださり、ひっそりと葬儀を営みました」

 姫子はしめやかにそう言った。

「じゃあ、姫子さんは若松さんの存在も知っていたんですね?」

 姫子はぎくりとした表情を見せる。

「……はい。お二人は若松さんと阿部さんのご関係をご存知だったのですか? 若松さんとは以前から?」

「いえ、お会いしたのは初めてです。ただ、若松さんが亡くなる直前にラウンジでお会いして、その時に阿部さんの話を直接聞きまして」

「そうだったんですか……」

 姫子は顔をこちらに向けて大きく目を見開いた。

「はい。なぜ見ず知らずの僕たちにその話をしてくれたのかは、よくわかりませんでしたが、その直後にあんなことになってしまって――だから、姫子さんにきちんと話を聞きたいと思っていました。ですが、今朝になって、姫子さんは姿を消してしまい……そういえば、昨日住職さんから、姫子さんはふらりとよくこのお寺にいらっしゃると聞いたので、もしかしたらと思って来てみました。タイミングが合って良かったです」

 九曜はそう言うものの、川を隔てての三人の間に流れる空気は良かったとその一言で言い表せるような優しものではなかった。

「若松さんからはどんな話をお聞きになったのです?」

 姫子はためらいがちに九曜を見た。

「姫子さんには以前、阿部さんと言う婚約者の方がいて、その人は亡くなられたと言う事実を聞いただけです。若松さんは大学時代、阿部さんの後輩だったそうで、阿部さんとは懇意にされており、阿部さんの人柄もわかっていらした。だから、阿部さんの自殺について、人一倍、疑念を抱いている様な話をされていました。僕たちが聞いたのはそこまでのことで」

 九曜の言葉に間違いはないと、賛同するように雪上は大きく頷いた。

「本当のことを言うと……全てを知った上で、若松さんの提案を受け入れました」

「若松さんからの提案と言うのは?」

「阿部さんどうして死を選ばなければならなかったのかその原因を突き止めたいと。だから、婚約者候補として、この旅館に来たいと仰られて」

「と、言うことは……姫子さん自身も阿部さんの死について、思うところがあったのでしょうか?」

 九曜の言葉に姫子は押し黙った。つまり、姫子自身も心の中で、なにか思い当たる節があるのだと言っているようなもので。

「わかりません。ただ、それが若松さんと阿部さんのためになるならと思っただけで」

 姫子はそう言って泣き崩れた。 

「ともかく……姫子さん自身は、若松さんの死も石平さんの死も、丹波さんの死には直接的には関わっていないのでしょう?」

 

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