満月
部屋に戻ると和室の真ん中には既に布団が用意されており、その光景を見た雪上はどこかホッと一息つけるような心地で、肩の力が抜けた。
「とんだ目にあいましたね」
雪上は布団に寝ころび、体を伸ばしながら、九曜に言葉を投げた。
「そうだな」
九曜は布団を敷くためによけられた、座布団に腰を下ろし、ローテーブルの上に資料を取り出すと、作業を始める。
その様子を見た雪上は少々げんなりとした表情で、
「明日も、この状況ですが、どこかフィールドワークに行く予定ですか?」
と、聞いた。
「ん?」
九曜は自分の作業に集中しすぎて、雪上の言葉の内容はどうも入らなかったらしい。顔をこちらに向けて聞き返す。
「いや、なにか作業してるので、明日もどこかに行くのかな、と」
「ああ、それもいいな。今のところは考えてなかったが」
「じゃあ、今やっているのは? なんです?」
「今回の事件について状況を整理していたんだ」
布団に寝そべっていた雪上に向けて九曜は今、書いていたノートを見せる。
正午ごろ 石平さん 白鹿寺 墓地竹林にて死亡 近くに血の付着した灯籠の笠
発見者:加具姫子さん
●近くに不審者がいる様子はなかったと思われる
午後四時前後 若松さん 竹取翁旅館 自室でナイフ(旅館の備品)を突き立てられて死亡
発見者:加具姫子さん
●死体に撒かれたナンテンの実
●大広間にいた麻生には無理か。
「若松さんの亡くなった時間は午後四時ごろって、どうやってわかったんですか?」
「事情聴取の際に、それとなく聞いてみたんだ。推測だけど恐らくと教えてくれた。まあその時のアリバイも聞かれたけどね」
九曜はさらりと言葉をこぼす。
「若松さんとは、あのラウンジで会ったのが最初で最後になってしまいましたね」
湿っぽい言い方になってしまった。
「ラウンジに会った時に、若松さん、意味深長な話をしていたから気になっていたんだ。本当は、もっとちゃんと話を聞きたかったが、もう手遅れになってしまった」
「そうですね」
彼が一体、何を伝えようとしていたのか。今となっては知る術もない。
「ところで……これを見て他に気がつくことはないか?」
九曜の問いかけに雪上は唸り声を上げる。
「まず、最初に目が行くのは、発見者がどちらも姫子さん。かつ、亡くなった二人が姫子さんの婚約者候補の方だと言うこと。でも姫子さんが二人の死に関わったかと言われるとなんとも……石平さんの時で言うと、もし姫子さんが関わっているとしたなら、石平さんと諍いがあって、何かの拍子にそうなってしまった。そう考えられるかなと思ったんですけど、もしそうだった場合は、俺らがいた位置なら、その諍いの声が聞こえたと思うんですよね。でもなんにも聞こえなかった。それに、石平さんを見つけた時の姫子さんの様子は顔は本当に蒼白でした。若松さんの時も、部屋に行く前までは、姫子さんは大奥様について大広間に居て、若松さんの部屋に向かったのも自然な理由でしたし。あの人が関わっているとは考えにくいかなと思うんですけどね」
雪上は特に姫子を庇うつもりはないが、ただ実際に自分の目で見て感じたことをそのまま言った。九曜は頷く。
「これだけ見ると殺害のチャンスが一番あるのは姫子さんで、動機がありそうなあのは麻生さんだと思われるけど」
九曜の言葉に雪上は反論する。
「あのハンバーガーショップで、話していたあの声人物って麻生さんですよね? あれ、何時ぐらいでしたっけ」
「ん、恐らく、午後三時ぐらいだったかな」
「その後、麻生さんは大広間にいましたし」
「俺たちが来る前にどうしていたかはわからないだろう? ……まあ、そうなると返り血問題が出てくるか。ハンバーガショップでちらっと見かけたときと、大広間にいた時の服装は一緒だったから、違うか」
九曜はまた唸り声を上げた。
「凶器のナイフについて警察の人はなにか言ってましたっけ?」
「旅館にある備品だそうだ。多分厨房に行けば誰でも手に入ると」
「じゃあ、この竹取翁旅館にいる誰にでも可能性がある訳ですね」
「若松さんの件だけで言えばね」
「……これも別に麻生さんの肩を持つ訳じゃないですけど、あのハンバーガーショップでのやりとりの会話を聞く限り、麻生さん自身、あまり婚約者の座に執着している様子は見られなかったので、二人を殺害した可能性はあまりないのかなと思ったんですけどね」
「でも表立っての言葉と、実際その人が腹の中で考えていることとが一致するかどうかは、そうではない可能性もある。一見しただけでは本当の意味でその人が何を考えているのかなんて誰にもわからないから。麻生さん自身の家の状況なんかもあいまって、もしかしたら俺らには知らせていない感情を持ち合わせている場合だってあるのだから」
九曜の言葉に雪上はどうしてだかムッとした。
その部分について、雪上が一番問いただしたいのは九曜のことだったからかもしれない。
「じゃあ、逆に九曜さんは誰が一番怪しいと思うのです?」
「安易に誰とは今の状況では言えないが、……気になることはいくつかある」
「例えば、どんな事です?」
「まず一番気になる人物は丹波さん。あの人はかなり忠実に、従順に職務を全うしている」
「それは良い事なのでは?」
「もちろん。ただ、何と言うか……真面目すぎる様に思えて」
「ん?」
雪上は九曜が何と言わんとしているのかがわからず首を傾げる。
「それに、どうして姫子さんが若松さんのところに行ったことを知っていたのだろうと思って。姫子さんが若松さんのところに向かったのは、あの大広間にあの時にいる人じゃなきゃわからないはずなのに」
「他の従業員から聞いたのでは? それにあの叫び声は流石に誰もが姫子さんだと思ったと思いますし」
「確かにそうだな。ただ、なんとなく若松さんの死を知っていたかものようなそんな感じがして……まあ、……それから、大奥様の久恵さんを見て、どう思った?」
「そうですね……」
雪上はどう言葉にしていいのかわからず、しどろもどろに視線を逸らせた。逆に九曜が口を開く。
「はっきりと言わせてもらうと、かなり癖のある人だと思った。だからこそあの人の下で働くのはかなり厳しいと思った。だけど、丹波さんの態度を見る限りそんな不満は一切感じない。本当に何も思っていないのか、それとも誰にも知られないように心の奥深くに全て詰め込んでしまっているのか」
「だから逆に不思議だと思われたんですね」
九曜はこくりと頷く。
「ただの杞憂であればいい。ただ純粋に丹波さんが真面目な性格だったと。でももし、その不満をため込んでいたとしたら? その不満が爆発した時にどうなるか。と、思ってね」
九曜が腕を組んだので、 雪上も腕を組んだ。
「他に気になること言うのは?」
「石平さんの死因となった灯籠の笠だが、あれは随分と立派だった。雪上くんのなら、あれを持ち上げられそうか?」
「いや……難しいと思います」
雪上は返事を濁す。
「だよな。後、……においが全くしなかった」
「においですか?」
またこれもなんのことかわからずに素っ頓狂な声を上げる。
「さっき、盛道さんの居室に行っただろう?」
「食事のお膳を運ぶのを手伝ったのを付き添った時のことですよね?」
「うん。その盛道さんの部屋からなにかの異臭を感じたか?」
雪上は先程、部屋を訪ねた時の記憶を遡って見たが、においについて、特になにも思い出せなかった。
「何も感じませんでした……異臭がした方がよかったのですか?」
カーテンまでぴっちりと閉じた異様な雰囲気が漂う居室を思い出す。
「なかったのが逆に不思議に思ってね」
「どこか窓が開いていたとか?」
「この寒さで? 盛道さんのあの体の状態から、不用意に窓を開けるのは防犯上の理由からもあまりよくないと思う。主にお世話をしているのは姫子さんのようだし、彼女はそれなりにしっかりとした人だと思うからそんな初歩的なミスは犯さないと思うよ」
九曜のと言葉に反論は何も思い浮かばない。
自然と部屋の中はしんとなったところで、
「あの……」
「ん?」
雪上は視線を揺らめかせた。自分が魔女に毒を盛られ喋っているかのような突拍子もない話を切り出そうとしている。そんな自覚があった。他の友人にだったらこんな話はしようと思うこともなく、思ったとしても、自分の中で言葉を飲み込んで終わりにしたにちがいない。ただ、相手が九曜であるから。この話を切り出してみようか。そう思った訳で。
「今回の事件には竹取物語が関わっているのでしょうか?」
雪上の言葉に九曜は驚いた様に口をぽかんと開けた。
その表情から雪上はやってしまったといわんばかりに、目を閉じて、額に手をやった。しかし、その後もたらされる言葉は雪上の想像をはるかに上回るものだった。
「やはりそう思うか? そうだよな、そうだよ。俺もずっとそれについて考えていたんだ」
九曜は喜々とした声を上げる。
「あの図書館で、時吉老人の話や他に聞いた話をかね合わせると、ふっと……」
そう言って雪上は思わず口をつぐんだ。時吉老人にあの時、最後に言われた言葉と九曜の様子から、この話題はタブーかであまり口にしない方がいいのかと一瞬頭をよぎったが、本人はあっけらかんとした様子だったのでほっとした。
「いや、そうなんだ火鼠の皮衣とはね。普段の思考でいたなら、そんなことを思いつきもしないのだろうけれど、この町の人も面白いことを思いつくものだ」
「笑いごとじゃあ、ないですよ。まったく。まあ、でもこれもこの旅館の名前が竹取翁旅館に由来してそんな話が出たんでしょうけど」
「でも、そう考えると……」
九曜がいささか身をのりだしたので、雪上は上体を起こした。
「石平さんと若松さんの死も竹取物語になぞらえることが出来る」
「それは、つまり?」
九曜は雪上を見た。
「石平さんは墓地にあった石灯籠の笠の部分で頭を殴られていた。その石灯籠の笠を反対にすると、器に見えないか?」
「ああ、確かに」
雪上は頭の中で、灯篭の笠を上下、逆向きにした時、サラダボウルの様な形になったので、頷いた。
「竹取物語になぞらえると、仏の御石の鉢にあてはまると思う」
「仏の御石の鉢?」
「お釈迦様が使われたとされて、光が見えるモノだそうだ」
「はあ」
「ちなみに、火鼠の皮衣は絶対に燃えることのない布だ」
九曜は説明を付け加える。
幼い頃に《かぐや姫》のタイトルの、幼児向け絵本で読んだはずなのに、ずいぶんと忘れているものなのだなと、
「じゃあ、若松さんの場合は?」
そう言葉を返しながら、スマホで竹取物語と検索して、内容を確認する。
「赤いナンテンの実を、龍の頸の五色に光る玉とすることもできなくはないが、ナンテンは木であるから、蓬莱の玉の枝とだろうと思う。かぐや姫が指定した、その蓬莱の玉の枝の実は原文には白色とある。ばらまかれていたナンテンの実は、赤であるが、木の種類によっては白い実をつけるものもあるそうだから」
「なるほど。枝で突き刺すのは難しいと思って、ナイフを枝に見立てた可能性もありますよね」
「そうだな。ただ、気になるのは……」
雪上のスマホの画面は蓬莱の玉の枝に行きつき、さらっと一読した後、九曜に目をやり、言葉を待った。
「若松さんの死体の周りに散らされたナンテンは殺人現場をわざわざ飾った様なそんな、雰囲気を感じる」
「飾った?」
殺人には似つかわしくない単語が出てきて、雪上は思わず、聞き返す。
「うん。ナンテンは殺害した時にと言うよりも、若松さんが亡くなった後に、散らされたと思う。ナンテンの実は、若松さんの体の上にも散らされていて、血が付着していなかったから」
「ん?」
「もし、殺害された直後にナンテンの実がまかれたとしたのなら、流れた血がナンテンに付着しただろう。しかし、ナンテンには全く血がついていなかった。血が乾いたところでナンテンがまかれたのだろうと」
「つまり、若松さんが殺害された後にナンテンの実が撒かれた可能性が高いと。九曜さんはそう考えているのですね?」
九曜はこくりと頷き、
「殺人を犯した人間と、ナンテンを撒いた人間は別人なんじゃないかと、そう思ったんだけどね」
と、続ける。
「もし同一人物(若松さんを殺害したのと、ナンテンを撒いた人物が)だとしたら、その人物は一度、殺害して若松さんの部屋をでてから、もう一度、部屋に戻って来てナンテンを撒いたことになりますよね? わざわざどうしてそんな手間のかかることをしたのか」
雪上は首を傾げる。九曜も疑問としては浮かんでいるようだが、その答えにはまだ到達していないようだった。
「犯人が本当に竹取物語になぞらえて、殺人を重ねたとするなら……その動機。なぜ? が、わからない」
「……」
雪上も九曜の質問に言葉を返せるだけの材料がなく、二人の間にしばし沈黙が流れたが、突如として部屋の扉のノック音があり、九曜が反射的に立ち上がると同時に、雪上も反射的に身構えた。
扉の向こうには、二人の刑事がいた。
「お休みの所すみません。お二人に伺いたいことがありまして。――この手紙を若松さんに渡した記憶はありませんか? もしくは亡くなった若松さんから見せられたことはありませんか?」
刑事の一人がノートの切れ端の様なものを見せた。
【話がある。午後四時。部屋で待っているように】
差出人の名前は書かれていなかった。
その手紙の内容は、若松が午後四時ごろに亡くなったのを指し示す文章であるとも言えるだろう。
「いいえ」
九曜がきっぱりと言う。
「僕の筆跡ではありませんし、覚えもありません」
手紙の一言一句を目に焼き付けるようにしながら、雪上もそう言うと、一旦自身のバックパックに戻り、フィールドワークのメモなどを書いたノートを刑事に見せる。
「僕のノートです。筆跡の証明になると思ったので」
九曜に同じ様に自身の手書きのノートを見せた。
刑事は手紙と二人のノートの筆跡を見比べていたが、その違いは歴然としていた。ノートの切れはしに書かれたその文字はまるで筆で書いたかのように達筆な文字だった。
「お休みのところご協力ありがとうございます――お二人は民族学を専攻されているとそういえば、話されてましたね」
刑事の一人が、二人のノートに書かれた内容を見た後は、疑いが晴れたからか、その声に刺々しさはもうなくなっていた。
「はい。何度か説明しましたが、寒蝉寺に伝わる和尚の伝承の調査に。この辺りでは、未だになにか悪いことが起こると”祟りだ”と仰られる方がいると聞きましたが、刑事さん方はその件で知っていることはなにか ありませんか?」
逆に九曜から質問され、二人の刑事は顔を見合わせる。
「私はないですね」
一人の刑事が答えた。
「うーん。根拠のない話だけど、噂では聞いたことがあったかな……古株の先輩に結構前に。そもそも私達もここで生まれ育って来た訳じゃないので」
軽い笑顔を見せた。
「そうですよね」
刑事は職業でも、公務員。
つまり、転勤や異動がある仕事な訳で。
「そう言えば、刑事さん」
二人の刑事がそのまま部屋を出て行こうとしたのを九曜が引き留める。
「若松さんのそばにばらかまかれていた、あのナンテンには何か意味があったのですか?」
刑事はゆるやかだった表情をぐっと引き締めた。
「まだその辺りについて詳しいことは……」
言葉を濁す。
二人の刑事の素振りから、何かを隠していると言うよりは、まだなにも手掛かりを得ていない。雪上からはそんな風に読み取れた。
「あのナンテンはわざわざ用意されたものなんですかね? いや、変な意味はないんですけど、若松さんの部屋をぱっと見たときにあのナンテンの赤の色が妙に印象的だったので」
一人の刑事が肩をすくめた。
「わざわざ用意したものなのかどうかは、まだ何とも言えない。ただ、この旅館の納屋に正月飾りとして、使われてたナンテンがまだ処分されずに残っていたのは確認された。恐らくそこから持ちだされた可能性はあるかもしれないと――じゃあ、私たちはそろそろ捜査に戻るので」
「ご苦労様です」
扉が閉まった後も、九曜はどこか一点を見つめ続け、何かを考えこんでいる様子だった。
雪上は布団の上にそのまま寝転がって目を閉じた。
◇
はっとして目を開けると辺りは真っ暗だった。
上半身を起こして、きょろきょろと辺りを見回す。
寝息が聞こえ、隣を見ると、九曜が布団の中で眠っていた。
それを見て小さく息を吐き、すっと布団の中から立ち上がる。
まだしっかりと覚醒できていないせいか、足元がふらつくのを感じた。それでも無理矢理に歩いて、トイレに向かう。
部屋のドアを開けて廊下に出た。雪がうっすらと降ったのかガラスの向こうの木々の葉の先が少し白くなっている。
温度調節がされている部屋の中と比べると廊下は随分、肌寒く身震いをした。
しんと静まり返った廊下を足音を五月蠅く立てない様に細心の注意を払って進みながら、ポケットの中に入ったままのスマホを取り出して見ると、午前三時。
ずいぶんと意識を失ったように眠っていたのだと痛感する。
部屋にも、もちろんトイレはあるのだが、なんとなく歩きたい気分だった。
ラウンジにある共用のトイレまでゆっくりと歩く。
体は起きて来たが、思考の方はまだ夢の続きを見ている様なふわふわとした気分だったが、少しずつ昨日起こった出来事が思い出されると、一気に背筋につめたいものが走り、人がいないことが逆に怖くなってくる。
今更になって、どうして部屋のトイレで済まさなかったのだろうと、後悔の念までこみ上げて来た。
次第に小走りになりトイレに急ぐと、用を足して、手を洗って、早く部屋に戻ろうとした時だ。
人の話し声が聞こえてびくりと体をこわばる。
ラウンジの側面はガラス張りで中庭に面しており、庭に出ることもできる。その扉が少しだけ開いていて、その隙間から声が聞こえるのだと思った。
雪上は立ち止まり、中庭の方に目を凝らす。
見える範囲では人の影は見当たらない。
ただ、かなり薄暗かったのと、木々が立ち並んでいるのでその影になっていたのなら、見えないのも仕方ない。
そのまま通り過ぎて、部屋に戻っても良かったのだが、直感的に逆に開きなおって誰がどんな話をしているのか、その興味と好奇心の方が勝ってきてしまっていることに気が付く。
九曜と一緒に行動していると、なぜか不思議な厄介事に巻き込まれ、今までも大きな声では言えないが、殺人事件に遭遇したこともあった。以前の雪上であれば、厄介ごとには巻き込まれない様に、極力自分は関係ないと、面倒な問題から遠ざかる様に行動していたのだが、少し勇気がついてきたのか(これを勇気と呼べるのかどうかはさておき)雪上は息を潜めて、中庭の方に向かう扉の隙間の方に近づき、耳をそばだてる。
「……いや」
「……まさか、……そんな」
悲壮な様子の女性の悲鳴の様な言葉だった。
その声には聞き覚えがある。確証はないが、恐らく姫子だろうと思った。もう一人は、丹波かもしれないと思ったが、ほとんど声も聞こえず、姿もみえないので、気がしただけかもしれない。
しかし、なぜこんな時間にここにいるのか。
姫子と話している相手はよほど警戒心が強いのか声をひそめており、何を言っているのかも聞こえない。
なにか有用な情報が得られるかと思ったのだが、そう上手くはいかないらしい。
気が抜けるとだんだんと眠気が舞い戻って来て、あくびをかみ殺す。好奇心よりも早く布団にもぐりこみ、もうひと眠りしたい気持ちの方が強くなっていた。
そろりと、廊下を滑る様に歩いて部屋の扉の前まで戻る。扉に手をかけたところで、背中の中庭であった二人のやり取りの声がフラッシュバックし、戦慄が走る。もしかして、次の犠牲者が出るのではないか、嫌な考えが頭にまとわりついた。
雪上は扉をあけると、そのまま布団に戻ろうと思っていたのだが、妙に気になって布団にくるまっていた九曜を叩き起こした。
「庭で、話し声が聞こえたんですそれが妙に気になって……」
しどろもどろになりながら、その言葉を何度も繰り返す。
やっと目を開けた九曜は最初はぽかんとしていたが、次第に雪上のただならぬ様子をみかねて、布団から抜け出すとスマホを持って上着を羽織り、二人で部屋を出た。
「声の感じから誰が話していたかは?」
「正確にはわかりません……」
「声は近くからだった? それとも遠くから?」
「中庭とだけしか」
九曜はその言葉を聞いてすぐに走り出したので、雪上も続く。
先ほどまで耳をそばだてていた、ラウンジから中庭に続く扉は、まだ完全に閉じておらず、隙間は先程、雪上がいた時と同じままだった。二人は身を潜めて、聞き耳を立てるが、もう誰の声も聞こえなかった。
「ちょっと行ってみよう」
その扉を大きく開くと、外履きの様のサンダルが置かれており、二人でそれを履いて、スマホのライトを片手に中庭を探した。
誰の姿も見当たらなかった。
雪上は途方にくれながらも、きょろきょろと何度も同じ所を見回し、
「いや、でも確かにさっきは、人の気配と声も聞こました」
と、繰り返す。
雪上は確かに、先ほどまでの自分の記憶をたぐりよせ、それが間違いや幻想ではなきとはっきりと胸を張って言えることだと、ちゃんと覚えている。
そうこうしているうち、空が白んできて、ライトに頼らずとも、ぼんやりと辺りの様子がわかるようになった。
何もなかった。
そうなるとついに雪上も自身がなくなって、自分の不甲斐なさに九曜に申し訳ないと、あやまろうとしたところ、
「わあっ、ああああああ」
今度は本当に叫び声が聞こえた。
男性の声だ。
二人は顔を見合わせ、声のする方へ向かう。
中庭ではなく、ラウンジと対角線上にある家屋の中からだった。中庭からは、そちらの方には行けそうでないので、一旦ラウンジに戻り、玄関から、二人の部屋がある場所とは反対側に向かう。
《従業員通用口》
扉に看板がかかげられているが、ためらわずに扉を開けると、そこは厨房だった。
一人の男性スタッフが時が止まったように微動だにせず、床の一点を見つめている。
床には丹波が刃物で胸を一突きされ横たわっていた。
目を大きく開け、何かに驚いたかの様な、無念を感じているような、なんとも言えない表情で、雪上は思わず目を反らした。
「救急車と警察には連絡されましたか?」
九曜の冷静な言葉に、男性スタッフは愕然とした表情をこちらに向け、ふるふると首を横に振った。
救急車を呼ぶ意味があるだろうかと雪上は一瞬思う。丹波は厨房にあったのだろうと思われる包丁で胸を一突。見込みがなさそうなのは明らかだったが、それでも素人判断ではわからない。ともかく連絡しなければと、スマホを取り出したところ、九曜は胸を一突きされている刃物を見て、
「若松さんの時とナイフが一緒だ」
と、言った。
雪上が一一九にダイヤルし、『こちら――』と、急に畏まった声が聞こえ、現実に引き戻された時に、一瞬目の前のことを、なにをどうやって話せばいいのかわからなくなり、あわあわしていると、
「竹取翁旅館です。厨房に人が倒れています――」
隣で九曜がスマホを耳に当てて、説明していたので、雪上もそれにならった。
警察と救急車が来るまで、従業の男性は茫然と動けずにいた。雪上もそれと変わらないような感じてぼうっとしていたのだが、九曜は違った。
周囲を見回して、厨房から直接外に出ることができる扉を見つけ、ゆっくりと扉を開いてみたりしていたので、
「九曜さん」
流石に警察が来るまでは、あまり何もしないでいる方がいいと思ったので、たしなめるようにそう言葉をかけたが、九曜からの返答はなく、きょろきょろと周囲を見回して、
「何もない」
ぽつりとそう言う。
「何もないとは?」
「かぐや姫の関連のものだよ」
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