九日月
時吉の言葉の意味はちんぷんかんぷんであるし、時吉自身も『老人の戯言だ』などと言っていたのだから、雪上としては、気にする必要は一切ないと声を大にして言いたかったが、九曜にとってはそうでもないらしい。
彼はしばらく呆然としていた。
なにがそれほど気にかかるのか、問いかけてみたかったが、どうもそんな雰囲気にならなかった。
時吉老人が去るのをただ眺め、しばらくして、ようやく九曜が歩き出したので、雪上は司書の人にお礼を言って図書館を出た。
そこからどこをどうやって歩いて竹取翁旅館まで帰って来たのかあまり記憶にない。
九曜は右も左もわからないような状態で、歩き続け、流石に辺りが暗くなってくるとまずいと判断した雪上はスマホで旅館までの帰り方を検索し、なんとか帰ってくることが出来たと言う訳だ。
竹取翁旅館の玄関で、九曜はようやく大きな息を吐いて「悪かった」と、小さく雪上に言った。
旅館の一番奥まった場所にある大広間に二人が着くと、丹波がほっとした表情を浮かべ、
「こちらに」
と、席に案内してくれた。
ちらりと、隣を歩く九曜の表情を見ると、いつもの彼だったので、雪上はほっとした。
案内された席は、大広間の真ん中辺り。
席に着くと、流石にコートを脱いで座る。コートを脱いだ下の九曜の服装が、作務衣でなかった事もあって、雪上の一抹の不安は消え去った。
既に席についている人の姿もちらほらある。
「皆さん、宿泊の方なんですか?」
九曜はいつもの口調で丹波に耳打ちする。
雪上が一瞥する限り、宿泊客とは違うと思った。丹波と同じようなユニフォームを着用している人がちらほら見えるから。
「その……婚約者候補の方がいらっしゃってから、従業員たちともコミュニケーションをとる一貫として、従業員一同と揃って食事をすると、大奥様が決められて。まあ、仕事の状況もありますので絶対に全員が揃うとは言い切れませんけど」
案内された席の隣には若い男性の姿があった。明るい茶色の髪にまるでモデルの様な容姿の男だ。一見、この場にはそぐわないと思う程の。
誰かはわからなかったが、目が合ったので、軽く会釈をする。
「そちらも婚約者候補の人?」
軽い口調で話かけられ、雪上は反射的に首を振った。
「私たちはS大学の学生です。民俗学を学んでいまして、このあたりにフィールドワークの一環で来ていたのですが、加具姫子さんに白鹿寺を案内してもらって、それで事件に巻き込まれてしまって……えっと、そちらは?」
九曜は自分たちの自己紹介を簡単にした。
「ああ、なるほど。俺は麻生。じりじりと”死”ににじり寄られる立場を共に分かちあえるかと思ったのだが、残念だ」
「つまり……婚約者候補の方でいらっしゃいますか?」
九曜の問いに、グラスの水を飲んで、
「ええ、まあ」
と、頷いた。
「ああ、そうでしたか。九曜といいます」
「雪上です」
九曜の挨拶に続いて、雪上も軽く頭を下げた。
「麻生です」
前髪撫でつける様に手をやって、麻生は軽く頭を下げた。
カッコつける様な仕草を見せるのだが、嫌味に見えないのは、彼の容姿の良さがあるからだろうか。
「麻生さんはなぜ、加具姫子さんの婚約者候補になられたのです? 差支えなければ伺っても?」
「そうですね、特にこれと言った理由はありませんが、ただ、俺の実家が旅館をやっておりまして」
「ああ」
雪上はなんとなく状況を察して頷いた。
「俺は次男。家には兄貴がいますからね。こうやって外に出されて、ゆくゆくは……実家としては、会社のグループにして大きくしたい、そんな欲目がないとは言えないでしょうね。だからと言って、他の候補者を蹴落としてまで、どうにかしたいとは思っていませんが」
つまり自分は関係ないのだと言いたいのだろう。それを裏付けるように、こちらに向ける瞳は強い彼の意志が感じられ、嘘をついている様には見えないと少なくとも雪上には思われた。
それから、その麻生の話す声を聞いて、遅い昼食を取った、ハンバーガショップで聞いた人物と目の前にいる人物の声が同一人物だと気が付き、目の前の人物が麻生本人なのかと思うと、余計に意識が雪上はどう返したらいいのか、言葉が思い浮かばず、こんな時に限って九曜も他の事に気を取られているようだった。
「姫子さんはとは、昔からのお知り合いなのですか?」
「いいえ、全く」
麻生のきっぱりとした答えに、あっけにとられる。
おそらく旅館の関係者らしい人が、わらわらと人が広間に入ってくるので、会話はそこで中断になった。
その中には姫子の姿もある。
今朝、寒蝉寺で会った時よりもずいぶんと疲れている様に見え、蒼白い顔をしていた。
「はあ、難儀だねぇ」
よく通る声がして振りかえると、杢色の着物を着た小柄な女性が丹波に連れられてやって来た。だいぶ年を召しているようで、その足取りは一歩間違うとたどたどしい。
一度席についた姫子だったが、立ち上がると、丹波から老女の腕を支える役目を引き継ごうとするのだが、老女はぴしりとその腕をはねのける。
「私は一人で歩けるんだから」
つっけんどんな物言いに、
「お祖母さま。あまり声を張り上げると……」
老女は姫子の祖母なのだとその会話で察する。自身の祖母をいたわる様な素振りをみせるが、ことごとく祖母は姫子の腕を払いのける。雪上はその様子をずっと見ていたが、いざ老女の顔を見た時に真っ先に思ったのは、あまり姫子と似ていないなと言う印象だった。
姫子の祖母はふんっとした態度を貫いて、力をいれる度に震える体をこらえながら、姫子の隣に腰をおろした。
「お祖父さまは?」
祖母が座るのを見届けた後に、姫子は丹波の方に視線をやった。
「お部屋にいらっしゃるとのことです」
「お食事は?」
「今は召し上がる気分ではないと仰られて」
「そう」
姫子は振り返って丹波を見る。
「あと、色々お願いばかりで申し訳ないのだけど、なにかお粥でもいいの。食べやすいものを用意しておいて欲しいと伝えてもらえないかしら。あとで、私が持っていくからと。多分、まだ薬も飲んでいないと思うから」
「承知しました」
丹波は小さく頷き、急ぎ足にまた広間を出て行った。
姫子の隣で祖母がぎろりと周囲を睨みつける様に見回す。
雪上は目を合わせたくなくて、こちらを見られる前に目を伏せた。
「あの人がいないね、あの……」
「お祖母さま? どなたのこと?」
「あの、根掘り葉掘りこちらのことを聞いてくる、ちょっといけ好かない男だよ」
雪上は頭を下げたまま、その会話を耳だけで聞いていた。多少距離があるのだが、姫子の祖母の声はよく通り、雪上の座る場所からもよく何を話しているのかがわかった。このわずかな時間からでも姫子の祖母はかなりアクの強い人物で、不快な気分と舌がざらつくような後味を感じる人だと思った。
「あの人は、大奥様の久恵さん。なかなか手ごわいから気を付けた方がいいよ」
隣の麻生もそう耳打ちしてくる。
雪上は不自然にならないように、顔を上げた。
久恵と姫子の方に視線を向けると、姫子は先程の祖母の言葉にはまだ返答しておらず、きょろきょろと広間全体を何度か見まわしていた。
「それは、若松さんのことかしら?」
「ああ、そんな名前だった。姫子の婚約者候補にと自分から勇んで来た割には、食事の時間も守れないなんて、なんて恥知らずな……」
「私、ちょっと様子を見てきます。体調がよろしくないだけかもしれませんし」
久恵の言葉にただならぬ気配を感じたのか、聞き終わらぬうちに、姫子は立ち上がり、広間を出て行った。
久恵はふんっと、大きく息を吐くと、今度はお膳の上げ下げで忙しく動いている仲居を呼び止めて、なにやかんやと言いつけている。流石に、あまりにも見ていられず、雪上の方が大きなため息をつく。
「姫子さんはいいとしていも、大奥様はねえ……でもお客様からしてみると、非常に信頼ができるからと、あの人じゃなきゃっていうお客様も未だにいるみたいですよ」
意外とおしゃべりな人らしく、隣で麻生が色々と情報を耳打ちしてくれるので、雪上は小さく頷いた。それ以上にどんな反応をしていいのかわからなかった。
出されたお茶を飲んで、大広間を何度か見回した後、耳をつんざく女性の金切り声がして、皆一斉に視線を錯綜させた。
九曜は立ち上がり、悲鳴が聞こえた方へ走り出そうとしている。少しの空白の後に、雪上も立ち上がり、それに続くように旅館のスタッフたちが続く。
「声がしたのはこっちの方か?」
旅館の廊下は増改築を繰り返しているためか、縦横無尽に伸びており、また新しい造りだと思われた床が急に年季が入ったものに切り替わる。この廊下がどこに続いているのか、始めてこの旅館の来た雪上は袋小路に迷い込んだかの様に思われた。流石にそれは九曜も同じだったようで、T字路の別れ道で、九曜は立ち止まり左右を見回していた。
「多分、こちらです」
九曜に代わって先頭を切ったのは、後ろから走って来た丹波だった。
「なぜこちらだと?」
丹波の後ろ姿に九曜が問いかける。
「若松さんのお部屋はこちらにあるので」
「ああ」
誰も言葉にしなかったが、先ほどの悲鳴は姫子のものだったと誰もが思ったはずだ。
「何もなければいいが」
九曜のつぶやきは雪上の耳にだけ届いた。
廊下を進んで行く間、朝訪れた、寒蝉寺で姫子が祈りを捧げていたあの石碑が眼前にちらつく。それから、竹やぶの中でみた、石平の……。
「あ、この部屋です。若松さんの――若松さん? 姫子お嬢さん、大丈夫でしょう……か?」
丹波は恐る恐る言葉を発した。
部屋の扉は半開きになっていた。丹波はその後の言葉を続けられないまま、大きく口だけを開け、部屋の中を凝視する。
「丹波さん? ……あ、」
九曜は追い付いた丹波の後ろから部屋を覗き込んで、同じように言葉を失っていた。
雪上も二人の後ろから顔を覗かせ、言葉を失う。
布団の上にぐったりと横たわった若い男性は――――若松だった。
ラウンジで会った時と同じ服装をしている。顔はこちらに向いていたが、あの時の勢いのあった表情や雰囲気は一切の影を潜め、ただ生気のない表情が横たわっていた。その傍らに姫子が座り、小さな声で涙ながらに何度も若松の名前を呼び、体をゆすぶっている。しかし、若松が答える様子はない。
胸にはナイフが突き立てられ、赤い木の実がばらまかれている。
「蓬莱の玉の枝か?」
「え?」
一瞬、九曜が何を言ったのかわからず、雪上は聞き返したが、九曜は返答せず、ポケットからスマホを取り出す。
「ともかく警察に」
九曜の言葉にややあって、反応した丹波がポケットからスマホを取り出した。
「今、警察にかけています。どなたか救急にも」
雪上はそれを聞いて、自身のスマホを取り出してコールした。間に合うのかどうか、意味があるのか。それはわからないが、電話をかけることが今の雪上が若松に出来る最大限の礼儀だとであるとなんとなく思った。
◇
その後ほどなくして、刑事と救急隊員がぞろぞろと旅館の中に押し寄せた。
先ほど、石平の時に対応にあたった面々とほぼ変わらない顔ぶれだったため、九曜や雪上達の顔を見た時にまたかと言う表情をされたのだが、部屋の中の様子を見ると表情を一変させる。
一人の刑事が慎重に現場に入って行った所で、姫子が涙に滲んだ瞳を刑事に向けた。
「貴女が第一発見者の方ですか?」
刑事の冷ややかな声に姫子はこくりと頷く。
「私がお部屋に入った時、お休みになられているだけなのかと思って、お名前を呼んで体を揺すってみたのですが、全く反応がなくって……」
姫子はまた涙があふれて、言葉を失った。
「姫子お嬢様を部屋の外に連れだしてもいいでしょうか?」
丹波が刑事に了解を取って、姫子の元に歩み寄る。丹波に支えられながら、ゆっくりと立ち上がるのだが、今にも倒れそうなほどよろめいている。
「後程、もう少し詳しいお話を伺いたいと思いますが、今は、少し休まれた方がいいでしょう」
救急隊員からも声をかけられていたが、姫子は無理のない速度で歩き、部屋を出て行った。
程なくして、若松が亡くなったことが確認された。
その後、雪上と九曜も刑事から事情を聞かれたが、今日はこんなことが二回目だったので、石平のときよりも落ち着いて状況を話すことが出来たと思う。雪上がただ、そう思っただけかもしれないが。
「普段からこんな人が亡くなることが、この辺りは多いんですか?」
九曜は見かねた様に逆に話を聞かれた刑事に質問を返した。
「いや、普段は何もないことが自慢の穏やかな町なんですがね」
これには刑事も苦笑い。
「私達も今回初めてこの町に来たので、この辺りのことは詳しくないものですからそれに、私は別にいいですけど、彼――雪上くんは、いくら殺人事件のためとはいえど、色々とよくない事情があるのでしたら、彼の親御さんはきっと心配されるでしょうし。もちろん、成人はしていますけれど、学生の身分ですから」
「いえ、大丈夫ですよ」
雪上はそう返したが、九曜の言い方は刑事たちの同情を引いたようで、どうしてもと言うのであれば、家に帰宅してもいい、ただ連絡先はわかるようにしてほしい。と、言われた。
「ありがとうございます」
雪上はそうは答えたが、帰る気はなかった。乗りかけた船である。謎めいたこの旅館と町全体の雰囲気に妙な感覚がずっと消えない。それがなんなのか気になって仕方なかった。
二人の事情聴取が終わった所で、姫子を部屋まで送り届けた丹波が戻ってくると、九曜と雪上を交互にみて、
「お二人は大丈夫ですか?」
申し訳なさそうな表情を見せる。
「ええ、まあ」
九曜の言葉に同意を示すように雪上も頷いた。
「ともかくこんな状況ですので、お食事はお部屋にお持ちいたします」
「まだ、大広間には皆さんいらっしゃるのですか?」
「そうだとは思いますが……」
食い気味の九曜に気圧されながらも丹波は頷く。
「出来るなら、大広間に戻って食べたいと思います。こんな時に少人数でいるよりも、沢山の人といた方が安心しますので」
九曜は丁寧な口調でそう言うが、彼の魂胆は別の所にあることぐらい、雪上だけでなく丹波も気付いていただろう。
しかし、この状況下で九曜の言葉ももっともに思われたので、丹波にはその提案を断るだけの言葉が見つけられなかったようだ。
「承知しました。では、大広間に用意するので、もう少しだけお待ちいただければと」
丹波は一瞬、苦い表情を見せながらも、ペコリと頭を下げて、また小走りに去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、なかなか大変な役回りの人だなと思う。彼がこれほどまでに、仕事に熱意を持てるのは、一体どうしてだろうか、とも。
大広間に戻って来ると、並べられたお膳の数に対して、食事を取る人数は閑散として少ない。
雪上とて、食べたい気分ではないのだが、それでも九曜が丹波にああ言った手前、多少は食べなければと思う。
広間に戻ると麻生の後ろ姿を発見して、少し息が出来る様になった。二人はどちらともなく、元居た席に座る。
麻生はこちらを見ると、急いで咀嚼物を飲み込み、
「アイツも死んでいたのか?」
低い声だった。
動揺は見られず、むしろ落ち着いていた。
「はい」
九曜は小さな声で答え、雪上は神妙にこくりとうなずく。
麻生は盛大なため息をついて、右手を額にのせると、
「じゃあ、次は俺の番と言う訳だ」
と、つぶやく。
「それは……」
雪上はそれを否定したかったが、その可能性があるかどうかと聞かれると……だから、言いかけて、口をつぐんだ。
「麻生さんは、殺害されるような恨みを買った覚えがあるのですか?」
九曜は真面目な顔で麻生を見る。
「いや、全くもって身に覚えはない」
「となると、逆に犯人ではないかと疑われる側では?」
皮肉めいた九曜の言葉に麻生は苦笑い。
「確かにそう言った見方もできるかもしれない。しかし、俺は殺人なんてやっていない。そもそも理由がない」
「ですが、今回の殺人犯は熱心に加具姫子さんの婚約者ばかりを狙っていますし」
麻生は九曜の挑発にも反応せず、
「確かに婚約者候補の意味ではライバル関係があったかと言われるとそうかもしれない。しかし、俺自身は別に婚約者になれるかどうか、そこまでこだわりはない。なれなければそれまでだし、先ほど色々この候補になった経緯を話したけれど、別に差し迫った状況である訳ではないし」
麻生の様子からしても、姫子に執拗に迫っている様な印象は見られない。むしろ別の女性とハンバーガショップにいるぐらいなのだから。
九曜は九曜で、麻生の話を聞いて、腕を組んで唸っているし、雪上は、麻生の隣席で、ただ座って、大広間を見回していた。
「ただ」
麻生が不意に言葉を発して、雪上と九曜は、反射的に彼を見る。
「でも、なんだろう。この旅館にいると本当にまるで自分がおとぎ話の世界に迷い込んだかの様な気分にさせられるよ」
冗談交じり話す麻生に九曜は、
「おとぎ話?」
と、聞き返す。
「ほら、一人の女性に何人もの求婚者がいてって言う話。別に無理難題を押し付けられる訳ではないけど」
「竹取物語のこと?」
雪上の言葉に麻生は頷く。
「そうそう。ちょうどこの旅館もそんな名前だろう?」
「まあ、確かに」
声を潜めて三人は言葉を交わしていたので、他の人の耳には入らなかったろうと思う。
広間の中心分では久恵が右往左往する女中達を呼びつけて、あれやこれやと用事を言いつけていた。
ちょうどその時に、大広間の襖が大きな音を立てて開くと、
「一体どういうことか納得のいく説明をしてちょうだい」
四十代ぐらいの女性が涙声で金切り声を上げて広間に入って来ると、つかつかと久恵の前に歩み出た。遅れて、スーツ姿の背の高い男性も入って来ると同じようにして久恵の前に立つ。
「多分、石平さんのご両親だ」
麻生が耳打ちして教えてくれた。
「この度は、ご子息様の死は誠に残念なことで」
久恵は先程までの態度を改め、ぴしっと背筋を伸ばすと、深々と二人に対して頭を下げた。
「そんな謝罪の言葉が聞きたい訳じゃないの。貴女とそちらのお嬢さんを信じて、息子を預けたのに、どうして家に帰ってこれないの? どうして、どうして……」
石平の母親はヒステリックに声を上げて泣き声を上げる。隣の男性、恐らく石平の父親が彼女を受け取めた。
久恵はだんまりとして、微動だにせずただじっとしたを向き、
「このような事になって本当に申し訳ございません」
ただ、それだけを言って畳に頭を擦り付けるぐらいの勢いで、詫びの言葉を伝えていた。
ちょうど良いタイミングに、刑事たちが入って来たので、石平夫妻は言葉を控え、刑事に声をかけられ事情聴取に連れていかれる従業員を横目に見ていた。
そのさざめく人の波の合間に、
「祟りだ」
誰が言ったのかはわからなかったが、どこからともなくそんな声が聞こえた。
「誰? 今、祟りだと言ったのは? 出てきなさい。この旅館でその話はタブーだと伝えていたはずよ」
久恵の怒声に辺りはしんとなる。それは石平夫妻も一緒だった。
「あの……」
間の抜けた言葉を発したのは隣の九曜だった。
雪上はぎょっとする。
この場面で、まさか何を言い出すのかと思い、案の定、視線は九曜に集まる。
「S大の学生で私は九曜といいます。この度はご愁傷様です。ちょうど私も現場に居合わせて……その、姫子さんと一緒に石平さんが亡くなったところに居合わせました。何も出来ず申し訳ございません」
石平夫妻はただ、九曜をまっすぐに見ていた。
「実は、あの竹林に行ったのは私が原因です。私はS大学で民俗学を研究しておりまして、今回もフィールドワークの一環でこちらにきて、ひょんなことから姫子さんにお会いする機会がありました。それで、白鹿寺を案内していただけると」
「それで息子を誘ったのですか?」
石平の母の声は刃の様に鋭い。
「いいえ。そもそも、私は石平さんとは今日初めてお会いしたばかりですから。先に姫子さんにお会いして、フィールドワークの話をすると、白鹿寺を案内してくれると仰って下さったので、そのお願いするために、この旅館に伺いましたら、ちょうど石平さんがいらっしゃって、ご自身も行くと自ら仰られて」
「なぜ竹林で、息子は……?」
「わかりません。途中ではぐれてしまったのか姿が見えなくなって。それで、姫子さんが探しに行かれて、そうしたら石平さんが竹林で一人倒れているのを見つけたものですから……」
石平夫妻は九曜の言葉に、また泣き崩れた。
「お部屋をご用意します。必要なものがあれば、いつでもお申しつけください」
久恵はしずしずとそう言って、近くにいた女中に視線を送る。女中は石平夫妻にためらいがちに近づき、「どうぞこちらへ」と丁重に大広間から案内しながら出て行く時、
「お宅の家は祟りを受けた家なの? もし事前に知っていた絶対に息子をやらなかった」
石平の母が捨て台詞のように、久恵をぎろりと睨みつけた。
「ほら、ともかく行こう」
なだめるように、夫に肩を抱かれ、大広間を出て行った。
なんとも言えない雰囲気をだったのだが、
「どうもごあいさつが遅れてすみません」
九曜が久恵に向かって挨拶の言葉を述べ、頭を下げたことで、また、空気が変わった。もちろん九曜の言動と動作で、雪上も注目をされるので、九曜にならって頭を下げる。
「ごゆっくりどうぞ」
久恵はそう言って、そのまま大広間を出て行こうとしたところを九曜は引き留めるように、
「すみません、先ほどどなたかが言った”祟り”とはなにを指しているのか教えていただけませんか?」
せっかく場の雰囲気が治まったと言うのに、それを蒸し返すような九曜の発言に、大広間の中は凍り付いたようになる。案の定、久恵は殺気立つ視線を九曜と雪上に向けた。
「知る必要のないことだよ」
その視線の鋭さに、雪上は口を動かすことすらもままならないため、もうこの後は九曜に任せるしかないと、そっと視線を九曜に向ける。
「それは違います。私達が積極的にそうした訳ではありませんが、もうこの一件に関わってしまった。ですから、知る必要があると思います。なぜそうなってしまったかは先程お伝えした通りです。警察では第一発見者に準ずる私達にも疑惑の目を向けるでしょう。もちろん私達は疑われる様な行為は行っていません。それでも疑いの目を向けられる場合は、それを払いのける必要があります。しかし、その中で外から来た人間が知らないこの地域の事情があった場合、不利な条件となりえるかもしれない。むしろ、皆さんが私達を陥れるために、あえて言わずにいるのかと。そうも考えられると思うのですが」
動じることのない九曜の物言いに、久恵は息を吐いた。
「昔からこの地方に伝わる伝承で、何か悪い事が起こると、”寒蝉和尚の祟りだ”と、言う。寒蝉和尚と言うのは、かつてこの土地にいた僧侶のことで、非業の死を遂げたんだ。現代のこの時代に祟りがどうとか、そんな話はそぐわないと思うし、この旅館のお客様に変な不安感を抱かせたくないから、従業員にはそのような話をこの旅館ではしないようにと伝えてあるだけだ。これで、そちらの疑念は晴らされただろうか?」
「ありがとうございます」
九曜はこの場にそぐわない満面の笑みを浮かべた。
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