三日月

 城址公園に向かう道はいくつかあるようだが、姫子は車の侵入が禁止されている、川沿いの道を選んだ。

「小さいころからお寺に向かう時はいつもこの道をから向かっていました。昨日の冷たい雨で道がぬかるんでいるので、気を付けてくださいね」

 ふいっと後ろを振り返ってすぐに、真直ぐ前に向きなおる。姫子は道中で何度か同じ仕草を見せた。

 歩きながら時折、確かめるようにこちらを振り返る時の姫子の表情を不快に思われない程度に、視線を向ける。肌の質感だけみると、雪上よりも年下なのではないかと思われるほどだが、仕草の一つ一つは落ち着いており、彼女が自分よりも年上なのだと実感する。

 川沿いを抜けると、石畳の道に切り替わり、左右に石垣が立ち並ぶ。その向こうには、ご神木とも呼べそうな立派な杉の木立と竹林。

 近くに竹林があることが旅館の名前の由来かと車で九曜が推測していたのを思い出す。あるにはあったが、旅館からは少し離れた場所だった。

「あちらが、かつてお城のあった場所です。火災で焼失して、残っているのは基礎の石などがあるくらいなのですけれど」

「お城、見えますけれど?」

 雪上は続いていた石垣が途切れ、原っぱが広がった先に建つ、天守閣を指した。

「復元して建てられたものなんです。お城の形をした資料館とでも言いましょうか」

「そうなんですか」

 おそらく鉄筋コンクリートでつくられたと思われる白い壁のお城。

 原っぱは現在は公園になっており、子供たちが遊んでいたりなど、明るい雰囲気が漂う。

 昔はもっと厳めしい雰囲気だったのかもしれないが、今見る限りでは、その面影は感じられない。

 先ほど、車を城址公園の駐車場に停めたが、その場所からはこの景色を見ることは叶わなかったので、物珍しくその景色を見ながら、雪上も九曜もスマホで写真を撮った。

 振り返ると姫子は待っていてくれて、踵を返し、さらに、石畳の道を進む。

 その先にあったのは、今朝、姫子に会った寒蝉寺とは比べ物にならないほど、荘厳な山門だった。

「階段です。足元にお気をつけて」

 姫子の声を聞き、ゆっくりと石段を上がる。山門をこえた先にこじんまりとした本堂。その手前に花は咲いていないが桜の木がある。

 境内に入るまで気が付かなかったが、本堂の左右には墓石が立ち並ぶのが見えると、より一層暗さと温度が下がった様に感じられた。

「大分、歴史のあるお寺ですね」

 九曜はきょろきょろと辺りを見回しながら感想を述べた。

「ここが白鹿寺です。創建は室町時代のころだそうです。でも、何度か消失したこともあって、その度に再建をされたとか。ですから、今の寺院の姿が創建当時の姿と一緒かどうかと聞かれると、そうではないかもしれませんが」

 姫子はそう説明するが、見る限り、再建されたとは言いつつも、佇まいから見て一番最近でも再建されたのは百年以上前の話ではないかと感じる。

「そう言えば石平さんは?」

 九曜の言葉に、姫子と雪上はきょろきょろと周囲を見回すが、石平の姿は見当たらない。

 ブランドのロゴを主張した、派手な上着を着ていたので、竹林に紛れることはないと思うが。

「ちょっと、探してきています。お二人はこのお寺の付近をにいてもらっていいですか?」

 二人は頷いた。

 姫子はきょろきょろと周囲を見回し、境内の奥の方にある墓地の方に向かっていた。

 山門の隣に椿の木が寄り添うように花を咲かせている。

 この時期にこれほど椿の花が咲いているのをみたことがあっただろうかと思い返しながら、もしかしたら、早咲きの品種なのかもしれないと思って見上げると、花がぽたりと地面に落ちた。

 椿の花全体が落ちるその様相から、縁起が悪いなどと言われているらしい。雪上はそんなものは迷信だと思っていたが、今この光景を見ると、先人の誰かがそう言ったのもわからなくもない気がした。

 城址公園で感じた、明るさとは打って変わり、しんと静まり返った境内を歩いていると背中のあたりがそわそわとする雪上に対して、九曜は、全くそんなことは感じていないようで、ずんずんと足を進める。

 向かう先は、本堂を越えて、墓地の方にだとなんとなく思った。

 庭にたたずむ、石仏を越えると白い蔵があった。

 前に看板があり、【霊廟】とあり、かつてこの辺りを納めていた代々のお殿様の位牌を祀っているのだと、説明が書かれ、九曜はその看板と白い蔵を一瞥した。

 本堂の向こう側にある墓地の方へ行く道がどうも見当たらない。

 仕方なく、ぐるっと本堂の壁沿いに沿って歩くと、脇に小川が流れていた。川の淵を落ちない様に真直ぐに進む途中、甲高い女性特有の叫び声が聞こえ、驚きのあまり、辺りの鳥たちが一斉に羽ばたき、ざわめいた。

「あの声って」

「加具姫子さんの声ですよね?」

 雪上と九曜は顔を見合わせ、声の聞こえた方に急いで駆けて行った。

 壁沿いに小走りにつたうと、本堂の裏手に出る。そこは竹林になっており、鬱蒼とした緑の中に、姫子のツイードのコートがはっきりと見えた。

 九曜を追い越して、一目散に駆け寄る。

「何かあったのですか?」

 姫子は目に見えてわかる程、ぶるぶると震え、ある一点を見つめている。

「あれ……あれ……」

 声にならない声で、震えながら指をさす。

 雪上は示された方向を見る。石平が頭から血を流し、うつ伏せになっていた。辛うじて見えた左目は大きく見開いたままに、手足を縮こませ、なんとか生きようともがき苦しんでいたようにも見えるが、どう見ても、生きている様子は見られない。

 彼の頭上のあたりには大きな石灯篭の笠の部分がころがり、べったりと血痕がついていた。

 その近くに笠の取れた石灯籠がただそこにある。

 まさに石平は今、倒れたばかりだと言わんばかりになまなましい。

 雪上は叫びだしたい気持ちだったのだが、あまりの驚きで声を発することが出来なかった。

「一体、どうした……」

 後ろからついて来た九曜がいつも通りの口調でそう声をかけて来たのだが、その光景を見て、息を飲んだ。

「……なにがあったのです?」

 九曜の問いに体を震わせながら姫子はこちらを見る。

「あ……、石平さんの姿を探していたら、ここに倒れているのを見つけて」

「でもなんでこんな所で……叫び声もなにも聞きませんでしたし……」

 誰かに、急に襲われたのなら、抵抗するだろう。その際に、叫び声だって上げるはずで。雪上達と一緒に来たのだから、流石にこんなことになっていれば、気がつくはずだと。

「そう言えば、石平さんはいつからいなかった?」

 九曜の言葉に、雪上は首を傾げることしかできなかった。

「このお寺に来た時にはすでに姿が見当たりませんでした」

「その前に、彼を最後に見たのは?」

 思い出そうとしてみるが、目の前の姫子や、この辺りの様子にばかり気を取られていて、石平のことはごっそり記憶から抜け落ちていたことに愕然とする。

「確か、城址公園で立ち止まった時、お二人は公園の様子を見ていらっしゃった時に、石平さんはちょっとそちらをみただけで、すぐに先にお一人で進んでしまって。声をかけようかと思ったのですが、進んで行った先が、この白鹿寺の方だったので。それで、後で合流できるだろうと思ったので、なにも言わなかったのです。でも、実際にお寺についてみると、石平さんの姿が見当たらないので。それで探しにいくと……」

 声を震わせながら姫子はそう説明した。

 九曜は石平の方に向かい、声をかけながら体を揺すってみたが、反応は全くなかった。

「誰かと争ったと言うのなら、争う大きな声で、流石に私たちが気付くと思うんです。でも、そうじゃなかったとすると、石平さんが全く予期せず襲われたか、もしくは見知った人間で安心していたか。もしくは別の可能性か可能性も……」

 九曜はぶつぶつとそう言ったが、その言葉を聞いて、もしかしたら、まだこの周囲に石平を襲った犯人が潜んでいる可能性があるのだと気が付き、余計に背中が凍る。

「ともかく警察を呼びましょう」

 雪上はそう言って、スマホを取りだす。 

 


 ◇


 警察からの事情聴取を終えたころには、雪上も姫子もだいぶ落ち着いてきていた。

「あの、まだお宿が決まっていないのでしたら、うちの旅館に泊まられてはどうでしょうか?」

 九曜と雪上が警察に旅行者だと話し、宿泊先を教えて欲しいと言われていたのを恐らく姫子は見ていて、二人にそう言ってくれたのだと思った。

「すみません。そう言っていただけると助かります」

 九曜は素直に軽く頭を下げる。宿などは特に決めていなかった。

「いえ、とんでもないことです。お寺の向こう側に突っ切っていくと、小さな獣道があってそこから旅館まで直接行けるので」

「そんな道もあるんですね?」

 九曜は背伸びをして、姫子が示す方角に目をやった。

「はい。本来であれば作法として正門から入るのが筋だと思ったので、あの道は使わなかったのですが……菩提寺ということもあって、繋がりは深いのです。お寺で法事があると、仕出しの料理を運んだりだとか、昔からそんなやりともあったものですから。それに、旅館に通じるのは、従業員の――私どもの居住スペースにつながる区域なので、あまり、一般のお客様にはご案内している道ではないんです。でも、今はそんなことも言ってられません状況ですし」

「なるほど。ご親切にありがとうございます。ただ、すみませんが、駐車場はありますか? 車でここまで来ているんですけど、今、城址公園の駐車場に停めたままにしているので」

「それでしたら……」

 姫子が言いかけた所で、向こうから走って来る旅館の制服を着た中年の男性。

「自分が案内します。はあ、はあ。お嬢さんは、先に帰って少し休まれた方がいいです。話は聞いていますから、顔色もよくありませんし。お二人のことは私が」

 威勢の良い丹波の声が響き、九曜と雪上に目配せをした。

 確かに、姫子の震えはなくなったが、蒼白い顔をしていた。雪上は言われて気が付いた。

「じゃあお願いするは。すみません、私は先に」

 姫子はゆっくりと踵を返して、旅館の方に歩いて向かっていった。

「一人で行かせて大丈夫ですか?」

 九曜があえて丹波にそう聞くと、

「お一人になる時間も必要かと。さて、駐車場の話をしていたんですね? ご案内しますね」

 先ほどまでは朗らかな表情を見せていた丹波だったが、姫子の姿が見えなくなると、難しい表情を見せた。

「お二人さんは現場にいらっしゃったんですよね?」

 丹波の低い声にはっと顔を上げる。質問に答えたのは、九曜の方だった。

「駆けつけた。が、正しいかもしれません」

 丹波は深く頷く。

「その時の状況を教えてもらえませんか?」

「丹波さんもご存知の通り、私達と亡くなった石平さんと、加具姫子さんと、四人で案内をしてくれると言うので鹿白寺に向いました。お寺の山門をくぐったところで、石平さんがいないことに気が付いて。それから……」

 九曜は石平を発見するまでの経緯を説明した。

 話した内容は、雪上が見聞きしたものと一緒だったので、軽く頷きながら話をきいていたものの、石平を発見した話のくだりになると、あの時の情景が自分の意志に反して思い浮かぶ。

「不審な人物の影は見ませんでしたか?」

 九曜と雪上は顔を見合わせお互いに首を振った。

「そもそも白鹿寺で人を見ていません。城址公園の方で子供が遊んでいるのは見ましたが……流石に……」

「でも、倒れていた辺りは竹林で鬱蒼として薄暗いですから、人目を避けてこようと思えば行けると思います。ただ、そうするのは逆に土地勘のある人でしょうね」

 丹波は少し考えこんだ後、

「ここだけの話、お二人はなぜ、石平さんが殺害されたと思いますか? あ、まだ断定はできないのでしたっけ? それでも状況を聞く限り自殺ではなさそうですよね」

 確かに石平とはわずかな時間しか接点はなかったが、彼の様子から自殺を考えているようには見えなかったのは確かだ。

「あの、石平さんと言う方は、旅館でちらりと話を伺いました、姫子さんの婚約者候補の方の内の一人なのですか?」

 丹波はこくりと頷く。

「婚約者候補の方は三名いらっしゃった様ですが、三名なかで険悪なムードが漂っていたとか、そういったことはありませんでしたか?」

「私が見る限りではなかったと思いますね。まあ、それ以外の部分でどうだったかと言われると、わかりませんが。そもそも、婚約者と言っても名目上のことですし、もちろん破棄することもできます。お嬢様も一度破棄されていますから」

「前に婚約者の方がいらっしゃったのですか?」

 雪上は驚きのあまり声が大きくなった。

「ええ、まあ……」

 丹波はあからさまに顔を悪くし、言葉を濁して、それ以上は何も言わなくなった。

「私個人の見解ですが、石平さんは自殺ではないと思いますね。事故の可能性は……まあ、その辺りは警察の方できちんと判断するでしょう。現時点では全くもってわかりません。私たちがそばに寄った時にはもう亡くなっていました。実際にどんな経緯があったのか、もしかして、犯人がいたのか……その辺りは見ていないものですから。後は警察の方で捜査がされるでしょう」

 九曜が一旦そこで話をを区切り丹波を見た。丹波はまだ押し黙っている。

「丹波さんには、なにか心あたりがあるのでしょうか?」

 九曜はまっすぐに丹波を見据えた。丹波ははっと、我に返った様子で、九曜と雪上を交互に見て、ははっと笑い声を立てる。それはなにかを誤魔化している様にも見えた。

「いや、特に、いや、全くありませんね。まあですが……っと、車を移動させに行きましょうか」

 意味あり気な表情を見せる丹波だったが、すぐに歩き出してしまったので、それ以上訊ねることは難しかった。


 車を移動させ、旅館に戻ると表玄関に人の気配はなかった。

 玄関を入って右手、廊下の奥にあるロビーラウンジには、いくつかのテーブルとソファーが置かれ、二人をそこへ案内した後、丹波は客室の調整など、確認してくるので、待っていてほしいと言った。

「あちらの飲み物などはご自由にしていいですから」

 コーヒーマシンと紅茶などが置かれている。

 そう言われて、雪上は喉が渇いていることに気が付いた。九曜に至っては、ソファーに座ることなく、真っ先にコーヒーを取りに向かった。雪上もそれに続く。

「あっ……と、先客」

 場にそぐわない明るい声がして、振り向くと長身の男性の姿。

 目が合い、雪上は軽く会釈する。

 姫子と同じぐらいの年齢の男性だ。運動をしていそうながっしりとした体格と短髪が好印象を与える。

「お二人は、姫子さんの?」

 意味ありげな視線を向けられる。九曜は《コーヒー》のボタンを押した後、振り向いて高らかに声を上げる。

「S大の学生です。私は九曜と言いまして、彼は雪上くん。民俗学を専攻しておりまして、フィールドワークの一環で寒蝉寺を訪れた時に、たまたま姫子さんにお会いしまして、話の流れで白鹿寺を案内してくださるとのことだったので、こちらに伺ったのですが……」

「じゃあ、お二人は石平さんと一緒に?」

「もう、話が伝わっているんですね」

「大騒ぎですよ」

「僕らもまさかこんなことになるとは思ってもみなくて……」

 高らかだった九曜の声は、話の内容に合わせてだんだんと尻すぼみになり、視線を彷徨わせる。彼なりの哀悼の意が感じられた。

 雪上とて、石平の死になにも感じていない訳はないが、生気のない石平の表情の衝撃の方が強く、恐怖と驚愕と。その二つの感情の方が雪上の心の中で強く渦巻いていた。

「それで貴方は?」

 九曜は長身の男の方を再度見た。ちょうどコーヒーの抽出が終わったようで、カップを変え、雪上の分を淹れる。

「ああ、若松と言います。客と言うか、まあ俗に言う、婚約者候補ってやつで」

 婚約者候補としてわざわざこの旅館に滞在しているのなら、ある程度、姫子に好意を持って来たのではないかと雪上は思うのだが、今の彼の態度からは一切感じられない。むしろ感じるのは違和感だ。

「若松さんは姫子さんに好意を?」

 雪上の疑問を感じ取った様に、九曜がそう聞いた。若松は苦い顔をして、頭を掻いた。

「遠からず、近からず。と、言ったところですかね」

「ん?」

 かなり曖昧な返答に、雪上は首を傾げる。

「こちらから、声をかけたのに、逆に聞かれたことに答えないとのは失礼ですかね……でも、ちょっと色々と話が込み入っていまして。お二人になら話をしても心配はないかもしれませんが、これからする話は内密にしてもらえませんか?」

 若松はそう言って、ラウンジの奥の席に二人を誘導する。二人は淹れたコーヒーを持って勧められるままに席に座った。

「俺は……実は、ある人の死について調べたくてここに来たんです」

「婚約者候補…ではなく?」

「まあ、表向きは。そうじゃないと、ここにいるのが不自然になってしまいますからね。お二人も、石平さんの死を目撃されたのでしょう? それと寒蝉和尚の伝承について調べていると噂で聞きましたので。だから、知っていて悪い話じゃないと思ったんでね」

 若松はそう前置きをした上で、表情を変えた。

「ご存知かどうかはわかりませんが、実は姫子さんには元々婚約者がいたんです」

「丹波さんに先ほどちらっとそんな話を聞きました」

 九曜の言葉に、はっと顔を上げたが、再度息を吐くと表情が重くなった。

「あの人だったら、知ってて当然ですね。名前は――阿部と言いました。阿部さんは俺の大学の先輩だったんです。同じフットサルのクラブに所属していました。気の良い人でした。俺は後輩で、よく相談にのってくれるいい先輩で、俺は何度も助けられたんです。学生の頃から姫子さんとお付き合いをされているのは知っていました。大学のキャンパスで二人が仲がいいのは仲間内では周知の事実でしたからね。大学卒業と同時に姫子さんはこの旅館を継ぐ予定だからと、先輩も一緒に二人でこの旅館で仕事を始められるんだと、最後にみんなで送別会をして……ですが、その三か月後に、白鹿寺の境内にある木で首を吊って亡くなっているのを通りがかりの地元の方に発見されました。今から三年程前の事です」

 若松の声が一層重々しくなった所で、言葉が途切れる。

「自殺、だったのですか?」

 九曜の言葉に反応はない。探るように九曜は言葉を続けた。

「《ある人の死を調べたくて》と若松さんは先ほど仰っていました。つまり、阿部さんの死は自殺ではないと、そう思われているのですか?」

 若松はふっと顔を上げ、神妙にこくりと頷く。

「阿部先輩が自殺するなんて全く考えられません」

「そこまで強く仰られるのは、なにか証拠でもあるのですか?」

「二人は、寒蝉和尚の話を知っていると言っていましたね?」

 まさかこの話の流れから、和尚の話になるとは思わなかったので、雪上はわかりやすく体をこわばらせた。

「知っています。ご存知の通り、僕らはその寒蝉和尚の伝承について調べるためにここまできたのですから」

 若松はこくりと頷いた。

「生前、阿部先輩から、この地域に伝わる和尚の話について聞いたことがありました。そして、その伝承について詳しく知りたければ、寺に行く様にと。当時の俺にはその言葉の意味が全くわからなかった。だから、なんとなく流してそのままにしてしまった。阿部先輩は遺言の様に言葉を残して、そのまま亡くなってしまった。だから、俺は実際にこの旅館で阿部先輩になにがあったのかが知りたくてここに来ました」

「お寺というのは寒蝉寺のことですかね?」

「そう思ったんです」

「行かれたんですか?」

 若松は悪い顔でぞくりとするような笑みを浮かべる。雪上の背筋がぞくりとしたのと同時に、彼は寒蝉寺に行き、雪上達がまだ知りえない何かを知ったのだろうかとも思う。

「ここまで話したんですから、何が言いたいかわかりますよね?」

 若松は挑戦するような言い方で二人を見た。自身の手の内は明かす気がないらしい。品定めするような鋭い視線に、雪上は居心地の悪さを感じる。

「道連れですか? つまり、僕らにスパイの真似事でもさせたいのですか?」

 凍った空気を氷解させたのは九曜のこの一言である。

 雪上は逆にほっとした。

 若松はシリアスは空気が一気に崩れ、耐えきれなくなったのか笑い声を漏らす。

「確かにそうなんですけど……九曜さんでしたっけ? 冷静ですね。ある意味こういった状況に慣れているかのようだ」

 威圧的な視線を向けて来たが、九曜は一切、それに動じることなく、同じように笑みを浮かべ、若松の挑発を受け流す。

「道連れにされるのは好きではありませんが、メリットがあるのならやぶさかではありません。僕らが何か知り得た情報で若松さんの役に立ちそうなものであればお伝えします。逆に、知っている情報を僕らにも教えて欲しいのですが」

 仕方がないとでも言う様に、若松は顔を反らし、大きなため息を漏らした。

「お二人をこちら側に引き入れたくて声をかけた訳ですから、もちろんです。ですが……今ここで、大きな声で話せるような内容ではありませんで、今夜にでもお二人の部屋に伺います。その際、こちらは手の内を明かした訳ですから、お二人もなにか気づいたことがあれば、教えてください。それくらいはいいでしょう?」

「そりゃあ、もちろんです。なにか気になることがあればすぐにお知らせしますよ。ところで、今の時点ではその阿部さんのことについて手掛かりはあったのですか?」

 若松はまんざらでもない笑みを浮かべる。

「この旅館に滞在してわかったことが一つあります。この辺りの人達は、悪い事があるとすぐ祟りだと言い出す……」

 若松が言いかけた所で、廊下の向こうから足音が聞こえたので口をつぐんだ。

「すみません。大変お待たせいたしました。お部屋にご案内します……」

 丹波がそう言いながら小走りにこちらに向かってきたのだが、若松を見てハッとした表情を見せ、何かを言いたげに口を開きかけたのだが、口をつぐむと、雪上と九曜の方に向き直って軽く頭を下げる。

「お待たせしました。お部屋の用意が出来ましたので、こちらに」

「すみません。ご丁寧に」

 雪上も軽く頭を下げると、持って来たコーヒーを急いで飲み干す。

 若松は、立ち上がってどこかへ行ってしまった。

「カップはそこに置いたままで大丈夫です。どうぞこちらへ」

 丹波の案内で、一度玄関に戻ると、ラウンジがあった方とは反対側の廊下に向かう。

「大丈夫でしたか? あの若松さんって方、とても変わった方で、婚約者候補の一人であるにも関わらず、姫子さんよりも旅館の従業員の方が興味があるみたいで、私もやたらと話しかけられるんです」

 それは、若松なりに阿部のことを調べるために行なっていることなのだろうと思うが、そうとも言えないので、雪上は苦い笑みをこぼす。

「そんなことありませんよ、むしろ有益な話が聞けました。若松さんも寒蝉和尚の祟りについてご存知のようだったので」

「あはは、なるほど」

 丹波は先ほどまでの深刻な表情をといて軽く笑った。

「それならよかったです。あと、……すみません、お二人で一部屋のご用意なんですけれど、大丈夫でしょうか?」

 丹波の申し訳なさそうな声に、九曜と雪上は特に問題はないと頷く。観光や遊びに来たならまだしも、そもそも勉学が目的であるし、殺人事件があった。それに、若松の話から察するに以前にもこの旅館のに関係した人の死があった。そんな話を聞いたばかりなので、なるべく一人にはなりたくないと雪上は思っていた。

「旅館の皆さんは大丈夫ですか?」

 九曜は前を歩く丹波の背中に言葉を投げかける。

「ええ、まあ」

 苦々しい声と笑みから、その様子を察した。

 廊下の並ぶ、一つの扉の前で立ち止まる。

「こちらのお部屋をお使いください」

 案内されたのは純和風の和室だった。

 雪上と九曜が部屋に入って、荷物を置くと、丹波は部屋に備えられた茶器と急騰のポットを用意して、お茶を淹れると二人に差し出す。

「ありがとうございます」

 礼を言って、湯飲み椀に口をつける。

「このくらいしかできませんので。あと、夕食は十九時に広間で食事を用意しますので。お時間は大丈夫です? 外出される予定などは?」

「そうですね。少し気分転換に外を歩きたいかなと思っています。この近辺を散策するくらいであれば、問題ないと思うので」

「それはそうですね。これがお部屋の鍵です。なにかわからないことや困ったことがあればいつでも声をかけてください」

 丹波はそう言ってまた小さくお辞儀をすると、何かに追われる様に部屋を出て行った。

 ぱたりと閉じたドアの音を聞いて、雪上はようやく大きな息を吐けた。

「なんだか大変なことになりましたね」

 もう一度湯飲み椀を持ち、口をつけようかと思ったが、やめた。

 先ほど、コーヒーをがぶ飲みしたせいか、胃の中がちゃぷちゃぷだった。

 ただ、湯飲み椀を持つ手に伝わる温かさが今は心地よかった。

 九曜は座布団に落ち着くことなく、重たいバックパックの中身を畳の上に投げ出し、必要最低限の貴重品を小さなバックに詰め替えて立ち上がると、雪上を振り返る。

「外出しようと思うが、雪上くんはどうする?」

 がちゃりと音を立てて、湯飲み茶わんを机の上に置き、

「行きます」

 勢いよく立ち上がる。

 ここに一人、置いていかれても困るのが、本音で、雪上も自身のバックパックをひっくり返し、さっと用意をして立ち上がる。

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