新月
正月が終わり、数週間経ったとある週末。
雪上と九曜は早朝から車を走らせて、寒蝉寺へ向かっていた。
もちろん、小笠原教授の部屋で見つけた、あの冊子に書かれた、伝承を検証するためである。
寒蝉寺は雪上たちが住んでいる地域からだいぶ距離があり、朝の四時に出発したのだが、まだ到着しない。
車に搭載されたナビの地図で見ると、目的地である寒蝉寺は海沿いの辺鄙な道をまだまっすぐ先に行ったところを指していた。
「今日はもしかしたら午後には雪がひどくなるかもしれないと天気予報でやっていた」
「え?」
運転しながら、おもむろにぽつりとつぶやく九曜の方を勢い良く見た。
雪上も天気予報はチェックしていた。
昨日は、この地方は冷たい雨が降りしきったと、昨夜のニュースで言っており、その時点では今日は、曇りだと予報していた。
この辺りはよくニュースなどで積雪の恐れありと報道がよくなされているのは知っている。
また、予報が変わったのだろう。
「タイヤはスタットレスを履いてる」
冷静にな九曜に対して、苦笑いを浮かべる。
「いや…………帰れますかね」
「わからん」
「九曜さん雪道の運転はできます? 俺はあてにされても正直雪道の運転は厳しいんで」
運転の経験はなかった。
「まあ、多少は」
「そういえば、九曜さんって出身は北国って言ってましたっけ?」
「そうだな」
「雪は慣れてますか?」
「まあ、それなりに」
それ以外のことであれば、テンポ良く答えてくれるのだが、九曜は自分自身の質問になると、いつも途端に歯切れが悪くなる。それでもその返事を聞いて、万が一、雪がひどく最悪の状況になっても九曜に任せれば、何とかなりそうだと、希望的観測が立って少しホッとした。
「出身地はどのあたりなんですか?」
雪上は軽い感じて突っ込んで、聞いてみる。
もうかれこれ三年近くの付き合いになるし、そんな質問をしてもいいのではないかと思い、聞いてみたのだが、九曜の反応は雪上が思っていたものとは異なった。返事が返ってこないばかりか、何となくピリピリとした雰囲気が漂う。雪上はその様子を肌で感じて、小さく息を吐いた。出してしまった言葉は戻らないし、訂正もできない。目的地までの運転はこのまま九曜に任せて、目を閉じようとしたところ、
「北にある小さい限界集落とでも言っておこう。今はこれ以上、詳しく話せない。まだ、話したくない……でも、いずれ雪上くんにきっと話せる時が来ると思う」
聞いたこともないほど、切羽詰まったような物言いに、雪上は横目に九曜を見た。
どう言葉を返したらいいかわからず、
「わかりました」
とだけ、言ってそのまま目を閉じた。
ふっと目を開けた時、寒空の下、左手には荒波の中に混じる白波が見え、一瞬、雪上自身が今どこにいるのかわからなかった。
ちょっとだけ目を閉じたつもりだったのだが、うたた寝をしてしまったらしい。
「ちょうどいい時に起きたな。もう少しで到着する」
九曜はもういつもの口調に戻っていていた。
海沿いの曲がりくねった道を進んでいるので、先の状況が全く見えない。
トンネルを抜けた先、民家が立ち並ぶ。
そのあたりだろうかと思ったが、車は無常にも通りすぎる。雪上はナビを確認すると、目的地はまだ先だった。本当にあっているのだろうかと心配になりながら、いくつかのカーブを超えたところで、また数軒の民家が見え、その並びに見逃してしまいそうなほど小さな看板があり、【寒蝉寺はここを右】と書かれているのを見つけた。
九曜はもちろん看板に気がつくのだが、何せ、とても小さいもので、急いでブレーキを踏み右折した。
本当にここであっているのだろうか。
言葉にしないが、雪上は半ば信じられない様子だったが、右折したすぐ先に朱色に塗られた山門が見え、ここで合っていたのだと胸をなでおろす。
朱塗りの山門は日本有数の観光地に君臨する寺院のものから見ると、二回りほど小さいが、風格は十分に感じられる。
山門の右手に数台車が停められる程度の駐車スペースがあり、すでに一台車が停車していた。赤いSUVの国産車だ。車のナンバープレートから恐らく地元の人なのだろうと思う。
九曜はその赤い車と十分な距離をとり、停車させる。
「すみません、ありがとうございます」
運転を任せてしまった九曜に声をかけ、車を降りると、大きく伸びをした。海の近くだから潮の香りするかと思ったが、それほどしなかった。
山門を抜けると、木造の本堂が正面に、その本堂と山門の間にこじんまりとした庭が設けられ、一角に石碑があった。真新しい花が供えられ、かがみこみ熱心に手を合わせる女性の姿。黒髪が風に揺れ、雪上はどうしてその女性から目を離せずにいた。
女性は合わせていた手を解くと、ゆっくりと立ち上がりこちらを向く。
猫のような人だと思った。華奢な体付きに、ぱっちりとした大きな瞳は潤んでいるが、この現実世界にあまり興味がなさそうな、退廃的な香りを漂わせてると。もしかしたら、雪上が見ている世界とは全く異なる世界を見ているかのような――その女性の双眸が雪上をとらえた時に、なぜか本能的に怖いと思った。目がただ合っただけなのに、なぜそんな感情を感じたのか、その時は全くわからなかった。
雪上は女性に対して、耐性がないわけではない。むしろ、過去を振り返ると、他の同年代に比べて自惚れではなくそれなりに付き合いはあった方だと思っている。それは自身の容姿が、女性から好まれるものであるからだと、自他共に認めていた。
その雪上が、困ってしまうくらいなのだ。
恐怖という感情に任せて、目を背けてしまった場合、失礼に当たらないだろうかと思う判明、このまま視線を合わせているのなら、何か言葉をかけなければならないと思うのだが、今この瞬間にどんな言葉をかけるべきなのか、全く思いつかなかった。
本堂の扉が、ガラリと音を立てて開く。
「加具さん、いつもご苦労様。よかったらお茶でも……?」
黒の袈裟を着て大きなレンズの眼鏡をかけた老年の男性が顔のぞかせた。この寺の住職なのだろう。年齢は七十代から八十代ぐらい。
ほっそりとした体付きだが、声は若々しく響いた。
加具とよばれた、猫のような女性に向けられた視線は、雪上と九曜の姿を交互に見て丸くした。
「私はこの寺の住職ですが、そちらさん方は……?」
「こんにちは。僕らはS大学で民俗を研究しています。僕は九曜です。彼は一緒に研究をしている雪上くん」
「初めまして」
九曜の言葉に応じて、加具と住職の二人に対して、ぺこりと頭を下げる。九曜も軽く頭を下げ、自分たちの紹介を続ける。
「所属するゼミの教授が持っていた資料から、こちらの【寒蝉寺】に関する伝承の記述を見つけて今回、伺いました。僕らはその土地に伝わるいわれだとか民話を研究していまして。お時間があれば少しお話しを伺いたいのですが?」
訝しげな色が顔に浮かんでいた住職だったが、九曜が“S大”と言った時点で、警戒心はだいぶ和らいだようだった。そのあとの説明は朗らかな笑顔で、うんうんと頷いて聞いてくれていたが、加具は無表情のままに九曜と雪上を交互に見ていた。
「もちろんですよ。大学生さんでしたらなおさら大歓迎です。加具さんも皆さんご一緒に」
住職は人懐っこい笑みを浮かべて、本堂に続く木製の扉を大きく開いた。
靴を脱ぎ、五段ほど木造の階段を上がる。
「ほう」
九曜は思わず息を漏らした。
驚いたのも無理はない。外観から本堂はそれほど大きなものではないのだろうと思っていたが、実際中に入ってみると、見ていたよりも奥行きがあり、まるで異次元の空間にでも迷い込んだように広く、そして、その空間のなかで所狭しと言わんばかりに、様々な仏像が祀られている。仏教に対しての知識に乏しい雪上は、見ただけで、名前まではわからないが、その仏像がもつ威厳から一体、一体に様々な歴史があるのだろうと言うことぐらいは感じる。
「このお寺の歴史を振り返りますと、やんごとなき身分の方が、世をはかなんでこちらのお寺に身を寄せたと言う逸話もありまして」
「文書などに残っていたのですか?」
九曜の質問に、住職はとある仏像を示す。
「言い伝えです。ご本尊はお釈迦さまであります。お差し支えなければお参りを」
住職は慣れた様子で、本尊の仏像を示す。
雪上はくるりと本堂を見回したあと、手を合わせる。九曜はいち早く合掌したためか、雪上が目を開けた時には、もう合掌を終え、本堂の探索を開始していた。
黒いツイードのコートにグレーのワイドパンツを履いた加具はさっとだけ手を合わせ、スタスタと、それぞれの仏像の前に立って、また手を合わせ目を閉じていく。
思っている以上に信心深い人なのだなと雪上は思った。
お参りが済むと住職の方にゆっくりと足を進める。
雪上も加具の後ろから、住職の方に向かった。九曜もそれに気がついたようで、後ろからついて来て、
「後で、もう少し本堂の中を拝見させてもらってもいいですか?」
と、聞く。
「もちろん。ご自由にどうぞ」
住職は頷き、本堂を出た廊下に向かう。
本堂と住居が隣接しているらしく、廊下の向こうは一般住宅だったので、逆に雪上は新鮮な驚きでキョロキョロとしてしまう。
「本堂の中は結構寒いので」
住職の説明とともに、案内されたのは、住居の建物に入ってすぐ左手にある畳の部屋だった。
座布団を勧められ、九曜と雪上はちょこんと座ったたところでハッと気がつく。九曜はもしや今日も上着の下には作務衣を着ているのではないかと。気に入っているのか、彼はよく大学にも作務衣を着て通学してくる。その姿を見て、雪上も最初は驚かされたものだが、ほぼ毎日、それも数年その姿を見ていれば、特になんとも思わなくなった。しかし、本職の方の前ではどうかと思ったのだ。
「今さっき、暖房を入れたので、もうじき暖まってくると思いますが、まだ寒いですから、どうぞ上着のままで」
住職がそう言ってくれたことに、雪上がホッとしたことは言うまでもない。
「飲み物を用意してきますので。よろしければ先に、こちらどうぞ」
出されたのは、お茶請けのお菓子だった。住職は部屋を出ていく。
「善意で申し上げるのですけれど、あまりお菓子はお食べにならない方がいいかもしれません」
「なぜです?」
急に加具がそんなことを言い出したので、九曜は彼女を見た。
「その……あまり、住職さんのお菓子のセンスはよくないようなので」
不思議な微笑みを浮かべる加具に、雪上と九曜は首をかしげるしかなかった。
目の前に置かれたのは、ピンク色と緑色の二色団子。
加具がどうしてあんな言い方をしたのかわからなかった。もしかしたら、昔に酷い外れを引いたのかもしれないとそう結論付けてみるが、わざわざそう言われた後なので、手をつける気にはならなかった。
「お待たせいたしました。大したお構いはできませんがどうぞ」
住職がコーヒーを持って帰ってくると、それぞれに差し出し、加具の隣に座った。
「改めまして、こちらのお寺の住職さんでいらっしゃいますね? 加具さんはこちらのお寺の方なのでしょうか?」
九曜は目の前の座る二人に交互に視線を向けた。
「いいえ。違いますよ、この方は……」
「加具姫子と申します。時々、こちらでお参りを」
少しだけ舌足らずな言い方が耳についたが、物腰は丁寧だ。それなりの家庭環境で生まれ育った人なのだろうと察せられた。
ゆっくりと頭を下げる動きはスローモーションの映像を見ているようだった。顔を上げた時に、さらりと髪の毛を払いのける仕草と、その影を帯びた表情と、生気のない瞳が強く印象に残る。
「菩提寺なのですか?」
九曜はそう聞くが雪上はどこか違和感を感じている。そもそも境内の中に墓所が見当たらない。
「いえ、そうではないんですけど」
あるとしたら、姫子が先ほど熱心に手を合わせていたあの石碑だが。
「先ほど熱心にお参りをされているご様子だったのを拝見しましたので」
相変わらず、九曜はブレることなく、つまり、自分の聞きたい質問をオブラートに包むなんてことは考えもせず、心のままに質問を投げかけている。
姫子は少し困ったように微笑むと、住職の方に視線をやった。
「そのことについては――そうですね、お二人がお知りになりたいと思っている疑問と重なると思いますが、加具さんのことは――えっと、お話しても大丈夫ですか?」
住職の確認を求める視線に、姫子は頷く。
こほんと咳払いをして、住職は改まって口を開いた。
「お二人さんは、この寒蝉寺の昔話の言い伝えを調べにこちらに来られたのですね?」
「ゼミの教授から借りた資料で、寒蝉和尚の伝承を拝見しまして。殿様に殺された時、川が赤く染まったとか、そんな話の内容だったと思いますが」
「そうです、そうです」
住職は朗らかな笑顔を浮かべ、何度か頷いた。調子をよくしたのか、九曜は饒舌に話を続ける。
「僕らは、今でもこの辺りの人がなにかあると、”寒蝉和尚の祟り”と、仰られるらしいと資料で拝見し、その調査でこちらに来ました。ただ、確認した資料自体が、かなり古いもので、資料に書かれている“今”がいつの時代のことを指しているのか定かではないのですけれど……」
一息でそう話す九曜に対して、住職はなんとも満足そうな笑みを浮かべる。
「『寒蝉和尚の祟り』という話を知っているのは、現代ではごく一部の本当に僅かな人たちだけだと思われます。ですから、お二人がその文献を読んでここまで来てくれたと言うことと、お二人の熱意とちょっとした驚きを感じているのも事実でして。もし差し支えなければ、どんな文献にそのことが書かれた資料があったのか伺っても?」
「冊子が作られたのは、確か昭和一桁代の頃で」
「僕も読みましたが、旧字体が多くて、なかなか読みにく資料でした」
雪上は九曜の言葉に付け足すように笑みを交えて、そう話す。
住職は二人の話を受けて、次のように和尚の話をしてくれた。
「寒蝉和尚は言い伝えによると、清廉潔白な方で、道理に反することは非常に嫌う方であったと。しかし、当時この辺りを治めていた殿様は――――その一代前の方は、民を思いやる方だったそうだが、その息子の代になると、この人が、自分の気に入らないものはなんでもかんでも踏みつけて、放蕩の限りを尽くすような人だったそうで。村の若い娘をとっかえひっかえめしあげて、飽きては捨てるを繰り返した――そんな時に目をつけた一人の少女がおり、その娘の家に城からの使者が、数日後には城に連れて行かれることが決まったとやってきた。集落の住民たちはまたか、と思い、娘の家の者たちは悲しみに包まれた。彼女には将来を約束して青年の存在があったからです。誰もが表立って声にしませんでしたが、殿様の暴虐な行いに不信感と敵対心を抱いていました。その娘とて、城での暮らしや立派な着物や装飾品を望んでいたわけではありません。ただ、満ち足りた少しの幸せを望んでいただけだったのです。娘は泣く泣く寒蝉和尚の元に相談に行きました。住職も先代の殿様には非常に思いやりと忠誠心を感じてたそうですが、息子の放蕩ぶりには、思うところがあったようで寺で少女を匿うと、ここから離れるようにとも伝えた。しかしその時代というのは、職業も身分も自分で好きに決められる時代ではなかったため、他の村に向かったとしても、村八分にされるのが末路であったろうし、ともかく殿様の興味が次の女性に向かうまで、寺で身を潜めるしか、彼女には選択肢はなかった。寒蝉和尚様もお上に対して、年若い女性を守るという大義名分を帯びた、ちょっとした反抗だったのだろう。しかし、腐っても相手は殿様。その事実を知ると激高し、寺を焼き討ちにして、寒蝉和尚の首をはねた。その時、流れた血液が川に流れ、川が真っ赤に染まった。それを見た家臣たちは大変不気味がったが、殿様の命令なので、背くことはできず、そのまま首を持って城への帰路についた。しかし、その夜、原因不明の火事に見舞われ、一夜のうちに城が燃え尽きた。人々は寒蝉和尚の祟りだと恐れたため、寺は再建され、和尚は丁重に葬られた――これが、このお寺に伝わる、寒蝉和尚の話であるが」
流石に住職である。
話がうまく、よく通る声で、そこまで一気に話すと、コーヒーをごくりと飲み込んだ。
「ちなみにその女性はどうなったのですか?」
九曜は一生懸命に話を内容を書き留めながら、ふと顔を上げる。
住職はそこはあまり触れて欲しくなかったようで、頭を掻いた。
「その……少女について、それ以上のことは書かれていないのですよ」
「じゃあ、助かったかどうかは?」
実は、雪上も住職の話を聞きながら、同じような疑問を抱いていたのは事実だ。そもそも、話の発端はその少女だというのに、その少女が消えるように話からいなくなってしまったというのは確かに違和感が残る。
「うーん」
九曜は書き物の手を止めて、唸った。代わりにに雪上が、
「先ほど住職さんが今の話をされるのに、加具姫子さんに了承を得ていましたが、何か関わりがあるのですか?」
唸り声をあげていた九曜がぴたりとおさまる。
雪上は姫子の存在について、今の話に出てきたその少女の関係者なのかと思ったが、そもそも住職の話ぶりから、少女の生死も行方も分からないのだから、それは違うのだと結論に至る。
住職は姫子と目を見合わせた後、
「私からお話します」
姫子が口火を切った。
「私は住職様がお話して下さった、殿様の末裔の家に属する者でございまして」
「はあ」
思わず声が出た。
そちら側の関係者だとは思わなかったから。
「先祖の行き過ぎた行動によって、罪のない方の血が流れました。加具家ではこの話を戒めとして、代々寒蝉和尚に手を合わせ、供養していくことを定めたのであります」
猫のような気まぐれそうな見た目とは裏腹に、紡がれた言葉は裏打ちされた丁寧さと気品が感じられた。
「その寒蝉和尚の命日が今日だった……?」
九曜の問いに姫子は首を横に振った。
「祥月命日なら、私の一族が総出で、こちらに参ります。今日は、……年明け以降ばたばたと忙しく、新年のご挨拶に来れていなかったのでそれもかねて」
「美味しそうな和菓子をいただいたよ、ありがとう」
「いえ」
姫子はふっと顔を上げて、天井を見上げた。
雪上もちらりと天井を見たが、格子状の木目が生き生きとした天井広がってるだけなのだが、彼女には雪上が見えてない何かが、見えていたかのように。もっと奥深く、ここではないどこかを見上げているように見えた。
「加具家のお嬢さん、姫子さんは本当によくこちらにいらして花を絶やさずに、お参りしてくださるんです」
住職はほくほくとした表情を見せるのだが、相反して姫子の表情は影を落としたように暗かった。住職はそんな姫子の様子に気付かないのか、話を続ける。
「私も姫子さんが来てくださるのは大変ありがたくって。最近はスマホの使い方を色々レクチャーしてもらったりなんかしてね、私が気に入っているのは、アラームの設定です。”毎日”と設定すると毎日同じ時間にアラームが鳴るように設定されるんですよ。何に利用しているかって、つまり、薬の飲む時間にですね、毎日アラームが鳴ってくれるので。薬の飲み忘れがなくなって非常に重宝しているんです」
住職は得意げな表情でスマホを取り出してみせる。
「特に難しいことでもありませんのでね」
姫子は言葉を付け加えた。
「他に寒蝉和尚について、関わりのありそうなお話や場所などは他にご存知ありませんか?」
九曜は住職の話半分に、和尚へと話を戻した。住職はうーんと腕を組む。
「もしよろしければ」
わずかに声をあげた姫子に、三人の視線が集まる。
「手掛かりがあるかどうかはわかりませんが、私が住む家の近くに、もともと寒蝉和尚が修行をされていたお寺があります。白鹿寺というのですが。もしご参考になればと思いまして」
「本当ですか?」
九曜は身を乗り出した。雪上すらも驚くレベルの反応だった。
姫子は案外、どっしりと構えたところがあるのか、おっとりとした様子でこくりと頷いただけだった。
「住職さんはそのお寺のこともご存知なのですか?」
「ええ。確かに白鹿寺に寒蝉和尚がいた記録はあるんですがね、先ほど、そこについて何も触れなかったのは、確かにそうなんですけど、ただ名前が残っているだけなんですよ。本当にそれだけで、他に何かがあるわけでもなくて。私も若いときに興味本位で、いろいろ調べて見たことがあって、白鹿寺の住職さんにお願いして色々資料などを見せてもらったことがあるのですが、在籍していた僧侶の中に一覧に寒蝉和尚の名前を見つけただけでした。ですから、お二人の助けになるようなことはないと思ったのでね」
住職は決まりが悪そうに頭を掻いた
「なるほど。白鹿寺はちなみにどのあたりにあるのですか?」
「ここから、南方面に国道をまっすぐ行ったところです。車で、大体……小一時間くらいでしょうか?」
姫子はその白鹿寺の近くに住んでいると話していたので、今日もそのくらいの時間をかけてわざわざここまで来たのだろう。
住職の話しぶりからすると、姫子は足繁くここに来ているらしいが、信心深いのか、ほかに何か理由があるのか……。
「それでしたら僕らも行けそうな距離ですね。あんまり遠い場所だったらどうしようかと思っていたのですが」
快活な笑顔を見せた、九曜の瞳はキラキラと輝いている。
今までの経験上、これは絶対に行かなければならないのだなと雪上は小さくため息を吐いた。
「もしいらっしゃるのでしたらご案内しますよ」
姫子からの願ってもいない申し出を九曜が断る訳もなかった。
「白鹿寺は、加具さんのお家がある町ですからつまり、城下町でもあるんですよ」
住職の言葉を受け、姫子は話を続ける。
「今のお話から大体察していらっしゃるとは思われますが、加具家はその、はるか昔はお城で生活をしておりました」
「まだそのお城はあるのですか?」
姫子は左右に首を振る。
「時代の移り変わりと度重なる火災や戦火によって、お城は消失してしまいまして。今あるのは、わずかに残った城壁や、観光のために建立したひとまわり小さいものです。内部には歴史などを紹介したり、当時のものを展示しています」
「その中に寒蝉和尚にまつわるものは?」
「残念ながら――それで、現在加具家、私たちは城下町の一角で旅館を経営しています。【竹取翁旅館】という名前で、来ていただければすぐにわかるかと思います」
快く引き受けてくれたのは、経営している旅館の宣伝もあったのだろうかと思ったが、口にはしなかった。
「そうですか。では、ぜひ立ち寄らせていただきますね」
九曜は軽く礼をする。
「ぜひいらしてください。来ていただければ、もちろんお寺の方までご案内させていただきますので」
「それは名案だ。白鹿寺は加具家の菩提寺であるから、姫子さんに案内してもらうのが一番だろう」
住職の言葉を聞くや否や、
「じゃあ、私はそろそろ」
姫子はコーヒーを飲み干すと、立ち上がる。
「すみません。お忙しい中、お引き止めしてしまって」
九曜は恐縮した様子で、頭を下げた。
「こちらこそ随分引き留めてしまったね。気をつけて」
住職が立ち上がったので、雪上も残りのコーヒーを胃に流し込み、遅れを取らぬように立ち上がる。
「ご親切にありがとうございます。では、これで」
見送りは結構とでもいうように、姫子はコートを翻し、部屋を出て、本堂に続く廊下に向かって行った。何度も来ているのだろう。彼女の足取りに迷いはない。
「僕たちもそろそろ」
九曜がそう言ったので、雪上も出されたコーヒーカップを空けて、
「ご馳走様です」
住職の方を見て、軽く頭を下げた。
「よろしければ、もう少し境内をご案内しますよ」
住職の申し出に、九曜はもちろん断る訳もない。
「本堂は、先ほどご案内したので、寒蝉和尚のことであともう一つ、ご紹介しておくべき場所があるので」
住職のあとに九曜と雪上が続く。
本堂から外に出て、右手に向かう。そこにあったのは、小さな川だった。
「こちらの川ですが」
雪上には、川というより、用水路程度にしか見えない。
「もしかして、これが赤く染まったと? 話にあった川ですか?」
九曜は興奮した様子で、住職を見る。
「おっしゃる通りです。寒蝉和尚が亡くなったときに、真っ赤に染まったと伝説に出てくるのがこの川です」
「なるほど」
雪上は流石に自分の見解を改め、まじまじと川を観察し、スマホを取り出し、住職に確認して資料用に何枚が写真をおさめた。
手前に鉄製の柵があり、そこから下を流れる川を覗き込むのだが、特にこれと言って特筆すべきことのないただの川である。
「まあ、昔のことなのでね。赤くなったというのが、実際にあったことなのかどうかについて、今となってはわかりませんが」
住職は軽く笑い飛ばす。
ふっと川の上流の方に目を向けると、鍾乳洞のような、岩石を削ってできた岩のアーチの向こう側から清流がこちらに流れてきている。そのアーチは人の手ではなく、自然によって現在の形になったのだろうと思うと、圧倒的な自然の畏怖の一角を見たような気がした。確かに、人智を超えた何かがありそうだと思われるほど。
強く風が吹きつけると、潮の香りした。
川の流れゆく先には、海が広がっているだと、妙に一人で納得する。
「この川の上流はどこまでつながっているのですか?」
川に落ちそうな勢いで、見ていた九曜が現実に引き戻されたかのようにふいっと住職の方を見た。
「川の上流ですか? ええっと、山からというのはわかりますけれど、水源地がどこかと言うことまでは――私も行ったことありませんので」
「そうですか」
九曜は意味有り気に頷いたがその後は、川の上流を見つめるばかりだった。代わりに雪上は、
「加具姫子さんは、結構な頻度でこちらのお寺にお参りにこられるのですか? ――あの、変な意味はなく、ただ、信仰の厚い方だなと思って」
何かはわからないが、彼女の存在に妙な違和感を感じた――とは、さすがに言えない。彼女が去ったあとも、消えないわだかまりが残っていた。
住職は眉間に皺を寄せる。
「他の加具家の方に比べて、よくいらっしゃってくださるのは、事実ですね。頻度は――そうですね。月に二度ほどの時もあれば、二ヶ月ほど間が開くときもあります。旅館の経営と、ご家族のこととか、色々事情がありますしね。旅館の名前が竹取翁と変わってから、もう二十年ほど前のことですけれど、お客様も増えて忙しくなられたみたいですし……ああ、そういえば、その頃に姫子さんのご両親が亡くなられて……」
「姫子さんのご両親が亡くなられて、旅館の名前が変わったのですか?」
「詳しい事情は聞いてませんが、加具家の皆さんが深い悲しみに包まれて、その中でも再スタートを切るために変えたとそんな話をちらっと聞いた記憶があります。旅館の名前は幼い姫子さんも一緒に考えられたとか」
「姫子さんのご両親はどうして?」
「車の事故です。しかも亡くなったのはこの辺りの道路で。いやあ、ね。当時のことを振り返るのは、あまり気持ちの良いことではないんですけれど……ちょうど姫子さんとご両親と三人で、このお寺に訪れた時に、私とご両親の間で話をしている時に、姫子さんがまだ小さいころでしたら、眠ってしまったんです。ゆすってもなかなか起きなくて、ご両親は仕方がないので、その後どうしても断れない用事があるからと、それを済ませて、またこのお寺に来ますと仰られて……そして、姫子さんを迎えにこのお寺に来る途中、事故に遭ってしまって」
住職は話しにくいと前置きした割には、非常につらつらと笑みさえ浮かべて話す。ただの話したがりやなのか、しかし、その笑顔はどうしてだか気味の悪さを感じてならなかった。
「じゃあ、竹取翁の旅館をやってらっしゃると言ってましたが、姫子さんお一人で?」
「いえ、まさか。この辺りでは結構大きい旅館なんですよ。姫子さんの祖父母は健在ですので」
「ああ、なるほど」
「ですから、まあ、色々と忙しいでしょう。それに、そうですね……少し家に居づらい時もあるのでしょうし」
「家に居づらい? とは?」
雪上の問いにしまったとでも言うように、口元に手をやる。
「いえ、いや……」
言葉を濁して愛想笑いと浮かべると、
「私も仕事がありますので、そろそろ失礼させていただきます」
そう言ってそそくさと本堂へ、行ってしまった。
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