相思相愛
わたしが初めてあなたを見かけたのは、薄曇りの少し肌寒い春の日の事でした。わたしは大きなお屋敷の庭にぽつんと立っていて、あなたはふらりとその庭にやってきました。今までこの庭に来るのは、庭師のお爺さんだけでしたから、もの珍しくてじろじろとぶしつけに眺めてしまったかもしれません。幸いなことに、あなたには気づかれる事はなかったけれど。
あなたは何をするでもなくゆっくりと庭を歩きまわって、時折足を止めて足元の草花を見つめていました。その目がとても優しくて、暖かくて、わたしが見られている訳でもないのに、胸が高鳴る様な気持ちになったのを覚えています。
あなたはそれから時々ふらりと庭にやってくる様になって、木陰で本を読んだり、草木に水を撒いたりするようになりました。お花をよく見つめていたので、お花が好きなのですか? と話しかけてみようかと何度も思いましたが、照れくさくて、恥ずかしくて、結局声をかける事は出来ませんでした。わたしのか細くて小さい声が、あなたに聞こえるか分かりませんでしたし。
でも、あなたはわたしに気がついてくれました。わたしがふわりと笑ったら、あなたは少し驚いた様に目を見開いて、そうして嬉しそうに笑うとわたしの所に歩み寄ってくれました。わたしは嬉しくて、それと少し恥ずかしくて、微かに身を震わせました。あなたは笑みを浮かべたまま私の身体にそっと手を添えました。あなたの大きくて暖かそうな手に触れてみたかったけれど、そのまま身を委ねてしまっては、はしたない女だと思われてしまうかもしれない。そう思ったから、わざとあなたの手から身を離して、少しだけそっぽを向いて俯きました。恥じらった私の顔を見られるのが恥ずかしい、というのも理由の一つでした。
あなたの手が、もう一度、優しくわたしに触れました。今度は抵抗する事なく、わたしはあなたの手に身を寄りかからせます。初めて触れたあなたの手はやっぱり暖かくて、わたしの心は破裂してしまうのではないかと思う程に高鳴りました。そうしてあなたの手が、ゆっくりとわたしの身体を包みこんで――。
その永遠とも思える一瞬の時に、わたしはわたしの命の全てをあなたにあげると決めたのです。
***
あなたはやさしくわたしをエスコートして、あなたの家の中に招き入れてくれました。あなたの手の温もりを感じながらの帰途は本当に夢の中にいるようで、そうしてあなたのお部屋に連れていかれてようやく、わたしはこれからあなたと共に生きていく生活が始まるのだと実感したのです。あなたはどこまでも優しく紳士的で、部屋の中にわたしの為の居場所を設えてくれました。そこに身を落ち着けたわたしの姿を見て、あなたはまるで誂えた様だと、こんなに美しく理想的な光景は見たことが無いとまるで子供の様にはしゃいで、喜んでくれました。そして口を極めてわたしの美しさや可憐さを褒めちぎってくれたので、わたしはもう恥ずかしいやら嬉しいやらでその場から消えてしまいたいと思ってしまうくらいでした。
でも、自分でこんな事を思うのはおこがましい事かもしれませんが、わたしの佇まいはあなたの部屋の設えと驚くほどに美しく調和していて、まるで自分はここに居るその為だけに在ったのだと、そう、心の底から信じてしまいそうな程だったのです。
そしてあなたはわたしの前にイーゼルとキャンパスを立てて絵を描き始めたのです。なんと、その絵のモデルはわたしです。こんな光栄なことがあるでしょうか。あなたから見たわたしの姿が、あなたの手によってキャンパスの上に描きだされるだなんて! 少しでも美しい姿を絵に描いて欲しくて、わたしは精一杯背を伸ばして凛とした姿勢を取ってみせます。あなたはそんなわたしを見て、とても優しそうに白い歯を見せて笑うのです
それから数日かけて、あなたの絵は少しずつ、少しずつ完成に向かって近づいていきます。照れくさいのか、あなたはどれだけ絵が進んでいるのかわたしにさっぱり見せてはくれないけれど。
あなたは勢い良く一気に描きあげるタイプの人では無く、じっくりとモデルを観察して、丁寧に丁寧にキャンパスに色をのせていくタイプの人の様で、毎日の様にあなたの熱っぽい真剣な眼差しに晒されるわたしはもう、恥ずかしいどころの話ではありませんでした。でも、羞恥のあまり顔を伏せたり身を捩じらせたりすると、あなたが困った様に笑いながらわたしの身体に手をかけて元のポーズを取らせようとするので、今度はあなたの視線だけではなく、その大きな手の感触に身を焦がす事になるのです。だからわたしは全身が火照る様な感覚を堪えつつ、凛とした姿を取り続けてみせるのです。
ほんの時偶、あなたの手の感触が恋しくなった時にわざと少し身体を動かした事もありました。でもあんまり頻繁にそれをやってしまうとあなたの迷惑になってしまうから、ほんの少しだけ、それも、最初の方だけの話です。
だってあなたは絵に詰まると、何もなくともわたしの近くに寄ってきて、わたしに慈しむように触れてくるのですから。あなたの手に触られるのは確かに心地良いけれど、それもあまりに頻繁だと羞恥の方が勝ってしまいます。そんなわたしの心を知ってか知らずか、あなたはわたしを撫ぜ、時には唇まで触れさせます。その度にわたしはその柔らかく優しい刺激に心を弾ませ、一層胸を焦がれさせるのです。
わたしは、こんなことが続けば恋心が膨らむあまり心が破裂して死んでしまいそうになるから早く絵が完成して欲しいと願い、そしてまた、この胸の高鳴る素敵な時間が終わってしまうのが惜しくて、いつまでも絵が完成しないで欲しい、と全く正反対の事を願ってしまうのです。
***
ある日、少し気を抜いた途端にわたしの姿勢がぐにゃりと崩れました。それを見たあなたが慌ててキャンパスの前から立ち上がり、わたしに駆け寄ります。そしてあなたの手がわたしを抱き起こし、あなたの心配そうな顔がわたしを覗きこみました。
大丈夫、と精一杯身体をしゃんとさせようとしましたが、一度気を抜いてしまった身体は元の様には戻らなくて、わたしの心はずきりと痛みます。
少し前から既に、わたしの身体に不調は現れ始めていたのです。でも、なるべくそれはあなたには見せたくなかった。こんな風に、みっともなく弱々しいわたしは見られたくなかったのです。でも、やっぱりこの不調はわたしの意地程度で押し戻せるようなものではなくて。心配そうな顔のあなたに、わたしは大丈夫、と囁きましたが、果たしてその声はあなたに聞こえたでしょうか。あなたは一度わたしを横たえ、部屋から出ていきました。
程無くして戻ってきたあなたは、わたしの身体に良いとされるものをありったけ携えてきて、手を尽くしてわたしを元の様な、元気な姿に戻そうと躍起になってくれました。でも、それがあくまで気休め程度の時間稼ぎにしかならない事はわたしが一番知っています。これは、運命なのです。あなたがわたしと出会った時から――いいえ、わたしがこの世に生を受けた時から、もはや決まりきった運命なのです。
それから日に日に弱っていくわたしを、あなたは本当に親身になって世話してくれました。本を見て有効な手段を探したり、人に聞いて色々なやり方を試したり。
わたしは自分の身が滅びに向かっていく事それ自体には大した悲しみは感じません。いずれそうなる事は自分で分かっていたから。でも、あなたと離れてしまう事、それ以上に、弱っていくわたしを見つめるあなたの悲しそうな瞳を見る事は、身を切られるより辛く感じるのです。
あなたの手が、水分を失い始めたわたしの肌をそっとなぞります。その優しい手の感触に、こんなになってしまっても変わらずわたしの心は高鳴ります。わたしには帰る場所はもう無いから、こうしてあなたのそばで死を迎えられるのがわたしにとって何より幸せなのです。あのままでいたらもしかしたらもっと長く生きられたのかもしれないけれど、でもわたしはあなたの元に来た事を後悔なんかしていません。だってわたしはあなたに身を委ねたその時から、わたしの命を全てあなたにあげると決めたのですから。
――ああでも、願わくばわたしが死んだその時には、どうかわたしの身体はあなたの家の庭に埋めて欲しいのです。そうすればわたしの身体は土に還り、また春になればわたしの上から幾つもの命が芽生えて、わたしはまた違う姿であなたに再会する事が出来るから。わたしは愛の言葉と共にあなたにそう囁きます。ああ、吐息と共に発したわたしのか細い声は、あなたの耳に届いたでしょうか。あなたの優しい手が、もう一度わたしの肌をなぞりました。
***
――ああ、ああ、なんてこと。
わたしの目の前には、透明なガラスの板が冴え冴えとした風情でわたしと外の世界を隔絶しています。枠に囲まれ、ガラスの中に閉じ込められて。
確かにわたしはあなたに命をあげると決めました。あなたと一緒にいられるなら命なんか惜しくはないと、心の底から思っていました。でも、わたしの望んだ生はこんな、こんなものではない! 確かにこの方法であれば、わたしはあなたと一緒にいられる。あなたの傍を離れる事も無くなる。けれど、こんな形で生きる事をわたしは望んでいないのです。
もし、あなたと触れ合い、愛を語り合う言葉を囁き合えるのならどんな屈辱にも耐えましょう。このような恐ろしい行いも我慢しましょう。でも、これじゃあわたしはあなたに触れる事も、あなたの声を聞く事も出来ない!
――いいえ、やっぱりそういう問題ではないのです。わたしは、こんな姿になってまであなたと共にいたくはないのです。こんな姿を見せるくらいならいっそ一思いに殺された方がマシです。
しかも、この生は、この醜い身体で送らねばならぬこれからのわたしの生は絶望的な程長いのですよ。わたしにはとても、耐えられない。あなたが真実わたしを愛してくれているのであれば、今すぐにわたしをここから出して、そしてこの生を終わらせてください。どうかお願いです……!
――どうして、あなたは笑っているのですか? ああ、このガラス越しではわたしのこの悲痛な思いは届かないのですか? どうか、どうかわたしの苦悩に、わたしの痛苦に気がついてください。お願いです、愛するあなた……。
***
「おや、これはまた随分と綺麗な花ですね」
客人の讃辞に、屋敷の若き主人はにこりと柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。庭に咲いているのを偶然見つけましてね、絵を描きたいと 思って持ち帰ったのですが、完成する前に萎れ始めてしまって」
「なるほど。それで、その絵は完成したのですか? 完成したのであれば、是非見せていただきたい」
「実は、結局完成にまではこぎつけられなかったんです」
客人の言葉に、主人は少し恥じらう様に目を伏せた。
「やっぱり見た目も雰囲気も違い過ぎて、何度描いても納得のいくものが描けなかったんです。仕方がないので、また一から新しく描きはじめてみようと思っています」
「そうでしたか。私の家に、同じ種類のものが咲いていますよ。よければそれを持って来ましょうか」
「――お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です」
主人はそう言って、やんわりと客人の申し出を断る。
「初めて見た時に、僕はこの綺麗な花にどうしようもないほど心惹かれたんです。だからこの花じゃないと駄目なんです。これをずっと手元に置いておきたくて、わざわざこうして枯れない様にしたのですから……」
うっとりと熱の籠った視線の先には、額に入れられ飾られた美しい――元はさぞ瑞々しく可憐に咲き誇っていたのであろう、情熱的な深紅の花びらを持つ花が、ドライフラワーとなって飾られていた。
きみに恋したぼくを愛して ウヅキサク @aprilfoool
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